越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

上杉輝虎(政虎)期の越後衆一覧 【2】

2013-12-23 14:59:40 | 上杉輝虎(政虎)期の越後衆


 譜代衆(上・中郡国衆)

 長尾越前守政景(ながおえちぜんのかみまさかげ)
 仮名は六郎を称した。父は上田長尾越前守房長(新六。一時期、月洲・弥阿を号した)。上杉輝虎の姉婿。越後国魚沼郡の坂戸城主。永禄7年7月5日に横死した。宗得院殿匠山道宗。


 長尾時宗丸(ながおときむねまる)
 上田長尾越前守政景の長男。長尾政景の弟とされる大井田藤七郎(実名は景国と伝わる)の娘を娶り、大井田氏を継いで喜七郎(「七郎殿様」。実名は基政、景頼と定まらない)と名乗ったか


 長尾喜平次顕景(ながおきへいじあきかげ)
 幼名は卯松丸を称した。のちに上杉弾正少弼景勝を名乗った。上田長尾越前守政景の次男。上杉輝虎から山内上杉家に縁の「顕」の一字を賜り、父の遺跡を継いだ。越後国魚沼郡の坂戸城主。


 長尾遠江守藤景(ながおとおとうみのかみふじかげ)
 上杉定実・長尾為景期に見える下田長尾平三郎景行の次代に当たるか。年寄衆。越後国蒲原郡の下田(高)城主。


 長尾小四郎景直(ながおこしろうかげなお)
 越中国金山(松倉)の椎名康胤が越後国上杉家の味方中であった頃に養子となっていた(時期は永禄5・6年であろう)。永禄の初め頃に下田長尾遠江守藤景の娘との縁談が持ち上がっていたが、実現したのかは分からない。越後国頸城郡の名立城主か。


 長尾源五(ながおげんご)
 実名不詳。仮名は源五郎とも。上杉輝虎が上・越国境の越後国上田で滞陣を余儀なくされていた永禄9年秋から、ようやく越山した同年冬にかけて、上野国山田郡の桐生城将を務めていた。


 柿崎和泉守景家(かきざきいずみのかみかげいえ)
 仮名は弥次郎を称したと伝わる。官途名は中務を称した。年寄衆。越後国頸城郡の柿崎城主。永禄11年春に起こった外様衆・本庄弥次郎繁長の反乱に際し、同年冬の上杉輝虎の着陣まで旗本衆の直江大和守政綱(景綱)と共に越後国瀬波(岩船)郡の村上城攻囲軍の主将を務めていた。


 長尾 某(ながお)
 幼名はおひこ丸を称した。柿崎和泉守景家の子で、上杉輝虎の肝煎りによって永禄6年11月に長尾土佐守の孫娘を娶り、土佐守の名跡を継ぐことが決まった。


 斎藤下野守朝信(さいとうしもつけのかみとものぶ)
 仮名は小三郎を称した。父は斎藤下野守定信。年寄衆。妻は長尾為景の娘(昌屋明玖)。この妻は早世したようで、永禄の初め頃に「おまつ」という女性(長尾氏か)との縁談が持ち上がっている。越後国刈羽郡の赤田城主。永禄7年2月の下野国佐野唐沢山城攻めにおいて部将としての勲功を挙げた。上杉輝虎が永禄10年秋に信濃国川中嶋へ出馬したなかで、信濃衆の赤見六郎左衛門尉、旗本衆の小野主計助と共に越後国頸城郡の祢知城の城衆を構成し、城将を務めていた。


 北条丹後守高広(きたじょうたんごのかみたかひろ)
 仮名は弥五郎を称した。のちに安芸守を称する。大沢毛利某の子で、北条・安田の両毛利氏の当主を兼ねた大江五郎広春(毛利丹後守)から北条氏の名跡を継いだとされる。妻は北条安芸守輔広(号祖栄)の娘か。年寄衆。越後国刈羽郡の北条城主。上野国群馬郡の厩橋城代。上杉輝虎が永禄9年冬に関東へ出馬したなかで、相州北条・武田陣営に寝返るが、同12年の越・相一和を機に復帰した。


 北条弥五郎景広(きたじょうやごろうかげひろ)
 のちに丹後守を称する。北条毛利丹後守高広の嫡男で、父が相州北条・甲州武田陣営に寝返ると、決別して上野国勢多郡の棚下寄居に拠った。輝虎から越後国長尾家に縁の「景」の一字を賜った。


 安田惣八郎顕元(やすだそうはちろうあきもと)
 安田毛利越中守景元の次男で、不行状によって出奔した兄(名は毛利安田和泉守景広と伝わる)の名跡を継いだという。妻は外様衆・竹俣三河守慶綱の娘と伝わる。越後国刈羽郡の安田城主。輝虎の隠遁に付き従った忠節により、山内上杉家に縁の「顕」の一字を賜った。上杉輝虎が永禄7年秋に挙行する信濃国川中嶋陣に先んじて、旗本衆の岩井備中守昌能(もとは信濃国衆であった高梨氏の旧臣)と共に信濃国水内郡の飯山地域に在陣していた。


 上野中務丞家成(うえのなかつかさのじょういえなり)
 仮名は源六を称した。母は旗本衆・本庄新左衛門尉実乃(号宗緩)の妹と伝わる。越後国魚沼郡の節黒城主。永禄12年初頭から旗本衆の松本石見守景繁を筆頭とする上野国利根郡の沼田城の城衆として見える。


 平子若狭守(たいらくまごたろう)
 実名は房長、房政などと定まらない。仮名は孫太郎を称した。上杉定実・長尾為景期に見える平子孫太郎(若狭入道海道の子で、享禄元年に死去している)の実子で、孫太郎の次代である平子豊後守(弥三郎。孫太郎の弟か)から家督を返されたのではないか。越後国魚沼郡の薭生城主。


 宇佐美平八郎(うさみへいはちろう)
 長尾景虎期に見える宇佐美駿河守定満(平八郎)の世子であろう。宇佐美定満の世子は民部少輔実定を名乗ったと伝わる。越後国魚沼郡の真板平城主か。


 多功 某(たこう)
 実名、通称は不詳。越後国守護代長尾晴景とその弟である長尾景虎が争った時、景虎に味方して戦死した多功小三郎(肥後守の子)の世子。


 小国刑部少輔(おぐにぎょうぶのしょう)
 実名は重頼と伝わる。父は小国三河守か。越後国蒲原郡の天神山城主。永禄11年初頭から旗本衆の松本石見守景繁を筆頭とする上野国利根郡の沼田城の城衆として見える。


 山岸隼人佑(やまぎしはやとのすけ)
 実名は光重と伝わる。越後国蒲原郡の黒滝城主。永禄8年春に旗本衆の草間出羽守と共に、武蔵国衆の成田氏・下野国衆の小山氏の許への使者を務めた。同11年春には旗本衆の諏訪左近允と共に、旗本衆の松本石見守景繁を筆頭とする沼田城衆の加勢として上野国利根郡の沼田城に在陣した。


 村山善左衛門尉慶綱(むらやまぜんざえもんのじょうよしつな)
 山岸隼人佑(光重か)の次男である孫五郎が村山氏の一流を継いだ。越後国頸城郡の徳合城主と伝わる。


 計見出雲守(けみいずものかみ)
 実名は堯元と伝わる。上杉輝虎が永禄4年末から翌5年春にかけて関東の各地を転戦するなか、輝虎旗本の吉江中務丞忠景と共に関東の某城に配備されていた。越後国刈羽郡の畔屋城主と伝わる。


 青海川図書助(おうみがわずしょのすけ)
 実名不詳。幼名は梅千代を称した。上杉輝虎から永禄9年6月に、代々の忠節を鑑み、前代が残した証文の通り、青海川氏の家督を継ぐことを認められた。越後国刈羽郡の青海川城主。


 千坂対馬守(ちさかつしまのかみ)
 上杉謙信期の天正3年に千坂対馬守が見えるので、すでに上杉輝虎期には活動していたであろう。実名は朝儀、景親と定まらない。上杉定実・長尾為景期に見える千坂藤右衛門尉景長の世子と伝わるが、長尾景虎期の天文18年に上杉家譜代の重臣として見える千坂対馬守と景長が別人の場合は、対馬守の世子という可能性もある。輝虎から長尾家に縁の一字を賜ったか。越後国蒲原郡の鉢盛城主と伝わる。


 石川中務少輔(いしかわなかつかさのしょう)
 上杉謙信期の元亀4年に石川中務少輔が見えるので、すでに上杉輝虎期には活動していたであろう。実名は重次と伝わる。上杉定実・長尾為景期の永正18年に見える石川新九郎景重の次代に当たるか。越後国蒲原郡の石川城主と伝わる。


 和納伊豆守(わのういずのかみ)
 上杉謙信期の天正5年に和納伊豆守が見えるので、すでに上杉輝虎期には活動していたであろう。越後国蒲原郡の和納城主。


 新保 某(しんぼ)
 上杉謙信期の元亀・天正の頃に新保長松丸が謙信から孫六の仮名と越後国長尾家に縁の「長」の一字を賜っているので、上杉輝虎期には長松丸の父に当たる人物が活動していたであろう。越後国蒲原郡の新保城主か。


 竹俣 某(たけのまた)
 上杉謙信期の天正3年に竹俣小太郎が見えるので、上杉輝虎期には小太郎の父に当たる人物が活動していたのかもしれないし、すでに小太郎が活動を始めていたのかもしれない。


 大関弥七親憲(おおぜきやしちちかのり)
 父は大関阿波守盛憲と伝わる。越後国魚沼郡の浦佐城主か。


 甘糟近江守長重(あまかすおうみのかみながしげ)
 妻は上田衆(上田長尾越前守政景の同名・同心・被官集団)・黒金兵部少輔景信の妹と伝わる。越後国山東(西古志)郡の枡形城主や同蒲原郡の村松城主と伝わる。

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10 コメント

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上野中務丞家成の母 (わた)
2024-02-07 18:00:21
初めて投稿させていただきます。
とても興味深い参考になる情報をありがとうございます。
以下の記述について、一点ご教示ください。

「上野中務丞家成(うえのなかつかさのじょういえなり)
 仮名は源六を称した。母は旗本衆・本庄新左衛門尉実乃(号宗緩)の妹と伝わる。越後国魚沼郡の節黒城主。永禄12年初頭から旗本衆の松本石見守景繁を筆頭とする上野国利根郡の沼田城の城衆として見える。

上記のうち「母は旗本衆・本庄新左衛門尉実乃(号宗緩)の妹と伝わる」の部分について、出典や情報源等をご教示いただければ幸いです。

上野源六家成は、現十日町市上野の節黒城城主で長安とも呼ばれていました。
沼田城衆時代に曹洞宗長安寺を、母妙善尼を開基とする浄土真宗西永寺を創建しています。
地元では、母は上野氏に近い西永寺有力檀那の祖師家の出身との伝承があります。祖師=庶子と見なすこともできることから、家成は庶腹の子と解されてきました。
しかし、天文12年に若き景虎が栃尾城に配された時に真っ先にその配下に入り(10代半ば)、その後も栃尾城主の本庄実乃を指南役として仰ぎ、実乃も、景虎出奔事件の原因を作った家成を見捨てることなく面倒を見続けるなど、結びつきが強かったことへの疑問がずっとありました。
本稿を拝見して、家成の母が実乃の妹なら「全てが納得いく」「課題が解ける」と感じた次第です。
ですので、このことの証左(出典なり伝承なり)をぜひとも確認したく、ご教示をお願いする次第です。
なお、家成の読みについて地元では「いえしげ」とも伝わっています。
以上よろしくお願いいたします。
返信する
上野家成につきまして (こまつ)
2024-02-09 16:05:18
コメントありがとうございます。また、返信が大遅くなりまして、誠に申し訳ございません。

早速ではありますが、『越後入広瀬村編年史 中世編』の天正7年9月条に載録されています〔栃尾本庄系図〕(武蔵七党祖)に、本庄新左衛門尉存実の子女として、長男の左衛門次郎伊実、次男の新左衛門尉実乃、そして女子(上野▢▢妻)と記されていることからです。
上野氏の系図に栃尾本庄氏から妻を迎えたと記されているのでしたら、謙信の最有力家臣の家系と結びつける意図をもって書き入れる可能性はあるかもしれませんが、本庄氏側の系図に記されているとなりますと、信憑性は高いと考えました。
よくよく考えましたところ、この女性が伊実・実乃の後に記されているからといって、二人の後に生まれたとは限りませんから、実乃の姉である可能性もありますね。考えが足りませんでした。申し訳ありません。

上野氏といいますと、ご存知とは思われますが、上杉房能・長尾能景期の上野伊賀守家成が見え、嫡男の某は早逝し、孫の菊寿丸が家成の名跡を継いだようで、上杉定実・長尾為景期には彦九郎が上野氏の当主として見えます。この彦九郎が菊寿丸の後身で、長尾景虎期の源六家成へと続いたのかと思いきや、謙信期の天正3年に上野家成の庶族であろう彦九郎が見えますので、菊寿丸も若くして亡くなり、為景期の彦九郎は代理で上野氏を継いだのではないでしょうか。
伊賀守家成と同じ実名を付けられたほどの源六家成に至るまでの上野氏には紆余曲折があったものと思われます。

家成が建立したお寺となりますと、元亀元年に信濃国龍雲寺凰菴存龍の開山による長安寺と、謙信の供養塔を立てた利根郡月夜野の如意寺(恕林寺)の話は目にしたことがありましたが、ほかにもあったのですね。それから、家成は「いえしげ」とのことですが、上野氏の祖とされる新田氏の系図を検索してみますと、新田里見氏の里見伊賀守義成なども「よしなり」のほか、まれに「よししげ」としているものがあったりしますし、それは措きましても、足利成氏をはじめ「しげ」は多いですから、「いえなり」は特に書状などで確認されているわけではありませんし、「いえしげ」と読ませる伝承があるのでしたら、そちらを用いた方が良いのかもしれませんね。

自分は、長尾景虎・本庄実乃主従と上野家成との間で交わされた書状群を読んで、三者の繋がりは相当に深いものと考え、本庄と上野が姻戚関係で結ばれていることに迷いはなかったのですが、今回、西永寺、その檀家である祖師氏など、ありがたいお話を聞かせてもらいましたので、謙信の家臣団に強い興味を持つ自分に取りましては、重要な関心事でありますから、お聞かせいただいたお話を踏まえまして、上野氏についても調べていきたいと思います。
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上野家成につきまして (こまつ)
2024-02-09 16:09:12
すみません。大変遅くなりまして、の「変」を誤って消してしまったようです。申し訳ありません。
返信する
上野氏のこと (わた)
2024-02-10 14:31:22
早速のご回答ありがとうございます。

なるほど、それは一級史料ですね。
ご紹介いただいた書籍につきましては、近くの図書館では蔵していなかったため、別途確認いたします。
とてもありがたい情報です。

上野氏につきましては、上野氏系図、尊卑文脈、源姓里見氏系図(江戸期に米沢上野氏から分家した里見氏に伝わる系図)などから、新田系越後里見氏の本流と捉えられています。
家成が沼田城衆時代に、新田金山城主の由良成繁から「一姓の筋目」として頼られ懇意にして越相同盟を成し遂げられたのも、この出自が大きかったと思われます。

上野伊賀守家成による「菊寿丸譲状」からも多くのことを学んでいます。この菊寿丸家義(内匠助・彦九郎)は、反為景派に属したことから天文の争乱期に命を落としたと思われます。
少年期の源六家成が、母の実家本庄家を頼るのは必然の流れと思います。これで全ての謎が氷解する思いです。ありがとうございました。

また、天正3年に現れる上野彦九郎が庶属というのも初見です。彼は元服時に吉江景資から「資」の字を与えられていることから、てっきり嫡流と思っていました。
もっとも、御館の乱時には春日山城に同じく家成の子の上野源五郎がおり、こちらの系統が上野氏を継ぐ形(最終的に家成の娘婿)となっていますので、ありうることですね。
今後とも、ご教示のほどよろしくお願いします。
返信する
上野彦九郎について (こまつ)
2024-02-10 16:34:49
こちらこそ、色々と興味深い情報をありがとうございました。

上野彦九郎が嫡流でしたら、謙信側近の吉江景資からではなく、謙信から一字を頂戴したと思うのです。さらにこの人物は、謙信没後の御館の乱で一時、没落の憂き目を見た柿崎家の再興に大きく貢献した上野九兵衛尉の前身で、謙信の肝煎りによって柿崎家に配されていたのではないかと思うのです。謙信は、上田長尾氏に福王寺・中条氏、直江氏に志駄・高梨氏、山吉氏に上松・飯田氏といったように、中・小国衆を越後衆の有力者に配していますので、有力国衆の一族や自身の旗本の一族を越後衆の有力者に配してもいたでしょうから。

繰り返しになりますが、本当にありがとうございました。また何かありましたら、よろしくお願い致します。
返信する
栃尾本庄系図 (わた)
2024-03-20 22:24:04
いろいろご教示ありがとうございます。
『越後入広瀬村編年史 中世編』を入手し、確認させていただきました。
確かに「女子(上野□(長四角)妻)」となっておりました。
少し気になるのがこの長四角が実際どれほどの空字なのかというところです。というのも、3代前の女子に「上野國尻高新三郎妻」というのがあり、実乃の妹(姉)記述の「上野」が上野氏を指すものなのか、確証が持てないからです。
解説に「…続群書類従…武蔵七党系図を底本として(  )をもって栃尾本庄系図の異同を表記す」とあることから、続群書類従の武蔵七党系図も確認しましたが、案の定(上野□(長四角)妻)の記述はありませんでした。
となると、この異同の対象である「栃尾本庄系図」なるものを確認したいのですが、『栃尾市史』や史資料集を漁ってみても見当たりません。
出典がお分かりでしたらご教示くだされば幸いです。

なお、私が以前紹介した西永寺有力檀那の「祖師家」の記述がまぎらわしくて、誤解を招いてしまったようです。「祖師」は名字ではなく屋号になります。名字は「清水」です。
申し訳ありませんでした。
返信する
お尋ねの件につきまして (こまつ)
2024-03-21 18:43:04
こちらこそ、色々とありがとうございます。

わたしも栃尾本庄系図を見てみたいと、常々思っているのですが、今のところ見当たらないのですよね。お役に立てずに申し訳ありません。

昔、武蔵七党の関連の書籍を読んだところ、七党諸氏の戦国期の動向にはあまり触れられておらず、載録されている七党諸士の系図も戦国以前で途切れていましたから、謙信期あたりの人物までの記載はほとんど無いものと思い込んでいましたので、越後入広瀬村編年史の武蔵七党系図・栃尾本庄系図の記述を読んだのち、続群書類従の武蔵七党庄氏の系図を見て、本庄実乃の名が記されていたのには、とても驚いたのですよね。
それで、越後入広瀬村編年史は、あの武蔵七党系図を見て、栃尾本庄氏へと続いていることに、よく気が付いたものだと、感嘆しましたし、栃尾本庄系図を正確に書き加えられたように思いました。
ですから、何とかして同系図を見つけ出したいですね。上野…妻につきましても探っていきますので、何か分かりましたら、お伝え致します。

そうでしたか、祖師家は屋号なのですね。わざわざお知らせ下さり、ありがとうございました。
返信する
上野九兵衛ほか (わた)
2024-04-29 15:24:20
たびたびすみません。
もう少しご教示いただければと思います。
少し前の便での、上野九兵衛の前身が上野彦九郎資家ではないかとのご考察についてです。
とても興味深い内容と思いますが、米沢藩がまとめた「御家中諸士略系譜」では上野九兵衛の名乗りは宗秀となっています。この辺りの整理はどのようにお考えでしょうか。
それからもう1点お願いします。
天文23年8月の大熊朝秀から上野家成に宛てた書状に、下平との係争地に上野が「ふけ」をささせたとあるところ、これを「標杭」と喝破されている理由についてです。
当方も、杭か旗の類と思ってきましたが、確たる資料に当たらなかったもので。
以上よろしくお願いいたします。
返信する
お尋ねの件につきまして (こまつ)
2024-04-29 21:05:40
いつもありがとうございます。

先ず、上野九兵衛尉ですが、御館の乱で活躍した柿崎衆の九兵衛尉・富所、林部たちは、その名字から、もとは謙信の譜代・旗本家臣であったと思われます。
謙信は越後国上杉家の強大化に伴い、直江・山吉といった重臣に、一部の越後国衆を彼らの重臣として配したわけですが、上野家成の親族であり、謙信側近の吉江景資から一字を貰っている彦九郎資家は柿崎氏に配されるに相応しい人物と考えました。何と言っても〔御家中諸士略系譜〕における謙信以前の越後衆の実名表記は誤りが多いですから。
彦九郎資家は、石井進氏蒐集史料細目録によると、「中務家盛二男御家中上野親」と注記されており、家盛は家成の誤記で、その次男ではなく弟の誤りであると思われますが、いずれにしても家成の近親者と考えてよさそうです。

次に、「ふけ」= 標杭ですが、咄嗟には井上鋭夫『上杉謙信』(新人物往来社・講談社学術文庫)しか思い出せないのですが、上野・下平の相論に触れた書籍・論考などでは、そのように書かれていたと思われます。

とりあえず、以上になります。新たに分かったことや、思い出したことがあれば、お伝えいたしますね。
返信する
上野と下平ほか (わた)
2024-04-30 09:37:58
早速のご回答ありがとうございます。
とても参考になります。
これからもどうぞよろしくお願いいたします。

なお、蛇足になりますが、一般的に流布されている名字の読みと当地に伝わる読みの違いについて情報提供いたします。
例「下平(しもだいら)修理亮」→「下平(しただいら)」
例「中条(ちゅうじょう)玄蕃丞」→「中条(なかじょう)」
当地は信濃川河岸段丘上に展開しており、段級数は9段と日本最大級です。
そのうち、上野氏や下平氏などの館があったところは、信濃川左岸の千手面という一番幅の広い段丘面になります。
この面の最上部(西)に上野(うえの)があり、最下部(東)に下平(しただいら)があります。水平距離で約1.5km、標高差は約50mです。
つまり、ここでの「上下」は「かみ・しも」ではなく「うえ・した」の意で、そのまま地名となっています。
ちなみに、「かみ・しも」で言うと下平がかみで上野がしもになります。南北の直線距離は約2kmです。
一方、信濃川右岸の「中条」の北に「下条」があり、かつては南に「上条」があったといわれています。
こちらは垂直方向ではなく水平方向の「かみ・なか・しも」になります。
下条はげじょうと読みますが、これは信濃川対岸に「霜条(しもじょう)」があり、これと混同を避けるためだったと考えられています。

余計なことですみませんでした。
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