越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

上杉謙信期の越後衆一覧 【2】

2014-02-14 00:43:53 | 上杉謙信期の越後衆


 譜代衆

 長尾小四郎景直(ながおこしろうかげなお)
 越後国頸城郡西浜地域の名立の地を領有し、生母の墓地も同地の寺にあることからして、名立城主であったか。謙信の北陸経略において、越中国新川郡の天神山城将を任されていたらしい。元亀3年に加賀・越中一向一揆が越中国の中郡に乱入した際には、旗本衆の鰺坂清介長実が城将を務める越中国新川郡の新庄城に移った。中郡の平定後は新川郡の小出城将に転出した。天正6年3月に謙信が従えたばかりの能登・越中両国の諸士や加賀・越中両国の一向一揆までも動員する関東大遠征に、越後衆の一員として従軍する予定であった。嫡男に冠者丸がいたと伝わる。


 長尾右京亮(ながおうきょうのすけ)
 実名不詳。古志長尾右京亮景信の名跡を継いだか。越後国頸城郡の直峰(嶺)城衆という。


 長尾一右衛門尉(ながおいちえもんのじょう)
 市右衛門尉と宛名書きされていたりもする。実名は景治と伝わる。下田長尾遠江守藤景の弟と伝わる。越後国蒲原郡の下田(高)城主か。


 長尾孫七(ながおまごしち)
 実名不詳。謙信没後、暫くしてから加賀守を称するか。


 長尾筑後守(ながおちくごのかみ)
 実名不詳。長尾景虎期の筑後守と同一人物なのか、次代なのかは分からない。越後国頸城郡の直峰(嶺)城衆か。


 柿崎和泉守景家(かきざきいずみのかみかげいえ)
 仮名は弥次郎を称したか。官途名は中務を称した。年寄衆。越後国頸城郡の柿崎城主。元亀3年秋から同4年夏にかけての謙信による北陸遠征に従軍したのを最後に見えなくなる。柿崎家の菩提寺である楞厳寺の寺伝によれば、天正2年11月22日に死去し、法名は籌山曇忠居士、楞厳寺開山龍室元光禅師の師である林泉寺開山曇英慧応禅師から一字を取ったという
(室岡博『柿崎景家 ー川中島先陣ー』楞厳寺住職石黒良平 特別寄稿 楞厳寺について )。米沢柿崎氏家譜では本心院殿転誉守邦居士としている。

 柿崎左衛門大夫(かきざきさえもんのだいぶ)
 仮名は平三郎、実名は晴家か。柿崎和泉守景家の世子。越後国頸城郡の柿崎城主。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、越後衆の一員として従軍する予定であった。


 斎藤下野守朝信(さいとうしもつけのかみとものぶ)
 仮名は小三郎を称した。年寄衆。越後国刈羽郡の赤田城主。能州平定後に一時期、一家衆の山浦源五国清と能登国羽咋郡の末守城に在番した。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、越後衆の一員として従軍する予定であった。


 北条安芸守高広(きたじょうあきのかみたかひろ)
 仮名は弥五郎、受領名は丹後守を称した。謙信没後は芳林と号する。越・相一和の破談後、関東代官と上野国群馬郡の厩橋城代を嗣子の北条弥五郎景広に譲ることになり、同国勢多郡の大胡城に移った。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、関東衆の筆頭として従軍する予定であった。


 北条丹後守景広(きたじょうたんごのかみかげひろ)
 仮名は弥五郎を称した。越後国刈羽郡の北条城主。上野国群馬郡の厩橋城主。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、関東衆の筆頭として従軍する予定であった。


 北条長門守親富(きたじょうながとのかみちかとみ)
 源八郎、右衛門尉を称した。北条高広・景広父子の一族。実名の「親」の一字は、高広の娘婿である河田豊前守長親から付与されたものか。謙信没後に代替わりした世子(実名は高政か)も右衛門尉、長門守を称する。孫の右近(実名は高能か。右衛門尉)の妻は小中大蔵丞の娘と伝わる。


 安田惣八郎顕元(やすだそうはちろうあきもと)
 越後国刈羽郡の安田城主。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、越後衆の一員として従軍する予定であった。弟と伝わる安田久千代丸(のちの上総介能元)は、謙信から弥九郎(実名は元兼か)の仮名を与えられている。


 千坂対馬守(ちさかつしまのかみ)
 はじめは朝儀を名乗り、謙信の次代である上杉景勝期に景親を名乗った可能性がある。越後国蒲原郡の鉢盛城主と伝わる。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、越後衆の一員として従軍する予定であった。


 石川中務少輔(いしかわなかつかさのしょう)
 実名は重次と伝わる。元亀3年秋から翌4年夏にかけて謙信が挙行した北陸遠征に従軍している。越後国蒲原郡の石川城主と伝わる。


 平子若狭守(たいらくわかさのかみ)
 実名は房長、房政などと定まらない。仮名は孫太郎を称した。越後国魚沼郡の薭生城主。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、能登衆の一員として従軍する予定であった。


 上野中務丞家成(うえのなかつかさのじょういえなり)
 仮名は源六を称した。越後国魚沼郡の節黒城主。上野国利根郡の沼田城衆。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、関東衆の一員として従軍する予定であった。上杉景勝期にみえる上野源五郎は嫡男と伝わる。


 新保孫六(しんぼまごろく)
 実名は景之か。幼名は長松丸を称した。謙信から越後国長尾家に縁の一字を賜った。越後国蒲原郡の新保城主か。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、越後衆の一員として従軍する予定であった。


 竹俣小太郎(たけのまたこたろう)
 上杉景勝期に見える竹俣筑後守房綱の前身か。もしそうであれば、上杉定実・長尾晴景期に揚北衆の竹俣氏の当主は式部丞・筑後守系から三河守系に変わったと考えられるから、長尾景虎期に式部丞・筑後守系の竹俣氏が譜代化したことになる。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、越後衆の一員として従軍する予定であった。


 小国刑部少輔(おぐにぎょうぶのしょう)
 実名は重頼か。謙信没後、暫くしてから石見守を称する。越後国蒲原郡の天神山城主。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、越後衆の一員として従軍する予定であった。


 山岸隼人佑(やまぎしはやとのすけ)
 実名は光重か。謙信没後、暫くしてから隼人入道光祐と号し、更に出雲と称する。越後国蒲原郡の黒滝城主。長男の山岸宮内少輔秀能は、越後国蒲原郡の弥彦神社の戸内職を兼ねる。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、越後衆の一員として従軍する予定であった。


 村山善左衛門尉慶綱(むらやまぜんざえもんのじょうよしつな)
 仮名は孫五郎を称した。謙信没後、暫くしてから安芸守を称する。山岸隼人佑(光重か)の次男。越後国頸城郡の徳合城主。謙信の能州経略が進行中の天正5年3月、旗本衆の河田窓隣軒喜楽・同対馬守吉久父子、上田衆(謙信の養子である上杉弾正少弼景勝の同名・同心・被官集団)、黒川衆(外様衆・黒川四郎次郎平政の同名・同心・被官集団)と能登国鹿島郡の石動山城に在番した。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、越後衆の一員として従軍する予定であった。


 和納伊豆守(わのういずのかみ)
 実名不詳。越後国蒲原郡の和納城主。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、越後衆の一員として従軍する予定であった。


 計見与十郎(けみよじゅうろう)
 実名は幸安か。父は計見出雲守(実名は堯元か)という。越後国刈羽郡の畔屋城主と伝わる。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、越中衆の一員として従軍する予定であった。


 青海川図書助(おうみがわずしょのすけ)
 実名不詳。幼名は梅千代を称した。越後国刈羽郡の青海川城主。


 青海川右馬丞(おうみがわうまのじょう)
 実名不詳。越後国頸城郡の青海川氏か。


 大崎筑前守(おおさきちくぜんのかみ)
 長尾景虎期に見える大崎筑前守(実名が泰継と伝わる)というよりは、次代とされる九郎左衛門尉の後身に当たるか。越後国魚沼郡の大崎城主と伝わる。


 大関弥七親憲(おおぜきやしちちかのり)
 越後国上杉家を離れて奥州会津の蘆名家を頼ったという伝承がある。天正2年に謙信旗本の若林九郎左衛門尉家吉に数ヶ所の「大関弥七分」の地が宛行われているので、それ以前に出奔したとみられる。謙信が没した直後に帰参したようで、御館の乱では上杉景勝方として活躍し、のちに常陸介を称する。越後国魚沼郡の浦佐城主と伝わる。


 窪 某(くぼ)
 実名、通称は不詳。天正3年頃に退転した。


 直海新右兵衛尉(のうみしんびょうえのじょう)
 実名は景秀と伝わる。


 江口式部丞(えぐちしきぶのじょう)
 仮名は善太郎、実名は親政、父は江口安芸守(実名は親広、仮名は藤五郎、官途名は式部丞と伝わる)と伝わる。越後国魚沼郡の平地山城主。


 宇佐美平八郎(うさみへいはちろう)
 官途名は民部少輔か。民部少輔の実名は実定と伝わる。越後国魚沼郡の真板平(根小屋)城主と伝わる。


 甘糟近江守長重(あまかすおうみのかみながしげ)
 越後国山東(西古志)郡の枡形城主と伝わる。


 鳥山因幡守(とりやまいなばのかみ)
 実名不詳。官途名は大炊助を称したか。越後国魚沼郡の市之沢城主と伝わる。

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