越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

扇谷上杉氏の旧臣・太田資正が戴いた「屋形」について

2015-10-22 22:41:11 | 雑考

【史料1】三戸駿河守宛太田資正書状
御自訴之儀、度々蒙仰候、御屋形申候之処、拙者相計可申之段、被仰出候、如御望之、瀬田谷御一跡可被仰付候、然、静謐之上、屋形御料所一向無之候之条、可然地一所、上御申肝要候、猶、野右舎人孫四郎可申入候、恐々謹言、
               太田美濃守
   五月十四日          資正(花押)
   三戸駿河守殿


【史料2】三戸伊勢寿丸宛太田資正書状
御知行分不入之事、勿論不可存無沙汰候、猶以御進退引立可申候、千言万句、屋形可有御忠信義、簡要候、恐々謹言、
  永禄六癸亥            美濃守
   閏十二月三日          資正(花押)
 伊勢寿丸殿      
      御宿所


 ここに挙げた二通の書状は、越後国上杉輝虎の関東味方中である太田美濃守資正(三楽斎道誉。当時は武蔵国岩付城主)が、族臣の三戸駿河守と、その嫡男である伊勢寿丸に宛てたもので、駿河守には、要望通りに「屋形」の認可を得たので、世田谷(吉良頼康)一跡を継承するべきことと、直轄領を全く所有していない「屋形」に適当な土地を進上するべきことを、伊勢寿丸には、知行地の不入権が認められるので、「屋形」に忠信を尽くすべきことを伝えたものである。よって、天文15年4月の武蔵国河越の戦いにおいて主人の扇谷上杉朝定を失い、一時期は主人の仇である相州北条氏に従属していた太田資正が、永禄3年から同4年にかけて上杉輝虎(長尾景虎)の関東進出が始まり、それに従った以降、新たな「屋形」を戴いていたことが分かる。

 諸資料によると、太田資正が新たに戴いた「屋形」は、関東管領山内上杉家の名跡を継いだ上杉輝虎である。しかし、永禄5年に比定される【史料1】の通り、この「屋形」は直轄領を所有していないことから、太田資正が主人のために善処しているが、上杉輝虎は、永禄7年6月24日に自身が認めた願文のなかで「何之国においても料所一ヶ所まつハらす」と述べて、越後以外の分国で直轄地を得ることに執着しない意志を掲げており、こうした輝虎よりも、ほかに適当な人物がいるのではないだろうか。

 それでは、この「屋形」は誰なのかといえば、一次史料では該当する人物は見当たらないが、様々な軍記物に登場する、相州北条氏に滅ぼされた扇谷上杉氏の生き残りで、関東に進出した上杉輝虎(長尾景虎)から武蔵国松山城の城主に据えられた上杉憲勝(蔵人。新蔵人。左衛門大夫)である。この上杉憲勝は、実名が朝定・友貞など、父親についても扇谷上杉朝興・同朝定、山内上杉憲房、庁鼻和上杉憲武などと定まらず、扇谷上杉氏滅亡後は七沢七郎と名乗って奥州で流浪していたといい、上杉輝虎(長尾景虎)の関東進出後、その養父である山内上杉憲政の猶子になったといわれる。そして、永禄6年2月に松山城が相州北条・甲州武田連合軍によって攻略されたあと、越後に移ったとも、相州北条氏に扶持されたとも伝わっている。

 もし、ここで太田資正が戴いた「屋形」を憲勝に比定したことが誤りでなければ、【史料2】は永禄6年閏12月に発給された文書であることから、永禄6年2月に資正が松山城を失陥したあと、相州北条氏に通じた長男の太田源五郎氏資によって居城である武蔵国岩付城から追放された永禄7年7月まで間、憲勝は岩付城で資正に庇護されていたものと考えられる。なお、永禄12年に越後国上杉氏と相州北条氏の間で同盟が結ばれるなかで、同盟に反対する太田資正(当時は、変転の末に常陸国衆・佐竹氏の客将となっていた)の本領復帰が同盟締結の条件のひとつに挙がり、それに加えて扇谷上杉氏の再興も検討されているようなので、この対象とされていた人物は上杉憲勝のことかも知れない。


『新編埼玉県史 資料編6 中世2 古文書2』344・387号 太田資正書状 ◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』412号 上杉輝虎願文、413号 上杉輝虎願文(写)、706号 北条氏政ヵ条書(写) ◆『越佐史料 巻四』【永禄6年2月4日条】(高橋義彦 編)◆『上杉史料集(上)』〔北越軍談〕(井上鋭夫 校注 新人物往来社)◆『小田原北条記(下)原本現代訳 24』(岸正尚 訳 ニュートンプレス)◆『関八州古戦録(上)原本現代訳 28』(霜川遠志 訳 ニュートンプレス)◆『川中島合戦記 原本現代訳 30』(榊山潤 訳 ニュートンプレス)
  
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