越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

須藤様へ ー荻原掃部助についてー

2022-08-17 23:59:24 | 雑考

 須藤様

 いつぞやは貴重な家系図の内容を教えて下さり、本当にありがとうございました。荻原掃部助(伊賀守)について気になる伝承を見つけましたので、ここにお知らせ致します。

 すでにご存知でしたら、申し訳ないのですが、〔越国諸士〕(『柏崎市史資料集 古代中世篇(柏崎の古代中世史料)』)によりますと、「荻原伊賀守」は山村若狭守の次男に当たるとのことです。
 伊賀守の父とされている山村若狭守(藤三)は越後国守護代長尾為景の直臣であり、為景が永正16年冬に挙行した北陸遠征に従って高名を挙げ、為景に出兵を求めた尾州家畠山卜山(尚順。尚慶)から翌17年正月に感状を賜りました(『越佐史料 巻三』649~650頁)。この功績によるものなのか、若狭守は為景と能州畠山義総との間の取次を任されています(同前676~677頁)。しかしそれから天文初年までの間に若狭守は戦死してしまったらしく(同前同頁)、嫡男の藤三(右京亮。実名は重信と伝わる)が跡目を継ぎ、天文5年4月10日に越府近郊の頸城郡夷守郷三分一原の地における為景方と上条方の決戦で山村勢は軍功を挙げ、藤三は為景から感状を賜りました(同前830~831頁)。天文17年秋に起こった守護代長尾晴景とその弟である景虎の抗争では、藤三改め右京亮は晴景に味方し(同前887頁)、年末に兄弟抗争が収まって景虎が晴景の跡目を継ぐと、無事に景虎の旗本として仕えることができたようです。それ以降の右京亮の動向は分かりませんが、謙信没後に起こった跡目争いでは右京亮の世子であろう藤三は上杉景虎に味方したようですから(『上越市史 上杉氏文書集』1637号)、謙信が没する以前に山村氏の当主は右京亮から藤三に代替わりしていたことは間違いありません。
 このように山村氏を文書から見ましたところ、世代としては伊賀守が山村若狭守の次男であっても問題はなさそうです。ちなみに三男は、やはり謙信旗本の堀江駿河守(実名は宗親か)と記されております。
 
 〔越国諸士〕という史料の性質上、あくまで伝承に過ぎませんが、上杉輝虎旗本の山村右京亮・荻原伊賀守・堀江駿河守が三兄弟というのは、意表を突かれた記載でありました。また何か見つけましたら、お知らせ致します。

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8 コメント

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荻原掃部介について (須藤)
2022-09-19 08:43:26
こまつ様
 新しい情報ありがとうございます。早速調べさせていただきます。
 最近の記事も興味深く拝見いたしました。吉江忠景は永禄十年五月に掃部助が唐沢山城に派遣された時の同僚、近衛前久は荻原掃部助の改姓任官(萩原伊賀守)に関わっているようですし、千坂対馬守は御子孫(千坂高雅のひ孫で私の同級生)がたまたま萩原家の敷地にかつて住んでいたりとか、歴史の巡り合わせに驚いております。 須藤
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荻原掃部介について2 (須藤)
2022-09-19 09:12:23
こまつ様

 萩原(荻原)掃部助の実名が重親ですので、山村三兄弟の実名である重信(長男)、重親(次男)、宗親(三男)にうまく当てはまりますね。 須藤
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荻原掃部介について3 (須藤)
2022-09-20 18:04:07
こまつ様
 掃部助の跡継ぎは藤三郎重元といい山村藤三に似ています。山村右京亮の先祖は、青木ノ城主山村正信(1329年生まれ)で刀工(山村信國)としても五代続いた家系のようですね。(越佐史料P887-888) 掃部助が「任甲州勝頼公 生害之砌来于
上野国碓氷郡 磯部郷小名田中 而沈淪民家為村長」とのみ記して、上杉謙信に仕えたことを記録に残さなかったのを不思議に思っていました。弟の堀江駿河守宗親が、仕えていた2代目景虎を裏切り景勝に付いたにも拘らず、景勝により鮫尾城を没収され以後消息不明(粛清?)という経歴が影響しているのかもしれないなと感じました。
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荻原掃部助の改姓任官について (こまつ)
2022-09-21 19:41:59
 須藤様、ご返信、ありがとうございます。

 なるほどそうでしたか、系図によりますと、荻原掃部助の萩原伊賀守への改姓任官に近衛前久が関わっているようなのですね。最初にコメントをいただいた時に、荻原から萩原に名字を改めたという箇所が妙に気になっていたのです。

 荻原掃部助は永禄4年以降の文書では萩原伊賀守となっている(『上越市史上杉氏文書集』291・393・561号)わけですが、ご存知の通り、「荻」と「萩」の草書体の区別は難しいものがありまして、謙信旗本の萩原主膳允なども荻原になっているものがあることから(同前1234号)、こうしてお話させてもらうまでは、561号の原本の画像を見たところでは「荻」と「萩」のどちらともとれますし、原本が残っていない291・393号については単なる誤写なのだろうと、あまり深くは考えてこなかったのですが、永禄2年の長尾景虎上洛時における近衛家と荻原掃部助の関わりからしても、十分あり得る話ではないかと、ますます気になってきました。

 今回もまた、千坂氏の御子孫とお知り合いであることや、掃部助の後継者の名前が藤三郎重元であることなど、刺激的なお話を聞かせてもらえました。本当に感謝しても感謝しきれません。また何か見つかりましたら、必ずご報告いたします。
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Unknown (須藤)
2022-09-22 08:58:28
こまつ様
ご連絡先分かれば、家系図冒頭(数年前発見し元々は荻原とと分かるもの)と万年堂の写真をお送りいたしますが。須藤
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お申し出につきまして (こまつ)
2022-09-24 16:18:07
 須藤様、ご連絡が遅くなりまして申し訳ございません。

 本当にありがたいお申し出でありますから、悩みに悩んだのですが、何分、私は専門家でもない、ただの一般人でありますし、一部とはいえ、とても貴重な家系図のお写真を頂いて、もし何か間違いでも起こしましたら、大変なことですので、お気持ちだけありがたく頂戴いたします。

 せっかくのご厚意を無にしてしまい、誠に申し訳ございません。
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Unknown (須藤)
2022-09-24 18:39:10
こまつ様
承知いたしました。
どこかで公開できればと思います。
今後ともご指導願います。
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Unknown (こまつ)
2022-10-26 19:14:40
 やり取りさせてもらっている間中、何かお伝えしなければならないことがあるはずなのに、どうにも思い出せずにいたのですが、ようやく思い出すことができましたので、ここにお伝え致します。

 建武の新政期、陸奥守北畠顕家に対して糠部郡奉行の南部師行が提出した津軽降人交名注文状(『青森県史 通史編1』)に記されている北条氏残党の中に、長尾孫七景継と長尾平三入道に続いて荻原七郎なる人物が見えるのです。この長尾氏の系譜は不明でありますが、長尾名字の孫七が実名に「景」の字を冠していますので、桓武平氏鎌倉氏流であると思われます。これに続く荻原氏は両長尾氏の朋輩であるのかもしれません。この交名注文は、数年前に青森県中泊町博物館さんがSNSで紹介されていた史料となります。

 荻原氏の系図をどこかで公開されるかもしれないとのこと、いつの日か拝見できることを楽しみにしております。
 
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