永禄12年(1569)2月 越後国(山内)上杉輝虎(旱虎。弾正少弼)【40歳】
6日、越後国村上陣(瀬波(岩船)郡小泉荘)から各地へ地下鑓を募り、年寄衆の柿崎景家・山吉豊守・直江景綱をもって、奉行衆の岩船藤左衛門尉(実名は忠秀か)・羽田六助(六介とも)に朱印状を渡し、地下鑓触の覚、一、やり、一、なは 弐荷 廿ひろつゝ(尋宛)、一、なた、一、くわ、右、鑓百挺に小旗三本宛、ならびに壱人にこの通りの四様(鑓・縄・鉈・鍬)を持たせ、出すべきようにと、堅く触れられべきこと、このたび武具を持参して罷り出た者には、かならず御褒美を遣わすと、 (輝虎は)仰せ出され、 御印判を発せられたものであること、よって、前記した通りであること、これらを申し渡している(『上越市史 上杉氏文書集一』650号「岩船藤左衛門尉殿・羽田六助殿」宛上杉輝虎朱印状写【奉者「(柿崎)景家・(山吉)豊守・(直江)景家」】)。
直江景綱は、これ以前に実名を政綱から景綱に改めている。永禄11年春の本庄繁長の叛乱により、夏に柿崎景家・直江政綱を主将とする軍勢が、本庄の立て籠もる越後国奥郡の村上に差し向けられ、ようやく冬に至って輝虎自身が越府から村上陣へ下ってくるまでの間、柿崎景家と共に村上陣を堅持した功績により、輝虎から一字を与えられたものか。
13日、村上陣から、越府の上田長尾喜平次顕景(輝虎の甥。越後国魚沼郡の坂戸城を本拠とする)へ宛てて返状を発し、専心して念入りな音信、殊に祈念を込めたまもり札と巻数(読誦した経文の種類と度数を記したもの)が到来し、喜びもひとしおであること、爰元(村上陣)をやがて平らげ、帰府のうえ、(謝意を直接)申し述べること、これらを謹んで申し伝えた。さらに追伸として、返す返すも、念入りな音信が到来し、喜びもひとしおであること、筆跡がますます上達しており、手本を送り届けること、以上、これらを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』308号長尾「喜平次殿」宛上杉「旱虎」書状【花押a】)。
※ 当文書を、『上越市史 上杉氏文書集一』などは永禄5年に仮定しているが、今福匡氏の論考である「「旱虎」署名の謙信書状について」(『歴史研究』第502号 歴研)に従い、当年に発給された文書として引用した。
〔越・相一和を巡る関東味方中との交信〕
2月5日、常陸国衆の多賀谷入道祥聯(修理亮政経。常陸国関郡の下妻城を本拠とする)から、取次の河田豊前守長親へ宛てて返状が発せられ、去月12日付の御状(河田長親書状)が当月4日に到着し、高札(輝虎の書状)ならびに写物(相州北条家から越後国上杉家に届いた越・相一和を打診した書状の写し)披読申し上げ、過分の極みと存じ申し上げること、(越・相一和については)南方の計策は今に始まったものではないにより、(多賀谷祥聯から)取り立てて言うには及ばないこと、もとより、(佐竹)義重は(常陸国筑波郡の)小田に向かって御戦陣を催し、正月15日に(同真壁郡の)海老嶋(小田氏治の属城)を取り詰めなされ、翌16日に夜襲を仕懸けて、(曲輪を)残らず取り壊され、実城ばかりに追い詰められたこと、そうしたところ、城主(平塚刑部大輔)がしきりに(降伏を)懇望してきたうえは、身命を保証して、証人数輩を拙者が受け取り、佐御陣下(佐竹義重の本陣)へ引き渡し、爰元は確かに愚拙が取り扱ったこと、そうしてから、21日に小田へ押し寄せ、佐村と号する地に御陣取りされ、宿外張まで放火し、彼の領中郷村を一所残らず打ち散じられたこと、数日間、御張陣に及んでから、まずまず御馬を納めなされたこと、初夏の御戦陣は必定であるから、小田については、確実に決着がつくであろうこと、早々に御膝下を平らげられ、御越山されて関東を思うがままに御本意を遂げられるのを、皆々が待ち申し上げていること、(下総国葛飾郡の)関宿の地も大切であるからには、御急速の御越山に極まるものと、恐れながら存じ申し上げること、御催促のため、房州(里見家)からも仰せ届けられるうえは、(この紙面は)省略申し上げること、この趣を御披露に預かりたいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』649号「河田豊前守殿」宛「多賀谷入道祥聯」書状)。
同じ頃、常陸在国の白井長尾左衛門尉入道(俗名は憲景。先年に本拠の上野国群馬郡の白井城を失った)から、越後国上杉家の年寄中へ宛てて返状が発せられ、正月12日付の御一札が、去る晦日に到着、芳簡の通り、大石源三(相州北条氏政の兄弟衆である北条氏照)から(一和を)懇望されたのに伴い、とりもなおさず、(氏照書状の)写物を一覧のために差し越されたこと、御厳密のものと認識していること、直江大和守から返札の写しは到着していないこと、されば、たとえ(越・相の)思惑が一致して無事がまとまるとしても、味方中を見捨てられてはならないと、ひときわ各々は肝心であると申していること、そうではあっても、このほどは万事を差し置かれて、御越山に至れば、関東の御本意は瞬く間であろうこと、駿・相両国の件が落居してから(越山したの)では、労して功はないのではないかと思われ、一刻片時でも早々の御越山を待ち入るばかりであること、それからまた、(佐竹軍は)正月15日に海老嶋へ進陣し、翌16日の夜中より攻め始め、さらに翌17日の午刻(正午前後)に実城ばかりの裸城にしたところ、しきりに平塚刑部太輔が(降伏を)懇望し、証人として親類・家風の者までが実子を差し出したので、赦免したこと、(佐竹義重は)彼の地の普請・仕置を申し付け、21日に小田の佐村へ移陣し、翌22日に氏治の在城に攻め懸かり、不動山へ打ち上り、一日がかりで陣を構え、内々に陣を進める心積もりでいたところ、真壁安芸守(久幹)・太田美濃守父子(太田道誉・梶原政景)・多賀谷修理(入道祥聯)が意見を致し、(輝虎が)いつ越山してくるかもしれないので、進陣してしまっては、(上杉軍と)手合わせも不調になるかもしれないので、早々に帰陣するのが適切であろうと勧めたので、(義重は)その考えに従ったこと、よって、関宿については、不動山(関宿城に対する付城)を敵(相州北条軍)が今なお拠っているので、日を追うごとに手詰まりとなっており、(輝虎の)御越山がなければ、自落してしまうこと、御越山される以外にはないであろうこと、余事は追って使者をもって申し達すること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』648号「越府江 貴報人々御中」宛「長尾左衛門尉入道沙弥」書状写)。
※ 当文書の日付は3月7日であるが、前後の書状との兼ね合いからして、月は誤写ではなかろうか。
11日、太田三楽斎道誉(俗名は資正)から、取次の山吉孫次郎豊守へ宛てて返状が発せられ、先月12日付の御貴札(山吉書状)を、当月朔日に謹んで披読し、大石源三方が御当国(越後国上杉家)へ申し達せられた旨を、とりもなおさず、仰せ出されたこと、御厳密の事柄であるのは、奇特と存じ申し上げること、一々を(佐竹)義重へも申し渡したこと、12月27日に佐竹(佐竹氏の本拠である常陸国太田城)から申し上げたこと、正月2日には当地(太田道誉が拠る常陸国片野城)からも申し達したこと、その首尾を恐れながら御理解してほしいこと、南方(相州北条家)は苦境に陥った時には、どれもこれも思わせ振りな態度を取るのはいつもの通りであること、もちろん正直な申し入れと思われるに至ったのであれば、すべてが御相違となってしまうこと、大石源三・北条丹後守(高広)の書中(越後国上杉家宛て)の写しを披読申し上げたこと、直江方からの返札(相州北条家宛て)の写しは、御失念されたものか、届いてはいないこと、南方から近頃は佐竹へ一向に音信はないこと、義重においては、先月10日に当地(片野城)まで御着馬、15日に海老嶋と号する地へ押し寄せられ、16日の酉刻(午後6時前後)から攻め始められたこと、翌日まで人衆を引かれなかったので、17日の巳刻(午前10時前後)に宿城を取り壊されたこと、城主(平塚刑部大輔)がしきりに(降伏を)懇望し、もとから佐竹に対して別心はないといい、我等(太田道誉)とは懇ろな間柄の人物といい、(太田道誉が平塚の赦免の)取り扱いに及んだゆえ、三日のうちに無事落着し、証人をすべて受け取り、一両日は彼の地の普請に費やし、21日に小田へ進陣、在々所々を残らず放火、府中(常陸国府中の大掾貞国)にも御手合せしてきたこと、このたびは真壁方(久幹)の奔走は類い稀であったこと、多賀谷修理亮(政経。号祥聯)にしても同前であること、もとより、南方からどのような計策が図られようとも、当口御味方中を御覧じ放し(見放し)たりはしないとの(輝虎からの)御文体は、誠にもって感じ入り、御頼もしく存じ申し上げること、そして、房州への(輝虎の)御書札は、とりもなおさず、簗田方(下総国関宿の簗田晴助・同持助父子)へ差し越したこと、房州からも脚力をもって御申し届けられること、多くの言葉を尽くして御越山に極まること、やがて佐竹から御使いをもって仰せ述べられるにより、愚息(梶原政景)においても代官をもって申し達すること、関宿の件は、極めて手詰まりであるので、通例の越山要請とは思われないでほしいこと、詳しくは石井拾左衛門尉(太田道誉の使者)が申し上げること、こうした趣旨を御披露に預かりたいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』657号「山吉孫次郎殿」宛太田「三楽斎道誉」書状)。
同日、太田三楽斎道誉から、山吉孫次郎豊守へ宛てて、別紙の追而書が発せられ、南方からの計策を、誠意あるものとして、御取り成しされるように、盛氏(奥州会津の蘆名止々斎)へ仰せ届けられたのではないかと、(太田道誉は)そのように理解したこと、本庄を御手に入れたのかどうか、遠路の会津の領中も大切であるので、御当陣(輝虎による本庄村上陣)の御様子をも見えないというのは、恐れながら御心配存じ申し上げること、甲・南(相)の抗争は過小な有様ではないこと、今般は御人衆だけをもっても、御越山に至るならば、関東の御平定を遂げられるものと、深く思っていること、何としてでも関宿の堅固なうちの御越山に極まること、今来月のうちも保持はできないと、(簗田父子から)承り届けたこと、こうした事柄を御披露に預かりたいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』659号「山吉孫次郎殿」宛太田「三楽斎道誉」書状)。
〔越・相一和の交渉〕
2月2日、相州北条氏康の側近である遠山新四郎康英(遠山左衛門尉康光の嫡男。小田原衆)から、上野国沼田城(利根郡沼田荘)の在城衆である松本石見守景繁・河田伯耆守重親・上野中務丞家成へ宛てて条書が発せられ、覚、一、このたび使僧をもって、氏康父子(北条氏康・氏政)の証文(誓詞)を送り届けられるとのこと、一、相・甲両軍の御対陣は間近であるので、御弓矢は差し迫っていること、同じくは、越の御人数(越後上杉軍)も早々に(信州へ)打ち出され、沼田御在城衆は(上野国吾妻郡の)大戸・岩櫃筋へ火の手を揚げられるように、(相州北条父子は)念願されていること、此方の人数(相州北条軍)は、其方(越後国上杉家)からの御作意(意図)に従って手立てに及ばれること、一、(この条書を携えた)彼の飛脚は来る14日か15日に帰路致すであろうか、16日か17日辺りには、拙者親子(遠山康光・康英)のうち、どちらかが(上野国新田郡の)金山城まで差し越されると、(父子の)内儀であること、御両所(松本景繁・河田重親)と半途(沼田と金山の間)において御対談あり、仰せ合わされるべきであろうか、されば、御日限を仰せ下されべきこと、これらの条々を申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』647号「松本石見守殿・河田伯耆守殿・上野中務少輔(丞)殿」宛「遠山新四郎康英」条書)。
6日、相州北条氏康(相模守)は、他国衆の由良信濃守成繁(上野国新田郡の金山城を本拠とする上野国衆)へ宛てて書状を発し、先書で申し届けた通り、天用院(相州北条家の菩提寺である早雲寺の支院主。北条家の家老である石巻下野守家種の実弟)を彼の国(越後国)へ差し越すこと、誓詞ならびに条目など、委細を申し含めて託したこと、輝虎へ(送る)書中については、用捨をもって我慢すること、(代わりに)沼田衆・直江(景綱)・柿崎(景家)の所へ書中に及ぶこと、その地(金山城)において、よくよく(天用院から)聞き届けられ、諸事万端の御助言が肝心であること、とりわけ、(今川)氏真から使僧(善得寺茄首座)が参られ、はるばる当地(小田原)に逗留していること、このたび天用院に差し添えること、これまた、よ御指南が専一であること、なお、詳細は柳下・内海に申し含めたこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』652号「由良信濃守殿」宛北条「氏康」書状)。
同日、駿河国薩埵山(庵原郡)に在陣中の相州北条氏政(左京大夫)は、由良信濃守成繁へ宛てて書状を発し、彼の(越・相一和の)扱いが過半は調ったのかどうか、このたび沼田からの使いが当陣まで参着したこと、其方(由良成繁)が精励されたゆえ、時宜に適ったものであるにより、満足であること、このうえは早々に(一和を)成就し、彼(越後国上杉軍)の出張を一日も急がれるのが専一であること、もとより、昨年の12月26日に(伊豆国田方郡の)三島を打ち立ち、薩埵山の敵を追い崩し、彼の嶺に陣を張り、甲・相両軍は一里の間に対陣していること、今この時に信州へ越衆(越後国上杉軍)が出張するについては、越・相の互いが本意を遂げるのに、後戻りはできないのではないかと思われ、力の及ぶ限り敵が退散するように追い詰めること、ただし、道筋が数多あるので、どうなるかは分からず、従って、このたび松石(松本景繁)の条目の旨に従い、誓句をもって越(輝虎へ)申し越すこと、つまりは、其方(由良成繁)が心得て調えられるべきであるので、任せ入ること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』653号「由良信濃守殿」宛北条「氏政」書状)。
同日、相州北条氏政から、年寄衆の柿崎和泉守景家・直江大和守景綱へ宛てて、初信となる書状が発せられ、これまで申し交わしてはいなかとはいえ、申し上げること、もとより、越・相和融について、思慮を忘れて申し届けたこと、御骨折りを頼み入ること、委細は天用院が演説すること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『戦国遺文 後北条氏編 補遺』4681号「柿崎和泉守殿・直江大和守殿」宛北条「氏政」書状)。
同日、相州北条氏康から、沼田城将の松本石見守景繁へ宛てて書状が発せられ、越・相和融について、何度も新太郎(氏康の五男である藤田氏邦。武蔵国男衾郡を中心とした鉢形領を管轄する)が申し届けたところ、御入魂に預かったこと、真実から本望至極であること、このたび氏政が宝印を翻した誓詞をもって申し述べること、越府(輝虎)が御同意してくれるように御根回してほしいこと、甲・相両軍の弓矢の様子は、両人(氏政・氏邦兄弟)の文(書状)を給わり、見届けるので、委細には及ばないこと、(今後の武田軍に対する)手立てなどについては、天用院の口上に申し含めたこと、願わくば(彼の者に)同道あり、越府における御指南を頼み入るばかりであること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』651号「松本石見守殿」宛北条「氏康」書状写)。
7日、新田の由良成繁から、沼田在城衆の松本石見守景繁・河田伯耆守重親・上野中務丞家成へ宛てて返状が発せられ、一昨日は、御懇ろに示し預かり、本望の極みであること、とりもなおさず、御知らせに及んだこと、(御使者は沼田へ)帰着したのかどうか、されば、先だって南方(相府小田原)へ差し越された両人は、(薩埵山の)陣中に逗留されていること、彼の両人が(沼田へ)帰着するまでには遅延するようについて、氏康が覚悟のところを、まずまず方々(沼田衆)へ直札をもって申し述べられること、そのため折り返しで志津野(一左衛門尉。氏政兄弟衆の藤田氏邦の家臣)を差し越されたこと、先月26日に(氏政は)駿州近辺の薩埵山と号する地へ進陣され、信玄も対陣したそうであること、この機会を捉えて越国(越後国上杉軍)の御手立てが御急速に至れば、信・甲両州の速やかな御静謐は疑いないこと、これらの趣を申し述べるべきため、(氏政から)上野式部少輔方が両人に差し添え遣されること、氏康父子(北条氏康・氏政)からの誓詞を、遠山左衛門尉父子(遠山康光・康英)のどちらかが持参するそうであること、その地(沼田)からは、川境まで御出ましあるべきか、日取りなどを詳しく御知らせに預かりたいわけであり、(詳細は)彼の(使者の)口上に申し含めたので、(この紙面は)省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』654号「松石・河伯・上中 御宿所」宛由良成繁書状写)。
〔将軍足利義昭との交信〕
2月8日、将軍足利義昭から御内書が発せられ、このたび凶徒などが蜂起したところ、とりもなおさず、織田弾正忠(信長)が馳せ参じ、ことごとく本意に属し、(信長は)今なお在洛しているわけであること、次いで、越・甲はこの折に和与し、いよいよ天下静謐のために(輝虎が)信長と相談するのが肝心であること、そのために智光院(頼慶。越後国上杉家の使僧)を差し下すものであること、これらを申し渡されている(『上越市史 上杉氏文書集一』655号「上杉弾正少弼とのへ」宛足利義昭御内書【署名はなく、花押のみを据える】)。
同日、濃(尾)州織田信長(弾正忠)から、取次の直江大和守景綱へ宛てて副状が発せられ、越・甲御間の和与について、 (将軍が)御内書を認められたこと、この折に入限あり、 公儀(足利義昭)のために御奔走されるのが肝心であること、格別に取り成しを致してもらえれば、信長においても快然であること、なお、御使僧が漏れなく申し述べること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』656号「直江大和守殿」宛織田「信長」副状)。
〔友好関係にある飛州姉小路三木家との交信〕
2月10日、飛州姉小路三木良頼(中納言)の重臣である塩屋筑前守(実名は秋貞か)へ宛てて書状を発し、久しく無沙汰していたにより、(三木)良頼へ一札申し上げること、その表(飛騨国)に異変はないか、心配していること、当口については、逆徒(本庄繁長)を成敗して決着をつけるのも程近いので、安心してほしいこと、されば、駿・甲・相三ヶ国の抗争が取り沙汰されていること、どのような事情であるのか、恐らくその口には(様子が)聞こえているであろうこと、詳しい回答が寄せられれば、喜悦であること、なお、帰府したうえで、万疎を申し届けること、取り成しを任せること、これらを恐れ謹んで申しを伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』657号「塩屋筑前守殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a4】)。
同日、飛騨国姉小路三木家との取次を任されている村上国清(通称は源五。信濃衆の村上兵部少輔義清の世子)が、飛騨国の味方中である江馬四郎輝盛(飛州姉小路三木氏の重臣。飛騨国吉城郡の高原諏訪城を本拠とする)の宿老である河上式部丞へ宛てて書状を発し、それ以来はだんだん無音になってしまったとして、輝虎から飛脚をもって申し入れられること、その国(飛騨国)にどうような事情があるのか、承りたいこと、以前に申し入れた通り、(本来であれば)四郎殿(江馬輝盛)へ御音信に及ぶべきとはいえ、(輝虎は)引き続き豊前(河田豊前守長親)の御取り成しをもって、重ねて申し上げられること、およそ老父(村上義清)においては、貴国(飛州姉小路三木家)の取次を務められてきたこと、なお、拙夫(村上国清)も寸分変わらず(取り次ぎに)奔走する真情であること、こうした事情の適切な御取り成しを任せ入ること、当国は相応の事情を親しく承り、当然ながら無沙汰のないように努めること、なお、(詳細は)若林采女允が申し越すので、(この紙面は)省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』450号「河上式部少輔(丞)殿」宛「村上 国清」書状写)。
当文書を、『上越市史 上杉氏文書集一』は永禄8年に仮定しているが、岡村守彦氏の著書である『飛騨史考 中世編』の「三木時代 四 越中出陣【上杉方越中守備軍】」の記述に従い、当年の発給文書として引用した。
この間、敵対関係にある甲州武田信玄(徳栄軒)は、11日、駿河国興津城(庵原郡)から、西上野に残留する先方衆の小幡尾張入道全賢(上野国甘楽郡の国嶺城を本拠とする)へ宛てて書状を発し、(このたび寄せられた)来意の通り、息総州(小幡上総介信実)が(当地に)着陣し、諸事について談合を遂げたこと、御安心してほしいこと、よって、当城(興津城)の改修を残らず終え、今日明日中に甲州から糧米を搬入し、そういうわけなので、氏政の陣所に向かって一撃を加えたのち、早々に帰国するつもりであること、また、沼田表に異変はないようであり、安堵していること、なお、(詳細は)隼人佑(原昌胤。譜代衆)が申し届けること、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、僅かではあるとはいえ、遠方より入手した蛤一籠を贈ること、これらを申し添えている(『戦国遺文 武田氏編二』1363号「信竜斎」宛武田「信玄」書状写)。
◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『戦国遺文 後北条氏編 補遺編』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 武田氏編 第二巻』(東京堂出版)