アートプラス京めぐり

京都の探索、記事数6500 いろいろなテーマで京都をめぐります 
京都市外も始めました 先ずは京都南部から

白山神社

2015年06月30日 16時19分27秒 | 神社

  古くからの言い伝えによると、天皇や皇后の歯が痛むと

宮中の女官たちがここへ塩をもらいに来ました。

幹部に塗るとぴたりとよくなります。

それが全国的に広がってゆき、虫歯の治療には

ここの塩がなくてはならないものになりました。

菊理比売(くくりひめ)は仲をとりもつ縁結びの神さまです

平安時代後期、後白河天皇の文治年間(1185~1189)

加賀白山神社の社僧が神輿3基を担いで

朝廷に直訴にやってきましたが、

聞き入れなかったので3基の神輿をすてて帰ってしまいました。

そのうちの1基をお祀りしています

石鳥居 明治41年3月 建立

社号標  昭和15年9月 建立

 

 

 

明日だな 

 

本殿 

 

手水舎

 

社務所 

 

 絵馬堂

 

 茂山 千五郎   昭和16年1月

 

 

 末社

猿田彦大神  白菊大神  天満宮

 10月4日 追加

 


明治天皇行幸勧業場址

2015年06月30日 11時21分57秒 | 石碑

明治10(1877)年,明治天皇(1852~1912)の関西行幸が行われた。

この行幸は西南戦争勃発のため長期化し,

京都には1月28日~2月6日・2月16日~7月28日に滞在。

2月2日勧業場を視察。

勧業場とは,遷都後の産業振興をはかるため,

明治4(1871)年府が長州藩邸跡に設置した産業振興の中枢機関で,

商工業に関する事務・特産品の陳列等を行った。

また,欧米各国の先進技術を導入した各種の生産施設が設けられた。

勧業場は実験的役割を果したものとして明治14(1881)年に廃止

明治10年2月2日   昭和13年3月 京都府建立

関連記事 ➡ 各所にあります 明治天皇 行幸地 など


京都市立商業実修学校跡

2015年06月30日 11時00分41秒 | 石碑

 

明治33(1900)年4月京都府立簡易商業学校が京都商業学校内に開校した

翌年京都市に移管され京都市立簡易商業学校と改称

明治40(1907)年京都市立商業実修学校と改称

翌年この地に校舎を移転

その後昭和11(1936)年,右京区西院馬場町に

新築移転して市立四条商業学校と改称された

昭和23(1948)年の新学制により商業学校は廃止となった

 

 


大福寺  大福帳 梅田雲浜 寓居

2015年06月30日 10時21分17秒 | 寺院

 

 

本尊は菩提(ほてい)薬師    

七福神布袋尊   ここの町名  布袋屋町   

大福帳の起源か 宝印を押してもらいます

 

 京都十二薬師霊場  第十番

検索 ➡  お寺・神社めぐり01  洛陽12薬師めぐり

 

 

天明の大火で炎上

吉田松陰・橋本左内・頼三樹三郎と共に捕らわれる

 

 

駒札の説明

初め推古天皇の御代大和国宮田郷に建立され室町時代の初めに京都に移されたという。

正式には、瑠璃光山利生院大福寺天台宗の寺で朝家の尊信極めて篤かったが、

天明年間に炎上して今は僅かにそのおもかげをとどめるばかりである。

 

本尊菩提薬師は聖徳太子の作といい、京都12薬師の1つに数えられる。

 

また京都七福神第7番として布袋尊をまつる。

毎年正月には、商家の大福帳に宝印を授与する習わしがある。

 

境内には幕末勤王の志士 梅田雲濱の遺蹟がある。

雲濱は若狭の人でつとに尊王の志を抱き京に出て同志と交え国事に奔走したが、

安政の大獄に吉田松陰橋本左内頼三樹三郎と共に捕えられた 

この旧跡は雲濱が仮寓して妻女を迎えたところです。

 

梅田雲浜の仮寓居 ここで妻女を迎える 

妻は師 上原立斎の娘 信子

木屋町二条、高雄、一乗寺、などを転々

寺町四条下ル、三条東洞院西入ル、等

最後は烏丸御池上ルが最後の住居

安政の大獄 捕らわれの第1号となった

江戸に送られ 獄中で病死した

墓は京都 東山五条の安祥院 信子の墓とともにある

 

 梅田雲浜

 関連記事 ⇒ 京の通称寺  39ヶ寺


藤原定家 京極邸址

2015年06月30日 02時32分28秒 | 石碑

 

藤原定家(1162~1241)京極邸は平安京左京二条四坊十三町にあった

その邸地より,定家は京極中納言と称された

九条家に出入りし良経(1169~1206)や慈円(1155~1225)の知遇を受け,

後鳥羽院(1180~1239)に見出されその歌風を大成させた

治承4(1180)~嘉禎元(1235)年に及ぶ日記『明月記』を残す

その墨蹟も「定家風」と呼ばれ古筆として尊重された

 

ここは定家が晩年の14年間をすごしたところです

定家は藤原俊成の子で家は貧しかった

承久の乱後、定家の仕えていた九条家と妻の家(西園寺家)とが

京都朝廷の実権を握ってからは多年の貧乏生活から解放された

ここで、毎月歌会が催された歌人にとっては最高の誇りであった

定家は生まれつき多病であったが、よく長寿を保ち

仁治2年(1241)80歳の高齢で亡くなった

墓は3ケ所あり

相国寺境内の総墓地にあるが、後世の供養塔らしい

石像寺は後世につくられた供養塔

厭離庵は江戸時代につくられた供養塔

もっとも妥当なのは厭離庵のようだ