越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

上杉謙信期の戦歴 【下】

2016-11-23 15:19:24 | 上杉謙信期の戦歴

 【24】(86) 越後国(山内)上杉謙信、天正2年11月上旬、武蔵国鉢形城を攻め囲み、鉢形領を焼き払う。

 天正2年11月上旬、相州北条軍の攻撃を受ける下総国関宿城(葛飾郡下河辺荘)の救援のために関東へ出馬すると、常陸国衆・佐竹義重(常陸国太田城主)をはじめとする東方衆の参陣を待つ間の軍事行動として、相州北条陣営に属する国衆領を攻めるため、7日に利根川を渡り、まず相州北条氏政の兄弟衆である藤田氏邦が拠る武蔵国鉢形城(男衾郡)を攻め囲むと、鉢形領を焼き払った。


 【25】(87) 越後国(山内)上杉謙信、天正2年11月上旬から同中旬に掛けて、武蔵国忍城を攻め囲み、忍領を焼き払う。

 天正2年11月上旬から同中旬に掛けて、相州北条陣営に属する武蔵国衆の成田氏長が拠る武蔵国忍城(埼西郡)を攻め囲むと、忍領を焼き払った。12日に成田氏長は、家中の小倉図書助が敵兵ひとりを討ち取ったので、その戦功を称えている。


 【26】(88) 越後国(山内)上杉謙信、天正2年11月中旬、武蔵国松山領を焼き払う。

 天正2年11月中旬、相州北条陣営に属する武蔵国衆の上田長則が拠る武蔵国松山城(比企郡)を攻め囲むと、松山領を焼き払った。その後、越後衆だけを率いて下総国関宿城の救援に向かおうとしたところ、関東味方中の深谷上杉氏憲(憲盛の世子。武蔵国深谷城主)から相州北条軍が関宿陣を撤収したとの連絡が寄せられたので利根川を渡り返し、上野国新田領へ進攻した。


 【27】(89) 越後国(山内)上杉謙信、天正2年11月中旬、上野国金山城を攻め囲み、新田領を焼き払う。

 天正2年11月中旬、相州北条陣営に属する上野国衆の由良成繁・由良国繁父子が拠る上野国金山城(新田郡新田荘)を攻め囲んだところ、下総国関宿城の簗田晴助(号道忠)から相州北条軍が撤収した事実はないとの連絡が寄せられる。その一方で、東方衆の佐竹義重から間もなく合流するとの連絡が寄せられたので、下野国小山(都賀郡小山荘)の地で佐竹軍と合流することを決め、まずは金山城攻めを続行し、外周部の田嶋・太田戸張際、淵名・金谷(金井ヵ)・湯ノ入寄居を攻めた。上野国女淵城将の後藤左京亮勝元(旗本衆)の寄子である北爪大学助がそれぞれの地で敵首一つを取る高名を挙げたといい、なかでも、敵兵を追い落とした湯ノ入寄居からの去り際に残党が追撃してきた時、名のある者を討ち取ったという。


 【28】(90) 越後国(山内)上杉謙信、天正2年11月中旬、下野国足利城を攻め囲み、足利領を焼き払う。

 天正2年11月中旬、東方衆の佐竹軍と合流するべく、下野国小山の地へ向けて進軍中、相州北条陣営に属する上野国衆の足利長尾顕長由良成繁の次男で、足利長尾景長の名跡を継いだ)の支城である下野国足利城(足利郡足利荘)を攻め囲むと、足利領を焼き払った。その直後の20日には足利と佐野境の多田木山(只木山)に陣取り、人馬を休めた。この攻城戦において、女淵衆の後藤左京亮勝元(旗本衆)は、謙信の指示に従わず、配下に小旗をたたませたままで東戸張に攻めかかると、寄子の北爪大学助が同僚の樋口主計助親子と協力して敵首一つを取ったところで、配下に小旗を広げさせたという。


 【29】(91) 越後国(山内)上杉謙信、天正2年11月22日、下野国佐野の鯉名沼(越名沼)に陣取り、佐野領を焼き払う。

 天正2年11月22日、相州北条陣営に属する下野国衆の佐野昌綱の領内である鯉名沼(安蘇郡佐野荘)に陣取ると、佐野領を焼き払った。その直後には、下総国関宿城を攻囲中の相州北条軍が構える塀門を備えた陣城から十五里足らずに位置する下野国沼尻(都賀郡)の地へ移陣し、関宿城救援作戦を練るために呼び寄せた関東味方中の小山秀綱(号孝哲。下野国衆)と簗田晴助(号道忠。下総国衆)の参着を待った。24日、あまりに悠長な佐竹義重の許へ萩原主膳允(旗本衆)に、わざわざ山崎専柳斎秀仙(儒者上がりの側近)を添えて派遣し、もはやいつ戦端が開かれてもおかしくない状況であり、この一戦を見過ごすことは、佐竹名字中の沽券に関わるとして、なりふり構わず合流するように求めた。その後、26日までに坂本(小山領か)の地に在陣して佐竹軍の合流を待ったが、一向に合流してくる気配がないので、27日、同陣の条件として謙信との誓詞の交換を求めてきた佐竹義重に対し、佐竹陣に滞在中の萩原主膳允と山崎専柳斎秀仙を通じて説得に努め、誓詞の交換については、時間を無駄にしないためにも同陣した上で、どのようにでも望み通りに誓詞を交換したいと考えていること、すでに長々と使者を往来させてやり取りしており、無事に誓詞を取り交わしたところで、その間に関宿が落城してしまっては、全くの徒労に終わってしまうこと、そもそも敵を前にしながら、いかに謙信が愚かであったとしても、どうして味方同士でありながら、好き好んで揉めたりするわけがないであろうこと、いささかなりとも悪意を抱いてはいないにもかかわらず、義重家中衆が謙信に疑心を抱いているのは、まさに天魔のなせる業としか思えず、このまま関東の諸士が衰亡する前兆であろうか、簗田持助の滅亡への始まりであろうか、ついに敵の計略に乗せられたしまったのは、無念極まりないこと、あまりにも関宿の状況が心配であり、簗田持助が不憫で仕方ないので、明日にも沼尻へ進陣すること、謙信が関東へ出陣してこないため、義重ばかりに負担がかかっているように見えるというのは、どうしたものであろうか、謙信が自分だけのために戦っていると思われるのならば、今後もそのように見えるであろうこと、そうなると謙信は、くみし易い国との対戦を優先し、関東の責務を果たすのは後回しにならざるを得ないこと、このような事態にでもなれば、そうこうしているうちに、簗田父子は言うに及ばず、小山・宇都宮は滅亡してしまい、佐竹は家政を取りさばけず、太田父子などは断罪されてしまうであろうこと、簗田父子の進退を軽く捉えられているようで、ただひたすら口惜しいこと、このように言い募ったが佐竹と謙信が同陣すれば、この実績が今後の敵味方の動向に強く作用するはずであり、これから味方中の戦線を構築するとともに、このたびの戦いで敵を容易に打倒するための秘策を用意していることなどを伝え、とにかく一刻も早く合流するように説得を尽くした。また、荻原と山崎に対し、これらを佐竹(北)義斯・同(東)義久・梶原政景・岡本禅哲・小貫頼安にも言い聞かせるべきことを伝えている。さらには、先年(永禄13年)の佐野陣のように、挙句の果て同陣しないのであれば、早々に交渉を切り上げて帰陣するべきこと、この上は越後衆だけで関宿救援に向かうこと、これだけ理を分けて誓詞を取り交わしたところで、佐竹義重が同陣してこないのであれば、もはや精根が尽きて言葉もないことを伝えた。28日、いよいよ関宿城の状況が窮迫しているため、再び沼尻へ単独で移陣した。


 【30】(92) 越後国(山内)上杉謙信、天正2年11月29日、下野国関宿城を攻め囲んでいる相州北条軍に攻撃を仕掛ける。

 天正2年11月29日、下野国沼尻陣から下総国関宿城を攻囲中の相州北条軍が拠る陣城へ向けて足軽部隊を遣わし、攪乱攻撃を仕掛けさせた。こうしたなか、29日までに下野国三宮(芳賀郡益子)を経て同宇都宮城(河内郡)に着陣した佐竹義重が、近日中に合流することを知らせてきたので、再び佐竹陣へ山崎専柳斎秀仙を派遣して返答し、梶原政景と河合忠兼を陣下へ招き寄せ、その眼前で誓詞に血判を捺すので、一刻も早く対応するように求めるとともに、何度も知らせているように関宿の落城の時は間近に迫っており、当陣は今日も彼の地へ足軽部隊を派遣し、敵の陣城に攪乱攻撃を仕掛けているので、油断なく行動してほしいことを伝えた。しかし、閏11月に入っても佐竹軍は合流しなかったので(佐竹義重は11月上旬から秘かに甲州武田勝頼を通じて相州北条氏政と和睦交渉を重ねていた)、謙信は、年若い佐竹義重が、いつものように言行不一致で利己的な佐竹家中にたぶらかされて、つまりは自分の意向に従うつもりはないものと判断し、佐竹側に関宿の進退を委ねることと、これから謙信独自の戦いに臨むことを通告したところ、佐竹義重が関宿の進退に責任を負うことを受け入れたので、下野国沼尻の地を発して下総国古河領(葛飾郡)・同栗橋領(同前)・上野国館林領(邑楽郡佐貫荘)を押し通り、利根川を渡って武蔵国へ進攻した。


 【31】(93) 越後国(山内)上杉謙信、天正2年閏11月中旬、武蔵国埼西城を攻め囲み、埼西領を焼き払う。

 天正2年閏11月中旬、相州北条陣営に属する武蔵国衆の成田氏長が拠る武蔵国忍城(埼西郡)を再び攻め囲むと、忍領を焼き払った。


 【32】(94) 越後国(山内)上杉謙信、天正2年閏11月中旬、武蔵国菖蒲城を攻め囲み、菖蒲領を焼き払う。

 天正2年閏11月中旬、相州北条陣営に属する武蔵国衆の金田佐々木信濃守が拠る武蔵国菖蒲城(埼玉郡)を攻め囲むと、菖蒲領を焼き払った。


 【33】(95) 越後国(山内)上杉謙信、天正2年閏11月中旬、武蔵国岩付城を攻め囲み、岩付領を焼き払う。

 天正2年閏11月中旬、相州北条陣営に属する武蔵国衆の太田氏が拠る武蔵国岩付城(埼玉郡)を攻め囲むと、岩付領(太田氏資が永禄10年に戦死して以降、相州北条氏政がしばらく管掌している)を焼き払った。


 【34】(96) 越後国(山内)上杉謙信、天正2年閏11月18日、武蔵国羽生城を破却して羽生衆を引き取った際、相州北条陣営の軍勢と戦う。

 天正2年閏11月18日、武蔵国で唯一の味方中である菅原左衛門佐為繁・木戸伊豆守忠朝・同右衛門大夫(実名は重朝か)が拠る羽生城(埼玉郡太田荘)の保持が難しくなってきたことから、城を破却して羽生衆を引き取った際、相州北条陣営の軍勢と戦った。19日に上野国厩橋城まで戻ったのち、ついに相州北条軍と一戦を交えることなく帰国の途に就いた。これより前に相州北条氏政と常陸国衆・佐竹義重の間で和睦が成立し、16日の夕刻前に佐竹軍が帰国の途に就くと、19日に関宿は開城している。この羽生撤収時に、いいの入小屋衆が追撃してきたので、謙信自ら女淵衆の後藤左京亮勝元(旗本衆)の部隊を指揮して撃退したといい、なかでも後藤勝元の寄子である北爪大学助が敵の采配持ちを討ち取ったので、謙信から羽織を拝領したという。


 【35】(97) 越後国(山内)上杉謙信、天正3年5月から同6月に掛けて、越中国の西郡へ出馬し、寺嶋某の反乱を鎮圧する。

 天正3年5月中、越中国で寺嶋某(越中国増山城に拠る神保氏の旧臣)が反乱を起こしたので、越中国の西郡へ急行して鎮圧すると、すぐさま帰国の途に就いた。この4月末に、東海遠征中の甲州武田勝頼加賀国一向一揆に対し、この夏秋に越後国上杉軍が越中国へ侵攻するようであれば、越後国へ向けて出陣するので、越中国一向一揆と共に越中国で再蜂起するように勧めており、寺島某の反乱もこれに関連するものか。


 【36】(98) 越後国(山内)上杉謙信、天正3年7月12日、再び越中国へ出馬すると、神保長国の本拠である増山城を攻め破る。

 天正3年7月に入って、再び越中国へ出馬すると、12日に越中国西郡を支配する神保長国が拠る増山城に押し寄せると、内外の根小屋は言うに及ばず、城山の中腹までの曲輪を打ち壊し、悉く焼き払った。


 【37】(99) 越後国(山内)上杉謙信、天正3年7月13日、越中国一向一揆の安養寺御坊を攻めようとしたところ、神保・越中国一向一揆を救援するために加賀国一向一揆が加賀・越中国境に位置する倶利伽羅山に現れたので、明け方に峠まで攻め登って打ち破る。

 越中国増山城に大打撃を与えたところで矛先を転じ、越中国一向一揆の二大勢力の一方である勝興寺が拠る砺波郡末友の安養寺御坊を攻めようとして、彼の地に進んで陣取ったところ、神保・越中国一向一揆の加勢として加賀国一向一揆が加賀・越中国境に位置する倶利伽羅山(砺波山)に現れたので、まずは加勢衆を迎え撃つため、夜の間に倶利伽羅山へ押し寄せ、13日の明け方に攻め登って追い崩すと、討っても討っても押し寄せる敵兵を山林に数え切れないほども打ち捨て、賀州四番物主の伊藤小三郎・同五番物主の竹橋右衛門尉をはじめとする多数の采配持ちを討ち取った。


 【38】(100) 越後国(山内)上杉謙信、天正3年7月14日から16日の三日間、加賀国へ進んで各所を焼き払う。

 天正3年7月13日に加賀国一向一揆の加勢衆を打ち破ったあと、密かに越中国味方中の拠る要害山に陣取ろうとしたが、山上は手狭であったので、やむなく安養寺向かいの本陣まで戻ったところ、その夜の間に、越中国では蓮沼や甲州武田家から派遣された長延寺師慶が在城中の妙泉の地をはじめとする七ヶ所、加賀国でも三ヶ所ほどの敵地が自落したことから、またもや安養寺を攻めるのを延期し、14日に加賀国へ進むと、各所を焼き払いながら進み、賀州一向一揆の本拠である金沢御堂を尻目に宮越津へと抜け、16日には越中国へと引き返した。


 【39】(101) 越後国(山内)上杉謙信、天正3年7月17日、安養寺御坊を攻め破る。

 天正3年7月17日に今度こそ安養寺御坊を攻めるために陣を寄せたところ、賀州一向一揆が差し向けた小原修理坪坂某を物主とする数千人の加勢衆が倶利伽羅山まで押し登ってきたが、謙信自身はこれには目もくれず、先衆をもって安養寺御坊を強襲し、根小屋と諸曲輪を打ち壊して焼き払い、実城ばかりの裸城にしたうえ、作物を薙ぎ払った。その一方で、倶利伽羅山へは国衆十手ほどの別動隊を遣わし、その別動隊が足軽衆を峠の敵陣へ向けて繰り出すと、加勢衆は一目散に加賀国へ逃げ帰った。


 【40】(102) 越後国(山内)上杉謙信、天正3年7月19日から同24日に掛けて、瑞泉寺御坊を攻め破る。

 天正3年7月19日、勝興寺と並ぶ越中国一向一揆である砺波郡井波の瑞泉寺御坊に攻めかかり、24日までに在々所々を焼き払い、ここも実城ばかりの裸城にすると、周辺の作物を薙ぎ払った。その日に謙信は、上野国沼田城の城衆である河田伯耆守重親たちに対し、こうした北陸での戦況を詳報したうえに、いずれの敵地も焦土と化して、自落した越中国の柿山・蓮沼・石倉(石黒であろう)といった敵地のなかには、この三ヶ所よりもさらに堅固な地も含まれ、倶利伽羅山では敵の実力者を討ち取ったとして、この五・六日のうちに帰馬し、そのまま関東へ向かうつもりであり、越中国西・東郡の人足をもって整備をした早道を行き、速やかに越山するので、安心してほしいこと、関東味方中を安心させるために、当軍が北陸から帰陣する事実を触れ回っておくべきこと、今度は秘密裡に当表を後にする番であることなどを伝えた。このように月末頃には帰陣するつもりでいたが、何らかの事情により、8月中旬あたりまで越中国に在陣している。


 【41】(103) 越後国(山内)上杉謙信、天正3年9月下旬、北陸から関東へ直行し、上野国新田領を焼き払う。

 天正3年8月21日に越後府城の春日山城に帰着すると、そのままの軍勢で関東へ直行した。こうしたなか、9月5日に相州北条陣営に属する上野国衆の由良氏の軍勢により、上野国勢多郡黒川谷における自陣営の寄居二ヶ所が攻撃を受けたので、上野国沼田城将の河田伯耆守重親が同地域へ出撃し、8日に由良氏の支城である上野国五覧田城(由良氏が再興して重臣の藤生紀伊守を配置した)を攻めたところ、五覧田城と周辺の寄居二ヶ所の城衆による連携攻撃を受け、多数の戦死者(由良側は三百余名を討ち取ったとしている)を出して敗れた。11日、上野・越後国境の越後国塩沢(魚沼郡上田荘)の近辺まで進軍してきた謙信は、5日以降、河田重親から連絡がこないことを案ずるなか、先遣軍の本庄清七郎(実名は綱秀か。旗本衆)・河田対馬守吉久(同前)・新保清右衛門尉秀種(同前)・松本衆(幼主の松本鶴松丸に代わって陣代が率いる。旗本衆)と上田衆(謙信の養子である上杉景勝の同名・同心・被官集団)に対し、明日には塩沢の地に至ること、これまでの指示通り沼田城へ急行するべきこと、一騎一丁も人数を欠いてはならないこと、もし、黒川谷へ進陣するような状況になり、それで敵軍が退散するようであれば、越後国浅貝(魚沼郡上田荘)か、上野国猿京(吾妻郡)の地で待機して本軍と合流するべきこと、また、黒川谷へ進軍しても敵軍が退散しなかった場合は、予定通り沼田城へ入るべきことなどを伝えた。9月下旬、相州北条陣営に属する上野国衆の由良成繁父子が拠る上野国金山城を攻め囲むと、新田領を焼き払った。


 【42】(104) 越後国(山内)上杉謙信、天正3年10月15日、上野国仁田山城に対する向城の谷山・皿窪城を攻め落とす。

 天正3年10月13日、上野国沼田城の管区である上野国仁田山城(勢多郡)に対して上野国衆の由良氏が構えた向城の谷山・皿窪城を攻め囲むと、15日までに両城を攻め落とし、男女の区別なく総勢をなで斬りにした。この皿窪城攻略において、謙信の見守るなか、近習衆の多功勘之丞(実名は清綱か)が高名を挙げ、脇差と朽葉色の袷着物を拝領したという。また、攻め口に鉄炮の弾除けの竹束を設置する任務を仰せ付けられた者のうち、女淵衆の後藤左京亮勝元(旗本衆)の寄子である北爪大学助・今井助之丞・同与兵衛尉が任務遂行中に敵方の妨害に合って応戦したが、やはり謙信の見守るなかで、今井両名は戦死し、北爪大学助は敵兵ひとりを討ち取るも瀕死の重傷を負い、謙信の指示を受けた者たちによって救い出されたという。それから、上杉景勝の同名・同心・被官集団である上田衆の鈴木六之助が戦死したという。


 【43】(105) 越後国(山内)上杉謙信、天正3年10月下旬、上野国五覧田城を攻め落とす。

 天正3年10月下旬、上野国衆の由良氏が再興した上野国五覧田城を再び攻め落とした。この攻城戦において、近習衆の多功勘之丞が一日のうちに敵首三つを取る高名を挙げたので、御前に召し出されると、謙信側近の吉江織部佑景資を通じて金子を拝領したという。


 【44】(106) 越後国(山内)上杉謙信、天正4年5月中旬、上野国伊勢崎城下の赤石の地を荒らす。

 旧冬に関東味方中の小山秀綱の本拠地と支城である下野国祇園城(都賀郡小山荘)と榎本城(同中泉荘)が相州北条軍によって攻略されてしまい(小山秀綱は佐竹氏を頼って常陸国那珂西郡の古内に移った)、東方衆が榎本城を奪還するも、相州北条氏政の兄弟衆である北条氏照(武蔵国滝山城主)が祇園城へ入って榎本城を圧迫したことから、彼の要害を守る太田道誉・梶原政景父子からの救援要請と、相州北条家が上野国衆の由良氏の支城である上野国伊勢崎城(佐位郡)を増強していることへの対応を求められたことに加え、天正4年2月上旬に由良軍の攻撃を受けて上野国善城が多大な損害(由良側は百余名を討ち取ったとしている)を被った報復のため、5月に入って関東へ出陣すると、上野国伊勢崎城下の赤石の地を蹂躙し、田畑を深々と掘り返した。


 【45】(107) 越後国(山内)上杉謙信、天正4年5月中旬、上野国金山城下の新田領を荒らす。

 天正4年5月中旬、上野国衆の由良成繁父子の上野国新田領を蹂躙し、田畑を深々と掘り返した。


 【46】(108) 越後国(山内)上杉謙信、天正4年5月中旬、下野国足利城下の足利領を荒らす。

 天正4年5月中旬、相州北条陣営に属する下野国衆の長尾顕長由良成繁の次男)の下野国足利城下の足利領を蹂躙し、田畑を深々と掘り返した。その後、足利と新田の間に位置する新田荘の金井宿に陣取ると、渡良瀬川から新田と足利を流れる用水路を断ち切った。赤石・新田・足利、いずれの領内の給人と地下人は田畑を失ったので、妻子を引き連れて利根川以南へ逃げ去っていった。


 【47】(109) 越後国(山内)上杉謙信、天正4年5月晦日、上野国桐生城下の桐生領を荒らす。

 天正4年5月晦日、上野国衆の由良氏の支城である上野国桐生城下の広沢(山田郡)の地にすると、桐生領を蹂躙した。同日、越後府城の春日山城に留守居する直江大和守景綱に対し、上方の状況が気になっていたところ、またしても大坂(摂津国本願寺)が勝利し、織田信長が敗北したと聞いて、実に爽快で満足しており、何と言っても、この春に加賀一向一揆との一和がまとまっているわけで、名実を得られたこと、今次の関東遠征における赤石・新田・足利での成果は、数年に亘る関東遠征のなかでも、これほどまでに敵方を追い詰めたことはないとして、諸将が沸き立ち、取り分け北条丹後守父子(北条安芸守高広・同丹後守景広父子)が喜んでおり、今日も桐生を蹂躙し、田畑を深々と掘り返したこと、この6・7月には北陸へ出陣しなければならないので、近日中に帰国の途に就くこと、甲・南の凶徒とは一騎一人たりとも出くわさなかったので、安心してほしいこと、東方衆も類を見ないほどに後援してくれたので、これまた安心してほしいこと、昨日は新田衆が追いすがってくるも、厩橋衆が迎え撃って二十余の敵兵を討ち取ったこと、言い表しようがないほど新田衆は戦技に劣り、間違いなく烏合の衆なので、厩橋衆ばかりで軽くあしらえたこと、こうしたところから、新田衆が無力であると見立てたことなどを伝えた。


 【48】(110) 越後国(山内)上杉謙信、天正4年8月中、越中国増山城に拠る神保長国の支城である栂尾城を攻め落とす。

 備後国鞆の浦に寓居する将軍足利義昭の呼び掛けにより、天正4年春に成立した芸州毛利家と摂州大坂本願寺との軍事連合の盟約に従って天下人の織田信長と戦うため、まずは北陸平定を目指し、同年8月中に越中国へ出陣すると、越中国増山城に拠る神保長国(初名は長城。のちの長住らしい)の支城である越中国栂尾城(飛騨・越中国境の新川郡猿倉山の猿倉城か、同じく船倉の船倉城と考えられているが、砺波郡の増山城近くに位置する要害の可能性もあるか)を攻め落とした。


 【49】(111) 越後国(山内)上杉謙信、天正4年8月中、越中国西郡を支配していた神保長国の拠る越中国増山城を攻め落とす。

 天正4年8月中、越中国西郡を支配していた神保長国の本拠である越中国増山城を攻め落とした。神保長国織田信長の許へ逃れる。その後、飛騨口の二ヶ所に城郭を築き、城衆を配備して統治体制を整えると、9月9日には越中国の西郡奥部へ進攻した。この攻城戦において、越後国上杉軍が二の丸まで攻め上った際、近習衆の多功勘之丞が鑓先の高名を挙げ、謙信から盃を賜ったという。


 【50】(112) 越後国(山内)上杉謙信、天正4年9月中、越中国湯山城を攻め落とす。

 天正4年9月中、越中国の西郡奥部に位置する湯山城(射水郡氷見)を攻め落とした。これにより、越中国の全土を平定した。


 【51】(113) 越後国(山内)上杉謙信、天正4年11月から同12月に掛けて、能登国を席巻する。

 天正4年11月中、越中国の西郡奥部の支配体制を整えたのち、能登国へ進攻すると、能州畠山家の本拠である能登国七尾城(鹿島郡)を除いた要地を制圧して守将を配備した。この間、七尾城の向城として石動山城を築いた。


 【52】(114) 越後国(山内)上杉謙信、天正4年12月28日、能登国七尾城下の大寧寺口で戦う。

 天正4年12月28日、能州畠山家年寄衆(これ以前に当主の畠山義慶は病死したとも暗殺されたとも伝わり、その跡に担ぎ出された弟の義隆も病死したとも暗殺されたとも伝わる。また、両人は同一人ともいわれる)が拠る能登国鹿島郡の七尾城下の大寧寺で能州畠山軍と戦った。その後、七尾城の向城である石動山城に旗本衆の直江大和守景綱・山吉米房丸・吉江喜四郎資賢・河田対馬守吉久・船見衆(当主に代わって陣代が率いる)を籠めると、自身は越中国で越年する。この大寧寺口の戦いにおいて、近習衆の多功勘之丞が高名を挙げたので、謙信側近の吉江織部佑景資を通じて小袖を拝領したという。


 【53】(115) 越後国(山内)上杉謙信、天正5年春、能登国七尾城下で戦う。

 天正5年春、奥能登衆が七尾城に入城するとの情報を得たので、「ミかさ」の鳥井小屋に草の者を主体とする軍勢を配置し、待ち伏せ攻撃をさせた。この戦いにおいて、近習衆の多功勘之丞が草の者に交じって多数の敵兵を討ち取る高名を挙げ、謙信から盃を賜ったという。


 【54】(116) 越後国(山内)上杉謙信、天正5年8月上旬、能登国末守城を攻め囲む。

 天正5年閏7月上旬、織田軍と戦うにあたり、越中国に続いて能登国の平定を目指して、織田陣営に属する能州畠山家の能登国七尾城を攻めるために出陣し、閏7月8日に越中国魚津城(新川郡)に着陣して軍勢を整えていたところ、織田信長が北陸へ出陣してくるとの情報を聞き、ついに待望していた信長との対戦が実現することを喜び、類まれな決着をつける覚悟で臨む。一方、織田信長は、同10日、北陸を管掌させている柴田勝家(越前国北ノ庄城代)の与力である前田利家に対し、来月8日に加賀国へ向けて進発することを伝え、同23日には、羽州米沢の伊達輝宗に対し、越後国上杉家の外様衆である本庄全長(雨順斎。俗名は繁長。永禄末年に反乱を起こして降伏して以来、越後国猿沢城に蟄居させられている)と協力して越後国へ進攻するように求めている(実際に信長が本庄と連絡が取れていたのかは分からない)。8月に入り、加賀・能登国境に位置する能登国末守城(羽咋郡)を攻め囲んだ。こうしたなか、8月8日に織田家の宿老衆である柴田勝家が率いる織田軍瀧川一益・羽柴秀吉・惟住(丹羽)長秀・武藤舜秀・斎藤利治・氏家直通・伊賀(安藤)守就・稲葉良通(号一鉄)・不破光治・前田利家・佐々成政・原政茂・金森長近・若狭衆で構成された)が加賀国へ侵攻し、小松・本折・安宅・富樫の各所を焼き払ったので、尾山御堂の七里頼周から出馬要請を受けると、織田信長が加賀国へ侵攻してくるようであれば、何度も伝えているように、北国の防衛といい、大坂(本願寺)への覚えといい、決して見放したりはしないこと、急報が寄せられ次第、末守城の攻略を後回しにしてでも攻め上るので、それまでは、加賀国御幸塚城(能美郡)の普請は万全なのだから、国衆・同心が奮起して堅持するべきこと、御幸塚城を敵に明け渡すような不甲斐ない真似をしてはならず、謙信が着陣するまでの間、防備に油断があってはならないことなどを伝えた。一方、能州畠山軍と合流するために末守城を目指している織田軍は、能登への通路が難所ばかりなので、行軍に適した浜手を進もうとしたが、石川郡の宮越までは不通であったことから、同郡の松任の城際を通って山手の通路を進むほかなく、まずは松任城を奪取したところ、松任近辺もかなりの難路で見通しが悪く、そればかりか、末守城からの連絡によると、七手組を頭とする三千ほどの越後国上杉軍と一揆勢が加賀・能登国境の加賀国高松城(河北郡)に配備されてしまい、また、能登国の全百姓が上杉方となり、七尾と末守の間が不通であるために七尾からの飛脚が行き来できず、情報不足が著しいことから、松任城での滞陣を余儀なくされた。それでも9月10日には、翌日に宮越川(犀川)辺りまで進出して支配域を伸ばすことを決めたが、昨日の降雨によって川が増水していたので、更に一両日の滞陣を余儀なくされている。


 【55】(117) 越後国(山内)上杉謙信、天正5年9月15日、能登国七尾城を攻め落とす。

 天正5年9月11日、数千の能州畠山軍が越前(能登か)・加賀国境へ赴いて、織田軍を招き寄せたので、加賀国高松城へ進出させていた七手組で構成された三千ほどの越後衆と越中衆に加賀一向一揆を加えた軍勢を差し向けると、その軍勢が敵軍(能州畠山軍織田・畠山方の加賀衆)を打ち破った(大坂本願寺の内衆・下間頼廉は上杉方が八百ばかりの敵兵を討ち取ったとしている)。そして謙信自身は、末守城の攻略を後回しにすると、「馬廻・越中手飼之者」を率いて七尾城を朝から晩まで激しく攻め立てた。同15日、遊佐続光が年来の奏者の交誼をもって内通し、自分の曲輪に越後衆を引入れたので、そこから更に自ら軍勢を率いて実城へ攻め込み、首魁の長続連・同綱連・同連常・同連盛・杉山則直一類一族を初めとして百余名を討ち取ると、若年で実権を有していなかった当主の畠山次郎(実名は義春か)とその母(三条氏)を保護し、温井景隆・三宅長盛・同藤王丸父子・平堯知ら、長一族以外の年寄衆については助命した。その日のうちに要害の応急補修を済ませ、実城に「手飼之者」を配備すると、再び末守城の攻略に向かった。


 【56】(118) 越後国(山内)上杉謙信、天正5年9月17日、能登国末守城を攻め落とす。

 天正5年9月17日、能登国末守城(羽咋郡)を攻め落とすと、一家衆の山浦源五国清と譜代衆の斎藤下野守朝信を守将として配備した。


 【55】(119) 越後国(山内)上杉謙信、天正5年9月23日、織田軍を加賀国湊川(手取川)流域で打ち破る。

 天正5年9月18日、未だ能登国が一変したことを知らない織田軍(謙信は信長も出張っていると認識していた)の加賀国松任陣を目掛け、先鋭の越後・越中・能登衆の諸勢を繰り出し、後から旗本も続いたところ、織田軍は謙信の着陣を知ってか、同23日の夜中に後退し始めた。これに乗じて織田軍を追い崩し、数多くの敵兵を討ち取り(謙信は千余人と言っている)、それ以外の敗残兵を湊川(手取川)へ追い落とすと、折からの増水で人馬は押し流された。翌24日、湊川以西の地で態勢を立て直した織田軍が再戦を挑む様子を見せているようだと知り、最前線の城砦で敵軍の動きを注視させている旗本衆の河田窓隣軒喜楽と岩船藤左衛門尉(実名は忠秀か)に対し、敵との一戦は、これをこそ願うものであるとして、しっかりと敵に実否を確認し、敵にその気があるならば日取りの交渉をするべきことと、敵がその地へ攻めかけてきたとしても、決して取り合ってはならず、対策は講じているので、勝利は眼前であることを伝えた。結局、織田軍と一戦するには至らなかった。

※ この間に、謙信は加賀国松任城(城主の鏑木頼信は加賀国一向一揆の旗本衆。織田軍に攻められると転身したらしい)を攻め落としているかもしれない。この攻城戦において、近習衆の多功勘之丞が大手の堀際で高名を挙げた際、鑓で膝を貫かれたが、何とか無事に後退すると、謙信から鰺坂備中守長実(越中西郡代官)を通じて酒と薬を賜ったという。


 【55】(117) 越後国(山内)上杉謙信、天正5年9月25日、能登国松波城を攻め落とす。

 天正5年9月25日、ついに織田軍は一戦に応じなかったので、能登国七尾城へ戻ったところ、奥能登で畠山遺臣の松波義親(かつての能登守護畠山義続(号悳佑)の次男と伝わる)が反抗したので、能登国へ取って返し、松波城(珠洲郡)を攻め落とした。松波義親は自害したという。吉日の26日、再び七尾に登城して要害の普請を指図した。同29日には、北陸経略の様子を案じて連絡を寄越してきた関東代官の北条安芸守高広・同丹後守景広父子に返書を送り、今般の北陸経略では全て思い通りの成果を挙げられたこと、今後に迎えるであろう織田信長との天下を掛けた決戦への手応えを得られたこと、このたびの北陸経略で獲得した能登国七尾城は、加賀・能登・越中三国の要の地形であり、要害は山と海とが調和し、海面と島々の様相は絵像に写し難いほどの景勝であること、同じく獲得した越中・能登両国の城々は名地ばかりであり、これらに「手飼之者」を配備したので、敵味方の覚えもめでたく、老後の面目を施したこと、どれもが吾分父子にも見せたいほどであること、七尾城は要害としての機能も見事に備わっており、普請の手間は掛からないので、やがて帰府したのち、来る関東計略について相談したいことなどを伝えた。それから暫く北陸に在陣して新領の統治を施したのち、11月22日に帰府した。12月23日には、来春予定の関東大遠征に動員する分国中の侍衆を名簿にまとめた。

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4 コメント

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初めまして。 (出川)
2017-01-16 07:46:07
初めまして。
出川と申します。
このサイトをいつも興味深く読ませていただいてます。
ありがとうございます。

手取川の合戦後の24日の記述なのですが、上越市史1452の書状かと思います。
市史では年次不詳になってますが手取川の直後の書状の可能性が高いのでしょうか?
返信する
『上越市史』1452号文書の年次比定について (こまつ)
2017-01-18 18:57:59
 いつも読んで下さいまして、本当にありがとうございます。それから、返信が遅くなりまして、誠に申し訳ありません。

 早速ですが、年次未詳9月24日付河田窓隣軒喜楽・岩船藤左衛門尉宛上杉謙信書状写の年次比定について、ご説明させてもらいます。

 まず、謙信の署名がありますので、上杉輝虎が謙信と号するようになる元亀元年から、謙信が死去する天正6年の間に発給された書状と比定できます。そして、元亀以降、北陸で活動している長尾小四郎景直の名が見えますので、謙信と河田・岩船の所在地は北陸と特定できます。

 ここから絞り込んでいきますと、謙信は、元亀元年・翌2年の秋は関東遠征の準備中で越後在国、天正3年9月は関東在陣中ですから、真っ先に除外できそうです。続きまして、元亀3年は8月から謙信自身が越中国富山城の敵と対峙しており、最前線の城砦に河田・岩船を配備している様子は窺えないので(向城は翌年の春に構築された)、これも除外できそうです。天正元年は攻略した越中国滝山城を9月23日に破却し、「此表存分之儘ニ申付候」と表明しており、これで作戦行動は終了したようなので、これもまた除外できそうです。同2年は8月中に越中国か加賀国の「あさひ」要害を攻撃したのち、9月下旬には越中国の諸士に知行を宛行うなど、新領の統治にあたっており、すでに作戦行動は終了したようなので、前年同様に除外できそうです。天正4年は9月上旬から中旬にかけて越中西郡の湯山城を攻略して越中全土を平定すると、冬に能登国へ攻め入るまでの間、新領の統治にあたっていたようですから、やはり除外できそうです。そして、残るは天正5年になります。

 すみません、一旦ここで中断させてもらいます。
返信する
『上越市史』1452号文書の年次比定について(続) (こまつ)
2017-01-19 13:21:05
 失礼しました。続きになります。

 天正5年は9月23日の夜中に行われた謙信による加賀国手取川の戦いは、これまでに挙行された晩秋の北陸遠征のような謙信自身が敵城を攻め囲んだ攻城戦とは異なり、上杉軍が後退する織田軍を追撃した野戦でありました。この追撃戦後の25日に上杉軍の本隊は能登国松波城を攻略したようですから(これがなかったとしても、26日には能登国七尾城にいた)、謙信はすぐさま加賀国の松任地域から後退したはずです(元々かなり後方にいたのかもしれません)。このように謙信は敵軍との距離がある場所から、まだ戦う素振りを見せている敵軍の様子を注視していたことになりますから、最前線の陣城に拠って敵軍と対峙することに長けた岩船が登場するに相応しい状況ではないかと思われます(岩船は永禄7年の信濃国川中嶋陣でも同じような状況で敵軍と対峙していました)、さらには、閏7月8日付河上合内定次宛上杉謙信書状写や9月29日付北条安芸守高広・同丹後守景広宛上杉謙信書状写からは、いかに謙信が織田軍との一戦を待望していたかが伝わり、敵軍との一戦を「これをこそ願事ニ候」という漲る思いは、当時の謙信の意気に最も相応しいものではないかと思われますので、1452号文書の年次は天正5年である可能性が最も高そうです。

 以上、このように考えて年次を比定した次第であります。

 時間がかかりまして、本当に申し訳ありませんでした。
返信する
お礼 (出川)
2017-01-19 20:42:28
詳細に説明していただきありがとうございました。
とても分かりやすかったです。
数少ない織田上杉の直接対峙に関わる史料を知ることができ感激しております。
重ねてお礼申し上げます。
返信する

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