大政・小政の気ままな日誌

キャンピングカー(小政号)の出番が減って覚書のブログになっています。ボケ防止の為に毎日継続することを目標にしています。

小政号久々のお出かけでしたが

2012年10月26日 | 小政号の旅日記
今週末は土・日曜日と雨の予報が出ていますが、今日のゴルフは朝が早く遠いので、前泊で道の駅「大任桜街道」に泊まった。

道の駅でのお泊りは寒くなったのが原因か、3台しかなかった。朝早くに起きたがまだ3:30少し早すぎるので、物音を出さないように起きてトイレに行く、流石冷え込み
が厳しく、また布団にもぐり込む。アルミボディーと断熱材がきいているのか布団に入ると快適に寝ることが出来ます。

つい寝すぎて次に起きたのは6:30寝すぎた。今日の出発は7時だから急がなくては・・・ごはんをチンして卵かけとお湯を沸かしてインスタント味噌汁を急ぎ駆け込み、急いで歯磨き、これも道の駅の洗面所を拝借します。

7時の予定が15分遅れたて車で走り出すとポッポッと小雨が降って来ます。今日の天気予報は曇りで雨は降らない予報だったのに・・・病み上がりのカミさんは既に嫌がっていますが、これしき止める訳にも行かないので無視して車を走らせます。

7:50ゴルフスタート雨は少し激しくなって傘がいる程の雨足となり・・・・



しかし徐々に小雨となり7番ホールでは殆ど上がったようです。





ハーフは10:10に上がって食事は早すぎるのですが、40分の休憩をして後半ハーフは青空も見えて楽しいゴルフになりました。先輩2人とご一緒したので、カミさんは少し緊張したのかスコアーは満足出来なかったようでうですが、病み上がり最後までよく頑張りました。

後半ハーフが終わって風呂の後に遅い食事をして、またの再会を約束して先輩方とのお別です。この後道の駅「うすい」に向けて車を走らせます。

道の駅を冷かして、私は眠くなったので昼寝で、しっかり2時間も寝込みました。明日は英彦山山頂へ紅葉見物の予定でしたが、カミさんは今日のゴルフで疲れたようで・・・弱気な事を言っています。

天気予報を調べると、変わらず明日は雨の予報で、私も2~3日前から時々歯が痛んでいましたが、どうも本格的に痛み出して17:30家路へ・・・・・・



長崎街道(小倉宿~黒崎宿)part5

2012年10月25日 | 長崎街道歩きの旅
昨日の飲み会は大いに盛り上がり実力以上に飲みすぎたのか、完全二日酔いで朝の寒さが丁度良い

紅梅町の交差点を右斜めに曲がって少しで、鹿児島本線を横切ります。



発掘された黒崎宿本陣周辺の説明



この丘の上に黒崎城があったようです。黒崎城は関ヶ原の戦功により入国した黒田長政が福岡城を築城する際に豊前への押さえとして築いた城ですが築城から15年で豊臣秀吉の命で一国一城により廃城となりました。



黒崎城の裏手は黒崎港があり、小倉港とともに九州で2ヶ所の九州と大阪を結ぶ乗合貨客船の発着する港でした。九州西南諸藩の参勤交代もこの両港を利用しました。



黒崎宿の案内板があります。



東構口跡は、長崎街道の宿場「黒崎宿」の東側の出入口があった所です。
今は、天和3年(1683年)に再興された海蔵庵が建っています。本尊の阿弥陀仏座像は、天平16年(744年)行基によって造られたと伝えられています。

元和元年(1615年)黒崎城を廃し、城の南側にあった堀を埋めて構口を開き、番所を設けて行旅の人を監視したのが始まりで、黒崎の宿場を通過するには必ず東と西にある構口で検査を受けました。

構口(かまえぐち)とはいわゆる宿場の出入り口のことで、東の構口田町は4人、西の構口熊手には3人の役人が昼夜交代で詰め、行旅の監視をしていました。





また少し歩くと鹿児島本線を渡ります。このすぐ先が黒崎駅です。



国道3号線を横断して、ここを右手に曲がり藤田商店街に向けて歩きます。



おや可愛い顔をしているのに時に噛みつくそうです。



メガネ屋さんの前に椅子があり、しばし休憩します。トイレも貸してくれるようです。



ここから藤田商店街へ入ります。



商店街の中央に興玉神が・・・・



もう少しで本日の目的地ですが、少し寄り道して岡田宮にお参りします。





やっと到着曲里の松並木です。









街道歩き歩数が24,000歩(全28,600歩・18.4km)

明日はゴルフへ行きます・・・・で今日はゴルフ場の近くの道の駅「大任桜街道」に来ています。

長崎街道(小倉宿~黒崎宿)part5

2012年10月24日 | 長崎街道歩きの旅
今朝は肌寒いが快晴で清々しい朝、すっかり秋が深まりつつある。


今日は八幡図書館から始まります。

昭和30年(1955年)12月竣工した八幡図書館は、明治24年(1891年)佐賀県唐津に生まれ八幡育ちの建築家村野藤吾氏が設計したものです。外観は、柱と梁のコンクリート打放しで、その囲まれた部分は三角模様等を呈した煉瓦タイル張りとなっています。村野氏は、この他に昭和33年(1958年)竣工の八幡市民会館等の設計も行っています。



八幡は溶鉱炉があったので戦時中は攻撃の的で昭和19年~20年にかけての空爆は八幡の町を火の海にしたようです。当時祖父が八幡製鉄所に勤めていたので当時の悲惨な様子を話していました。当時は食べる物もなく頼りの息子(私の父ですが)、宮崎の落下傘部隊に入隊したまま終戦を向えたのに音沙汰無しで戦死を覚悟していたようです。一方父は当時の八幡が全滅して食べる物もないと聞いたらしく、除隊して宮崎で仕事をしていたようです。多分祖父母もなくなったと思ったのでしょうね、この時20歳の青年は母の親父に会って仕事を貰い、食べ物を貰、母までも貰ったようです。晩年母がこの時の事を19歳の娘は親の言いつけに否応も無しに結婚したと話していました。田舎に育った母は宮崎で姉を生んで戦後の復興が進んでいた八幡に来て大変苦労をしたようです。この時代の人達は皆同じような境遇でしょうが、恵まれない青春期を送ったようです。

この像は昭和28年5月3日、八幡の戦後復興と世界の平和を祈念して、彫刻家樽谷清太郎氏によるブロンズ像が設置されています。私が2歳の時ですからこの像も既に60歳の還暦を迎えることになりますね。日本の歴史史上、戦後の昭和時代は目まぐるしい変化で破壊と進歩の時代だったのかも知れない、若い頃変化のない人生に嫌気がさした事もあったが振り返れば激動期の時代を生きてきたのかもしれない。



ここのロータリーを通って私立八幡病院の前を歩いて前田町に・・・



この先に見える小高い山に花尾城跡が見えます。詳しくは後から・・・



桃園シティーボールの前を通って歩くと、この辺から「資さん」うどんが見えますお腹が空く時間ですが、10時の「おやつ」をしたせいか好きなうどん屋さんですが12時になっていても食べるきになれず脚を進めることにします。



紅梅町一丁目交差点を右斜めに鹿児島本線へ・・・この町名の由来は、今から500年以上前の話ですが京都公家の娘であった紅梅姫は、周防国大内氏の養女となり、その後大内家より花尾城主麻生上総介重郷の側室として花尾城へ入りました。

 しかし、上総介の正室柏井御前の嫉妬や謀略により、上総介に疎んぜられ明応4年(1495年)8月14日自害した。その後、謀略に加った者に異変が起こり、柏井御前も姫の亡霊にとり殺されたと言われています。

 後悔した上総介重郷は、お堂を建て紅梅地蔵を祀ってから亡霊は成仏し、異変もなくなったそうです。何と女性の怨念は怖いものですね!しかし養女とは言え二号に差出すとは、時の大内氏は九州への足がかり欲しかったのでしょうね。



・・・・・とここまで今日はすっかり酔っぱらっています。お終い!

長崎街道(小倉宿~黒崎宿)part4

2012年10月23日 | 小政号の旅日記
昨夜からの雨が更に強く降り続いていたようで、窓に打ち付ける激しい雨音で目が覚めました。

雨が上がり急速に寒くなってきました。そろそろ紅葉のシーズンかな・・・・

今日も続きますpart4

今日は最初にチョット信じられない話ですが・・・

長崎街道を調べている時に面白い話に出会いました。これによると・・
「平成4年、官営八幡製鐵所創業100年と北九州市制30周年を記念するモニュメントを、東田地区の拠点施設として建設することが検討 された。高さは、世界一にするため政令指定都市にな った19634月を記念して634m、基礎の平面形は隣接するスペ ースワールド等から宇宙都市としてのイメージの五角形の星型とし、基本構想が作成された。しかし、建設・運営費の捻出や 皿倉山(622m)からの眺望と変わらないため、夢のタワーになりまし たが、20年後の平成24年5月22日東京スカイツリーとして634mの世界一のタワーは、同じ設計会社によって実現されました」・・・とあるが知らなかった、建てなくて良かった平成4年と言えば1992年ですから1989年末から1990年にかけて株価の大暴落があり、まだ一時的と思われた暴落も、その後回復せずに1992年には路線価も暴落し始める頃であり、こんな話が成立していたら大変な財政負担で北九州は赤字政令都市になっていたかも知れませんね。これに手を出さなかったから道路や橋やらを贅沢に作ったのかな・・・・

何と話だけではなくてデザインもしていたようです。

 

洞海湾に浮かぶ「洞海タワー」な~んてことになっていたら結構有名な観光地になっていたかもね。







長崎街道(小倉宿~黒崎宿)part3

2012年10月22日 | 長崎街道歩きの旅
今日の予報は雨、いっそう寒くなったようです。

今日は第三弾おやつ休憩続きです。

ここから川の向こうが荒生田のバス停、私が朝バスにのる所です。右手に皿倉山の雄姿です!



少し歩くと三条橋がり、ここに「荒生田の一里塚跡」がります、街道は一里(約4km)の目印として小高く土をもった所で、榎や松などが植えられ、江戸日本橋から全国への距離を旅人に知らせる目印で、馬や駕籠の料金を支払う時の目安だったと・・・・隣の看板に書いています。



更に少し歩くと「高見神社」神社手前にあった木の枝が刈り取らて境内が望めるようになっています。



この辺から豊前国から筑前国へ入ります。(あるはずの国境石を見逃しました)古くから北九州市は、そのほぼ中央から東西に豊前国と筑前国に分かれていました。そして国境には、江戸時代に小倉藩と福岡藩によって建てられた国境石が多数あり、そのうち現在14基が残っています。その中で、三条の国境石は、高さ3mを越え、県下最大の大きさを誇っています。当時のことですから国境は重要な標であったのでしょうね。

脚を進めると、清水の坂にかかる所に・・・



我が母校(大蔵中学校)が、この上の高台にあります。その昔は麻生氏の砦として篠山城(名前は諸説あるよですだが)があったようですが遺構等は発見されなかったと言う事ですから物見櫓程度の出城かも知れませんね。私は8期生かな?団塊世代が増えつつある中で開校になたのでしょうね。・・・清水ヶ丘にそびえる白亜もしろき学び舎は・・・?校歌の一部ですが、この丘の裏は洞海湾が望める風光明媚な所ですがグランドが狭く、当時あこがれた野球部は入学前年で廃部になり、野球少年だった私は寂しい思いをしたものです。もしグランドが広い中学校であれば・・・・人生はいかに?



麻生氏について
麻生太郎元総理とも血縁関係があるようでうですが、足利尊氏の挙兵から南北朝の対立や室町時代~安土桃山時代にいたり大内氏(中国の覇者)に取り込まれ、大内を滅ぼした毛利氏にも毛利が撤退すると大友宗麟(大分)に取り込まれ、その後島津氏と組んで豊臣秀吉による島津征伐した頃に花尾城(皿倉山すぐ下にある山)を退いたことになっている。

道路向こう側が、九州鉄道大蔵駅があった所、私が中学に通う頃は醤油屋であったが、道路拡張工事で立ち退きをしたようだ。



高炉台公園の横を中央町へ下り・・・この朝顔は2階まで勢いよく伸びています。(ご立派!)



中央商店街の入口、土曜日の11時なのに人影は少なく・・・・子供頃は沢山の人で賑わっていたのに・・・・



北九州高速の向こうに東田第一高炉がみえます。同高炉は明治34年(1901年)、日本初の本格的製鐵所として建設された「官営製鐵所」で、かの有名な「高炉の神様」田中熊吉が最初に火入れされた溶鉱炉です(多分)佐々木隆三著「高炉の神様」では技術力のない日本がドイトの高炉技術を習得して世界に誇る高炉技術国なる礎が書かれています。この本を読んで感動し胸を熱くした!・・しかし、昭和47年(1972年)その役割を終えたそうですが、くしくも宿老・田中熊吉も同年98歳でなくなり最後まで現役の製鉄一筋の人生だったそうです。もう直ぐ現役を去ろうとするわが身が恥ずかしいお話です。



少し行くといつも通うホームセンタ「ナフコ」の横を通り・・・



大正4年(1915年)に竣工した旧百三十銀行の八幡支店です。



唐津市出身の辰野金吾が主宰する設計事務所の設計による建物です。辰野氏は、東京駅・日本銀行・西日本工業倶楽部等近代日本の代表的な建築物を数多く設計しています。外観は、煉瓦タイル張りとなっていますが、鉄筋コンクリート造りです。



現在はギャラリーとして活用されているようですが土曜日は休みかな?・・・




只今月曜日23時少し前、外は雨が降り続いています。続きは更に明日へ・・・