越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

訂正【2】

2018-10-27 15:35:02 | 雑考

 続いて、『謙信公御書集』が元亀2年、『越佐史料 巻四』『上越市史 上杉氏文書集』が年次未詳としている7月24日付蔵田五郎左衛門尉宛上杉輝虎書状(997号。以下の文書も上越市史による)を、当ブログにおいては永禄9年に年次比定していますが、やはり影写された画像(『伊佐早謙採集文書 蔵田文書』17齣)を見たところ、上杉輝虎の花押型が、永禄7年から同9年5月初旬頃までの間にa型やd型と併用されていた、いわゆるe1型でありましたので、これまた年次比定を改めなければならなくなりました。


【a型】 【d型】 【e1型】


【史料】蔵田五郎左衛門尉宛上杉輝虎書状写
越中文共差越候、早々同名兵部左衛門尉所可届候、越中ヨリ之人数、寺家辺ニ而打着候様召連可越候由、堅可申越候、謹言、
    七月廿四日      輝虎(花押【e1】
       蔵田五郎左衛門尉殿


 この書状を、永禄9年夏から秋にかけての北陸遠征を終えたと思われる上杉輝虎が、上野国に「凶徒」が在陣していることから、そのまま越府を経由して信濃国川中嶋の地へ向けて進軍するなか(結局は関東情勢の悪化によって上・越国境へ向かうことになる)、しばらく越中国に残留させていたと思われる本庄弥次郎繁長・長尾遠江守藤景・柿崎和泉守景家に対し、越府経由での後追いを指示したようで、この有力部将たちが、越府に留守居する老将の本庄美作入道宗緩へ宛てて、各々(本庄・長尾・柿崎よりも後続の部将たち)に対し、今現在も「凶徒」が上野国に在陣していることから、信濃国へ(輝虎が)御出馬される旨を伝達したこと、各々が国境まで到着した旨を連絡してきたこと、さらに行軍を急ぐように早飛脚をもって連絡したので、近いうちに着府するであろうなどを伝えた書状(424号)と関連付けて永禄9年に比定したわけですが、前述した通り、この書状に据えられていた花押型は、輝虎が同7年から同9年5月初旬頃までの間にa型・d型と併用していたe1型でありますから、7年か8年に年次を比定し直すことになります。
 そこで両年における輝虎の動向を追ってみますと、永禄7年の当該期に輝虎は信濃国川中嶋の地へ出陣(423・426・427・428号)、同8年の当該期に輝虎は在府し、将軍足利義輝が横死した京都の情報を収集中であり(459・460号)、輝虎が軍勢を本国へ移動させるような状況にあったのは7年の方ではないでしょうか。この年の輝虎は、甲州武田信玄と手を組んで飛騨国内で反乱を起こした「高原」の江馬左馬助時盛と戦っている「国方」の飛州姉小路三木良頼・江馬四郎輝盛主従を助けるため、自らは信濃国川中嶋の地へ出陣して間接支援し、「越中衆(越中味方中であろう)」を飛騨国へ向かわせて直接支援しており(439・440号)、信濃国川中嶋の地で甲州武田軍と対戦しようとしている輝虎は、動かせることのできる「越中ヨリ之人数」を越中・越後国境の越後国西浜地域の寺家に在陣させようとしたという解釈が成り立ちますので、ここは7年に年次比定を改めました。

※『上越市史 上杉氏文書集』が永禄7年に年次比定している424号を、『謙信公御書集』は永禄9年、『越佐史料 巻四』は永禄8年に年次比定している。当ブログでは、永禄7年の当該期に甲州武田軍と思われる「凶徒」が上野国に在陣している様子はないこと、永禄8年の当該期に輝虎が出馬した様子はないこと、同9年の当該期に輝虎が北陸へ遠征していたようであることなどから、『謙信公御書集』に従った。

※ 上杉輝虎(長尾景虎)は出陣中、しばしば越中国金山の椎名右衛門大夫康胤などの味方中の手を借りている(280・525号 ◆『勝浦市史 資料編』147号)。


東京大学文学部所蔵『謙信公御書集』(臨川書店)巻六 永禄九年七月、巻十一 元亀二年七月 ◆ 高橋義彦(編)『越佐史料 巻四』(名著出版)永禄7年3月10日〔附録〕、永禄8年7月24日 ◆『上越市史 別編 上杉氏文書集一』280号 上杉政虎条書、423号 上杉輝虎書状、424号 本庄繁長等三名連署状(写)、426号 上杉輝虎書状、427号 上杉輝虎願文、428・431・439号 上杉輝虎書状、440号 河田長親書状(写)、459号 山崎吉家・朝倉景連連署状、460号 朝倉景連書状、525号 上杉輝虎書状、997号 上杉輝虎書状(写) ◆『勝浦市史 資料編 中世』147号 ◆『新潟県史 資料編5 中世三 文書編Ⅲ 付録』花押・印章一覧 ◆『伊佐早謙採集文書 蔵田文書』(〔東京大学史料編纂所データベース〕)
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