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アートプラス京めぐり

京都の探索、記事数6500 いろいろなテーマで京都をめぐります 
京都市外も始めました 先ずは京都南部から

女紅場  我が国最初の女学校

2015年06月25日 12時08分34秒 | 道標

 

 

 明治期の女子教育機関である女紅場は,明治5(1872)年4月

九条家河原町別邸内に設けられた。

英語と裁縫・手芸の二科を置き,英国人イーバンス夫妻を教師に招き,

新英学校女紅場と呼ばれた。

開校当初の生徒は8歳から37歳までの78名

教師は 梅田雲浜の後妻 千代と娘ぬい  新島襄の婦人 八重子ら

旧女紅場の建物が鴨沂高校にあるが

現在工事中でその校門は見れない

 

本邦高等女        西九十三米   現在の 鴨沂高校

女紅場址   従是

学校之濫觴       南九十米   これから調べる     

 

 

関連記事 ⇒ 人物045  新島 八重

近辺地域記事  地図の右下 ユーザー地図 をクリック

 


明智越え 亀岡⇔京都

2015年06月24日 16時47分22秒 | 愛宕山

京都と 亀岡を結ぶ道は 国道9号線の老の坂峠が有名ですが

他に  唐櫃(からと)越、明智越えがあります。

その明智越えの京都側の 取付です

途中何カ所か 命名された 場所があります

この名称から

本能寺の変のとき、明智勢がここを通って京の町に進んだのだろうか

 

馬を引いて歩ける道だと思います

 

ここから6キロほどで

京の鳥居本に行けます

 

 

亀岡のここらあたりに出てくる 亀岡からいえば、ここから入る

関連記事 ➡ 有名人ゆかりの地

 

 


なぜここに この道標があるのか

2015年06月24日 10時30分06秒 | 道標

 

右  ぜぜ  大津道

 

左  立木かん音 石山道

この通りに進んだら とんでもないところに行きます

 

この 道標は 滋賀県の大津あたりにあるのがふさわしいなあ

 


京都考古資料館 西陣の碑 三宅碑

2015年06月24日 01時16分27秒 | 石碑

西陣の由来

西陣の地名は,応仁の乱の際,西軍方の陣が敷かれたことに由来する。

平安時代にはこの地に織部司がおかれ,

中世にはその流れを汲む大舎人座が機業に携わっていた。

応仁の乱で織工は一時疎開していたが,乱後再び復興した。

近世以降,西陣織の生産地として,

日本を代表する高級織物業の中心地となり現在に至る。

東は堀川通,西は七本松通,

北は今宮神社御旅所,南は一条通または中立売通で囲む一帯を西陣と呼ぶ

日付は 昭和3年11月 昭和の御大典と 年月が一致

京都 三宅安兵衛遺志建之

これと 同じものが 西陣織会館に作られています

関連記事 ➡ 西陣織会館の石碑

関連記事 ⇒  三宅安兵衛の道標



二条殿 跡

2015年06月23日 22時49分37秒 | 石碑

 

二条殿は,南北朝時代太政大臣を務め,

和歌連歌で著名な二条良基(1320~88)の邸宅で,

押小路殿とも呼ばれた。

室町時代の洛中洛外図屏風に描かれる。

邸内には龍躍池があり,その景観の美しさから皇族や

織田信長(1534~82)が好んだ。

信長は天正5(1577)年に移り住み,

天正7年正親町天皇皇太子誠仁親王に献上した。

天正10(1573)年本能寺の変の際には

信長の長男信忠(1557~82)がこの地で自害し,二条殿は焼失した

 

 


名医 新宮凉庭  居住地   

2015年06月23日 22時40分58秒 | 石碑

新宮凉庭(1787~1854)は,丹後出身の医者。

蘭方医を志し,文化7(1810)年京坂の医家を訪ね,

また長崎でオランダ人医師から直接学んだ。

文政2(1819)年京都に出て開業した。

天保10(1839)年南禅寺畔に順正書院を作り,

各分野の学者を招き系統的な医学教育を行った。

この石標は新宮凉庭邸宅の跡を示すものである。

石標には「凉亭」となっているが,「凉庭」が正しい。

 

 


東三条殿址  平安京

2015年06月23日 16時21分50秒 | 平安京

東三条殿は,平安京左京三条三坊にあった平安時代の邸宅。

藤原良房(804~72)が創設し,摂関家嫡流に伝領され,

藤原兼家(929~90)は東三条殿と称された。

兼家の娘で一条天皇(980~1011)の母であった

詮子(961~1001)は,初めて女院号を与えられ,

居住地に因み東三条院と名乗った。

寛弘2(1005)年の内裏焼亡により一条天皇の里内裏として用いられた。

仁安元(1166)年焼失。

 

大正4年11月建立   大正の御大典と同じ年月だ

 

  関連記事 ➡  関連0008  御大典記念のあるところ  


画家 望月玉泉 居住地

2015年06月23日 08時23分16秒 | 石碑

 望月玉泉(1834~1913)は,幕末から明治期の画家である。

望月玉蟾(1692~1755)を祖とする望月派の四代目。

幸野楳嶺(1844~95)と共に京都府画学校の創設に参加し,

京都画壇の復興に努めた。

父・玉川に画を学び,四条派と岸駒(1749~1838)に始まる

岸派の画法を折衷し,写生を基調とする温和な画風を形成した。

 

 墓は 大雲院です


山紫水明処  頼山陽

2015年06月23日 07時16分47秒 | 史跡・旧跡

 

道標

 

 

 

ここから 北へ100メートルほど行きます

 

 

 頼山陽(1780~1832)は,晩年邸宅をこの地に構え

『日本外史』、『日本政記』などの執筆活動に励み,詩会や茶会を催した。

43歳の時、邸宅水西荘の敷地内に建てた書斎は鴨川に面し,

東山を望む風光明媚な景観に因んで山紫水明処と呼ばれた。

頼山陽は天保3年(1832年)9月23日 53歳で亡くなった

墓は長楽寺にあります

水西荘はその後福井藩の儒医 安藤精軒が譲り受けたが、

明治に頼家の子孫によって買い戻された

大正11年に史蹟名勝天然紀念物保存法により史蹟に指定され,

現在は「頼山陽書斎(山紫水明処)」として国指定史跡