越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

上杉謙信の養子・上杉景虎の境遇 ー花押形と直臣団をめぐってー

2023-10-05 23:56:10 | 謙信にまつらう人々


 越後国上杉輝虎(号謙信)の養子である上杉景虎は、天正3年正月に謙信が新たに養子として迎えた上杉景勝に取って代わられ、養嗣子としての立場を失ったとされがちであるが、果たしてそのような境遇であったのかを、謙信在世中に景虎が用いていた花押形の僅かな変化や景虎の直臣団の存在から考えてみた。

 上杉景虎とは、相州北条氏康の実子であり(『上越市史 上杉氏文書集』914号 以下は『上越』とする)、越・相一和の成立によって、永禄13年(元亀元年)4月に越後国上杉輝虎の養子に迎えられた人物である。
 北条家時代の景虎について、一次史料からは、氏康の実子で三郎(実名不詳)を称したぐらいのことしか分からず、米沢上杉家が編纂した『謙信公御書集』元亀元年4月5日の綱文には、「北条左京大夫氏康之七男同三郎氏秀(ほかの箇所では氏治とも)依于越府御養盟約相州小田原地発足同十日于上州厩橋城着座旨有約諾享年十七歳於関左美男有誉也」と記されている。
 一方、黒田基樹氏は『北条早雲とその一族』の上杉景虎の項と『北条氏康の子どもたち』の総論において、北条側の軍記・系図類をもとに、『北条五代記』には元亀元年に景虎が謙信の養子となった時の年齢が17歳と記されていることや、『異本小田原記』には景虎の幼名が「西堂」と記されていることなどから、景虎は天文23年(1554)に氏康の六男として生まれ、氏康の早世した長男の新九郎が名乗っていた西堂丸の幼名を受け継ぎ、母は妾の遠山氏(氏康期の筆頭家老ともいうべき遠山丹波守綱景の娘)であるとし、「北条系図」(『続群書類従』第六輯上)には景虎が氏康の叔父である幻庵宗哲の養子となり、宗哲の女子を妻としたと記されていることから、景虎は越・相一和が成立した年である永禄12年の12月に、北条家の一家衆である久野北条新三郎氏信(武蔵国小机城主。幻庵宗哲の次男。兄の三郎は早世している)が甲州武田軍の攻撃を受けた駿河国蒲原城で戦死してしまい、氏信の男子は幼若のため、宗哲の女子を娶って久野北条家を継ぎ、同時に元服して三郎の仮名を与えられたとしている。
  これより前の6月に越・相一和が成立した折には、相州北条氏政(氏康の世子。相州北条家の現当主)の次男である国増丸が、やがては関東管領山内上杉家を継ぐ条件で、輝虎に養子入りすることが決まっていながらも(『上越』723・755号)、双方の思惑によって一和が停滞するなか、冬頃から氏政が五・六歳の幼子を親許から引き離すのは不憫であるとして、しきりに養子の変更を頼み込んでくると(『上越』817号)、輝虎が関東在陣中の永禄13年2月に盟約が見直されて、国増丸に替わる養子に選ばれたのが三郎であり(『上越』882号)、輝虎の姪(輝虎の姉と上田長尾越前守政景の間に生まれた)を娶らせることが決まった(『上越』888号)。
 同年4月11日に上野国沼田城で輝虎と対面したのも束の間、帰国の途に就いた輝虎に伴われて18日には越府に到着し、25日に春日山城中で輝虎との養子縁組および輝虎の姪との婚礼が執り行われると、輝虎の初名である景虎を与えられて上杉三郎景虎と名を改めた(『上越』888・906・913・948号)。この景虎室については、同じ『上杉家御年譜』所収の系図でも、天正7年3月24日に御館の乱に敗れた夫の景虎と共に最期を遂げた時、〔藤原姓上杉氏〕系図では享年24歳と記され、〔外姻譜略〕平姓上田長尾系図では享年29歳と記されており、前者であれば弘治2年(1556)頃、後者であれば天文20年(1551)頃の生まれとなり、もう一人の謙信の養子となる弘治元年生まれの上杉弾正少弼景勝(上田長尾喜平次顕景)の妹に当たるのか姉に当たるのか、よく分からない。
 翌元亀2年には二人の間に、輝虎改め謙信の嫡孫が生まれており、『山吉家家譜』は5月27日に生まれ、謙信から道満丸の幼名を与えられたと伝えている。前者については何ともいえないが、後者はその通りなのだろう。


 景虎の花押形

 上杉景虎が使用した花押は二種類あるが、ここで取り上げるのはa型花押であり、櫻井真理子氏の「上杉景虎の政治的位置 ー越相同盟から御館の乱までー」(『武田氏研究』第28号)では、景虎の北条氏時代の義父であった幻庵宗哲や、宗哲と同じ箱根権現別当であった亮山のそれと類似していることを示されたところ、木村康裕氏は『戦国期越後上杉氏の研究』(「付論一 上杉景虎の発給文書について」)において、謙信が使用した花押のうち、「真久」の二字の草体を形象化したとされる花押(『上越』はd型とする)にも類似しているように見えることを示されている。
 ちなみに、同じく櫻井氏の論考において、景虎の花押二型(b型)は謙信の花押型(『上越』はa型とする)の影響が見られることを示されたが、木村氏はさらに分析し、景虎の花押二型は謙信(a型)と上杉憲政(『新潟県史 資料編 中世』付録 3469号上杉光徹花押)の特徴を取り込んだように見えるとし、景虎の花押一型(a型)から花押二型(b型)への変化の時期は、元亀三年閏正月から天正六年五月の間と確認できるが、謙信が死去した天正六年三月十三日の前と後ではその意味合いが異なり、前であれば、すでに謙信存命中から、景虎は上杉氏、もしくは後継者を意識していたことになり、後であれば、景勝との対抗上、自身が後継者であるとの意思表明の意味が強くなる、といったことを示されている。


【史料1】山吉豊守宛上杉景虎書状(『上越』1066号)
  飛脚指越候、昨帰路候間、相州よりの返札、為御披見指越候、以上、
従相州之脚力、此方被差越候、則忰者相添差越候、相州之書中遠左(遠山左衛門尉康光)之文、両通指越候、入御披見可然之由、仰出付而者、認可被越候、若又御意不合付而者、御安(案)文可被越候、書直可差越候、以上、
   十月三日        景虎(花押a【1】)
     山吉孫二郎殿


【史料2】河田長親宛上杉景虎書状(『上越』1087号)
陣中之模様為無心元、使殊海鼠腸到来、祝着候、爰元之様躰無指義候条、可有心易候、替儀候、重可申届候、謹言、
   壬正月廿四日      景虎(花押a【2】)
      河田豊前守殿


【史料3】本成寺宛上杉景虎書状(『三条市史 資料編』313号)
 (前欠)
五十▢到来珍重候、恐々謹言、
   正月廿七日      景虎(花押a【3】)
    本成寺


【史料4】雲門寺宛上杉景虎書状(『上越』1402号)
新春之為祝儀、青銅五十疋、目出喜悦此事候、猶柿崎可申候、恐々謹言、
   正月晦日       景虎(花押a【4】)
    雲門寺


※ 謙信在世中に上杉景虎が発給した文書は、【史料1~4】のほかにも元亀元年8月9日に輝虎側近の直江大和守景綱を介した披露状がある(『上越』923号)。これは景虎の発給文書として最初に確認されるものであるが、親近者の間でのやり取り、それぞれの居所も近く、直筆の返書という場合に見られる書式であって、日付けは月を書かずに日にちのみ、署名は「三郎」の通称のみ、そして花押は据えられていないため、ここでは取り上げなかった。また、諸書において、景虎は輝虎の側近を介さなければ、輝虎と交信できない立場であったとされているが、この直江景綱宛景虎書状は、甲州武田軍の伊豆国への侵攻と相州北条家との共同で催される戦陣に関係する披露状であり、他家においても、大屋形の北条氏康が自身の出馬を止めてからではあるが、屋形の北条氏政が陣中から父と交信する際、その側近を介した披露状を発しているのだから(山口博『北条氏康と東国の戦国世界』)、景虎の立場の優劣を左右するものではないであろう。


 【史料1】は、謙信側近の山吉孫次郎豊守へ宛てられたもので、年次は元亀2年に比定されており、奇しくもこの日に実父の北条氏康は他界している。
 【史料2】は、謙信の寵臣で越中国代官を任されている河田豊前守長親へ宛てられたもので、閏正月付けであることから、年次は元亀3年に比定されており
、わけても河田長親は越中国に駐在の身で謙信と景虎の間を取り次ぐ役目には就いておらず、その河田とやり取りが認められるという点で興味深く、越・相一和が破談したなかで謙信・景虎が関東に在陣していることを知らされていたであろう河田にとっても、謙信による関東陣の動静はもとより、景虎の行く末が案じられたのではないか。
 【史料3】と【史料4】は、蒲原郡三条の本成寺と頸城郡吉川の雲門寺のそれぞれへ宛てられたもので、どちらも年次は未詳で、正月に発給されており、景虎は謙信没後には天正7年のみ正月を迎えたわけであるから、【史料1・2】と同様に謙信の在世中に発給された文書となり、木村氏によれば、こうした領国内の寺院との間における年末年始の慶賀のやり取りは、当主の謙信が行う重要な務めのひとつとされている。


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 上に示した画像で分かるように、上杉景虎のa型花押は、僅かな変化であるが、花押上部の右端に打たれた点により、さらに区別することができる。
 【史料1】の花押に打たれた点は、結ぶようにして大きく跳ね上げられているのに対し、【史料2~4】の花押に打たれた点は、明らかに小振りとなっており、小さく二つ目で跳ね上げられているか、小さく不規則に二つ打たれているかのようである。
 【史料1】は元亀2年10月3日付け、【史料2】は翌3年の閏正月24日付けとなると、謙信の寺院との慶賀のやり取りは、ほぼ在府時に行われており、景虎は謙信による元亀2年冬から翌3年春にかけての関東遠征に同行しているわけであるから、正月27日・晦日付けの【史料3・4】は【史料2】よりも後に発給された文書となろう。
 木村氏が言われているように、【史料2】の存在によって、景虎は越・相一和の破談後も、謙信養子としての立場に変化はなかったわけだが、景虎自身の心境には変化があったらしく、謙信没後から用いるようになったと思しき花押b型でも、途中から花押の右側に打たれている点の位置を変えており、片桐昭彦氏が『北条氏康の子供たち』の上杉景虎の項(「景虎の花押・印判と筆跡」)において、御館の乱の最中となる天正6年10月10日付書状から12月26日付判物の間に、点の位置を下方から中央辺りまで上げたのは、気運の上昇を企図したという可能性を示されていることからすれば、これより前にも景虎は、越・相一和の破談後も上杉家に留まるところとなり、決意も新たにするなかで、遅くとも閏正月24日までに、花押には僅かな変化を加えたのであろう。
 【史料3・4】の発給年次としては、景虎が謙信の遠征中に留守を任されている様子は元亀元年ぐらいしか見当たらないので、謙信が出馬することなく、正月に在府していた天正3・4年と同6年が考えられよう。
 もしこの通りであるとしたら、【史料4】で景虎の取次を務めている「柿崎」とは、通称や実名が記されていないため、上杉家譜代の重臣である柿崎和泉守景家に比定され、その柿崎氏が景虎を支えた人々のうちでも取り分け有力者であったことが示されており(片桐昭彦『上杉謙信の家督継承と家格秩序の創出』)、越・相一和の成立に伴い、自他国に名の知られた柿崎景家は子息の左衛門大夫(実名は晴家と伝わる)を相府で一生を送る証人として差し出したことへの忠賞もあり、景虎の後見人という栄誉に浴したのだと思われるが、景家は文書の上では元亀4年(天正元年)4月が終見、柿崎家の菩提寺である楞厳寺は
天正2年11月22日に死去したと伝えていて(室岡博『柿崎景家 ー川中島先陣ー』)、事実、天正3年2月に作成された軍役帳(『上越』1246・1247号)では、一和が破談となって越後国に戻された左衛門大夫が柿崎家を継いだことが分かるため、左衛門大夫が景家に引き続き景虎の後見人を任されたのだと思われるから、【史料4】の「柿崎」は左衛門大夫に当たるのであろう。
 なお、『山吉家家譜』では、越・相一和に上杉側の取次として最も関与した山吉豊守が上杉憲政と景虎の後見を任されたかのように記されているが、謙信と景虎がやり取りする際に山吉が取次を務めてはいても、後見している形跡はない。山吉家が大檀那である本成寺へ宛てた景虎の礼状から、そのように連想されたかもしれないが、取次でも十分に深い繋がりではあろう。
 それから、インターネット百科事典では、謙信一家の山本寺伊予守定長が景虎の傅役(後見人の意味か)を仰せ付けられたというが、特に根拠となる史料が示されていない。平等寺薬師堂資料(『新潟県史 資料編』2936号)に御館の乱を巡って「(天正6年5月)同十三日、三郎殿(上杉景虎)春日(春日山城)を引のき、御城内之内へ御入候、三ほう寺殿(山本寺定長)を始十余人御味方候間、春日(上杉景勝)と日々の御調義候、」と記されており、景虎に味方した諸将のうちで唯一、その名前が挙げられていることからなのかもしれないが、景虎の傅役を山本寺定長が務めていた形跡もない。

 花押とは関係ないが、天正2年正月に外様衆の色部弥三郎顕長から太刀と銭を贈られており(『上越』1182号)、当然ながら景虎は答礼したはずなので、これもまた、越後国長尾家の当主を経て関東管領山内上杉家の当主にまで成り上がった謙信が、分国内の諸将と取り交わしてきた重要な儀礼であるから、この時点でも景虎は当主に準ずる立場であったことが分かる。


 景虎の直臣団

 上杉景虎といえば、元亀2年冬の越・相一和破談から三年が経過した天正2年冬に関東味方中の簗田氏が拠る下総国関宿城が相州北条軍に降り、同じく菅原・木戸一族が拠る武蔵国羽生城の放棄を余儀なくされるなど、関東情勢の悪化に大きく落胆した謙信が、帰国後に高野山無量光院と師檀関係を結び、同院の宝幢寺清胤を師として出家し、護摩灌頂を受けて法印大和尚となり、心機一転、天正3年正月11日に甥の上田長尾喜平次顕景に上杉名字を与えて景勝と名乗らせるとともに、自身が称していた官途の弾正少弼を譲り、新たな後継者に定めると、敵の張本北条氏政の実弟である景虎を捨て、実兄と内通する恐れがあるため、来るべき関東遠征にも従軍させるつもりはなく、それゆえに軍役を課さなかったので、関東遠征に動員する越後衆の軍役を取りまとめた軍役帳に景勝は載っていても景虎は載っていない、というような考えがある(片桐昭彦「上杉謙信の家督継承と家格秩序の創出」)。
 このように失意の謙信によって、天正3年正月に景虎は廃され、景勝が後継者に決まり、北条氏政と通じる恐れから、軍役も課されなかったとなると、これ以前に景虎は、元亀元年10月下旬に、謙信の関東遠征中、越府に残されて信・越国境の統治に当たっていたところ、積雪期を迎えて甲州武田軍が侵攻してくる心配もなくなったので、謙信から関東に呼び寄せられたり(『上越』948号)、【史料2】のように、元亀2年冬から翌3年春にかけて謙信が挙行した関東遠征に同行していたところ、越中国代官の河田長親から陣中の様子を尋ねられたりしているわけで、その当時は景虎の率いる軍勢が存在したはずであるから、景虎が本当に廃されたのであれば、その軍団は解散させられたことになる。
 しかしながら、天正3年4月24日に謙信は北条氏政を非難する願文のなかで、越・相一和の時分にはあのように数枚の誓詞を取り交わしたにもかかわらず、翌年に誓詞を翻し、こともあろうに弟である「三郎」と代を限らず忠信を尽くしてきた「遠山父子」を差し捨てたと書いており(『上越』1250号)、氏政が景虎を捨てたとして激しく非難しておきながら、謙信が景虎を捨てたのでは筋が通らず、そればかりか、謙信が天正2年冬の関東遠征が不調に終わったことへの落胆から、翌3年4月の願文以降は、それまで関東越山のたびに必ず「関東管領」であることを連呼していたのを止めたとされているのは誤認であり(謙信は願文などで関東管領の由来や自分が関東管領に就任した経緯を記したりはしているが、関東越山のたびに自分が関東管領であることを連呼したりはしていない)、謙信が落胆して後継者を変更したとの証拠にはなり得ず、景虎は謙信に捨てられてはいなかったであろうし、元和2年12月に加賀国前田家の筆頭家老であった本多政重が自身の家中の戦功覚書をまとめて主家に提出しており(竹井英文「本多家士軍功書」)、その本多家中のうちには越後国上杉家を経て加賀国前田家に仕えた信濃国出身の原采女助と越前国出身の大橋新左衛門尉の両名は、かつて景虎と関係のあった人物として記され、原は「上杦三郎殿に罷り有る候時、景勝と景虎の間、弓矢に成り」、大橋は「上杦三郎殿に罷り有る候時、景勝と景虎と弓矢に相成り」とほぼ同文で語っており、二人がそれぞれ景虎の許にあった時に、景勝と景虎の間で抗争が起こって戦ったというからには、御館の乱が始まってから景虎に味方したのではなく、謙信在世中から景虎配下の部将であったことになり、景虎の軍団は解散させられてはいなかったであろう。
 
 景虎の直臣団としては、越・相両国の通交で上杉家側の使者の一人であった堀江玄蕃允(海老沼真治「御館の乱に関わる新出の武田勝頼書状」)、同じく北条家側の取次・使者として携わり、一和の破談後に相州北条家での立場が悪くなって上杉家に亡命したと考えられている遠山左衛門尉康光(丸島和洋『戦国大名の「外交」』172~173頁)をはじめ、遠山康光の世子である新四郎康英は北条家に残ったが、それ以外の息子たち(『上越』929・1250号)、御館の乱時に遠山康光と奉書に連署しているほどの側近であった神田右衛門尉(『上越』1710号)、やはり越・相両国の通交で北条家側の使者を務めた篠窪治部(『後北条氏家臣団人名辞典』 篠窪氏の項)・三山又六(『戦国遺文 後北条氏編』1361号 ◆ 浅倉直美「北条氏邦 氏邦の生母と三山氏」)、軍記物ではあるが『北越軍談』には、山中民部少輔・佐倉彦三郎・多米市十郎・近藤治部左衛門尉・中条兵衛尉が見える。このうち近藤治部左衛門尉は、永禄12年11月晦日付で遠山康英が発した上野国沼田城へ贈る樽肴の明細書を受け取った近藤左衛門尉(『上越』845号)がおり、治部は敢えて書かれていないのか、単に書き落とされたのかは分からないが、同一人物の可能性があろう。
 そして、先述した通り、もとは信濃衆高梨氏の家中であったと思われる原采女助(「文禄三年定納員数目録」◆『上越』2844号)、もとは越前国朝倉氏の家中であったと思われる大橋新左衛門尉というような他国出身者が確認できる。こうした他国出身者も数多く景虎の直臣団に配されたであろうから、『上杉家御年譜 景勝公』において、景虎が御館から鮫ヶ尾城へ逃れる途中で戦死したと記されている平野次右衛門尉は、織田信長に勘当されて各地を転々としたのちに謙信を頼ったと伝わる平野甚右衛門尉に当たると考えられており(谷口克広『信長の親衛隊』)、この人物なども景虎の直臣団に配されたくちなのかもしれない。
 これらの直臣団は、景虎の後見人であろう柿崎氏の本領が謙信在世中に削減されている(『上越』1692号)ことと、御館の乱において、柿崎氏の要害である猿毛城に景虎方として篠窪出羽守(治部の後身であろう)が拠っていたと伝わっている(『越佐史料 巻五』518~519頁)ことからすると、謙信の肝煎りによって柿崎領の一部を与えられ、そこを基盤として編成されていたのではないか。

※ もとは謙信旗本であった堀江玄蕃允のように、越・相両国の通交に使者として関与した者が景虎の直臣に配されたとなると、一和破談後に越後国上杉家に戻された柿崎左衛門大夫も、帰国してすぐに景虎の直臣に配されたのかもしれない。そして、景虎の後見人であった柿崎景家が天正2年11月に死去すると、一度は越後国上杉家譜代家臣の柿崎家を離れたはずの左衛門大夫が何らかの理由によって景家の名跡を継ぐところとなり、景虎の後見人も引き継ぐ形になった可能性もあろう。さらには、堀江と同じように越・相両国の通交において使者を務めた謙信旗本のうち、越・相一和破談の前後に、後藤左京亮勝元や大石惣介芳綱(『上越』641・642・929・940号)などは部将として関東衆に配されたが(『上越』1369号)、その一方で姿が見えなくなった進藤隼人佑家清・小林土佐守・鶴木某・須田弥兵衛尉・本郷彦七(『上越』726・828・838・927・1039・1103号)といった謙信旗本たちは、堀江玄蕃允と同じく景虎の直臣団に転属させられたのではないか。

※ 御館の乱以降の謙信旗本は、上杉景勝に味方した者たちはもとより、降伏して赦免された者たちも、景勝の「公儀衆」(旗本衆)である上田五十騎衆と馬廻衆のうち、後者に配属されたが、そこに名前が見えない五十嵐 盛惟(通称は主計助か)・小野主計助・萩原主膳允・三好又五郎慶家・安田与左衛門尉頼家(『上越』955・1149・1234・1286号)たちは、恐らく景虎に味方して戦没あるいは没落したのだろう。


 景虎と景勝の並立

 越・相一和の盟約を定める時に、上杉
輝虎が北条氏政の「実子」を養子に迎え入れ、いずれ関東管領山内上杉家を継がせることで合意しており(『上越』723号)、これは養子が久野北条三郎に交代しても変更はなかったであろう。
 この山内上杉家については、越後国守護上杉房定(号常泰)が文明18年3月に従四位下・相模守に叙任すると、この頃に和泉国堺の地に滞在していた東福寺の季弘大叙という禅僧が日記に「上杉内平宗越後、今号相模守房定、京総領、関東庶子」と書いており、畿内では越後国守護上杉家が上杉諸家の総本家という認識が一部に広まっていたことが分かるため、当時の実態や認識を前提にしたうえで、それ以降の上杉氏体制の在り方を検討しなければならないとし、そもそも山内上杉家は越後国守護上杉家より上位の家格であったのかと、これまでの山内上杉家の位置づけについて、片桐氏は疑問を呈され、上杉房定が次男の顕定に山内上杉家を継がせたように、謙信も山内上杉家・上条上杉家・山浦上杉家を養子に継がせ、自身を他の上杉一族とは一段上の家格である上杉諸家の宗家として振る舞い、景勝をその家格を継承する者として位置づけたので、景虎は能州畠山氏出身の上条政繁や信濃衆村上氏出身の山浦国清と同列に置かれた、というようなことを示されている。
 しかしながら、関東において山内上杉家は、扇谷上杉氏の重臣であった大森寄栖庵(俗名は氏頼)曰く、「上杉之棟梁」(『群馬県史 資料編7』1803号)、上野国新田岩松氏の陣僧であった松陰曰く、天皇から御旗を下賜された「天子之旗本」(『群馬県史 資料編5』820頁)と認識されているわけであり(どちらも木下聡氏の「山内上杉氏における官途と関東管領の問題」による)、季弘大叙の記した認識が上杉一族の実態であるとは言い切れるものではないであろうし、ましてや当の謙信は、守護代長尾家と越後国守護上杉家を取り込んだ新生の感があるとはいえ、関東管領の山内上杉家を継いで君臨しているわけであり、長尾家の通字である「景」の一字を冠した実名を景虎と景勝に名乗らせて、更なる新生の上杉家を志向したにしても、尊王の志も高い謙信が、景虎の継いだ山内上杉家(実際にはまだ継いではいない)を上条・山浦・山本寺・琵琶嶋といった上杉諸家と同列に置いてしまうなど、自らの立場を否定するものであろう。

 もし、景虎が上杉諸家と同列に置かれたのであれば、景虎には率いる軍勢が存在したのだから、軍役帳に記載されていたであろうし、軍役帳に景虎が見えないのは、先行研究(池田嘉一『史伝上杉謙信』ほか)で示されているように、山内上杉家を継ぐ景虎は、軍役を課される立場にはなかったのであろうから、この時点で軍役を課されている立場の景勝は、敬称の違いから上杉諸家の上位に置かれていたことは確かであるとはいえ、唯一人の後継者に決まったわけでもないであろう。
 そもそも、軍役帳が作成されたのは、来るべき関東や北陸への遠征に向けてとか、来るべき上杉景勝の家督継承に向けてとかではなく、越後国上杉家では元亀・天正期に入ってから、分かっているだけでも、一家衆の上条・山浦、外様衆の中条・新発田・五十公野・水原・安田・下条、譜代衆の柿崎・新保、旗本衆の船見といった越後衆が代替わりや入嗣によって軍役が改定されており(軍役帳は明らかに不完全なものであるから、未記載の越後衆にも軍役を改定された部将たちがまだ存在したはずである)、それは天正2年6月20日付けの中条与次景泰宛上杉家軍役状(『上越』1211号)のような軍役の改定が相次いだことにほかならず、同3年正月に養子入りした景勝の軍役の改定を機に、軍役帳として整理したのだと思われる。
 これが誤りだったとしても、謙信は関宿城の自落や羽生城の放棄などによって関東情勢が悪化した関東遠征に向かう以前、すでに天正2年9月には軍役帳の作成に取り掛かっていたのであろうから(中野豈任「いわゆる「安田領検地帳」について」)、軍役帳の作成は関東情勢の悪化とは関係がなく、時間的に考えて景勝の天正2年中には養子入りは内定していて軍役の改定作業が行われていたはずであり、景勝の養子入りも関東情勢の悪化とは関係がないのだから、これもまた謙信の後継者が景虎から景勝に変わった証拠とはならないわけである。

 上杉景勝は天正4年5月に謙信と個別に関東味方中の菅原左衛門佐為繁と同内容の音信を通じており(『謙信公御書集』◆『上越』1252・1253号 )、この頃までには謙信の後継者の一人に定められていたことは確かであろう。それでも、景勝だけが謙信の後継者であったという以下の根拠にも疑問がある。

    まず、天正3年正月に景勝が謙信の養子に迎えられて弾正少弼の官途を譲与されたのに対し、景虎は三郎の仮名ままであり、翌月に作成された軍役帳では景勝だけが最上級の敬称である「御中城様」と記載されて、春日山城の中城に住んだことが分かるのに対し、景虎は軍役帳に記載すらされていないという考えであるが、確かに上野国衆の由良信濃守成繁・同新六郎国繁父子は「両カミ」として奉られ、金山城にそれぞれ「実城」・「坂中城」に拠った事実からして、「御中城様」は後継者の敬称ともいえる。しかしその一方では、常陸国太田の佐竹氏の一族である佐竹西家の小場義宗が太田城の中城に住んで「小場御中城」と敬称されている例があり(『戦国遺文 下野編』808号)、「御中城様」は必ずしも後継者を意味するものではないし、何よりも謙信・景勝が「両カミ」のような呼ばれ方をした様子は窺えない。そればかりか、関東管領の職名が官途の役割を果たす山内上杉家を継ぐ立場であったのならば、景虎は顕定・憲房・憲政のように、一生を仮名のままで通しても、謙信から弾正少弼の官途を譲られた景勝に立場が劣るものではないという考えもある(木下聡「山内上杉氏における官途と関東管領職の問題」)。
 次いで、天正4年の6月と7月に備後国鞆御所の足利義昭(天正4年2月に紀伊国由良の興国寺から毛利家を頼って御座を移した)が越後国上杉家へ御内書を発し、義昭の側近である真木嶋玄蕃頭昭光が発した6月12日付副状(義昭の御内書は残っていない)の宛所には「弾正少弼殿 人々御中」、7月23日付義昭御内書の宛所には「上杉弾正少弼とのへ」と書かれており(『上越』1293・1299号)、書札礼に厳密な御所側が相手の宛名表記を誤るはずがないことと、父が隠居して家督(官途を含む)を子に譲り与えたときに、父が出家して「官途+入道」で呼ばれ、併行して子は父の名乗っていた官途名を使うことは一般的にみられることからして、両文書の弾正少弼は景勝を指しているという考えであるが、天正3年から同5年にかけて御所側が謙信へ送った御内書と副状の宛所を見てみると、天正3年12月2日付足利義昭御内書写は「不識院」、天正3年12月2日付六角承禎書状写は「謹上 上杉弾正少弼入道殿」、天正3年12月12日付足利義昭御内書写は「不識庵」、天正4年3月21日付足利義昭御内書写は「不識庵」、天正4年8月2日付毛利輝元書状は「上杉殿 参 人々御中」、天正4年8月5日付六角義堯書状は「不識庵 玉床下」、天正4年8月13日付足利義昭御内書は「不識院」、天正4年8月13日付真木嶋玄蕃頭昭光・一色駿河守昭秀連署状は「不識院大和尚法印御房 人々御中」、天正5年3月27日付足利義昭御内書は「不職(ママ)庵」、天正5年4月朔日付毛利右馬頭輝元書状は「謹上 上杉弾正少弼入道殿」とそれぞれ書かれており(『上越』1274・1275・1276・1144・1302・1303・1305・1306・1328・1332号)、足利義昭とその側近たちは謙信の宛名表記は、名字だけであったり、名字+官途であったり、庵号であったり、まちまちであるのはまだ良いとして、文中においては、天正3年12月16日付吉江喜四郎(資賢)宛真木嶋昭光副状写に「輝虎」、天正4年3月21日付「不識庵」宛足利義昭御内書写に「輝虎」、同年月日付智光院宛足利義昭御内書写に「輝虎」、同年月日付河田豊前守(長親)宛足利義昭御内書写に「輝虎」、天正4年5月16日付長(与一景連)宛六角義堯書状写に「謙信」、同年6月12日付河田豊前守(長親)宛足利義昭御内書に「輝虎」、同年6月25日付成福院宛足利義昭御内書に「謙信」、同年7月7日付河田豊前守(長親)宛足利義昭御内書に「上杉弾正少弼入道」、天正5年3月27日付吉江喜四郎(資賢)宛足利義昭御内書写に「謙信」、同年4月28日付真木嶋昭光・一色昭秀連署写に「謙信」「輝虎」と
それぞれ書かれており(『上越』1280・1144~1146・1288・1292・1295・1298・1329・1333号)、最後の真木嶋昭光・一色昭秀連署状写などは「謙信」「輝虎」が混在しているほどで、御所側の謙信の表記は全く一定していないばかりか、芸州毛利輝元とのやり取りでも「輝虎」と書いていることからして、御所側は永禄9年3月以来、書き慣れた「上杉弾正少弼とのへ」と書いてしまったのであろうし、そもそも書式と文面からして、両文書は明らかに上杉家の当主とその側近衆へ宛てられており、この時点で景勝が謙信から当主を継いでいたのならまだしも、そうではないのだから、景勝とその側近衆へ宛てられたものではないであろう。
 最後は、謙信没後の景勝と景虎の越後衆に対する発給文書の書札礼が異なり、景勝が薄礼、景虎が厚礼という事実からであるが、それはあくまでも謙信没後のことであって、景虎は【史料1・2】の通り、謙信在世中は山吉豊守と河田長親へそれぞれ「以上」と「謹言」の文言で締め、謙信没後の御館の乱中には北条安芸入道芳林・同丹後守景広父子や河田伯耆守重親たちへ「恐々謹言」の文言で締めているわけで、越・相一和破談後や上杉景勝が謙信の養子となった以降に景虎が越後衆への書札礼を薄礼から厚礼に改めた事実は、今のところ文書では確認できないのだから、謙信の後継者から外されたことに伴って書札礼を改めたとは言い切れるものではないであろう。
 もし本当に景勝が謙信の後継者になることが決まったのであれば、景勝は越後衆へ薄礼の書状を発給しているはずであるが、謙信在世中に景勝が発給した文書は、景勝が謙信から課せられた軍役を承り、謙信側近の吉江喜四郎資賢へ宛てて軍役指出書(『上越』1244号)を発したほかは、自身の直臣や上田領内の寺僧へ宛てたものしか見られないので(『上越』1283・1284号)、確かめようがなく、越後国上杉家の当主の座に就いた直後の景勝は、写しではあるが厚礼の書状を謙信旗本の諏方左近充へ宛てて発しており(『上越』1485号)、むしろ謙信在世中には越後衆へ厚礼の書状を送っていた可能性があるわけで、景虎は謙信の遺言で景勝が当主の座に就いたのち、越後衆に対する書札礼を厚礼に改めたが、越後国上杉家の当主の座を巡って景勝と争うことになっても、自分に従ってくれた大身の越後衆への書札礼を戻さなかったのだと考えられよう。
 このように景勝が謙信から後継者に定められたという根拠について検討を加えてみたが、何と言っても当の景勝自身が謙信の遺言に従って家督を継いだと表明しているわけであり(『上越』1477~1479号)、謙信は病に倒れるまで景勝を後継者に定めていなかったことを示している。


※ 天正3年正月11日に謙信が甥の上田長尾喜平次顕景を養子に迎え、上杉名字と弾正少弼の官途、そして景勝の実名を与えた書状(『上越』1241・1242号)は、『新潟県史 資料編3』が景勝の筆跡に似ているとしたことから、景勝が捏造したものという考えが示されたこともあったが、謙信在世中に景勝が弾正少弼を称していたのは確かであるため、現在では否定されている。とはいえ、謙信は長尾顕景時代も含めて景勝には「謹言」を書き止めとするの書状を発しており、件の書状のそれが「恐々謹言」であるからには、捏造ではないにしても、正確に写し取られたとは言い切れるものではないし、文言からしても、景勝が後継者と定められたものとは受け取れるものでもない。

※ 諸史料集は、足利義昭が謙信に「諸国輝虎可任覚悟事案中候」と示した御内書群(『上越』1144~1146号)を元亀4年や天正2年に置いているが、冒頭の「追々染筆候、甲・越并本願寺門跡半儀」は、天正3年12月2日付「不識庵」宛足利義昭御内書写と同年同月12日付同人宛足利義昭御内書写の「就越・甲・相和(和は加あるいは賀であったろう)之儀」「越・甲・相・賀之儀」に続く和睦勧告となろうから、1146号に当たる『歴代古案』所収の河田長親宛足利義昭御内書写に朱書きされている通り、発給年次は天正4年であろう。


 上杉景虎の動向は、謙信が元亀2年冬から翌3年春にかけて挙行した関東遠征に同行して以降、謙信が急逝して御館の乱が起こるまで、ほとんど分からないとされているが、それは天正3年正月に晴れて謙信の養子となった上田長尾顕景改め上杉景勝も同様であった。取り分け景勝は天正5年に至ってもまだ、上田衆(景勝の同名・同心・被官集団)を率いて関東や北陸の要地へ加勢に赴いていたのは、上田衆筆頭の栗林次郎左衛門尉房頼であったし(『上越』1307・1330号)、謙信と景虎・景勝の間でやり取りしている文書もほとんど現存しておらず、僅かに景勝が謙信へ新年の慶賀として太刀と銭を贈った際に発した書状(『上越』1382号)のみであったから、両養子は謙信と書状のやりとりをする必要が無いぐらいに行動を共にしていることが多ったのだと思われる。

 つまりは、越後国上杉家の当主に準じる立場にあった上杉景虎は、花押形に僅かに変化が見られる書状の存在から、謙信が甥の上田長尾喜平次顕景を養子に迎えて上杉弾正少弼景勝と名乗らせた以降も、その立場に変わりはなかったこと、景虎には北条家から随従してきた者たち以外の直臣も存在しており、率いるべき軍団が編成されていたこと、景勝が謙信の後継者に決まったという根拠のうち、確かなものは一つであったこと、天正年間に入ってから謙信が急逝するまでの間の動向がろくに知れないのは両人共であり、景勝は景虎と比べて突出した存在ではなかったこと、これらによって、両人は並び立っていたことが分かる。
 それは、天正4年頃に甲州武田家に従属する信濃国衆・木曽氏の家臣が武田家に提出した起請文(『戦国遺文 武田氏編』2629号)には、武田家の敵方として「織田信長父子、上杉謙信・同景虎喜平次(長尾顕景・上杉景勝)、徳川家康父子、今川氏真、飛州衆」が挙げられており、景虎と景勝が謙信に連なる者であるのは敵国にも知れ渡っていたことからも窺えるし、景勝が後継者であるならば、景虎とは明確な差をつけてやり、足利義昭から一字を頂戴するなどして「景」の字に一字を冠する実名を与えても良さそうなところ、景虎と景勝は共に「景」の一字を冠する実名であり、景虎は謙信の初名、景勝は謙信の官途を与えられてバランスが取れていること、
天正6年春に謙信が挙行する関東大遠征に向けて、前年末に謙信が作成した動員将士名簿には、当主に準ずる立場の景虎・景勝は共に記されていないこと、景虎は寺社や越後衆と慶賀のやり取りをしているが、関東味方中と音問を通じている文書は見当たらず、逆に景勝は関東の味方中とは音問を通じているが、上田領以外の寺社や越後衆と慶賀のやり取りをしている文書は見当たらず、とはいえ、いずれも当主に準ずる要務を任されていたことは、両人が並び立っていた状況をよく表している。
 謙信の構想としては、元亀3年の加賀国・越中国一向一揆との対決以降、北陸の平定を進めて領国が拡大していくなか、天正4年3月に謙信は足利義昭から「天下再興」に寄与したあかつきには、謙信に諸国を信任させるのは思いのままであることを示しており(『上越』1144・1145号)、もしそれが実現したとしたら、謙信は新たな責任を負う身となるとともに上杉家も更なる大勢力となり、今でさえ自分がもうひとり欲しいと痛切に思っていたであろう謙信からすれば、何としても自分の代で、天下においては織田信長、関東においては北条氏政と何らかの形で決着をつけたのちに、養子のふたりに領国を分け与えたいと考えていたのかもしれないし、かつて謙信は長尾景虎期の天文21年に将軍足利義輝から在京して忠功を励むように命じられて以来、それを果たすのを念願し続けていたが、義輝の横死後に将軍が義昭に代わっても、その思いに変わりはなかっであろうから、念願叶ったのちは、謙信には両養子に加えて嫡孫もおり、いずれかをもって在京奉公する上杉家を任せる心積もりであったのやもしれず、そうであれば、越後国とは縁が薄い景虎、謙信が将軍足利義輝の肝煎りによって得た弾正少弼の官途を譲り受けた景勝、どちらが任されたとしてもおかしくはなかったであろう。いずれにしても景虎とその直臣団を干している場合ではなかったはずである。
 ではなぜ、謙信の急逝後に景虎が山内上杉家の当主になっていないのかといえば、思いがけず死病に倒れて自分で決着をつけるどころではなくなり、次世代の構想も吹き飛んでしまい、どちらか一人に上杉家を委ねるほかなかった謙信の遺言により、急遽、景勝の方に決定してしまったので、景虎はそれを受け入れるしかなかったのだろう。



※ 永禄9年3月10日に、江州矢嶋御所の足利義秋から、越後国上杉輝虎をはじめ、輝虎の甥である上田長尾喜平次顕景、外様衆の色部修理進勝長、譜代衆の斎藤下野守朝信、信濃衆の泉弥七郎へ宛てて御内書が発せられ(『上越』497~502号)、義秋の上洛戦にあたり、輝虎が越・相無事を遂げて参洛できるように、各々が尽力することを命じたのは、輝虎および上杉側の取次である直江大和守政綱と河田豊前守長親が下総国経略のために関東へ出てしまっており、越府の留守将に対して、輝虎へ宛てた御内書を転送することと、輝虎の参洛実現のために協力し合って奔走することを命じたわけであり、特に長尾顕景を輝虎の後継として意識したものではないであろう。また、天正3年から揚北衆の新発田尾張守長敦と竹俣三河守慶綱が越後国上杉家の年寄衆に加えられて一部の連署奉書に加判するようになったのは(『上越』1258号)、来るべき上杉景勝政権を支える年寄として新たに抜擢されたともいわれるが、揚北衆の中条・安田・下条のそれぞれに、謙信旗本の吉江景資の次男(中条与次景泰)・河田長親の弟ふたり(下条采女正忠親・安田新太郎堅親)が入嗣していることからしても、先を見据えた人事というよりは、いよいよ謙信の権力が揚北衆を取り込んでいく段階に入ったからであろう。


※ 最後に上杉景虎と関連するかもしれない史料を掲げておく。

【史料5】本庄宗緩宛「神右 長元」書状(『上越』1431号)
  折紙式恐入計候、猶以、如何御座可有候哉、 御意見御申次第候、御使
  之義、さいれう之者、上下弐人、人夫七人、以上九人御座候、以上、
先日曾祢ほうを以、 御内義被仰入候、山孫(山吉豊守)・直太(直江景綱)へ御使、明日被為越度由、 御内意御座候、貴所様此段頼令申、改所御手判を可申請由候、為其乍恐折紙以申達候、以上、
   六月十二日       長元(花押)
(見返しウワ書)

 ----------------------------------------
 美作入道殿      神右
      参人々御中    」


 この【史料5】の発給者である「神右 長元」について、『新潟県史 資料編』に載録されている同文書(424号)では、越中国増山の神保惣右衛門尉長職である可能性を注記しているが、『新潟県史 資料編』の付録に載る「神右 長元」の花押形は、神保長職のそれとは異なっている。花押を改めた可能性もあろうが、明日には謙信側近の山吉孫次郎豊守と直江大和守景綱の許へ使者を向かわせると言っているからには、時間的に見ても他国の人物とのやり取りとは考えにくい。

 それは受給者が本庄美作入道宗緩(俗名は実乃)であることからも窺える。本庄宗緩は謙信が長尾景虎を名乗っていた頃の側近で、永禄の初め頃には一線を退いていたが、隠居後も別格の老臣として遇され、人手が足りない時などには、春日山城の留守居や臨時の取次に駆り出されている人物であり、もはや戦陣に赴いたりはしていないので、直江景綱と山吉豊守が越府にいたのは確かなことからである。
 発給者の「神右 長元」は主人の意を受けて本庄宗緩へ連絡を取り、先日は曾祢を使者として(謙信へ)「御内儀」を仰せ入れており、(「神右 長元」の主人は)明日には山吉と直江の許へ「御使」を遣わしたいとの「御内意」であるので、改所の手形が相違なく発給されるように口添えを頼み、さらに追而書で、(御内儀については)どうようにあるべきなのか、(「神右 長元」の主人へ)「御意見」を寄せてくれるように頼んだものである。
 ここでの「御使」は宰領が上下2名で7名の人夫を監督する編成であり、改所を滞りなく通過するための「御手判」を申請しているようなので、荷物を山吉・直江の許へ運び込もうとしていたらしい。
 この書状を発給した人物の主人は闕字を用いられているほどであるから、該当者は限られてくるが、文意からして謙信ではないであろう。そこで発給者の略称から察するに、この主従は上杉景虎と神田右衛門尉ではないだろうか。
 先述したように、神田右衛門尉は御館の乱時に遠山康光と連署奉書を発するほどの重臣であったことと、久野北条氏家中には、文中に現れる「曾祢」を名字とする采女や外記がいた(『小田原衆所領役帳』)ことからしても、景虎の関連文書である蓋然性は高いと考えた。
 もしこの通りであるとしたら、栃尾本庄氏が御館の乱で景虎の有力な支持者となったのは、こうして景虎と本庄宗緩との間で繋がりが生じたからなのかもしれない。



◆『謙信公御書集 東京大学文学部蔵』(臨川書店)
◆ 米澤温故会編『上杉家御年譜 第一巻 謙信公』(原書房)
◆ 米澤温故会編『上杉家御年譜 第二巻 景勝公(1)』(原書房)
◆ 高橋義彦編『越佐史料 巻五』(名著出版)
◆ 上越市史編纂委員会編『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)497号 足利義秋御内書、498号 大覚寺義俊副状、499号 足利義秋御内書写、500号 大覚寺義俊副状写、501・502号 足利義秋御内書写、641・642号 後藤勝元書状、723号 北条氏康条書、726号 進藤家清書状、755号 北条氏康・氏政連署状、817号 北条氏政条書、828・838号 北条氏康書状、845号 遠山康英進物注文、882号 藤田氏邦書状、888号 上杉輝虎(謙信)条書、906号 北条氏康書状写、923号 上杉景虎書状、927号 北条氏政条書、929号 大石芳綱書状、940号 上杉謙信書状、948号 上杉輝虎条書、1039号 北条氏政書状写、1103号 上杉謙信書状、1144~1146号 足利義昭御内書写、1182号 色部顕長祝儀覚案、1211号 上杉謙信軍役状、1244号 上杉景勝軍役指出書、1241・1242号 上杉謙信書状写、1246・1247号 上杉家軍役帳、1250号 上杉謙信願文、1252号 上杉謙信書状、1253号 上杉景勝書状写、1258号 斎藤朝信等三名連署状、1283号 上杉景勝ヵ判物写、1284号 上杉景勝判物写、1307・1330号 上杉謙信書状、1382号 上杉謙信書状写
◆ 上越市史編纂委員会編『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』(上越市)1477号 上杉景勝書状写、1478号 上杉景勝書状、1479・1485号 上杉景勝書状写、1616号 上杉景勝感状、1710号 上杉景虎朱印状、2844号 高梨頼親宛行状写、3895号 上杉景勝ヵ書状
◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一 別冊』1066・1087・1402号 上杉景虎書状、1710号 上杉景虎朱印状
◆ 三条市史編修委員会編『三条市史 資料編 第二巻 古代中世編』(三条市)313号 上杉景虎書状
◆ 新潟県編『新潟県史 資料編5 中世三 文書編Ⅲ(新潟県)2936号 平等寺薬師堂資料 五 内陣正面右側上部嵌板墨書
◆ 杉山博・下山治久編『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』(東京堂出版)1361号 北条氏邦書状
◆ 杉山博・下山治久編『小田原衆所領役帳 戦国遺文 後北条氏編 別巻』(東京堂出版)
◆ 柴辻俊六・黒田基樹編『戦国遺文 武田氏編 第四巻』(東京堂出版)2629号 木曽家家臣某起請文写
◆ 荒川善夫・新井敦史・佐々木倫朗編『戦国遺文 下野編 第一巻』(東京堂出版)808号 真崎義伊書状写
◆ 阿部洋輔『上杉氏の研究 戦国大名論集9』(吉川弘文館)【Ⅰ 史料の基礎的研究】 中野豈任「三 いわゆる「安田領検地帳」について」
◆ 木村康裕『戦国期越後上杉氏の研究 戦国史研究叢書9』(岩田書院) 「景虎・景勝の御館の乱 付論一 上杉景虎の発給文書」
◆ 片桐昭彦「上杉謙信の家督継承と家格秩序の創出」(『上越市史研究』第10号)
◆ 海老沼真治「御館の乱に関わる新出の武田勝頼書状」(『戦国史研究』第65号)
◆ 竹井英文《史料紹介》石川県立図書館所蔵「本多家士軍功書」(『東北文化研究所紀要』第47号)
◆ 下山治久編『後北条氏家臣団人名辞典』(東京堂出版) 「篠窪氏」
◆ 黒田基樹『北条早雲とその一族』(新人物往来社) 「三 三代氏康の妻子 上杉景虎」
◆ 山口博『北条氏康と東国の戦国世界 小田原ライブラリー13』(夢工房) 「6「武榮」を求めて 出馬の停止」
◆ 谷口克広『信長の親衛隊 戦国覇者の多彩な人材』(中公新書) 「第Ⅰ部 家臣団の中の近臣たち 五 異色の馬廻たち 反骨の三人男」
◆ 丸島和洋『戦国大名の「外交」』(講談社選書メチエ)
◆ 黒田基樹編『山内上杉氏 シリーズ・中世関東武士の研究 第12巻』(戎光祥出版) 木下聡「
山内上杉氏における官途と関東管領職の問題」
◆ 黒田基樹・浅倉直美編『北条氏康の子どもたち』(宮帯出版社) 黒田基樹「序章相論 北条氏康の子女について」 浅倉直美「第一章 北条氏康の息子たち 北条氏邦 氏邦の生母と三山氏」 片桐昭彦「同前 上杉景虎 景虎の書札礼と政治的地位」
◆ 室岡博『柿崎景家 ー川中島先陣ー』(日本城郭資料館出版会)「楞厳寺住職石黒良平 特別寄稿 楞厳寺について」

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