大政・小政の気ままな日誌

キャンピングカー(小政号)の出番が減って覚書のブログになっています。ボケ防止の為に毎日継続することを目標にしています。

長崎街道(小倉宿~黒崎宿)part5

2012年10月25日 | 長崎街道歩きの旅
昨日の飲み会は大いに盛り上がり実力以上に飲みすぎたのか、完全二日酔いで朝の寒さが丁度良い

紅梅町の交差点を右斜めに曲がって少しで、鹿児島本線を横切ります。



発掘された黒崎宿本陣周辺の説明



この丘の上に黒崎城があったようです。黒崎城は関ヶ原の戦功により入国した黒田長政が福岡城を築城する際に豊前への押さえとして築いた城ですが築城から15年で豊臣秀吉の命で一国一城により廃城となりました。



黒崎城の裏手は黒崎港があり、小倉港とともに九州で2ヶ所の九州と大阪を結ぶ乗合貨客船の発着する港でした。九州西南諸藩の参勤交代もこの両港を利用しました。



黒崎宿の案内板があります。



東構口跡は、長崎街道の宿場「黒崎宿」の東側の出入口があった所です。
今は、天和3年(1683年)に再興された海蔵庵が建っています。本尊の阿弥陀仏座像は、天平16年(744年)行基によって造られたと伝えられています。

元和元年(1615年)黒崎城を廃し、城の南側にあった堀を埋めて構口を開き、番所を設けて行旅の人を監視したのが始まりで、黒崎の宿場を通過するには必ず東と西にある構口で検査を受けました。

構口(かまえぐち)とはいわゆる宿場の出入り口のことで、東の構口田町は4人、西の構口熊手には3人の役人が昼夜交代で詰め、行旅の監視をしていました。





また少し歩くと鹿児島本線を渡ります。このすぐ先が黒崎駅です。



国道3号線を横断して、ここを右手に曲がり藤田商店街に向けて歩きます。



おや可愛い顔をしているのに時に噛みつくそうです。



メガネ屋さんの前に椅子があり、しばし休憩します。トイレも貸してくれるようです。



ここから藤田商店街へ入ります。



商店街の中央に興玉神が・・・・



もう少しで本日の目的地ですが、少し寄り道して岡田宮にお参りします。





やっと到着曲里の松並木です。









街道歩き歩数が24,000歩(全28,600歩・18.4km)

明日はゴルフへ行きます・・・・で今日はゴルフ場の近くの道の駅「大任桜街道」に来ています。

長崎街道(小倉宿~黒崎宿)part5

2012年10月24日 | 長崎街道歩きの旅
今朝は肌寒いが快晴で清々しい朝、すっかり秋が深まりつつある。


今日は八幡図書館から始まります。

昭和30年(1955年)12月竣工した八幡図書館は、明治24年(1891年)佐賀県唐津に生まれ八幡育ちの建築家村野藤吾氏が設計したものです。外観は、柱と梁のコンクリート打放しで、その囲まれた部分は三角模様等を呈した煉瓦タイル張りとなっています。村野氏は、この他に昭和33年(1958年)竣工の八幡市民会館等の設計も行っています。



八幡は溶鉱炉があったので戦時中は攻撃の的で昭和19年~20年にかけての空爆は八幡の町を火の海にしたようです。当時祖父が八幡製鉄所に勤めていたので当時の悲惨な様子を話していました。当時は食べる物もなく頼りの息子(私の父ですが)、宮崎の落下傘部隊に入隊したまま終戦を向えたのに音沙汰無しで戦死を覚悟していたようです。一方父は当時の八幡が全滅して食べる物もないと聞いたらしく、除隊して宮崎で仕事をしていたようです。多分祖父母もなくなったと思ったのでしょうね、この時20歳の青年は母の親父に会って仕事を貰い、食べ物を貰、母までも貰ったようです。晩年母がこの時の事を19歳の娘は親の言いつけに否応も無しに結婚したと話していました。田舎に育った母は宮崎で姉を生んで戦後の復興が進んでいた八幡に来て大変苦労をしたようです。この時代の人達は皆同じような境遇でしょうが、恵まれない青春期を送ったようです。

この像は昭和28年5月3日、八幡の戦後復興と世界の平和を祈念して、彫刻家樽谷清太郎氏によるブロンズ像が設置されています。私が2歳の時ですからこの像も既に60歳の還暦を迎えることになりますね。日本の歴史史上、戦後の昭和時代は目まぐるしい変化で破壊と進歩の時代だったのかも知れない、若い頃変化のない人生に嫌気がさした事もあったが振り返れば激動期の時代を生きてきたのかもしれない。



ここのロータリーを通って私立八幡病院の前を歩いて前田町に・・・



この先に見える小高い山に花尾城跡が見えます。詳しくは後から・・・



桃園シティーボールの前を通って歩くと、この辺から「資さん」うどんが見えますお腹が空く時間ですが、10時の「おやつ」をしたせいか好きなうどん屋さんですが12時になっていても食べるきになれず脚を進めることにします。



紅梅町一丁目交差点を右斜めに鹿児島本線へ・・・この町名の由来は、今から500年以上前の話ですが京都公家の娘であった紅梅姫は、周防国大内氏の養女となり、その後大内家より花尾城主麻生上総介重郷の側室として花尾城へ入りました。

 しかし、上総介の正室柏井御前の嫉妬や謀略により、上総介に疎んぜられ明応4年(1495年)8月14日自害した。その後、謀略に加った者に異変が起こり、柏井御前も姫の亡霊にとり殺されたと言われています。

 後悔した上総介重郷は、お堂を建て紅梅地蔵を祀ってから亡霊は成仏し、異変もなくなったそうです。何と女性の怨念は怖いものですね!しかし養女とは言え二号に差出すとは、時の大内氏は九州への足がかり欲しかったのでしょうね。



・・・・・とここまで今日はすっかり酔っぱらっています。お終い!

長崎街道(小倉宿~黒崎宿)part3

2012年10月22日 | 長崎街道歩きの旅
今日の予報は雨、いっそう寒くなったようです。

今日は第三弾おやつ休憩続きです。

ここから川の向こうが荒生田のバス停、私が朝バスにのる所です。右手に皿倉山の雄姿です!



少し歩くと三条橋がり、ここに「荒生田の一里塚跡」がります、街道は一里(約4km)の目印として小高く土をもった所で、榎や松などが植えられ、江戸日本橋から全国への距離を旅人に知らせる目印で、馬や駕籠の料金を支払う時の目安だったと・・・・隣の看板に書いています。



更に少し歩くと「高見神社」神社手前にあった木の枝が刈り取らて境内が望めるようになっています。



この辺から豊前国から筑前国へ入ります。(あるはずの国境石を見逃しました)古くから北九州市は、そのほぼ中央から東西に豊前国と筑前国に分かれていました。そして国境には、江戸時代に小倉藩と福岡藩によって建てられた国境石が多数あり、そのうち現在14基が残っています。その中で、三条の国境石は、高さ3mを越え、県下最大の大きさを誇っています。当時のことですから国境は重要な標であったのでしょうね。

脚を進めると、清水の坂にかかる所に・・・



我が母校(大蔵中学校)が、この上の高台にあります。その昔は麻生氏の砦として篠山城(名前は諸説あるよですだが)があったようですが遺構等は発見されなかったと言う事ですから物見櫓程度の出城かも知れませんね。私は8期生かな?団塊世代が増えつつある中で開校になたのでしょうね。・・・清水ヶ丘にそびえる白亜もしろき学び舎は・・・?校歌の一部ですが、この丘の裏は洞海湾が望める風光明媚な所ですがグランドが狭く、当時あこがれた野球部は入学前年で廃部になり、野球少年だった私は寂しい思いをしたものです。もしグランドが広い中学校であれば・・・・人生はいかに?



麻生氏について
麻生太郎元総理とも血縁関係があるようでうですが、足利尊氏の挙兵から南北朝の対立や室町時代~安土桃山時代にいたり大内氏(中国の覇者)に取り込まれ、大内を滅ぼした毛利氏にも毛利が撤退すると大友宗麟(大分)に取り込まれ、その後島津氏と組んで豊臣秀吉による島津征伐した頃に花尾城(皿倉山すぐ下にある山)を退いたことになっている。

道路向こう側が、九州鉄道大蔵駅があった所、私が中学に通う頃は醤油屋であったが、道路拡張工事で立ち退きをしたようだ。



高炉台公園の横を中央町へ下り・・・この朝顔は2階まで勢いよく伸びています。(ご立派!)



中央商店街の入口、土曜日の11時なのに人影は少なく・・・・子供頃は沢山の人で賑わっていたのに・・・・



北九州高速の向こうに東田第一高炉がみえます。同高炉は明治34年(1901年)、日本初の本格的製鐵所として建設された「官営製鐵所」で、かの有名な「高炉の神様」田中熊吉が最初に火入れされた溶鉱炉です(多分)佐々木隆三著「高炉の神様」では技術力のない日本がドイトの高炉技術を習得して世界に誇る高炉技術国なる礎が書かれています。この本を読んで感動し胸を熱くした!・・しかし、昭和47年(1972年)その役割を終えたそうですが、くしくも宿老・田中熊吉も同年98歳でなくなり最後まで現役の製鉄一筋の人生だったそうです。もう直ぐ現役を去ろうとするわが身が恥ずかしいお話です。



少し行くといつも通うホームセンタ「ナフコ」の横を通り・・・



大正4年(1915年)に竣工した旧百三十銀行の八幡支店です。



唐津市出身の辰野金吾が主宰する設計事務所の設計による建物です。辰野氏は、東京駅・日本銀行・西日本工業倶楽部等近代日本の代表的な建築物を数多く設計しています。外観は、煉瓦タイル張りとなっていますが、鉄筋コンクリート造りです。



現在はギャラリーとして活用されているようですが土曜日は休みかな?・・・




只今月曜日23時少し前、外は雨が降り続いています。続きは更に明日へ・・・





長崎街道(小倉宿~黒崎宿)part2

2012年10月21日 | 長崎街道歩きの旅
昨日の疲れが取れない朝、腰にダメージが残っています。

市立西小倉小学校前の通りの裏側側を歩いて行くと、北九州高速の下に出ると神明宮というお宮に出ます。この通りは車で信号待ちした時に見るお宮で街中にこじんまりとありますので気になっていたので、言われなどの看板もなくて誰もいないお宮らしく分からずじまい。



ここを右折して少し行くと萬徳寺前を通り県道270号に出て、ここがバス道路となっています。この辺に到津口跡があり、長崎街道の出入りの門です。



昔懐かしい看板「朝日新聞」販売所で、今も現役見たいです。新聞離れの昨今、未来へと残して欲しいものです!



すぐに近くの交差点に「福岡地方裁判所」の建屋が見え来ます。



裁判所側へ横断して国道3号線を向けて歩くと、「善龍寺」がありここを右手に曲がって行きます。



更に直進すると日豊線線路の踏切を横断します。この先が南小倉駅、通勤電車で乗り降りする駅です。



踏切を渡った所が市立清水小学校でグラントネットの内側に街道の案内があります。



さりげなく靴を貰って欲しいと書いています。我々の子供頃は殆どがお下がりだったりしますが、最近は子供が少ない事もあり、お下がりなど使うのを親が嫌ったりしますが・・・貰い手があると良いですね。



国道3号線に出ました、ここも通勤バスで通る道です。



ここを横断して・・・山手の方向に・・・



東筑紫学園の前を通り右手に折れると・・・本就寺がります。



説明はこの看板で・・・・



清水(きよみず)5丁目の交差点前にある水かけ地蔵、1500年以上前からあると言われる「湧き清水の泉」江戸時代はここで喉を潤した所ですが、水は湧いていますが「のめません」と表示しています。昔はこの上は森の中だったのでしょうが、今は天辺まで住宅地になっているので、何が混ざっているか?ペットポトルの水では昔を偲ぶの無理ですがしばし物思いに耽る。



すぐ隣に「大満寺」があります。



詳しい説明はこれ・・・・



この山で街道道のピーク付近にある「泉台小学校」中央門付近



これからしばらく歩くと右手に「金比羅山」手前には「市立総合体育館」が見えます。



茶町の川にかかる「九州鉄道茶屋町橋梁」以前このブログで紹介した九州鉄道大蔵線の当時では珍しいイギリス摘みの煉瓦アーチ橋です。



遠い昔から商いをしている「筑豊市場」スパー全盛なのにしぶとく頑張っています。いつまでも残って欲しいものです。



コスモスが、そろそろ終わりかな・・・・遠くに見えるは郷土の山「皿倉山」




七条に到着しました、八幡東区、わが町の長崎街道の案内版です。



いつも買い物に出かける「スピナ」が見えて来ました。



六条の橋を渡ります。この上に四条橋・三条橋(ん~五条はあったかな?)・・・その先が両国橋



この橋を渡ると大きな公園(グランドみたいな)があります。



10時歩き始めて2時間で両太腿の付根が痛みます。朝適当な朝食をしたので腹が減ってスピナでおやつを買ったので、ここでしばし小休止です。



万歩計を見るとまだ12,900歩程度ですが、かなり脚にきています。

黒崎宿までまだ半分程度ですが、次回に続きます。






長崎街道(小倉宿~黒崎宿)part1

2012年10月20日 | 長崎街道歩きの旅
今日から秋バージョンにリフォームしました。

今朝は5時に目が覚めたが、外は真っ暗で椅子の腰かけてボケーとしていると東の空が薄らと白み始めたので、寒い庭に出て庭の手入れをしていたが、朝6時なってもカミさんは起き出して来ないようなので、簡単な朝飯を作って「長崎街道歩き旅」初日の出発です。

7:05 自宅を出発間際にカミさんが起き出して来ます。
今日の出発地は小倉北区の常盤橋ですから、荒生田(あろうだ)のバス停まで歩いてバスで勝山橋近くのバス停まで行きます。



「B-1グランプリin北九州」カミさんと娘はどこかの焼そばを食べるのに、何と2時間待ちしたとか・・・



この木造の橋が「常盤橋」江戸時代初めの頃、城下町の東曲輪(ひがしくるわ)「町人が生活していたところ」と西曲輪「武士が生活していたところ」を結ぶ橋であったとか・・・この橋が長崎街道の起点となったことから多くの人がこの橋を渡った筈です。坂本竜馬やシーボルトもしかしたらベトナムから送らてきた像さんも渡ったかもしれない。

「百里の道も一歩から・・」「長崎街道240kmもこの一歩から・・・・」



左手にリ「バーウオーク北九州」この裏手に小倉城がありますが、ビルの陰で見えません。風情がなくなりましたね。



右手が下流の砂津港で港の入口は住友金属があります。この辺は全て埋立地ですから、昔はこの近くに船が着く港があったのでしょうね?



紫川に架かる「常盤橋」を渡るとここから室町商店街、こちらが西の曲輪ですから昔は武士が住んでいたのでしょうが、今では橋の両サイドが商店街です。



商店街のほぼ中頃に、遺跡調査の資料や出土品等が展示していました。このビルがなんなのか調べても分かりませんでしたが車で通ると見逃してしまうような所です。

 

室町商店街を抜けると右手が西小倉駅です。



ここは大門その昔、城に入る門があった所で、たしか「大門」の遺跡が展示していると聞いたのですが、見過ごしてしまった。あったのは街ビルの間にお墓が・・・



大門一丁目この交差点に差し掛かり、計画地図ではこの裏通を歩く予定であったので、引き返す。



間もなくして思永中学前の通りに出て中学校の中央付近に「三ノ丸の土塁」この辺も城内であったようで、小倉城は結構広いお城だったのかな・・・・・



これから右に出て路地に入ります。

本日は疲労困憊・・・・・・・・

続きは明日part2で紹介します。