大政・小政の気ままな日誌

キャンピングカー(小政号)の出番が減って覚書のブログになっています。ボケ防止の為に毎日継続することを目標にしています。

長崎街道(小倉宿~黒崎宿)part5

2012年10月24日 | 長崎街道歩きの旅
今朝は肌寒いが快晴で清々しい朝、すっかり秋が深まりつつある。


今日は八幡図書館から始まります。

昭和30年(1955年)12月竣工した八幡図書館は、明治24年(1891年)佐賀県唐津に生まれ八幡育ちの建築家村野藤吾氏が設計したものです。外観は、柱と梁のコンクリート打放しで、その囲まれた部分は三角模様等を呈した煉瓦タイル張りとなっています。村野氏は、この他に昭和33年(1958年)竣工の八幡市民会館等の設計も行っています。



八幡は溶鉱炉があったので戦時中は攻撃の的で昭和19年~20年にかけての空爆は八幡の町を火の海にしたようです。当時祖父が八幡製鉄所に勤めていたので当時の悲惨な様子を話していました。当時は食べる物もなく頼りの息子(私の父ですが)、宮崎の落下傘部隊に入隊したまま終戦を向えたのに音沙汰無しで戦死を覚悟していたようです。一方父は当時の八幡が全滅して食べる物もないと聞いたらしく、除隊して宮崎で仕事をしていたようです。多分祖父母もなくなったと思ったのでしょうね、この時20歳の青年は母の親父に会って仕事を貰い、食べ物を貰、母までも貰ったようです。晩年母がこの時の事を19歳の娘は親の言いつけに否応も無しに結婚したと話していました。田舎に育った母は宮崎で姉を生んで戦後の復興が進んでいた八幡に来て大変苦労をしたようです。この時代の人達は皆同じような境遇でしょうが、恵まれない青春期を送ったようです。

この像は昭和28年5月3日、八幡の戦後復興と世界の平和を祈念して、彫刻家樽谷清太郎氏によるブロンズ像が設置されています。私が2歳の時ですからこの像も既に60歳の還暦を迎えることになりますね。日本の歴史史上、戦後の昭和時代は目まぐるしい変化で破壊と進歩の時代だったのかも知れない、若い頃変化のない人生に嫌気がさした事もあったが振り返れば激動期の時代を生きてきたのかもしれない。



ここのロータリーを通って私立八幡病院の前を歩いて前田町に・・・



この先に見える小高い山に花尾城跡が見えます。詳しくは後から・・・



桃園シティーボールの前を通って歩くと、この辺から「資さん」うどんが見えますお腹が空く時間ですが、10時の「おやつ」をしたせいか好きなうどん屋さんですが12時になっていても食べるきになれず脚を進めることにします。



紅梅町一丁目交差点を右斜めに鹿児島本線へ・・・この町名の由来は、今から500年以上前の話ですが京都公家の娘であった紅梅姫は、周防国大内氏の養女となり、その後大内家より花尾城主麻生上総介重郷の側室として花尾城へ入りました。

 しかし、上総介の正室柏井御前の嫉妬や謀略により、上総介に疎んぜられ明応4年(1495年)8月14日自害した。その後、謀略に加った者に異変が起こり、柏井御前も姫の亡霊にとり殺されたと言われています。

 後悔した上総介重郷は、お堂を建て紅梅地蔵を祀ってから亡霊は成仏し、異変もなくなったそうです。何と女性の怨念は怖いものですね!しかし養女とは言え二号に差出すとは、時の大内氏は九州への足がかり欲しかったのでしょうね。



・・・・・とここまで今日はすっかり酔っぱらっています。お終い!