越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

上杉謙信期の越後衆一覧 【1】

2014-02-13 23:51:28 | 上杉謙信期の越後衆


 一家衆

 上杉三郎景虎(うえすぎさぶろうかげとら)
 相州北条氏康の末男で、久野北条新三郎氏信の遺跡を継ぎ、初めは北条三郎を名乗った。越・相一和に伴って謙信(輝虎)の養子となり、謙信の初名である景虎の名を与えられた。妻は、謙信の姉である仙洞院と上田長尾越前守政景の間に生まれた次女。


 上杉弾正少弼景勝(うえすぎだんじょうのしょうひつかげかつ)
 謙信の姉である仙洞院と上田長尾越前守政景の間に生まれた次男で、上田長尾氏を継ぎ、初めは長尾喜平次顕景を名乗った。天正3年正月に謙信の養子となり、謙信の官途である弾正少弼と景勝の名を与えられた。越後国魚沼郡の坂戸城主。


 上杉十郎(うえすぎじゅうろう)
 実名は信虎と伝わる。古志長尾右京亮景信の子で、初めは長尾十郎景満を名乗ったらしい。上杉上条家の一つである十郎家の名跡を継いだと考えられている。そうであったとしても、あくまで上杉名字を名乗っているので、もはや新しい上杉氏であろう。天正6年3月に謙信が、従えたばかりの能登・越中両国の諸士や加賀・越中両国の一向一揆までも動員する関東大遠征に、越後衆の一員として従軍する予定であった。


 上条弥五郎政繁(じょうじょうやごろうまさしげ)
 能州畠山義続(号悳祐)の末男とされる。上杉上条家の一つである弥五郎・播磨守家の名跡を継いだ。謙信没後、暫くしてから宜順と号する。妻は、謙信の姉である仙洞院と上田長尾越前守政景の間に生まれた長女。越後国刈羽郡の上条(黒滝)城主。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、能登衆の筆頭として従軍する予定であった。


 山浦源五国清(やまうらげんごくにきよ)
 信濃衆・村上兵部少輔義清の世子で、始めは村上源五国清を名乗った。謙信の肝煎りで、天正3年2月までに上杉山浦家の名跡を継いだ。妻は越前国朝倉義景の娘(謙信の養女)と伝わる。越後国蒲原郡の笹岡城主。長期間、越中国に駐留した。能州平定後に一時期、譜代衆の斎藤下野守朝信と能登国羽咋郡の末守城に在番した。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、越後衆の一員として従軍する予定であった。


 琵琶嶋弥七郎(びわじまやしちろう)
 実名は政勝か。越後国刈羽郡の琵琶嶋城主。謙信の最晩年、越後衆として関東遠征に従軍する予定であった。


 山本寺伊予守定長(さんぽうじいよのかみさだなが)
 越後国頸城郡の不動山城主。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、越後衆の一員として従軍する予定であった。嫡男に山本寺松三景長(幼名は宮千代丸を称したと伝わる)がいる。


 桃井伊豆守(もものいいずのかみ)
 実名は先代の伊豆守義孝と同じく義孝か。官途名は右馬助を称した。越後国頸城郡の鳥(富)坂城主と伝わる。謙信期にはすでに嫡男と思われる桃井宮内少輔に代替わりしていた可能性がある。



 奥郡国衆(阿賀北の外様衆)

 中条越前守(なかじょうえちぜんのかみ)
 実名は房資、次いで景資であろう。謙信から越後国長尾家に縁の「景」の一字を賜ったと伝わる。仮名は弥三郎を称した。越後国蒲原郡の鳥坂城主。天正元年8月22日に死去したと伝わる。


 中条与次景泰(なかじょうよじかげやす)
 旗本衆・吉江織部佑景資の次男で、初めは吉江与次(幼名は沙弥法師丸を称した)を名乗った。謙信の小姓を務めたのち、中条越前守の名跡を継いだ。謙信から越後国長尾家に縁の「景」の一字を賜った。謙信没後に越前守を称する。越後国蒲原郡の鳥坂城主。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、越後衆の一員として関東遠征に従軍する予定であった。


 黒川四郎次郎平政(くろかわしろうじろうひらまさ)
 幼名は竹福丸を称した。越後国蒲原郡の黒川城主。天正3年2月以降に嫡男と思われる源次郎為実(左馬頭。豊前守)に代替わりしたか。


 本庄雨順斎全長(ほんじょううじゅんさいぜんちょう)
 仮名は弥次郎を称し、実名は繁長を名乗った。謙信没後、暫くしてから俗名に復し、更に越前守を称する。越後国瀬波(岩船)郡の村上城主。嫡男の本庄新六郎顕長は、謙信から山内上杉家に縁の「顕」の一字を賜った。


 色部弥三郎顕長(いろべやさぶろうあきなが)
 幼名は虎黒丸を称した。越後国瀬波(岩船)郡の平林(加護山)城主。病身のため、天正4年2月以前に弟の惣七郎長真に家督を譲った。


 色部惣七郎長真(いろべそうしちろうながざね)
 初めは兄の色部弥三郎顕長から偏諱を授かって長真と名乗った。謙信没後、暫くしてから修理大夫を称する。妻は新発田尾張守忠敦の娘か。越後国瀬波(岩船)郡の平林(加護山)城主。天正4年2月に北陸在陣中の越後衆として見え、これまでに兄から家督を譲られた。同6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、越後衆の一員として従軍する予定であった。


 鮎川孫次郎盛長(あゆかわまごじろうもりなが)
 幼名は市黒丸を称した。越後国瀬波(岩船)郡の大葉沢城主。長期間、越後国瀬波(岩船)郡の猿沢城に蟄居中の本庄雨順斎全長(俗名は繁長)を監視するため、旗本衆の三潴左近大夫(実名は長能と伝わる)と越後国瀬波(岩船)郡の庄厳(笹平)城に在番した。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、陣代が率いる家中が越後衆の一員として従軍する予定であった。


 大川三郎次郎長秀(おおかわさぶろうじろうながひで)
 越後国瀬波(岩船)郡の藤懸(府屋)城主。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、陣代が率いる家中が越後衆の一員として従軍する予定であった。


 加地彦次郎(かぢひこじろう)
 実名は知綱と伝わる。越後国蒲原郡の加地城主。


 加地宗七郎(かぢそうしちろう)
 実名不詳。謙信没後は安芸守を称する。加地彦次郎の弟か。越後国蒲原郡の加地城主。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、越後衆の一員として従軍する予定であった。


 新発田尾張守忠敦(しばたおわりのかみただあつ)
 仮名は源次郎を称した。越後国蒲原郡の新発田城主。天正3年2月までに次代の尾張守長敦に代わっているから、それ以前に死去した可能性があろう。


 新発田尾張守長敦(しばたおわりのかみながあつ)
 仮名は源次郎を称した。中条越前守(房資、次いで景資か)の弟か。天正3年2月以前に新発田尾張守忠敦の名跡を継いだ。妻は中条越前守の一族である築地修理亮(実名は資豊か)の娘と伝わる。年寄衆。謙信(輝虎)から越後国長尾家に縁の一字を賜ったか。越後国蒲原郡の新発田城主。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、越後衆の一員として従軍する予定であった。


 五十公野右衛門尉重家(いじみのえもんのじょうしげいえ)
 初めは新発田右衛門大夫(実名は綱成か)を名乗っていたが、元亀元年10月から天正3年2月までの間に、新発田庶族の五十公野氏に入嗣した。謙信没後は因幡守を称し、更に新発田尾張守長敦の死去に伴い、宗家を継いで新発田因幡守重家を名乗る。越後国蒲原郡の五十公野城主。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、越後衆の一員として従軍する予定であった。


 竹俣三河守慶綱(たけのまたみかわのかみよしつな)
 官途名は太郎左衛門尉を称したか。年寄衆。越後国蒲原郡の竹俣城主。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、越後衆の一員として従軍する予定であった。


 水原能化丸(すいばらあたかまる)
 謙信の末期か死去した直後に弥四郎(実名不詳)を名乗っているが、暫くしてから水原平七郎満家(弟か)に代わっている。水原蔵人丞(実名は実家か)の子か。越後国蒲原郡の水原城主。


 安田新太郎(やすだしんたろう)
 実名は堅親か。謙信没後は治部少輔、更に暫くしてから筑前守を称する。旗本衆・河田豊前守長親の次弟で、中条越前守の遺跡を継いだが、中条家中の反発によって破談すると、改めて安田治部少輔の名跡を継いだ。越後国蒲原郡の安田城主。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、越後衆の一員として従軍する予定であった。


 下条采女正(げじょううねめのしょう)
 実名は忠親か。旗本衆・河田豊前守長親の長弟で、下条氏に入嗣した。越後国蒲原郡の下条城主。


 荒川弥次郎(あらかわやじろう)
 実名不詳。越後国蒲原郡の荒川城主。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、越後衆の一員として従軍する予定であった。


 垂水源次郎(たるみげんじろう)
 すでに官途名は右近丞を称しているか。越後国蒲原郡の垂水城主。



 中郡国衆(阿賀南の外様衆)

 菅名源三(すがなげんぞう)
 実名不詳。越後国蒲原郡の菅名城主。天正6年3月に謙信が挙行する関東大遠征に、越後衆の一員として従軍する予定であった。謙信死去の直後には弟の菅名孫四郎綱輔(のち但馬守)に代わっている。


 村松 某(むらまつ)
 官途名は平右衛門尉(実名不詳)を称したか。上杉輝虎期の村松山城守の後継者。越後国蒲原郡の村松城主か。


 平賀左京亮重資(ひらがさきょうのすけしげすけ)
 仮名は助四郎称したか。越後国蒲原郡の護摩堂城主。


 丸田伊豆守(まるたいずのかみ)
 実名不詳。弟に丸田掃部助俊次がいる。越後国蒲原郡の丸田城主。平賀左京亮重資の同心か。


 新津大膳亮(にいつだいぜんのすけ)
 実名は資相か。謙信没後は丹波守勝資を名乗るか。越後国蒲原郡の新津城主。

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