アートプラス京めぐり

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京都市外も始めました 先ずは京都南部から

石碑  又吉泉記

2015年06月29日 20時44分02秒 | 寺院

又吉泉記

 前田又吉(1830~93)は大阪生まれの実業家。

明治21年,河原町二条の京都府勧業場跡地を買収し,

京都ホテルの前身である常盤ホテルを開業した。

同ホテルは又吉の没後,同28年に買収され京都ホテルと改称。

現在の京都ホテルオークラである。


 いっぽう明治初年神戸花隈に料亭常盤花壇を創業,

同6年に諏訪山(現神戸市中央区)の鉱泉に目をつけ,

常盤花壇を諏訪山に移転した。そのため同地は温泉街として発展。

神戸市内のレジャー施設になった。

この諏訪山温泉街の開設経緯を叙し,同地に建てられたのが本碑である。

諏訪山には本碑および前田又吉銅像記碑が立っていた,

京都ホテルが創業百周年の記念に譲り受け,1988年同ホテル構内に移築した。

 

 

 没後,北風正造ら神戸の有力者が又吉の銅像を諏訪山に建立し,

その傍に由緒を記した碑を建てた。これが本碑である。

銅像は戦時の金属供出に出され,

この碑および又吉泉記碑のみが残ったのを,

京都ホテルが創業百周年の記念に譲り受け,1988年同ホテル構内に移築した

 

はじめに 前田又吉

最後の方に 伊藤博文の文字が見えます

 

参考 ➡ 京都ホテル100年ものがたり  第1部 17.18.19

 

 


明治天皇行幸所織工場址

2015年06月29日 08時54分53秒 | 石碑

 明治10(1877)年,明治天皇(1852~1912)の関西行幸が行われた。

この行幸は西南戦争勃発のため長期化し,

京都には1月28日~2月6日・2月16日~7月28日に滞在。

2月2日中学校・女学校・女紅場を視察

織工場では織機・綴れ織・機械の縫い方・西洋仕立等を一覧

 

明治10年2月2日   昭和13年3月 京都府建立

現在はここは日本銀行 京都支店の敷地内

 関連記事 ➡ 各所にあります 明治天皇 行幸地 など


角倉了以邸跡

2015年06月29日 08時39分00秒 | 石碑

角倉了以(1554~1614)は,国内諸河川の開発整備に従事し,

慶長11(1606)年に大堰川・淀川・富士川を疎通させた。

慶長16(1611)年この地二条より鴨川の水を引き伏見に達する高瀬川を開削し,

京都伏見間の水運を開通させた。

明治維新後,角倉家は高瀬川支配を罷免され,府に移管された。

この辺り一帯は角倉家の邸地であった

関連記事 ➡ 高瀬川源流   参考 ➡ 角倉稲荷神社

 

 


明治の病院跡

2015年06月29日 06時31分23秒 | 石碑

療病院は府立医科大学附属病院の前身で,

蘭学医明石博高(1839~1910)らが資金を募って創設した。

明治5(1872)年9月,木屋町二条に仮病院を開設し

ドイツ人医師らによる診療を開始,

11月に青蓮院に移り診療と医学教育が行われた。

同13年仮病院から本院に発展し,河原町広小路に開院した。

明治36(1903)年,京都府立医学校が

京都府立専門学校(現京都府立医科大学)に改編された時に

同校の附属病院となった。

この碑は木屋町二条の仮療病院を記念するものである。

明石博高の墓地は清水山墓地にあります

 

京都府立療病院は明治五年九月から仝年十月までこの付近で開設されていた

関連記事 ➡ 明石博高  明石博高・豊国神社

 


高瀬川一之船入り

2015年06月29日 01時08分21秒 | 史跡・旧跡

高瀬川 最上流域です

船の先の右から 鴨川から取り入れた水が流れてきます

高瀬舟 森鴎外作品にもなっています

関連記事 ➡ 作品・高瀬舟の話の元 神沢杜口

 

 

伏見から北上するときは 船引の人が ひっぱっていました 

 そんな古い写真を見たことがあります 大正9年まで 使われていた。

 

 

 

この柵の向こうは  こんな具合です

 

高瀬川を上る船  川沿いの道で船を押す人が写っています

樹木をてこの支点に使っています

綱で引っ張っている人もあるのかな

 

 

角倉了以  墓は 二尊院

角倉素庵  墓は 化野念仏寺