越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

上田長尾家の御曹司・長尾時宗の境遇と行方について(後)

2018-01-31 19:36:40 | 雑考

 長尾時宗といえば、『上杉家御年譜』の本編や別編の長尾・上杉氏系図などに、越後国上杉景勝(長尾喜平次顕景)の兄として記されている長尾右京亮義景の後身ではないかという考えがある。一時は時宗が上田長尾政景の後継者のような立場にあったことからすれば、上杉景勝との続柄に異論はないが、その実名と官途名には疑問を感じる。越後国上杉輝虎(謙信)ですら、将軍足利義輝から偏諱を拝領したのは、足利家の通字である「義」の字ではなく、下に付された「輝」の字であり、義景というような、長尾一族の通字である「景」の字に「義」の字を冠した実名を名乗れるとしたら、それはもう上杉輝虎の後継者のような、将軍から偏諱を頂戴する立場の人物ではあるまいか。また、輝虎期から上杉景勝期にかけての長尾右京亮といえば、古志長尾氏であり、輝虎にとって別格の縁者であった長尾右京亮景信とその名跡を継いだと思われる長尾右京亮(長尾景信の次男か)がそれにあたる。天正8年に越後国上杉景勝が上田衆の重鎮である栗林治部少輔(実名は政頼か)を越後国荒砥城に在城させるのに伴い、魚沼郡上田荘一村内の料所と同村内の「長尾右京亮分」の地を宛行っており(『上越市史 別編』2135号)、確かに上田長尾氏関連の文書に長尾右京亮が現れる。しかし、かつて越後国長尾景虎と上田長尾政景が争った際、勝利した長尾景虎は上田長尾氏の所領を削減しているので、永禄5年に没収地は長尾政景に返還されたとはいえ、その全てが返還されたのかは分からず、輝虎に近しい古志長尾氏が上田荘内に所領を保持していた可能性もあり、上杉景勝期に上田荘一村内の地を召し上げられた「長尾右京亮」が上田長尾氏とは限らないのである。謙信晩年に越後国直峰城の城衆の一員であったらしい長尾右京亮(景信は元亀元年に亡くなったようである)は、御館の乱が起こると、上杉景勝を支持したが、その翌年中に所見されなくなり、何らかの理由によって没落し、その所領が闕所地となったと思われるから、やはり「長尾右京亮」は古志長尾氏であろう。何と言っても長尾右京亮義景という名前は、今のところ、明らかに繋がりが混乱している系図や軍記(長尾政景の名を義景としていたりする)だけでしか確認されていないのであり、こうした後世の編纂物は、とかく文書に現れる人物たちを脈絡なく登場させてしまう傾向があるので、素直には受け入れられない。それでは、長尾時宗とは何者なのか、これからその可能性がある人物を示していきたい。

◆ 古志長尾景信の長男であろう上杉十郎(実名は景満・信虎などと定まらない)は、謙信一家のうち、養子の三郎景虎と弾正少弼景勝のほかでは唯一、上杉苗字で呼称された人物である。越後守護上杉家の有力一族であった空席の上条上杉十郎家を継いだと考えられているが、もはや上条苗字で呼称されることはなく、上杉苗字のみで呼称されており、関東管領山内・越後国上杉家と越後国長尾家を統合した新たな上杉家の当主である謙信が創設した一家と言えるだろう。
◆ 永正年間に越後守護上杉家のために何らかの協力をした陸奥国衆の山内重俊に対し、その見返りとして、古志長尾氏を通じて越後国内で宛行われた二ヶ所うちの一ヶ所が魚沼郡上田荘の舞子村であり、関東管領山内上杉氏の家領の代官筋であった上田長尾氏が上田荘の全てを管掌・領有しているわけではなかったので、越後国長尾景虎による上田長尾氏の領地削減とはかかわりなく、もともと古志長尾氏が上田荘内で土地を保有していたのかもしれないし、各長尾氏の所領は各郡に錯綜していたのかもしれない。


【史料1】泉沢久秀宛上村尚秀書状
七郎殿御越山之義、無心元被思召、態御飛脚、今日十七酉刻到来候、雖然、 七郎殿様、十五未之刻当庄関之郷迄被成御出候、拙者事、十三日早朝より所々方々無油断触申付候得共、諸人菟々角々申否事侘事申候へ共、さま/\理申付候、翌日十六、関御立候、伊勢守殿・次郎左衛門尉同事候、馬場衆、千石・五郎丸・坪池・舞子・富実・関衆、此御供申候、いか澤罷越候へハ楠川方・桐澤・内田、其外罷立候、同日候、今日十七泉田・広瀬衆罷立候、石田定倉内御着、十八日五より内と存候、御着之上、御飛脚可被進候、為其出家一人為御供申候、万事爰元不好事候へ共、急速之御事無調候、我々申所さらめしあけす候、定御人数一度調不申候間、 七郎殿さま可有御申候、明日十七八、又村々為見可申候、取分泉田忍着いたし候、又此御飛脚山中迄透可申候へ共、とても倉内可為御着候間、自此返申候、御書中これより沼田あけ可申候、 一、御局之事被仰越候、尤浅間令承、何分ニも相調、御様可申候、弥八被差越候、昨日十六、極晩致帰宅承之候、夜中小次郎方罷越、其分申きかせ候処、菟角畏入之由申事候、子細之段彼者直可申上候、御衆等其外調之上、態可申上候、 一、中屋御用之事、浅間承合候へハ、尤可然之由申候、何方成共、人之不存様預置可申候、去又、御料所御預なと候ハヽ、何方と被思召候哉、千石之義、以前 御意候つる、同当御皆納計内蔵助可申付候歟、第一地下悉無力之間、せめて彼ものを見かけ中ニも可致催促候、乍去、其堅 御諚候、めしはなし可申候、来春中藤右衛門尉可被仰付候、 一、上河所々軍入部之事、四十人計て中々以外あたけかんはく不及是非候、らんはうのやう御座候、皆々中使・百姓くたし置候、昨今大崎ねまり申候、其上雑事立不申かけ取申候、さて此上可為如何候、たとへ少々御酒代なとても被仰理、可然御座候歟、只今之処、何事も御六ヶ敷可有之候、若左様ニも被思召候、卒度中屋なとを被召寄、御入魂可然奉存候、但、此もおんつ申上候、浅間同意候、返々、只今之様、菟物事御六ヶ敷御座候へく候、自幾御工夫之上、御諚奉待候、此由御披露所仰候、恐々謹言、
               彦右衛門尉
    九月十八日          尚秀(花押)
    又五郎殿


【史料2】長尾政景宛長尾景虎書状
就信州之儀、度々如令啓、至于今度更無拠子細候間、非可致見除候、乍去、出陳日限等之事、旁可申談分候処、(長尾)景虎出馬遅々候、高刑(高梨刑部大輔政頼)飯山之地可打明由、頻被申越候、さ様有之者、弥失覚義候条、明日廿四可罷立候、毎度如申宣、雖可為御大義候、早速御着陣簡要候、恐々謹言、
  猶々、於様躰、従藤七郎方(大井田国景ママ)可被申入候、
            弾正少弼
    三月廿三日      景虎(花押c)
    越前守殿


【史料3】長尾伊勢守・栗林次郎左衛門尉宛上杉輝虎書状
只今酉刻、従北条丹後守(高広)所如注進者、(武田)晴信至于安中口重出張由候、依之、其地人数之義、何相触、重一左右次第可相動用意、不可有油断候、少無手延擬簡要候、穴賢、
  彼書中認候内、重急申来候間、両度之陣労労兵、雖察之候、手寄之義候間、太井田藤七郎同心候、倉内以夜継日相移、豊前守(河田長親)差置候同意可相稼事、簡要候、近日直可出馬候間、先吾分共早々可相急候、以上、
  五月廿二日      輝虎
    栗林次郎左衛門尉とのへ
    長尾伊勢守殿


【史料4】長尾伊勢守・大井田藤七郎・栗林次郎左衛門尉宛上杉輝虎書状
従倉内重如注進、凶徒出張之義、未見届候由候条、各人数之義及其触、無油断令用意、事実敵打出候、倉内可相移候、只今越山之義、先以無用候、為其申遣候、謹言、
    五月廿五日      輝虎
      大井田藤七郎殿
      栗林次郎左衛門尉とのへ
      長尾伊勢守殿


【史料5】大井田藤七郎・長尾伊勢守・栗林次郎左衛門尉宛上杉輝虎書状
態申遣候、仍倉内河田豊前守可同心由、以前申付候、雖然、其地人衆之義間近候条、豊前守義可遅延候間、先前一刻片時早速倉内可相移候、人数悉打振可召連候、火急之子細候間、少有油断者不可有其曲候、謹言、
    七月十九日戌刻    輝虎(花押e2)
       長尾伊勢守殿
       栗林次郎左衛門尉とのへ
       大井田藤七郎殿


【史料6】上杉景勝書状
島倉孫左衛門尉(泰明)不慮之仕合、無是非候、然間、魚津之備可為究(窮)屈候、巨細不能申候、孫右衛門尉扶助之者不散之様加意、尤候、為其弟候大井田藤三差越候得共、若輩之儀候間、別引廻、堅固之仕置肝要候、油断不(可脱ヵ)有候、謹言、
  猶々、自爰元差越候得共、何其地計被差置由候、魚津の地備大切候間、引分彼地被置  可然候、乍幾度、来春出馬之内堅固之仕置専用候、以上、
    極月十八日      景勝
  〇宛所欠


 【史料1】の書状は、上田長尾家の重臣である上村藤右衛門尉尚秀が同僚の泉沢又五郎久秀に宛てたものであり、『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』は天正6年に仮定し、書中に現れる「七郎殿様」を大井田国景(ママ)に比定しているが、大貫茂紀氏は『越後国上田衆栗林氏と上杉氏権力』のなかで、上田長尾政景が横死した永禄7年から、幼主の長尾顕景を支えていた大井田藤七郎(実名は景国か)・長尾伊勢守(同じく景貞か)・栗林次郎左衛門尉(同じく房頼か)のうち、上田長尾一族の大井田藤七郎と長尾伊勢守が他方へ転出し、年寄の栗林次郎左衛門尉が単独で幼主の陣代を務めるようになった同10年の間に発給された書状であろうことと、越後国上杉輝虎の指示を受け、上田衆を率いて上野国沼田城へ増援に向かった「七郎殿様」を、通説の通り、長尾政景の弟と伝わる大井田藤七郎に比定されたうえで、この「七郎殿様」こと大井田藤七郎に対しては、闕字が用いられているため、上村尚秀のような上田衆の幹部から尊称されるべき身分であろうことを述べられている。これらは、【史料2】の書状において、越後国長尾景虎が上田長尾政景へ宛てた書状に「藤七郎方」と敬称が付されていることと、【史料3~5】の書状群の通り、時期は異なるが、実際に藤七郎は永禄9年に上杉輝虎から、長尾伊勢守・栗林次郎左衛門尉と共に上田衆を率いて沼田城への増援として赴くように指示されていることによっても裏付けられる。この藤七郎は、書中で「七郎」と略して書かれているわけだが、これ自体が敬意の表れであろうから、やはり長尾政景の弟と伝わる「伊勢守殿」の敬称が「殿」と書かれているのに対し、藤七郎のそれが「殿様」と書かれているのは、政景の実弟であることは勿論、名族である新田里見氏流の大井田氏を継いだことが影響していると考えられるため、藤七郎は上田長尾家中において、各別な存在であったのだろう。

 上田長尾家の重要人物であった大井田藤七郎は、出羽国米沢の上杉家でまとめられた『先祖由緒帳』の大井田権右衛門(延政)由緒によると、男の実子がいなかったので、二人いた娘のそれぞれに「長尾喜四郎」と「嶋倉平右衛門(謙信旗本の嶋倉泰明の弟。実名は俊継か)」を婿に迎えたという。『文禄三年定納員数目録』と各種の系図では大井田藤七郎の子は喜七郎(実名は景頼・基政などと定まらない)と記されており、これは藤七郎に通ずる喜七郎の方が相応しく、喜四郎は音が似ているゆえの誤記であろう。一方の平右衛門については、【史料6】の書状の通り、「大井田藤三」は嶋倉孫左衛門尉泰明の弟であるから、平右衛門の前身と考えて間違いなく、その仮名の藤三は、これも藤七郎に通じている。この藤七郎と両婿養子との縁組は、謙信と嶋倉兄弟の関係性から考えて、謙信期になされたはずである。そして、由緒では喜七郎に敬称が付されるのに対し、平右衛門には付されていないのは、長尾一族と旗本という両者の出自の違いからであろう。それにつけても、名門の一流を継いだ喜七郎ではあるが、表立った活動は見られず、その境遇は謎めいている。

 やはり『先祖由緒帳』の清水七左衛門由緒や各種の系図によると、喜七郎は深刻な乱気(精神障害)に陥ってしまったらしい。そこで上杉景勝は、その身柄を信頼できる誰人かに預けることにしたが、喜七郎には適当な親族がいなかったので、自身の譜代家臣に預け先を探し求めると、喜七郎に二十人扶持を与えたうえで、上田五十騎中の重鎮である清水内蔵助に預けたといい(清水が越後国新発田城代を仰せ付けられた時期とある)、ここから喜七郎は清水家で越後・会津・米沢時代を通じて36年間を過ごし、寛永9年正月26日に88歳で没したという。『上杉家御年譜』別編の系図によると、法名は来翁宗元大禅定門である。こうしたように、喜七郎が当主の務めを果たせなかったことと、二十人扶持であったことは、羽柴秀吉による相州小田原役後の天正18年9月21日に武蔵国八王子城在番衆の一員として「大井田殿」が二十人(小籏二本、鑓十八丁)の軍役を課せられたうえで、上田衆の金子某が代わって大井田衆を率いて八王子に在番を命ぜられていることと、『文禄三年定納員数目録』に二十三人扶持として記載されていることから、事実を伝えていると考えて良いであろう。そして、没年月日や没年齢が事実であれば、天文13年頃の生まれとなり、上田長尾政景の次男である上杉景勝よりも年長となる。

 つまるところ、このような境遇の大井田喜七郎はいかなる出自であったのかと言えば、仮名の喜七郎が、上杉景勝の初名である喜平次顕景のそれに、戒名の宗元が、長尾新六の宗了(政景の早世した兄)、長尾政景の道宗、上杉景勝の宗心のそれぞれに通じていることからして、彼こそが、永禄7年に上田長尾家の重要人物として現れたのも束の間、忽然と姿を消してしまった長尾時宗その人であり、越後国上杉輝虎は長尾政景の横死後、時宗に上田長尾家を相続させるのは不適格と考えて後継者候補から外し、代わりに次男の卯松を据えて喜平次顕景と名乗らせた一方、時宗を大井田家に入れて喜七郎景頼と名乗らせたのではないだろうか。そして、後世の由緒書きとはいえ、親族の少なかった景勝をして、乱気に陥った喜七郎を他者へ預けるにあたり、大井田氏には新九郎(実名は房仲か)という庶族がいたにもかかわらず、適当な親類がいないと言わしめ、親類へ預けることを断念したと記されているのは、両者が兄弟であればこそではないだろうか。もしこの通りだとしたら、喜七郎が乱気に陥ったのは、上田長尾政景からは嫡男として扱われていたにもかかわらず、その政景の死後には上田長尾氏の家督を継げなかったばかりか、上田長尾家中の最有力であり、新田里見氏流の名族である大井田氏に入嗣したにもかかわらず、いくら身分差があるとはいえ、相婿の嶋倉藤三までもが大井田苗字を与えられて分立し、大井田氏の勢力が削がれるといったような憂き目にあってきたからではないのか。父の横死は衝撃的な出来事であったことは確かであろうから、これが理由で不安定な精神状態に陥ったのかもしれないが、先ほど示したような不満が積もりに積もって鬱屈したのであれば、ついに精神をきたしたのも無理からぬことであろう。また、養父とされる大井田藤七郎が上杉景勝期に入ってから、上田長尾家の本拠地である坂戸城において自害させられたとも伝わっており、景勝と大井田家の間には問題が生じていた可能性もあるので、ますます不安定な立場に置かれてしまったことが拍車をかけたのかもしれない。編纂物には上杉景勝の兄とされる長尾義景は早世したとあり、長尾時宗は早世したと考えるべきなのかもしれないが、兄弟の生母である仙洞院(謙信の姉)が夫の死去直後に描かせたとされている「長尾政景夫妻像」(米沢常慶院所蔵)には、仙洞院が実家の父祖やきょうだいの法名を書き込んだばかりか、自分より先に亡くなった縁者(上杉景虎一家)の法名を書き足しており、これに時宗にあたる人物の法名が見当たらないというのは言わずもがなであろう。そして、大井田喜七郎が亡くなったのは仙洞院よりも後である。

 以上、上田長尾家の御曹司・長尾時宗の境遇と行方について考えてみた。以前、成人後の時宗について、【史料1】の発給年次を元亀元年から天正6年の間と考えていたことにより、書中にみえる「七郎殿様」ではないかと発言していましたが、大貫茂紀氏の論考を受けまして、「七郎殿様」は時宗の後身ではなく、大井田藤七郎に比定するべきことを理解しましたので、ここに考えを改めました。

◆ ウェブログ『目を覚ませとよぶ声が聞こえる…』のなかで示されているように、天文10年2月21日に亡くなった超億宗了こと「長尾真六トノ」は、上田長尾房長の長男で、長尾政景の兄にあたる人物と思われる(「高野山清浄心院 越後過去名簿」)。長尾時宗は、この長尾新六と仙洞院の間に生まれた子であったのかもしれない。もしそうであったとしたら、長尾政景は兄の遺児を養育し、いずれは後継者にするつもりでいたにもかかわらず、それに反対する勢力との調整がつかなかったことが、時宗の元服が遅れていた理由であろうか。また、時宗は仙洞院の子ではない可能性も考えられるので、時宗が早世していた場合、それゆえに「長尾政景夫妻像」には法名が書き込まれなかったともいえるであろう。
◆ 【史料1】の書中に見える「楠川方」は敬称付きであることから、輝虎旗本の楠川左京亮将綱が目付として上田衆の軍勢に配されていたと考えられる。永禄7年春の下野国佐野攻めで活躍した上田衆の面々が輝虎から感状を賜った際、楠川将綱も戦功を称えられて輝虎から感状を賜っていることからすると、佐野唐沢山城攻めに参加した上田衆の目付として配されたなかで戦闘に参加した可能性があるため、輝虎は政景横死後の上田衆を増援として上野国沼田城へ向かわせるにあたり、顔馴染みの楠川を再び目付として配したのではないだろうか。
◆ 清水内蔵助が越後国新発田城代を仰せ付けられた時期は判然としないが、天正11年から同国天神山城代、同17年から佐渡在国、文禄3年までに越後国栃尾城代を歴任しており、天正15年に落城した新発田城の城代を仰せ付けられた佐藤石見守は就任直後に没したので、これに代わって就任したのかもしれないし、さらに栃尾城代から転出して、慶長3年に上杉家が陸奥国会津に移るまでの間、その任にあったのかもしれない。いずれにしても、新発田城代就任から36年間、大井田喜七郎が清水家に身柄を預けられていたというのは、いささか計算が合わない。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』143号 長尾景虎書状、152号 長尾景虎感状写、153・154号 長尾政景感状写、291号 上杉政虎条目(写)、336号 関屋政朝書状、389号 上杉輝虎感状、391号 上杉輝虎感状(写)、393号 上杉輝虎書状(写)、397号 上杉輝虎書状(写)、401号 長尾時宗感状写、402号 長尾時宗感状、457・458号 上杉輝虎書状写、465号 上杉輝虎書状 509号 長尾顕景感状、510号 長尾顕景感状写、753・754号 長尾顕景感状写、872号 上杉輝虎感状写、873号 長尾顕景感状、874・875号 長尾顕景感状写、876・877号 長尾時宗感状写 『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1665号 上村尚秀書状、2135号 上杉景勝判物、2649号 上杉景勝朱印状写、3388号 上杉景勝軍役帳写 『新潟県史 資料編3 中世一』171号 山内重俊書状 『新潟県史 別編3 人物編』-文禄三年定納員数目録 『山形県史 資料篇3 新編鶴城叢書(上)』-三重年表 『越後入廣瀬村編年史』 『上杉家御年譜 第二巻 景勝公一』 『上杉家御年譜 第二十三巻 外姻譜略 御家中諸士略系譜一』 山本隆志「高野山清浄心院 越後過去名簿(写本)」(『新潟県立歴史博物館研究紀要』第9巻) 片桐昭彦『戦国期発給文書の研究-印判・感状・制札と権力-』(高志書院) 大貫茂紀「越後国上田衆栗林氏と上杉氏権力」(『戦国史研究』第71号) 佐野良吉『妻有郷の歴史散歩』(国書刊行会) 〔市立米沢図書館デジタルライブラリー〕「先祖由緒帳」 「越境記」
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2 コメント

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前越州領主 (藪竹)
2018-09-26 18:44:36
再び失礼いたします。『中魚沼郡郷土誌 石原信著』の中に「長樂寺  高島に在り、龍澤山と號す、天正年間 長尾為景 三男、蔵人大夫義景と云者、琵琶懸城に在り、雲洞庵十五世不改宗達和尚に歸依し、請して開山とす、本尊釋迦牟尼彿、脇立は文珠、普賢のニ菩薩なり、開基大檀越として、義景の法謚位牌、秘密院殿、前越州領主、當寺開基梁眼禪棟、大禪定門、を安置す、寳物は 四尺三寸毘沙聞天、七條袈裟、絹地茶淺黄織交、ー襲、開山傳來物」とあります。また十日町市史には不改宗達(~一六〇四)は、文亀三年に学雲天奕開基の密宗寺院長楽寺を、天正十四年改宗して曹洞宗となしたとあります。義景の法謚はなぜ秘密院殿なのか?なぜ前越州太守ではないのか?河田長親の法号禅忠は義景からきているものなのか?いろいろ疑問は尽きません。情報としてコメントさせて頂きました。
前越州領主か太守か (こまつ)
2018-09-27 17:20:05
 コメントありがとうございます。

 『日本城郭大系』の琵琶懸城の項で『中魚沼郡誌』が引用されているのですが、ご紹介して下さったほどの詳しい情報は書かれていませんでしたので、興味深く拝見させてもらいました。

 蔵人大夫義景、長尾為景の三男というのが気になるところです。秘密院、秘密は仏教語だと深い意味があるようですから、そういったところからきているのでしょうね。前越州領主、『高野山清浄心院 越後過去名簿』に浦佐の長尾某が「前丹州太守漸叟長〇公居士」といった法名で書かれていることからしますと、本来は太守と書かれていたのかもしれませんね。

 越後の郷土誌に接する機会がほとんどないものですから、とても新鮮でした。また何かありましたらお願いします。ありがとうございましたー
 

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