越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国衆の秋山氏と松郷氏について

2014-03-09 20:32:34 | 雑考
 
 越後守護代長尾能景の被官に秋山主計助・同式部丞が、越後国上杉謙信(輝虎)の旗本衆に秋山式部丞定綱(のち伊賀守)がいた。


【史料1】安田景元宛長尾為景書状
去廿六日松郷・志駄・秋山御在所取懸候処、家風中出合、遂一戦、為始松郷与次郎志駄、敵数多被討捕之段、御忠節無比類候、何様静謐之上、所帯方義可申合候、依之、家風中以切紙申届候、弥御忠劫簡要候、恐々謹言、
             長尾
    九月廿九日      為景(花押)
    安田弥八郎殿


 越後天文の乱に於いて、越後守護代長尾為景方の越後国衆・安田毛利弥八郎景元(のち越中守。越後守護上杉家の譜代衆でもあった。越後国刈羽郡安田城主)は、越後守護上杉氏の一家衆・上条播磨守定憲方の越後国衆である松郷与次郎・志駄(越後国山東(西古志)郡夏戸城主)・秋山が居城に攻め寄せてくると、迎撃して松郷与次郎や志駄勢の多数を討ち取っている。

 これまで秋山氏を越後守護代長尾氏を始めとする長尾一族が越後に入部する以前からの守護代長尾氏の被官であると考えていたが、実際のところは越後国衆・秋山氏の一族が被官化したようだ。


【史料2】平野修理亮宛松郷景盛借状
   借申御蔵銭之事
           百文四文子
      合本卅五貫文者
右、子銭者四文子、来年二月中本子共、進納可申候、若無沙汰申候者、苅和郡之内別山之地勘定以相当、可被召置候、仍如件、
  享禄弐      松郷大隅守
    九月廿四日      景盛(花押)
    平野修理亮殿
          


【史料3】某能盛書状
まつかう殿借銭候、先日しわけ候代之内、借状のむねまかせわたされへく候、恐々謹言、
            しゆり
    丑九月廿五日     能盛(花押)
      六郎左衛門尉殿


 享禄2年9月24日に松郷大隅守景盛は段銭を納付するにあたり、長尾為景に対して平野修理亮能盛(為景の側近か)を通じ、越後国刈羽郡別山の知行地を抵当として、長尾家御蔵銭の借用を申し入れている。

 越後天文の乱は長尾為景が越後国衆に段銭の納付を強硬に迫ったことも一因のようで、この松郷景盛の次代であろう松郷与次郎は前述の通り、反為景の上条定憲に味方して為景方の安田景元を攻撃するも、あえなく戦死している。そして、上杉謙信期に松江(松郷)氏は、旗本衆・松本鶴松丸(越後国山東(西古志)郡小木(荻)城主)の同心として確認される。

 このように越後国衆の秋山氏と松郷氏は、越後国山東(西古志)郡を本拠とする志駄氏や松本氏との係わりから考えて、その本領は山東郡である可能性が高いのではないだろうか。


『新潟県史 通史編2 中世』◆『新潟県史 資料編3 中世一』777号 長尾・飯沼氏等知行検地帳、839号 上杉家軍役帳 ◆『新潟県史 資料編4 中世二』1557号 長尾為景感状、1558号 長尾為景書状、1997号 某能盛書状 ◆『新潟県史 資料編5 中世三』2421号 松郷景盛借状 ◆『新潟県立歴史博物館研究紀要 第9号』高野山清浄心院 越後過去名簿(写本)
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