このは紅葉のお絵かき日記

トランプ大統領・たつき監督・irodoriの味方だよ

#588 絵描きに口無し(7)

2008年04月07日 | そのほか
母がこのように動いていたことは、わたしは知りませんでした。もしわかっていたなら仕返しを恐れていたわたしはやめるように泣いて懇願したことでしょうし、またそうだからこそ、母はわたしに秘密にしたのです。

母は無学の人です。小学校も満足に通っておりませんでした。日常に話をする分には誰もそうとはわかりませんが、難しい話が苦手です。とりわけ役所や銀行のことが嫌いです。
そんな母が人づてに「教育委員会」のことを聞き直訴したと言うことは、今思い出しても、なお驚くべき事であり、その必死の思いに涙する以外に何も申し上げようもありません。(父は家にいない人だったので当てになりませんでした)

しかし、当時の教育委員会というものは(今もそうかもしれませんが)、発生した問題を解決するためにある組織ではなく、発生した問題をもみ消し、なかったことにする組織なのでありました。
どのような事が話し合われた(あるいは話し合われなかった)のかはわたしは知りません。

もういじめられる心配がないからと母に言われて学校に行かされましたが、やがて休みがちになり行かなくなりました。暴力をふるわれることはなくなったかわりに無視されて、それがまたつらかったからです。
結果として、2年次から3年次に上がる際に、予定になかった学級再編成が行われました。わたしへのいじめを主導した教師は担任職から外され、わたしをいじめていた生徒とも別の学級になり、わたしは3年生から復学しました。

しかし、そうは言っても同じ学校にいる以上、その教師や顔を合わせたくない面々と全く顔を合わせずに過ごすことは難しく、わたしは日陰者のようにびくびくしておりました。また、新しい学級の人ともうち解けることもなく、孤独でありました。

さらに唯一の心のよりどころであった「絵描き」も出来なくなったことは「#541北風昏迷録(11)」に書いたとおりです。

わたしの心をなぐさめてくれたのは童話や絵本でした。そして以前にも増して読書をするようになりました。
またしばらくして文章を書き始めました。「国家論」という一冊の本を書く決心をしました。

わたしの心は瀕死の状態でしたが最後の光は失われておりませんでした。
けれどもその光はか細く今にも消えてしまいそうで、わたしは歩き続けるしかありませんでした。立ち止まれば死んでしまいそうだったからです。

次回に続く…

#587 絵描きに口無し(6)

2008年04月07日 | そのほか
「不良グループ」の主要メンバーは三年生がほとんどだったようで、三年生が卒業してからは抗争事件も起こらなくなりました。
つっぱり風の人たちはいましたが、本気で教師に反抗しようという動きがなくなりました。
校舎は修繕され、新学期にはきれいになっておりました。なにごとも無かったかのようでした。

しかし、わたしは不安でたまりませんでした。ひとりぼっちだったからです。
親友のかよちゃんは一年生の時に転校してしまいましたし(#531北風昏迷録(1)以降を参照)、「先生」もよその学校に転任していなくなってしまいました。不安は現実のものとなってゆきます。

平穏を取り戻した学校の中で、「問題児」であるわたしの存在が目立つようになってきました。教師たちからの風当たりも強くなります。
そして、最後の引き金を引いたのは新任の国語教師でありました。

宿題で書いたわたしの書いた作文を見て、驚いた新任教師は問題視して職員会議でとりあげました。このような思想は危険であり決して許されるものではないと…。
職員会議内の議論の真相は定かではありません。
推測ですが、一番問題にされたのは「教育委員会に対する批判」でありましょう。
学校や教員がもっとも恐れるのは教育委員会で、それに刃向かうことは国家反逆罪にも匹敵する大罪なのです。

「邪魔な芽は大きくなる前につみ取ってしまえ」と言ったかどうかは知りません。
しかし、学級担任の教師に「あの生徒をなんとかしろ」という大きな圧力が加わったのは事実のようです。

担任教師の主導によるわたしへのいじめが始まりました。
さらに不幸だったのは、二年次の学級編成で、小学生の時にわたしをいじめていた人たちとも同じ学級になっていたことでした。
小学生の時にわたしを助けてくれたまゆみちゃんもかよちゃんもいない、孤立無援の状態で、同級生全員からいじめられることとなりました。
担任教師から言われた言葉は
「おまえをどこの高校にも行けないようにすることは簡単なことだ。このことを誰かにばらしたらお前の人生をめちゃめちゃにしてやるからな!」

しばらくして、わたしは病気になって長期入院しました。
これは不幸中の幸いであったかも知れません。もし入院していなければ、わたしはきっと生きてはいなかったでしょう。

退院した後、学校へ行くことを拒絶するわたしを見て不審に思った母に問いただされました。わたしは告白し、母はすべてを知ると学校へ相談に行きました。

しかし母はすぐに学校に対して不信感を持ったそうです。
職員室の戸を開けたとき、「戸の形」にタバコの煙が吹き出したことに驚いたこと。そして、中に入ったなら濃密な煙によって、向こう側の壁も見えなかったと言うこと。「生徒も訪れるであろう部屋にタバコの煙が充満しているとは何事か!」と。

当時は「嫌煙」などと言う言葉も存在しておらず、タバコは吸い放題の時代。小学校でも中学校でも職員室はタバコの煙だらけだったので、教員も生徒も普通のこととして慣れておりましたが、知らないで初めて見た人は驚いたことでしょう。

さらに母が不審に感じたのは、教員や校長の横柄な態度。ろくに話を聞かず、取り合ってもらえない。何度学校に足を運んでも、らちがあかない。
母は学校と話をつけるのをあきらめて、教育委員会に直訴しました。

次回へ続く…

#586 絵描きに口無し(5)

2008年04月07日 | そのほか
わたしが作文を書き始めた頃の主題は、花や虫や小鳥といった小さきものへの幼きまなざしであり、他愛のないメルヘンでありました。
それが新聞を読むようになって、社会情勢にも興味を持つようになり、政治問題について書くようになりました。
そして前記の「新聞コンクール」があり、それが転機となって論調が攻撃的になってゆきました。

学校の荒廃に端を発し、教師、日教組、教育委員会、日本国政府にまで批判が及ぶようになり、果ては国家転覆、革命を起こし新国家を樹立すべし、とまで書きました。

わたしが過激な文章を書くようになると、先生の指摘もやや手厳しいものになってゆきましたが、決して怒ることなく優しい口調で教えてくれました。
しかも、先生の指摘するのは、文章の内容についてではなく、文章に対する姿勢でありました。

「思想・信条・言論の自由は憲法で保障されており、何を書いても自由であるから、作文の内容の善悪について言うことはない。ただし、文章を書く姿勢に問題がある。

「『言論』とは自分の考えを相手に伝える手段である。相手に自分の考えを理解・納得してもらうことが目的である。

「話を聞いてもらうのに大声で怒鳴りつけたとしても、皆耳をふさいで誰も聞こうとはしないだろう。
しかし、落ち着いて静かに語るのであれば、誰かが耳を傾けてくれるかも知れない。
だから、言論を行う者は、心静かに語るべきである。

「しかるに、今のあなたは、怒りに我を忘れて暴走しているだけだ。ブレーキのない車だ。ブレーキのない車は必ず事故を起こす。それは破壊ばかりで、得るものは何もない。目的が達成されないばかりか、本来の目的をも否定する結果となる。

「『ペンは剣よりも強し』という言葉があるように、言論は強力な武器となる。
しかし、正しく用いなければ、ただ人を傷つけるばかりで、それは剣による暴力と変わらない。
互いに相手の考えを知り理解することが争いを無くすただひとすじの道であり、そのときに発揮される正しい力こそが言論の真の力である。

「あなたの振りかざしたその剣を鞘に収めなさい。正しく使えぬ者が振り回すのは危険である。周りの者を傷つけるばかりか、あなた自身をも傷つけるだろう。言論の真の使い手となるまで、剣を抜いてはならない。そして、あなたが真の使い手となった暁には、もはや剣を抜く必要も無くなるに違いない」


もし、わたしがもう少し先生のそばに居られたなら、今よりもっとましな人間になっていたかもしれません。しかし、そうはならないのです。

先生は三月でよその学校に転任しました。これは異例なことだったようです。この学校に赴任してまだ間もないし、学級担任もしているのに、何も問題が無ければよそに飛ばされるようなことはないはずだ…。

その時のわたしにはわからなかったのですが、その問題というのが「わたしをかばってくれていた」ことだったようです。
わたしのような特殊で扱いの難しい「問題児」を、先生は全力で受け止めて守ってくれていたのです。

  「新聞コンクール」で危険思想をもった生徒がいることが明るみに出る。
  作文指導をしている国語教師が危険思想を植え付けたに違いない。

教員間で起こった問題にわたしが気が付かなかったのは、先生の強くあたたかい心遣いがあったからでしょう。
先生の大きさに気が付いたのはずっと後年のことです。生涯でただひとり「先生」と呼べる人を失うことになろうとは思いも寄らぬことでありました。

そのあとわたしは窮地に陥ることになります。
(次回に続く…)

#585 絵描きに口無し(4)

2008年04月07日 | そのほか
小学生時代のわたしは、史上稀に見る劣等生でありました。
テストが0点なのは通例で、宿題などほとんどしたことがありませんでしたし、作文などもってのほか。
漢字はもとより、ひらかな・カタカナですら書くのがおぼつかないのですから当然のことです。
おまけに口もきかないので、何を考えているのか(考えていないのか)も誰にもわからなかったでしょう。
周囲は誰もがあきらめて、わたしは放置状態にありました。

もともと本を読むのは好きでした。愛読書は、なぜか小学校の図書室にあった戦争漫画の「のらくろ」シリーズ、宮沢賢治と小川未明の童話。あとは図鑑や絵を見ること。ただし、いつも同じ本を飽きずに何度も読むだけだったので、実質の読書量はほぼゼロに等しかったでしょう。

それが小学6年から中学生に上がるころ急激に本を読むようになりました。小説や天文学や物理・数学まで、ジャンルに関係なく…
…読書については書き始めると際限が無くなりそうなので別の機会にします。

本を大量に読みあさるうちに、自分でも文章を書いてみたいと思うようになるのは自然な流れでしょう。
国語の作文の授業が好きになりました。

そこに目をとめてくれたのが、国語の先生でした。とても優しい女性で、よそのクラスの担任だったのに、わたしのことを気にかけて下さっていたのです。
先生が言うには
「あなたの作文が面白くて、もっと読みたくなったわ。もっと書いてみない? 学校の勉強や宿題ではないから、何を書いても良いし、あなたの書きたいときに書きたいだけ書いてほしいな。書いたら先生に読ませてね」
たくさんの原稿用紙をくれました。
そうして作文を書いては先生に読んでもらうと言うことがわたしの楽しみとなりました。

わたしはまったく勉強して来なかったから、作文の書き方を知りませんでした。字は読めても書けなかった。おそらく作文の体をなしていなかったでしょう。
それでも先生は熱心に読んでくれて、「情感が豊か」「目の付け所が独特で面白い」などと褒めてくれました。
褒めるばかりで、作文を直す・言葉遣いや文字の誤り、原稿用紙の使い方などについても、一度も指摘されたことはありません。ただ一点指摘されたのは「字は下手でも良いが、丁寧に書いた方が良い」ということだけでした。

しばらくして、先生はわたしの作文をプリントして国語の授業の教材に使いました。
「文章を書くときにいちばん大切なことは、書きたいことを素直に書くと言うことです。難しいことを書こうとする必要はありません。心を尽くしさえすれば、その心は必ず読む人に届くでしょう」
恥ずかしかったですけれど、とても嬉しかったです。

毎日作文を続けるうちに、わたしの文章レベルは格段に向上してきて、それが自分でもわかるほどでした。自然と自分で正しい文字や言葉遣いに気を遣うようになっていったからです。

前回書きました「新聞コンクール」の事件は、そうした文章経験を経た上での出来事でした。
長くなりましたので、恩師から受けた教えについては次回に書くことにします。

#584 絵描きに口無し(3)

2008年04月07日 | そのほか
新聞の記事を書くために取材は欠かせません。とにかく事実を正確につかむ必要があります。

わたしは校舎の破壊状況を調査しました。壁に開いた穴の数から割られたガラスの枚数、さらには落ちているタバコの吸い殻の本数など細かい数字を積み重ねました。
立ち入りが禁じられている上級生の階も調べました。はじめて足を踏み入れたときは生きた心地がしなかったです。命がけの取材と思っておりました。

生徒用の便所(男女用計)では便器は8割が破壊されて使用不能であり、扉すら残っていないのが5割と…今でも記憶しております。
教員用の便所は荒らされてもすぐに修理されますし、見張りの教員もいるので被害はほとんどありませんでした。
タバコの吸い殻の銘柄も調べました。不良生徒の吸っている安いタバコとは別に高級な銘柄のものもあり、特定の教師がその辺に捨てて歩いていることも突き止めました。

校舎内を暴走したバイクの事故についても調べました。轢かれた生徒はたまたま居合わせてしまったことによる事故であり、その生徒を狙ったわけではないこと。狙いは教師であったこと。
またほかの傷害事件でも、一般生徒が怪我をしたのは巻き込まれたのであり、不良グループが狙う目的はあくまで教師に対してであり、ほかの生徒を傷つける意図がなかったこと。
さらに、ナイフで斬りつけられた教師よりも、犯人とされる生徒の方が重傷で病院に搬送されたのも、正当防衛と称するにはあまりに過剰な暴行を教師側が行ったことなど。

取材が順調に進んだのは上級生が進んで証言を寄せてくれたからでした。人見知りするような寡黙なわたしに対してとても親切で協力的でした。不良グループと称される人たちもわたしに対して邪魔をしたり暴力をふるうようなことをしませんでした。
非協力的だったのは教師の側で、邪魔をされたり、「つまらないことを嗅ぎ回るのはやめろ!」と恫喝されもしました。

取材を進めるにつれて、校内暴力を行っているのは不良グループよりも、むしろ教師側ではないかという思いに至りました。
そうした教師側を糾弾する論調で記事を書き上げたときには、わたしの体力は限界に達しており、ほかの編集委員に記事の原稿を託したまま病床についてしまいました。

わたしが快復して学校に戻ったとき、最初に聞いたのは校内の新聞コンクールで特別賞をもらったと言うことでした。優秀作品は公のコンクールに出品されるので栄誉あることでした。

しかし愕然としたのは、縮刷版をもらったときでした。わたしの書いた記事はどこにもありません。どれもこれも「たのしい学校生活」のような「お利口さん的」「優等生的」内容になっておりました。
編集委員が言うには、担任教師に記事を見せたら「内容が適切ではない」として、担任教師が用意した別の内容に差し替えられたとのこと。いうなれば「検閲に引っかかった」ということでしょうか。

わたしが教師に問うたところ、「おまえ一人のわがままのためにクラスの名誉を汚すのか!」と一喝されました。わたしは教師が恐ろしくて何も言えませんでした。

口では何も言えない分、言いたいことは作文にぶつけました。作文の内容は次第に過激に攻撃的になってゆきました。
次回はそれを忠告してくれた恩師のお話をしたいと思います。