越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

天正五年上杉家家中名字尽(分国衆交名注文)における越後衆の序列と人事について

2018-03-22 07:06:43 | 雑考

 天正5年12月23日に越後国上杉謙信が自ら筆を執った分国衆交名注文における越後衆の序列と人事について考えてみたい。そこで、分国衆交名注文から、左には分国ごとに越後衆のみを抜き出して羅列し、右では、それを身分ごとに分けて羅列し、その性格について検討を加える。本国衆のみは天正三年上杉家軍役帳と対比する。


   〔関東衆〕         【譜代衆】
  
   北条安芸守         北条安芸守高広
   北条丹後守         北条丹後守景広
   後藤左京亮         上野中務丞家成
   河田伯耆守
   大石惣介          【旗本衆】 
   竹沢山城守
   上野中務丞         後藤左京亮勝元
   小中彦兵衛尉        河田伯耆守重親
                 大石惣介芳綱
                 竹沢山城守
                 小中彦右兵衛尉


 譜代衆のうち、関東代官の北条安芸守高広・同丹後守景広父子は上野国厩橋城に拠った。当時、謙信の意向により、父親の高広は代官と厩橋城代の地位を息子の景広に譲って大胡城に在城していたともいわれるが、大胡領を管掌しながらも、基本的には厩橋城にいて景広を補佐していたようであり、こうして関東衆を率いる立場であった北条父子の最上位は不動であるのだろう。上野中務丞家成は上野国沼田城の城衆の一人であり、身分は沼田城将の河田伯耆守重親よりも高いが、関東衆全体における序列は高い方ではない。沼田城といえば、北条父子が拠る厩橋城に次ぐ、越後国上杉家の重要拠点であるが、城衆の河田重親と上野家成を見て分かるように、北条父子以外の部将たちは、その身分と職責にかかわりなく、序列の変動が目まぐるしい。

 旗本衆のうち、上野国女淵城将の後藤左京亮勝元(『戦国期上杉・武田氏の上野支配』)は、重要拠点の沼田城将を任されている河田伯耆守重親よりも上位につけている。天正2年や同4年に比定されている2月5日付後藤勝元・同新六宛上杉謙信感状(『上越市史』1186号、以下『上越』と略す。『関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実』204頁)にみられるような戦功を積み重ねた結果であろう。


      〔交名注文〕              〔軍役帳〕

 〔本国衆〕       【一家衆】        【一家衆】

 上杉十郎        上杉十郎         上杉弾正少弼景勝
 山浦源五        山浦源五国清       山浦源五国清
 山本寺伊予守      山本寺伊予守定長     上杉十郎
 琵琶嶋弥七郎      琵琶嶋弥七郎       上条弥五郎政繁
                          琵琶嶋弥七郎
 長尾小四郎                    山本寺伊予守定長
 千坂対馬守
 斎藤下野守       【揚北衆】        【揚北衆】
 安田宗八郎
 五十公野右衛門尉    五十公野右衛門尉重家   中条与次景泰
 菅名源三        竹俣三河守慶綱      黒川四郎次郎平政
 竹俣三河守       荒川弥次郎        色部弥三郎顕長
 荒川弥二郎       色部惣七郎長真      水原能化丸
 色部惣七郎       加地宗七郎        竹俣三河守慶綱
 加地宗七郎       中条与次景泰       新発田尾張守長敦
 柿崎左衛門大夫     安田新太郎堅親      五十公野右衛門尉重家
 本庄清七郎       新発田尾張守長敦     加地宗七郎
 吉江喜四郎       鮎川孫次郎盛長      安田新太郎堅親
 中条与次        大川三郎次郎長秀     下条采女正忠親
 河田勘五郎                    荒川弥次郎
 三条道如斎
 竹俣小太郎       【揚南衆】        【揚北衆】
 山岸隼人佑
 新保孫六        菅名源三         菅名源三
 安田新太郎       平賀左京亮重資
 北条下総守       新津大膳亮
 河田対馬守
 新発田尾張守      【譜代衆】        【譜代衆】
 船見
 松本          長尾小四郎景直      斎藤下野守朝信 
 山吉          千坂対馬守景親      千坂対馬守景親
 鮎川          斎藤下野守朝信      柿崎左衛門大夫
 大川          安田惣八郎顕元      新保孫六
 小国刑部少輔      柿崎左衛門大夫      竹俣小太郎
 堀江駿河守       竹俣小太郎        山岸隼人佑
 和納伊豆守       山岸隼人佑        安田惣八郎顕元
 本田右近允       新保孫六
 村山善左衛門尉     小国刑部少輔
             和納伊豆守
             村山善左衛門尉慶綱

             【旗本衆】        【旗本衆】

             本庄清七郎        船見宮内少輔
             吉江喜四郎資賢      松本鶴松
             河田勘五郎        本庄清七郎
             三条道如斎信宗      吉江佐渡守忠景
             北条下総守高定      山吉孫次郎豊守
             河田対馬守吉久      直江大和守景綱
             船見宮内少輔       吉江喜四郎資賢
             松本鶴松         香取弥平太
             山吉           河田対馬守吉久
             堀江駿河守        北条下総守高定
             本田右近允


 こうして本国衆の交名注文と軍役帳を対比すると、ここでも一家衆は最上層の区分で固定されているが、そのうちであっても、上杉苗字を許されている十郎ですら、席次については固定されたものではなく、例外なく序列の変動が激しい。そして、外様衆のうちで上位の席次を常に得ていた中条・色部に変動がみられるのは、かつて輝虎から本庄繁長の反乱時における忠信を認められて信頼を得ていた中条越前守(『上越』626号)の没後、謙信側近の吉江織部佑景資の子である与次景泰が入嗣するのを受け入れざるを得なかった中条家は、家中が反発していたとはいえ、もはや覆すことのできない人事である以上、景泰に協力を惜しんで中条家が功績を挙げられなければ、こうして序列が下がっていくのは避けられず、いずれ家中は景泰を盛りたてていくほかないであろうし、反乱を起こして失敗した本庄弥次郎繁長の下位に置かれることはない確約を得ていた色部家(『上越』1058号)は、当本人の色部弥三郎顕長が疾病による予定外の家督交替に見舞われてしまい、席次の件は永劫の約束であるとはいえ、新しい当主に代わった以上、本庄繁長という下限はあっても、ほかの越後衆との激しい競争は避けられず、次代の色部惣七郎長真は自力で高い席次を獲得しなければならないのであろう。

 この本国衆の序列において、取り分け気になるのは、越中駐留軍の有力者である長尾小四郎景直が譜代衆のうちで最上位に記載されていることである。長尾景直といえば、永禄5・6年頃に越中国金山の椎名康胤の養子となっている(『上越』412号)が、その居城である越中国松倉城に入った様子は窺えず、永禄11年に椎名康胤が越後国上杉陣営を離反してから、椎名・越中一向一揆と結んだ加賀一向一揆が越中国へ進出してきた元亀3年に至り、ようやく越中国に駐留する部将のひとりとして確認できる(『上越』1102号)。そして、謙信没後は越中代官の河田豊前守長親と共に、越中国で江州織田家の北国衆と戦い(のちには上杉陣営と織田陣営の間を変転とする)、敵方から椎名小四郎と呼称されている(『富山県史 史料編』1910号)ことからすると、元亀4年に滅ぼされた椎名康胤の名跡を長尾苗字ままで継いだ可能性が高い。このように苗字が併用されている例は、山浦上杉氏を継いだ村上源五国清にもみられる(『上越』1819号)。椎名氏の滅亡後、越中国松倉城に拠って金山領を管掌したのは河田長親であり、景直による椎名家の相続は名ばかりではあったが、織田軍との戦いでは河田と並び立っているほどなので、越中駐留軍の有力者であることに間違いはなかろう。つまるところ景直が本国衆登録であるのは、越中衆には東西の代官である河田長親と吉江織部佑景資だけでなく、現能登代官で前越中西郡代官の鯵坂備中守長実までが揃っており、このうえ景直までいては、いたずらに船頭が多くなってしまうのを気にしたのかもしれないし、長年に亘る北陸経略の功労者である寵臣の河田と鯵坂を前面に立てて、越中国平定を広く宣伝したかったのかもしれないが、後述する能登衆の事情に影響された面が大きい人事ではないかと思われる。

 苗字のみの部将は陣代が軍勢を率いるのであろう。揚北の外様衆の鮎川と大川は、かねてより、先年に反乱を起こして失敗した同族の本庄弥次郎繁長(雨順斎全長)が蟄居生活を送る越後国猿沢城の監視役を、謙信旗本の三潴左近大夫らと共に務めていた(『上越』614・1030号・1439号)ので、当主の鮎川孫次郎盛長・大川三郎次郎長秀とそれぞれの家中の一部は在地に残されることになったのであろう。旗本の船見は、天正三年軍役帳でも苗字のみであることからすると、この頃に船見宮内少輔が実家である信濃衆の須田家を継ぎ、何らかの事情により、船見家の当主が決まらないままであったのかもしれない。同じく松本は、当主の鶴松がまだ幼少であるから、同じく山吉は、謙信の最側近のひとりであった山吉孫次郎豊守、続く米房丸と当主の死去が相次いだようで、嫡流が絶えて改易に処されしまい、この時点では豊守の弟である孫五郎景長の家督相続はまだ決まっていなかったからではないだろうか。


   〔越中衆〕          【譜代衆】

   河田豊前守          計見与十郎
   鯵坂備中守
   吉江織部佑          【旗本衆】
   計見与十郎
                  河田豊前守長親
                  鯵坂備中守長実
                  吉江織部佑景資


 この越中衆においても、東郡代官の河田豊前守長親と西郡代官の吉江織部佑景資の序列は不動であり、直臣化した越中味方中がこれを上回ることはないであろう。鯵坂長実については、本来は能登代官として能登国七尾城に拠っていたにもかかわらず、能登衆登録ではないのは、謙信による越中平定の直後から能登代官に任命される直前まで越中の西郡代官を務めていた関係から(それ以前には越中国新庄城将を務めていた)、馴染みの越中衆に配されたことになり、この人事は、次に示す能登衆の構成と関わりがあるのだろう。


   〔能登衆〕          【一家衆】

   上条弥五郎          上条弥五郎政繁
   直江大和守
   平子若狭守          【譜代衆】
   長 与一
                  平子若狭守

                  【旗本衆】

                  直江大和守景綱
                  長 与一景連

 
 本来、この能登衆は、能登国の代官で七尾城代の鯵坂備中守長実が筆頭となるべきであろうが、謙信による能登国平定後に能州畠山家出身の上条弥五郎政繁が七尾城内に置かれたことからすると、謙信は、幼主を戴く年寄衆に牛耳られている能州畠山家から、畠山年寄衆らを除いて上条政繁を名目上の当主に据えるといった大義名分を掲げながら、能登国へ攻め入ったと思われるので、謙信が天正6年春に挙行するはずであった関東大遠征では、大儀を果たした象徴として上条政繁に能登衆を率いさせることでの宣伝効果を期待したのではないだろうか。能登国平定後に上条政繁が七尾城内に置かれるにあたり、謙信から諸々の制約を課せられている(『上越』1358号)のは、いかに政繁が謙信一家に列せられているとはいえ、公約に従って政繁を能登国に還住させるとなれば、実権を与えていなくとも警戒を要する存在となったので、謙信は関東大遠征の陣容を考えるにあたり、腹心の直江大和守景綱を政繁のお目付け役として能登衆に配したのであろう。

 以上、天正五年分国衆交名注文における越後衆の序列と人事についての考えを示した。最後に付け加えると、一家衆の桃井伊豆守義孝、揚北の外様衆の黒川四郎次郎平政、揚南の外様衆の平賀左京亮重資・新津大膳亮、譜代衆の下田長尾一右衛門尉・甘糟近江守長重・石川中務少輔、旗本衆の三潴出羽守長政・神余小次郎親綱(越後国三条城主)・毛利名左衛門尉秀広・村田忠右衛門尉秀頼などの有力部将の名が見えないは、本国や任地に残留するからであろう。そうなると気になるのは、軍役帳に載りながらも交名注文には載らない、謙信養子の上杉弾正少弼景勝と、どちらにも載らない、同じく上杉三郎景虎のことである。これは、天正3年に上杉景勝が謙信の養子となってから、天正5年に至っても陣代の栗林次郎左衛門尉が景勝の同名・同心・被官集団である上田衆を引率し、謙信の指示で関東や北陸を渡り歩いており(『上越』1224・1307・1330号)、景勝が単独で上田衆を率いて各地を往来している様子は窺えないことからすると、景勝は一部の上田衆を供として、謙信の遠征には常に帯同されていたのではないだろうか。上杉景虎については、元亀元年冬に謙信が関東へ出陣した際、越府で信・越国境の警戒にあたらされていたところ、積雪期に入って関東へ呼び寄せられている事例があり(『上越』948号)、陣代が景虎の直臣団を率いた様子は窺えないが、謙信の養子が二人体制になってからは、二人のどちらかが越府で留守居をしている様子はなく、景勝と同様に謙信の遠征には常に帯同されていたのではないだろうか。もし、交名注文に景勝・景虎が記載されたとしたら、どちらが上位になるのかはさておき、軍役帳で一家衆のうち景勝以外の者には「殿」と敬称が付されているのに対し、「御中城様」こと景勝だけが「御・様」の敬称を付されているように、明らかな家格の差がみられる(『上杉謙信の家督継承と家格秩序の創出』)ことからして、二人が次席を下回ることはなかったであったろう。


◆ 上杉景勝は長尾顕景期に、元亀3年秋の謙信による北陸遠征に際し、関東に在陣していた上田衆の主力が越中国富山陣へ呼び寄せられても、謙信旗本の有力部将と共に越府の防衛にあたっていたが、積雪期を迎えてから謙信旗本の山吉豊守と共に越中国富山陣へ呼び寄せられているように、上田衆の主力は一貫して栗林次郎左衛門尉が率いていた(『上越』1114・17・20・21・22・1454・56・57・59・61号)。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』412号 上杉輝虎願文、614号 上杉輝虎書状、626号 上杉輝虎起請文、948号 上杉輝虎(謙信)条書、1102号 長尾景直・鯵坂長実連署状(写)、1030号 上杉謙信書状(写)、1058号 上杉謙信判物、1114・1117・1120号 上杉謙信書状、1121号 上杉謙信書状(写)、1122号 上杉謙信書状、1186号 上杉謙信書状(写)、1224号 上杉謙信書状、1246号 上杉家軍役帳、1307・1330号 上杉謙信書状、1358号 上杉謙信条書(写)、1369号 上杉家家中名字尽手本、1439号 上杉謙信書状(写)、1454・1456・1457・1459・1461号 上杉謙信書状 『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1819号 上杉景勝一字書出 『富山県史 史料編Ⅱ 中世』1910号 織田信長朱印状(写) 『上越市史 通史編2 中世』 片桐昭彦「上杉謙信の家督継承と家格秩序の創設」(『上越市史研究』第10号)  栗原修「上杉氏の勢多地域支配」(『戦国期上杉・武田氏の上野支配 戦国期研究叢書6』岩田書院) 黒田基樹『関東戦国史 北条VS上杉55年戦争の真実』(角川ソフィア文庫)
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