母がこのように動いていたことは、わたしは知りませんでした。もしわかっていたなら仕返しを恐れていたわたしはやめるように泣いて懇願したことでしょうし、またそうだからこそ、母はわたしに秘密にしたのです。
母は無学の人です。小学校も満足に通っておりませんでした。日常に話をする分には誰もそうとはわかりませんが、難しい話が苦手です。とりわけ役所や銀行のことが嫌いです。
そんな母が人づてに「教育委員会」のことを聞き直訴したと言うことは、今思い出しても、なお驚くべき事であり、その必死の思いに涙する以外に何も申し上げようもありません。(父は家にいない人だったので当てになりませんでした)
しかし、当時の教育委員会というものは(今もそうかもしれませんが)、発生した問題を解決するためにある組織ではなく、発生した問題をもみ消し、なかったことにする組織なのでありました。
どのような事が話し合われた(あるいは話し合われなかった)のかはわたしは知りません。
もういじめられる心配がないからと母に言われて学校に行かされましたが、やがて休みがちになり行かなくなりました。暴力をふるわれることはなくなったかわりに無視されて、それがまたつらかったからです。
結果として、2年次から3年次に上がる際に、予定になかった学級再編成が行われました。わたしへのいじめを主導した教師は担任職から外され、わたしをいじめていた生徒とも別の学級になり、わたしは3年生から復学しました。
しかし、そうは言っても同じ学校にいる以上、その教師や顔を合わせたくない面々と全く顔を合わせずに過ごすことは難しく、わたしは日陰者のようにびくびくしておりました。また、新しい学級の人ともうち解けることもなく、孤独でありました。
さらに唯一の心のよりどころであった「絵描き」も出来なくなったことは「#541北風昏迷録(11)」に書いたとおりです。
わたしの心をなぐさめてくれたのは童話や絵本でした。そして以前にも増して読書をするようになりました。
またしばらくして文章を書き始めました。「国家論」という一冊の本を書く決心をしました。
わたしの心は瀕死の状態でしたが最後の光は失われておりませんでした。
けれどもその光はか細く今にも消えてしまいそうで、わたしは歩き続けるしかありませんでした。立ち止まれば死んでしまいそうだったからです。
次回に続く…
母は無学の人です。小学校も満足に通っておりませんでした。日常に話をする分には誰もそうとはわかりませんが、難しい話が苦手です。とりわけ役所や銀行のことが嫌いです。
そんな母が人づてに「教育委員会」のことを聞き直訴したと言うことは、今思い出しても、なお驚くべき事であり、その必死の思いに涙する以外に何も申し上げようもありません。(父は家にいない人だったので当てになりませんでした)
しかし、当時の教育委員会というものは(今もそうかもしれませんが)、発生した問題を解決するためにある組織ではなく、発生した問題をもみ消し、なかったことにする組織なのでありました。
どのような事が話し合われた(あるいは話し合われなかった)のかはわたしは知りません。
もういじめられる心配がないからと母に言われて学校に行かされましたが、やがて休みがちになり行かなくなりました。暴力をふるわれることはなくなったかわりに無視されて、それがまたつらかったからです。
結果として、2年次から3年次に上がる際に、予定になかった学級再編成が行われました。わたしへのいじめを主導した教師は担任職から外され、わたしをいじめていた生徒とも別の学級になり、わたしは3年生から復学しました。
しかし、そうは言っても同じ学校にいる以上、その教師や顔を合わせたくない面々と全く顔を合わせずに過ごすことは難しく、わたしは日陰者のようにびくびくしておりました。また、新しい学級の人ともうち解けることもなく、孤独でありました。
さらに唯一の心のよりどころであった「絵描き」も出来なくなったことは「#541北風昏迷録(11)」に書いたとおりです。
わたしの心をなぐさめてくれたのは童話や絵本でした。そして以前にも増して読書をするようになりました。
またしばらくして文章を書き始めました。「国家論」という一冊の本を書く決心をしました。
わたしの心は瀕死の状態でしたが最後の光は失われておりませんでした。
けれどもその光はか細く今にも消えてしまいそうで、わたしは歩き続けるしかありませんでした。立ち止まれば死んでしまいそうだったからです。
次回に続く…