【史料1】丸山肥後守宛上杉輝虎書状
旧冬下郡参陣、長々苦労痛入候、此等之趣、委細盛康江可申届処、月迫納馬故延引、疎意之至ニ候、向後弥御甚深候之様、才覚任入候、猶玄道斎可有口上候、恐々謹言、
正月廿二日 輝虎(花押)
丸山肥後殿
【史料2】降旗治部大輔宛上杉景勝書状
旧冬下郡参陣、長々苦身(労)痛入候、此等之趣、疾(小笠原)貞慶江可申届処、月廻納馬故延引、併疎意之至ニ候、向後弥甚深候様、才覚任入候、猶(小川)可遊斎可有口上候、恐々謹言、
(天正16年ヵ)
正月廿日 景勝(花押b影)
降旗治部太輔殿
ここに示した二つの文書写は、何れも人名を除いて、ほぼ同文であり、日付も近い。その内容は、越後国上杉氏が信濃の仁科氏と小笠原氏の重臣に対し、旧冬の越後下郡での戦陣に参加してくれたにも係わらず、年末が迫って慌しく帰陣したゆえ、長期に亘る陣労をねぎらうための連絡が遅れてしまった無沙汰を詫びたいことと、今後ますます両家の厚誼を深めたいことについて、当主への取り成しを求めたものである。しかし残念なことに、上杉輝虎(号謙信)の後継者の地位を勝ち取った上杉景勝(長尾顕景)が、輝虎期に景勝の実名を名乗っていた事実は認められず、文書自体が写しであるから、署名を写し間違えた可能性があるにしても、輝虎と景勝が同時期に文書を発給することはあり得ないため、どちらかは偽文書と疑われる。
【史料3】標葉但馬守守宛直江兼続書状
旧冬下郡御参陣、長々御劬労無是非次第候、此等之趣、疾ニ可被申届処、月廻納馬故延引、併疎略之由候、就之、今般被及使者候、可然様御取成任入候、恐々謹言、
追而、竹色一端、進覧之候、以上、
(天正16年ヵ) 直江山城守
正月廿日 兼続(花押a)
標葉但馬守殿
御宿所
この文書は、上杉景勝の重臣・直江兼続が小笠原貞慶の重臣・標葉但馬守に送ったもので、先に示した両文書写と同内容であるばかりか、信州の標葉家に原本が相伝されてきた文書である。更には、上杉輝虎期に於ける仁科氏の動向からみて、どうやら、【史料1】の年次未詳正月22日付丸山肥後守宛上杉輝虎書状(写)は偽文書のようだ。
『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』592号 上杉輝虎書状(写) ◆『上越市史 別編Ⅱ 上杉氏文書集二』3210号 直江兼続書状、3211号 上杉景勝書状(写)
また、「疎略」「疎意」という言葉に否定を入れていない表現もちょっと驚きました。後北条・今川系では修辞的に「(疎意に見えても)疎意ではありません」と使うのがほとんどなので、言い切ってしまうのは新鮮でした。
今後の更なる考察に期待しております。
自分も【史料1】の上杉景勝書状で「月廻」の文言を初めて目にしましたから、いささか戸惑いました。誤植等かとも思いましたが、御覧の通り、【史料3】の直江兼続書状も「月廻」となっていました。若しかしたら、「追」が「廻」と読めるような書きぶりだったのかも知れません。
仰る通り、通常は「無疎意」「不可有疎意」ですよね。上杉系文書でも珍しい用例に当たるような気がします。