越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

上杉輝虎(政虎)期の戦歴 【中】

2015-07-12 19:17:32 | 上杉輝虎(政虎)期の戦歴


 【19】(40) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄7年正月中旬から同下旬に掛けて、相州北条方の常陸国小田城を攻め落とす。

 永禄7年正月中旬、関東味方中の佐竹義昭(常陸国衆。常陸国久慈郡太田城主)との盟約に従って相州北条陣営に属する常陸国衆の小田氏治が拠る常陸国筑波郡の小田城に攻め寄せる。常陸・下総・下野の味方中は、佐竹義昭が常陸国信太郡信太荘の真鍋台に布陣し、結城晴朝(下総国衆。下総国結城郡結城城主)・山川氏重(結城一家。下総国衆。下総国結城郡山川荘山川綾戸城主)・水谷政村・政久(結城一家。常陸国衆。下野国芳賀郡久下田城主・常陸国伊佐郡下館城主)の軍勢は、小田城の救援に駆けつけた多賀谷政経(常陸国衆。もとは結城氏に従属していた。常陸国関郡下妻荘下妻城主)に、小山秀綱(号良舜。下野国衆。下野国都賀郡小山荘祇園城主)・宇都宮広綱(下野国衆。下野国河内郡宇都宮城主)・座禅院(下野国都賀郡日光山座禅院。相州北条方の下野国衆・壬生氏から院主を迎えている)の軍勢は、同じく壬生某(綱雄、若しくは子の義雄か。下野国衆。もとは宇都宮氏に従属していた。下野国都賀郡壬生城主)・皆川俊宗(下野国衆。もとは宇都宮氏に従属していた。下野国都賀郡皆川荘皆川城主)に対向した。正月29日、小田氏治が常陸国新治郡の土浦城(重臣の菅谷政貞の居城)に逃走したことから、多数の残党を討ち取ったところ、その日のうちに小田配下の三十余ヶ所の領主が投降してきたので、それぞれから証人を取って赦免すると、2月中旬頃まで小田領に留まって戦後処理を施した。


 【20】(41) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄7年2月中旬から同下旬に掛けて、相州北条方の下野国唐沢山城を攻め降す。

 永禄7年2月中旬、北条陣営に属する下野国衆の佐野昌綱が拠る下野国安蘇郡佐野荘の唐沢山城に攻め寄せる。17日に険しい要害の外郭を制圧すると、佐野昌綱が降伏を申し入れてきたが、すぐには回答を示さなかった。同日中、色部修理進勝長(外様衆)・上田長尾時宗丸(譜代衆。上田長尾越前守政景の長男。上田長尾政景は越府防衛のために途中帰国を命じられた)・斎藤下野守朝信(譜代衆)の主従をまとめて、楠川左京亮将綱(旗本衆)・栗林次郎左衛門尉房頼・宮嶋惣三(ともに上田衆)を個別に、それぞれの戦功を称えて感状を与えた。28日、関東味方中の佐竹義昭と宇都宮広綱の取りまとめにより、多数の証人を差し出させて佐野昌綱を赦免した。


 【21】(42) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄7年3月7日から同中旬の間、甲州武田方の上野国和田城を攻める。

 下野国衆の佐野昌綱を降したのち、西上野の味方中との盟約に基づいて、甲州武田陣営に属する上野国衆の和田業繁が拠る上野国群馬郡の和田城攻略に臨む。しかし、和田城は小規模ながら、甲州武田信玄が丹念に手を加えた堅城であるため、その攻略は至難と見越して逡巡する。それでも、すでにこうして和田に押し寄せたからにはと、迷いを振り払って、ひたむきに戦う覚悟を決し、永禄7年3月7日、例の如く関東国衆は頼りにならないため、白井衆(上野国衆・白井長尾憲景の同名・同心・被官集団)の先導のもと、自ら先手の越後衆を率いて和田城を攻め立てると、北条高広(越後衆。上野国群馬郡厩橋城代)・箕輪長野氏業(上野国群馬郡箕輪城主)・横瀬成繁(上野国新田郡新田荘金山城主)を初めとする国衆の一軍が戦果を挙げられないなか、白井・越後両衆が外郭を攻め取って内郭に肉迫した。その後、敵城が小規模といっても侮ることなく、宇都宮広綱・佐竹義重・足利長尾景長(上野国邑楽郡佐貫荘館林城主)らの大軍をもって五重に取り巻いているにも係わらず、戦況は膠着状態に陥った。やがて国衆を帰陣させなければならない時期を迎えるため、11日の晩に改めて攻勢に出ようとするも果たせず、15日前後に和田城から撤収し、3月下旬から4月上旬の間に帰国の途に就いた。


 【22】(43) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄7年7月下旬から同9月下旬の間、信濃国の奥郡で甲州武田信玄と駆け引きする。

 永禄7年7月下旬に甲州武田信玄と戦うために信濃国へ向かい、8月3日に更級郡の川中嶋の地に着陣する。中旬から下旬に掛けて、それまで一向に姿を現さなかった甲州武田軍本隊が、ようやく更級郡の塩崎の地まで進陣してくるも、ついに決戦するには至らなかった。9月5日以前に水内郡の飯山の地まで後退したところ、最前線の陣城に配備した旗本衆の堀江駿河守と岩船藤左衛門尉(実名は忠秀か)からの状況報告を受け、敵の最前線である水内郡太田荘の小玉坂の陣城に対する連日の総攻撃を止めて、初更に忍衆を展開して戦機を見極め、足軽衆による大規模な夜襲を仕掛けることと、物見衆をもって、水内郡若槻荘の髻山で哨戒活動をしている敵の小部隊の監視をかいくぐり、旭山口の敵本営を探し出して報告することを指示した。その後、飯山城に改修を施し、10月朔日に帰国の途に就くと、翌日には、最前線の堀江駿河守と岩船藤左衛門尉に対し、甲州武田軍が撤収するのか、高井郡の中野辺りまで進陣してくるのかを見極めて報告するように指示した。


 【23】(44) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄9年2月上旬、上野国安中口で甲州武田軍と戦う。

 将軍足利義輝からの上洛要請に応じるため、関東府足利氏の足利藤氏を下総国葛飾郡の古河城に復帰させて関東の安定を図る必要から、永禄8年11月24日、関東へ向けて出馬する。翌9年正月下旬に関東味方中の参陣を募るために上野国から下野国安蘇郡佐野荘の唐沢山城へ向かおうとするなか、佐野昌綱の一族である天徳寺宝衍が相州北条方に内通したとの情報を得たことから、唐沢山城へ急行しようとするも、自陣営に寝返った上野国衆の安中景繁が拠る上野国碓氷郡の諏訪(松井田)城に甲州武田軍が攻め寄せてきたことから、夜毎に軍勢を繰り出して攻撃布陣を整えると、2月上旬に甲州武田軍と戦って多数の敵兵を討ち取った。その後、唐沢山城に入って反抗勢力を鎮めると、側近の吉江佐渡守忠景(大身の旗本衆)を城将に任じ、越後奥郡国衆の五十公野玄蕃允と佐野衆の大貫左衛門尉を添えて主郭に配置した。それから、相州北条陣営に属する常陸国衆の小田氏治が拠る常陸国筑波郡の小田城攻略と下総国の経略に参加する関東味方中の結城晴朝(二百騎。下総国衆。下総国結城郡結城城主)・小山良舜(秀綱。百騎。下野国衆。下野国都賀郡小山荘祇園城主)・榎本(小山良舜の弟である高綱か。三十騎。下野国都賀郡榎本城主)・佐野昌綱(二百騎を代官が率いることを認められた。下野国衆。下野国安蘇郡佐野荘唐沢山城主)・横瀬(由良)成繁(三百騎。上野国衆。上野国新田郡新田荘金山城主)・足利長尾景長(百騎。上野国衆。上野国邑楽郡佐貫荘館林城主)・成田氏長(二百騎。武蔵国衆。武蔵国埼西郡忍城主)・広田直繁(五十騎。武蔵国衆。武蔵国埼玉郡太田荘羽生城主)・木戸忠朝(広田直繁の弟。五十騎)・簗田晴助(百騎。下総国衆。下総国葛飾郡下河辺荘関宿城主)・富岡主税助(三十騎。上野国衆。上野国邑楽郡小泉城主)・北条丹後守高広(越後国上杉家の譜代衆。上野国群馬郡厩橋城代)・沼田衆(越後衆。上野国利根郡沼田荘沼田城衆)・房州衆(房州里見義堯・同義弘父子。五百騎。房州勢は総州経略から参戦する)・土気酒井胤治(百騎。上総国衆。上総国山辺郡土気城主)・太田道誉(資正。百騎。常陸国衆・佐竹氏の客将。常陸国北郡片野城主)・野田景範(五十騎。下総国衆。下総国葛飾郡野田城主)・宇都宮広綱(二百騎を代官が率いることを認められた。下野国衆。下野国河内郡宇都宮城主)・佐竹義重(同心・代官が二百騎を率いることが認められた。常陸国衆。常陸国久慈郡太田城主)らの軍役を定めた。そして、常陸国小田城攻略に向かおうとしたところ、小田氏治が結城晴朝を通じて降伏を申し入れてきたことから、これを受諾したばかりか、そのまま居城に留まることを認めた。


 【24】(45) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄9年2月下旬から同年3月上旬の間、相州北条方の下総国大谷口(小金)城を攻める。

 永禄9年2月下旬に相州北条陣営に属する下総国衆の高城胤辰が拠る下総国葛飾郡風早荘の大谷口(小金)城に攻め囲んだ。その間、城下の平賀法華寺(本土寺)の懇望に応じ、譜代衆の北条丹後守高広と旗本衆の直江大和守政綱・河田豊前守長親を奉者として関東・越後諸軍勢の濫妨狼藉を禁ずる制札を掲げる。このたび帰属してきた下総国衆・相馬治胤(下総国相馬郡(御厨)守谷城主)が代官の率いる軍勢を寄越す。3月初めに大谷口城を封じると、相州北条陣営に属する下総国衆の原胤貞の拠る下総国印旛郡臼井荘の臼井城に向かった。


 【25】(46) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄9年3月9日から同25日の間、相州北条方の下総国臼井城を攻める。

 永禄9年3月9日、下総国臼井城に攻め囲んだ。猛攻して20日までに外郭の全てを制圧して堀一重の裸城にした。その後も昼夜に亘って攻め立てるも、強攻に失敗した房総勢が三百余名を失って戦場からの離脱を余儀なくされたことから、日没に越後衆の一部を房総勢の立ち去った陣場に移して攻城戦を続行すると、上田衆(甥である上田長尾顕景の同名・同心・被官集団)や味方中の下総国衆・結城晴朝の軍勢が奮戦したが、相州北条氏政の率いる援軍が迫ってきているため、25日に総州経略を断念して臼井城から撤収した。その後、4月13日に甲州武田陣営に属する上野国衆の和田業繁が拠る上野国群馬郡の和田城攻めるつもりでいたが、断念して関東を後にした。


 【26】(47) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄9年6月朔日から同7月中旬の間、越中国の中部で神保長職と戦う。

 関東から帰陣して間もなく、永禄9年5月中旬から下旬に掛けて、上野国厩橋城代の北条丹後守高広から甲州武田軍が上野国安中口に侵攻してきたとの知らせを受け、急いで出馬の準備をするなか、上野国沼田城衆(城代の河田豊前守長親は越府に滞在中)から誤報との知らせを受けたのもつかの間、隣国越中で争乱が起こったことから、直ちに出馬すると、6月朔日、越中増山の神保長職が立ち向かってきたので一戦に及んだ。7日には、この一戦に於ける吉江玄蕃丞(旗本衆)の殊勲を称えて感状を与えた。その後、7月中旬には、甲州武田軍が上野国沼田城を攻めるとの急報が寄せられたので、河田長親を沼田に戻し、信・越国境の越後国魚沼郡上田荘の坂戸城に残る上田衆を加勢として急行させて、自らはそのまま信濃国に進攻しようとするも、状況が変わったことから、関東遠征に切り替える。一旦、帰府してから、24日に出府し、下旬に信・越国境の越後国魚沼郡上田荘に着陣する。しかし、従軍将兵の遅参、甲州武田軍の信州出陣、関東味方中の離反によって滞陣を余儀なくされると、閏8月、長尾源五(譜代衆)を派遣して、このたび敵陣営に寝返った上野国衆の由良成繁が拠る上野国新田郡新田荘の金山城を攻めさせるも、自らは国境を越えることなく帰府した。


 【27】(48) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄9年11月9日、甲州武田方の上野国高山領と相州北条方の武蔵国深谷領を焼き払う。

 永禄9年10月11日、再び関東へ向けて出馬する。22日までに上野国利根郡沼田荘の沼田城に着陣すると、上野国金山城を攻撃するために関東味方中の参陣を呼び掛けた。11月8日に上野国勢多郡の大胡の地に本陣を構えると、相州北条軍が武・上国境に在陣しているとの情報を得たことから、翌9日、これを追い払うために利根川を渡ったところ、敵軍は跡形も無く退散していたので、甲州武田・相州北条陣営の勢力圏内である上野国緑野郡の高山城から武蔵国幡羅郡の深谷城の周辺を焼き尽くし、五十余の敵兵を討ち取り、多数の人馬を生け捕ると、大胡の本陣へ取って返した。その後、19日には下野国安蘇郡佐野荘の唐沢山城に移り、関東味方中の参陣を催促するも、そうしたなかで上野国衆の富岡主税助(上野国富岡城主)、12月上旬までには、同じく足利長尾景長(上野国館林城主)と越後衆の北条丹後守高広(上野国厩橋城代)が敵陣営に寝返ってしまい、あろうことか北条高広に至っては、輝虎の金山城攻略中に上野東西境界の防衛を厩橋衆と共に担う上野国衆・惣社長尾能登守の許から協議のために厩橋城を訪れた越後衆の松本石見守景繁(上野国沼田城将。加勢として惣社城に入ることを命じられていた)を拘束して相州北条軍の陣所に引き渡す有様で、相次ぐ味方中の離反に金山城攻めを断念せざるを得なかった。こうしたなか、父の北条高広とは行動を共にしなかった北条弥五郎景広が上野国勢多郡の棚下寄居に拠ったことを知ると、そのまま景広に厩橋城と対向させて、自らは唐沢山城での越年を決めた。

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