越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎の略譜 【38】

2012-12-28 23:12:46 | 上杉輝虎(謙信)の略譜

永禄10年(1567)7月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼)【38歳】


朔日、越前国金ヶ崎(敦賀郡)に滞在中の左馬頭足利義秋から御内書が発せられ、速やかに相州北条方と和睦して参洛するように促されるとともに、近いうちに軍事行動を起こしたいとして、兵糧の援助を要請されている。

同日、左馬頭足利義秋から、年寄衆の直江大和守政綱と河田豊前守長親前のそれぞれへ宛てて御内書が発せられ、出張(上洛)の実現のために使僧の智光院(頼慶)を随伴させて、これまで色々と手を尽くしてくれたゆえ、ひたすら感じ入っていること、輝虎の参洛が支障なく実現するために、言葉を尽くして取りまとめるべきこと、「北条かた」(相州北条氏)へも和睦を厳命するので、このたびこそ両家が合意するように、改めて申し付けること、よって、これらを信堅(飯河肥後守信堅)と祐阿(杉原入道祐阿)が詳述することを伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』570号「直江大和守とのへ」宛足利義昭御内書、571号「河田豊前守とのへ」宛足利義昭御内書写【署名はなく、花押のみを据える】)。

同日、左馬頭足利義秋、智光院頼慶へ宛てて御内書が発せられ、近国の諸侯が出勢(上洛)の挙行を言上してきたので、近日中に実施したく、「輝虎かた」に参洛を急き立てるなか、兵糧の援助を頼むことは心苦しいが、よく検討した上で、内々に申し付けること、よって、これらを(杉原)祐阿が詳報することを伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』573号「智光院」宛足利義昭御内書【署名はなく、花押のみを据える】【端見返しウハ書「智光院」】)。

同日、左馬頭足利義秋の随員である聖護院門跡道澄(関白近衛前久の弟)からが発せられ、長らく智光院(頼慶)を随伴させて示した御懇切の数々は、敵味方に高く評価されて諸国に広く知れ渡っており、さぞかし御満足であろうこと、このほど取次の大役(この2月に大覚寺義俊は客死した)を仰せ付けられたので、何事につけ御遠慮なく御存念を表してほしいこと、万事に於いて上杉殿の意見を重視したいとの思いにより、御内書を発せられたこと、もはや三好(三好三人衆)と松永(久秀)の抗争は見境なく激化しており、この機会を逃さず御出勢(上洛)を挙行したいとの御意向なので、調達のままならない兵糧の御進上を望まれていること、兵糧が整えば敵国の奥深くまで進陣されながら、(輝虎の)御参陣を待たれるつもりであり、それによって御本意(将軍家再興)が果たされるのを、最も望まれていること、よって、これらを頼慶(智光院)へ詳報したので、彼の者が詳述することを伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』569号「上杉弾正少弼殿」宛聖護院道澄書状【署名はなく、花押のみを据える】)。

同日、飯河信堅から、直江大和守政綱へ宛てて副状が発せられ、このほど御出張(上洛)の件について、改めて御内書を発せられたこと、このたびの隣国への御出張を、「濃・尾・三河」を初めとする諸侯が参加を約束して献言してきたものの、肝心の「輝虎」が御参洛されないのでは、天下の静謐は成し遂げられないため、(輝虎が)御参洛できる環境を整えられるべきこと、未だに成就しない「相州(北条氏)」との御和平を成立させるように、改めて申し付けられるので、このたびこそ両家が合意するように、手回しに尽力されるべきこと、よって、これらを首尾よくまとめれば、ひとえに御忠節との仰せであることを伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』572号「直江大和守殿」宛飯河「信堅」副状)。

同日、杉原祐阿から、直江大和守政綱・河田豊前守長親・神余隼人佑へ宛てて副状が発せられ、追って申し入れること、近国の諸侯から出勢(上洛)の挙行を勧められたので、(足利義秋は)近いうちに御出勢されること、しかしながら御兵糧以下の調達がままならないため、御進上が可能かどうかのこと、(輝虎に)御参洛を強く仰せ付けられているなか、御兵糧の御進上を仰せ付けられるのは気が引けられるとのころ、とにかく御兵糧の調達に難儀されているので、(輝虎の)御意を得られるように、力の及ぶ限り奔走されるべきこと、よって、これらを智光院(頼慶)に詳報したので、彼の者が詳述することを伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』576号「直江大和守殿・河田豊前守殿・神余隼人正(佑)殿」宛杉原「祐阿」書状写)。



5日、先の下野国佐野領の唐沢山城(安蘇郡佐野荘)における防衛戦で城衆が相州北条軍を撃退した際、戦功を挙げた佐野地衆(鍋山衆)の大蘆雅楽助へ宛てた感状を認め、このたび氏政がその地へ攻め懸かったところ、吾分共が奮励して敵は退散したそうであること、いつもながらであるとはいえ、見事な戦いぶりは類い稀であること、ますます(傍輩と)結束されて駆け回るのが肝心であること、これらを謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』993号「大芦雅楽助殿」宛上杉「輝虎」【花押a3】書状)。



永禄10年(1567)8月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼)【38歳】


7日、交流の途絶えた佐竹次郎義重(常陸国太田城主)・宇都宮弥三郎広綱(下野国宇都宮城主)をはじめとする、かっての味方中との関係改善を図るため、佐竹氏の客将である太田美濃入道道誉(三楽斎。俗名は資正。常陸国片野城に拠る)へ宛てた書状を使僧に託し、其元(常陸国)の現況を把握できてはいないが、このたび使僧をもって申し入れること、佐竹家については、代々重ねてきた友好に基づき、取り分け近年は連帯を深めていたにも係わらず、関東の争乱を煽り立てる徒輩の策動により、むしろ関係はこじれてしまい、無念極まりない状況であること、この機会に相互がわだかまりを捨てて心を合わせ、是非とも陣営の再構成を図りたいこと、幸いにも宮(宇都宮氏)については、(佐竹)義重とは骨肉の御間(宇都宮広綱の妻は義重の妹)であり、今後は両家に下野国佐野から東方一円の統治をゆだね、輝虎は関東の半分を統轄するつもりなので、万事に於いて世評も芳しいであろうこと、本来であれば、こうした内意を直報するべきところ、両家の現況がわからないため、先ずは其方(太田道誉)へ申し伝えたこと、尤も佐(佐竹)・宮(宇都宮)の家中衆にこそ、こうした提案の取り成しを頼むべきところではあるが、遠境ゆえに両家の事情が把握できないため、これも其方(太田)の手引きにより、彼の家中衆の理解を得たいこと、多嶋(羽生か。武蔵国衆の広田・木戸一族をさすか)については、去る頃に氏政(相州北条氏政)が、もはや周辺で従わない者は、彼の一ヶ所のみであるとして、彼の在所に攻めかかったところ、一身に南軍の攻勢を受け止めると、古今無比の奮戦によって大軍を撃退したこと、そして、こうした最中にあっても、ますます忠節を尽くす覚悟を明言し続けていたこと、万が一にも佐・宮の両家が苦境に陥れば、なおさら輝虎が救援に駆け付けること、従って早速にも関東遠征を挙行するべきところ、留守中の防衛態勢を整えるため、信濃国飯山領(水内郡)での地利の構築(飯山城近辺に新城を築いたのか、或いは飯山城に郭を増築して拡張したのか)に忙殺されて果たせなかったが、漸くほぼ完成したので、必ず今月中に出馬すること、上野国沼田領(利根郡沼田荘)と下野国佐野領を結ぶ直通路が存在するとの情報を得たので調査したところ、最小限の拡張工事で兵馬の往来が可能となり、ありがたくも天運に恵まれて喜ばしいこと、倉内(沼田城)に着陣したならば、諸軍が揃うまでの間に道普請を完了させた上で、沼田から佐野へ直行すること、たとえ当秋の出陣で大功を収められなくとも、敵方になびいた国衆を降して勢力図を一変させるのは眼前であり、まして両家の御同心を得られれば、東方の味方中の再編も思い通りであること、佐野の統治については、すでに聞き及んでいると思われるが、先年に佐(佐野小太郎昌綱)が息子の虎房丸を証人として差し出したにも係わらず、彼の者を見捨てて離反を繰り返していたが、輝虎は惻隠の情から、そのつど彼の者の処分を見送っていたこと、これより佐野領の統治を以前のように佐野へ委譲する旨を下知したので、譜代も外様も一致団結しており、日を追うごとに佐野の陣容は整いつつあるため、両家も満足されるであろうこと、よって、これらを彼の使僧が詳述することを伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』579号「太田美濃守殿」宛上杉「輝虎」書状写)。

24日、越府の蔵田五郎左衛門尉へ宛てて返状を発し、行き届いた音問が寄せられたので、喜悦であること、府内・春日(春日山城の城下町)の防火に油断があってはならず、その心懸けが専一であること、(春日山城の)大門・大手門のいずれも(油断が無いように責任者に)しっかりと申し付けるべきこと、要害の普請以下も、これまた絶対に油断があってはならないこと、当口(信濃国川中嶋陣)の様子については、晴信(甲州武田信玄)は塩崎(更級郡)まで出張してくるも、攻勢に出てくる様子もなく、無駄に時日を送っていること、このうえなお、大した事態は起こらないであろうこと、敵の挙動は口ほどにもないこと、安心してほしいこと、詳細を各々(留守衆)にも申し遣わすこと、これらを謹んで申し伝えた。さらに追伸として、門番以下に任務をしっかりと申し付け、(留守将の)新発田尾張守(忠敦。外様衆。越後国蒲原郡の新発田城を本拠とする)の小者が門番を務める際にも、緩怠のないようによくよく言い聞かせるのが適当であること、これらを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』431号「蔵田五郎左衛門尉宛」宛上杉「輝虎」書状【花押d】)。



この間、甲州武田信玄(徳栄軒)は、越後国上杉氏の陣営の動向に注意を払い、7日、信・越国境の信濃国野沢の湯要害(水内郡)に拠る信濃先方衆の市川新六郎信房へ宛てて覚書(朱印状)を発し、一、城内の昼夜の警戒と修繕等を怠ってはならないこと、一、地衆をみだりに入城させてはならないこと、この補足として、往還の人改めについて、一、地衆に対して非分狼藉を働いてはならないこと、一、越国(越後国)の模様について、念入りに情報収集して逐一報告するべきこと、相原庄左衛門尉の替わりとして、天河兵部丞を在府させるべきこと、この補足として、相原が帰着した上で、兵部丞に全ての事柄を相談するべきこと、これらを指示している(『戦国遺文 武田氏編二』1098号「市川新六郎殿」宛武田家朱印状写)。

7日から8日に掛けて、「甲・信・西上野三ヶ国の諸卒」から起請文を徴収し、一、信玄に対して「逆心謀反」を引き起こさないこと、一、長尾輝虎を始めとする敵方に如何なる功利をもって誘引されたとしても同意しないこと、一、三ヶ国の諸卒が悉く逆心を引き起こしたとしても、自分だけは信玄に忠義を尽くすこと、これらを誓約させ、厳しい統制を図っている(『戦国遺文 武田氏編二』1099~1186号〔生島足島神社〕起請文)。


相州北条氏政(左京大夫)は、房州里見領に侵攻するも、23日、上総国三船山(望陀郡富津)の地で房州里見軍に大敗を喫し、岩付太田源五郎氏資(大膳大夫。相州北条氏康の娘婿。武州岩付城主)らを失っている(『戦国遺文 後北条氏編二』1035~1037 ●『千葉県史 資料編 中世5』735号抄 年代記配合抄)。



永禄10年(1567)9月 越後国(山内)上杉輝虎(弾正少弼)【38歳】


18日、信・越国境の越後国祢知城(頸城郡)の城衆である斎藤下野守朝信(譜代衆。越後国刈羽郡の赤田城を本拠とする)・赤見六郎左衛門尉(信濃衆)・小野主計助(旗本衆)へ宛てて書状を発し、(祢知城から)信州口へ目付を差し越し、敵(甲州武田軍の)陣所の陣容を見届けさせ、取り急ぎ注進してくれたので、祝着であること、(その注進の内容は)爰許(輝虎本陣)から遣わした目付が入手した内容と一致していること、関東から寄せられた情報でも、(織田信長が)尾州と濃州を併合し、甲府へ戦陣を催されると、彼の口は激しく動揺しているそうであること、おそらく本当ではないかと考えていること、引き続き目付をしっかりと張り付け、甲・信の様子ならびに越中口の事情について、こまめに注進するのが専一であること、申すまでもないとはいえ、その地の維持管理を徹底するべきこと、これらを謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』474号「斎藤下野守殿・赤見六郎左衛門尉殿・小野主計助殿」宛上杉「輝虎」書状【花押d】)。


こののち帰府した。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 武田氏編 第二巻』(東京堂出版)
◆『千葉県史 資料編 中世5 県外文書2 記録典籍』(千葉県)

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