ホリスティックヒーリング宙『心の扉を叩いてみたらきっと何かが見えるはず聴こえるはず』

ホリスティックヒーリング宙(sora)のヒーラー&臨床心理カウンセラー株本のぶこが心・心と身体について綴っています

ミンデル夫妻のセミナー☆ワールドワークを体験して

2010-07-28 15:15:12 | 心・身体・癒し
ミンデル夫妻のセミナーから三ヶ月が経とうとしています。

三日間のセミナーは、ボディフォーカスト・アプローチと通じる面もあり一方では初めての体験もあって、とても刺激的なものでした。

なかでも印象的だったのは、最終日に体験した『ワールドワーク』です。


アーノルド・ミンデルの著書では、すでに何度も紹介されてきた『ワールド・ワーク』ですが、活字を通して理解するにはあまりに広い世界なだけに、容易ではありません。

今回のテーマが第二のトレーニングということだったので、そちらを期待していた私にとって、思いがけずデモンストレーションワークで『ワールドワーク』を見られただけでなく、自分自身もその一員となりワークを体験したことは、とても貴重な体験となりました。

ミンデル夫妻のセミナーで体験したワールドワークを実際に体験したことをお話しますが、みなさんのなかには「ワールドワークって何?」と思われる方がたくさんいらっしゃると思います。

プロセス指向心理学の創始者である、アーノルド・ミンデルは、その活動の過程で、個人の問題だけでなく、世界的なレベル、地球的なレベルでの問題に取り組むようになりました。

その具体的な例として人種問題や民族紛争、マイノリティー対マジョリティーなど、ありとあらゆる問題をプロセスワークを通じて、よりよい方向へ導けるよう活動を始めたのでした。

それがいわゆるワールドワークの大まかな外枠といっていいかと思います。
(私はプロセスワークを専門に学んだわけではないので、この程度のことしか説明できないのですが・・・)


さて、先達てのセミナーの最終日。


デモンストレーションで、ある男性が抱えているテーマでワールドワークを披露してくれました。

抱えているテーマと言うのが、第二次世界大戦における日本と中国の関係について。


その具体的な内容、体験はここで記すことはできませんが、その男性にとってこの問題は、ある意味 人生を賭けて取り組んでいるといっても過言ではない重要なテーマであることは、誰の目にも明らかでした。


ワークが始まってまもなく、変性意識状態になった男性は双方の立場になりながら、意識の深いところにある思いを吐露し始めました。


そして、最後にどうなったか…解決とまではいきませんでしたが、今までより苦悩の度合いはいくらか薄まったように見受けられたのでした。

デモンストレーションワークが終わったところで、次は私たちセミナーの参加者全員で、実際にワールドワークを体験することなりました。

だいたい6人から8人がひとつのグループになるところからワークはスタート。

思い思い男女が混じっていくつかのグループができました。

私もあるグループに加わらせてもらいました。

それぞれが抱いている、社会的な問題・テーマが語られます。


あるひとは町内会の問題、またあるひとは職場でのこと、片や世界的な紛争を取り上げられるなど、この段階でも実にひとが問題とするテーマにもそれぞれのおかれている立場や環境、男女の差などが関係することに驚かされました。

結局、私たちが取り上げたのは、性犯罪についての問題でした。

この手の犯罪は、だいたいが男性が加害者、女性が被害者とのイメージが固定化されがちですが、最近では職場などで逆セクハラなどという言葉がよく知られているように、必ずしも加害者、被害者の性別は限定できないというのが実際のところです。


この問題を取り上げたいと思ったひとは、果たして私たちは日常生活において、永遠に加害者になる可能性、危険性はないのだろうか…そんな疑問が湧いたといいます。

そんな話を聞いたところで、各々が徐々に変性意識状態へと入っていきました。

そして、心の奥深いところから湧きがってきた思いに従い、動いたりダンスをしたり、言葉にしたり…

初めてこうしたワークを体験した私は、正直なところなかなか入っていくことはできませんでした。

一方でまったくカウンセラー・セラピストなどといった心理援助職や医療に従事していない方々が、いともたやすく半覚醒の状態になり、加害者になったり被害者になったりして、ワークをしています。

その様子を間近にして、こうしたワークは感覚的なもの、知識やどれほど経験を積んだかではない要素があるんだなと思いました。


私たちのグループですが、男女とも思い思いに加害者になってみたり、被害者になってみたり、そのなかでお互い思いをぶつけ合ったり、罵ったりと結構エキサイト。

やがてすべてを出し尽くしたと思われた頃から、不思議な現象が現れました。

それは、グループのメンバー全員の思いのなかに「私たちはみな、加害者であり被害者なのだ」具体的に言えば「被害者になる可能性があるのと同じくらい加害者になる可能性もある。そこに厳密な区別や線引きなどできはしないのだ」という感覚が生まれたのです。

私たちはとかく、自分の立場というものを限定、固定しがちです。

そして何かがあると「それは自分とは関係のない世界、人種(区別の意も含み)がやったこと、起こしたこと」と糾弾したり差別、区別をしてしまいがち。でも実際はそうではないのだ。

「あなたは私、私はあなた」という場に、私たちは存在しているのだということをワールドワークを通して体感したのです。


ある種のトランス状態、変性意識状態から醒めはじめて誰ともなく発せられたのが、昔テレビのCMで流れていた「人類みな兄弟」という言葉でした。

その「場」における全員の意識を端的に表す言葉がそれだったのです。


三ヶ月が経っても、あのとき感じた爽やかな気分は、今も身体に記憶となって残っています。

ほんの数十分の体験でワールドワークを述べることには無理があり、あくまで初歩的な感想でしかありませんが、確かに「こうした感覚になるんだな」と実感、理解できただけでも貴重な体験でした。


今日も、ミンデル夫妻は世界のどこかで対立する誰かと誰かにワールドワークを提供しているかもしれません。

興味のあるかたは、是非、アーノルド・ミンデルの著書を読んでみてください

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意識障害・昏睡状態の人と対話する

2010-07-24 10:15:07 | 心・身体・癒し
先日、プロセスワーク協会の第二回大会に参加したが、そのときコーマワーク(意識障害・昏睡状態の人へのアプローチ)について話をしてくれたのが、屈指と言われるFさんだった。

コーマワークがどれほど意識障害昏睡状態の人とのコミュニケーションを取るのに効果的であるか、さらに意識障害や昏睡状態の人のみならず、いわゆる援助職=看護師・医師・セラピスト・カウンセラーと言われるひとにとって繊細な感覚を身につけるツールとして有効であるかを短い時間の中で話してくれたのだった。

今回の講演では、Fさんが実際にコーマワークを提供した方の最初の出会いから、ワーク終了に至るまでの経緯、そして後日談を患者さん本人の了解のもと話してくれた。ただし、これはあくまで個人の情報であり、信頼関係を築いたFさんだから許されたこと。

聞き手である私たちは、Fさんの話をメモすることは許可されなかった。
しかしとても貴重なお話であるのと、実際にコーマワークによって回復した人がいるということを多くのひとに知って欲しいという思いのもと、私の記憶の範囲かつフィクションを交えて紹介したいと思う。


その方を仮にBさんとお呼びしよう。
Bさんが意識障害に陥る前、ある病気で頭部の手術を受けた。
手術自体は成功裏に終わったが、手術終了後、意識障害の後遺症が残ってしまう。

担当医からは、原因はわからないとの説明があり、回復の見込みもないであろうとの見解が示されたと言う。

ご家族はそうした状況になっても、毎日病院にBさんを見舞ったそうだ、

やがて数ヵ月後、色々と手を尽くしFさんの存在を知ったBさんの家族が、Fさんにコーマワークを依頼。
そこから長いコーマワークによるアプローチが始まることとなった。

コーマワークでは、瞼のちょっとした動き、眉のちょっとした上げ下げや顔色の変化など実に微細な感覚で、相手の表情を観察、ほんの少しの変化も見逃さず、それをそのまま相手に伝えていくということを根気よく繰り返していく。

そのとき大事なのは、例えば顔が紅潮して一見怒りのような表情に見えたとしても、コーマワーク提供者は「怒り」という、こちら側の判断、解釈、印象を伝えないことだという。
あくまで見えたまま、聴こえたままをそのまま相手に伝えること求められる。

先の顔が紅潮しているという現象について、まるで怒っているように映ったとしても、それを伝えるときは「顔が紅潮していますね」とだけ伝えるのが重要なポイントになる。
この話を聞いただけでも、とても辛抱、根気がいる作業だということがよくわかる。

やがてBさんに変化が見えるようになってきた。
瞼の動きひとつにしても、「はい」「いいえ」といった意思表示を示してくれるようになってきたのである。
さらにあるとき、いつものようにFさんが「今日の調子はどうですか」と尋ねたところ、はっきりと唇のかたちで「まあまあ」と返事をしてくれたという。

この間、家族の方は一日も休まず病院にBさんを見舞い、Fさんに教えてもらったアプローチを実践し続けたそうである。


言葉こそ発することはできないままだったが、こんな風にして、徐々にコミュニケーションがとれるようになってきたBさんは、リハビリテーション中心の病院に転院。
Fさんの訪問も一応の区切りということで、終了したが、何と意識障害が始まって3年後、完全に意識を回復することはなかったが、一時帰宅できるところまで回復したのだという。

この話を聞きながら、私はやはり祖母のことを思った。
延命治療をしないことを娘である私の母が選択し、まるでそれが正しかったかのように医師、看護師が手薄な土曜日に、ひっそりと誰にも知られず、その生涯を終えた祖母であった。

たとえ意識が正常に回復しなくても、言葉を話せるようにならなくても、さまざまな手段によって意思の確認が可能だということがわかっていれば、その最期のときまで本人の思いを確認できることの意味は大きい。
延命治療にしても周囲の予測、思惑ではなく、あくまで本人の意思をもって選択できるはずであり、そうしたことがどれほど本人、そして周囲のひとたちを安心、納得させられるかわからない。


私が初めてアーノルド・ミンデルの著書「昏睡状態の人と対話する」を読んでから、もう5年あまりが経とうとしている。
現在、Fさんのように活動しているひとはいるにはいるが、まだまだ一般的とは言えない状態だという。
講演での質疑応答でも、「コーマワークに対して病院や医療従事者の反応はどうか」という話がでたが、現実には、なかなかすんなりと理解されるというところまではいっていないようだった。


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産経新聞朝刊にインタビュー記事が掲載されました

2010-07-22 13:50:33 | 心・身体・癒し

昨日、産経新聞の朝刊にインタビュー記事が掲載されました。

6月8日の朝日新聞朝刊を皮切りに、7月15日の読売新聞朝刊、そして昨日の産経新聞朝刊とたくさんの方々に、インタビュー記事を読んでいただけてとても嬉しく思って言います。

私がなぜ心理カウンセラーになったかというと、ずっと子どものころから心理というものに関心があったからでした。

その理由は自分でもよくわかりませんが、強いて言えばずっと病弱で周りのひとたちの援助がなければ生きていけなかったこと。そのため自然と他人の気持ちにとっても敏感になっていったからかもしれません。それが結果的に思いを汲み取ることに長けていると周囲に言われたりしたことから、心理学というものに関心が湧いた。そんな気がします。

何度も大学で心理学を勉強したいなと思い、通信大学の案内書などを取り寄せましたが、私が大学に入学したいと思っていたころは、まだ今のように心理学がメジャーではなく、北海道の大学では通信過程に心理学はありませんでした。

本州の大学にはいくつかあったのですが、スクーリングが大変ということで、何度も断念。

やっと東京に住むようになった頃には、年齢も上がって体力的に無理と家族の猛反対を受けて断念したという経緯がありました。

それでも諦め切れなかった気持ちがそうさせたのでしょう、「心理カウンセラー」という道があるとふっと気づき、インターネットで「心理カウンセラー」を検索。

最初に出てきたのが、私が学んだ母校「日本カウンセラー学院」だったのです。

カリキュラムを調べ、学院説明会に行き、担当の方の話を聞いた段階で入学を決めました。そのときも、ちょっとしたアクシデントがあり、もしかしたら入学を断念したかもしれません。
そのときのことは、自著「たおやかに生きる」にも書きましたが、このときから偶然が重なり今に至っています。

正直勉強を始めたときは、もう少し早く入学すればよかったと思ったときもありました。

しかし、結果として今は、一番のいいタイミングで学院に入学したのだと思います。

もし、あのときよりも早く学院に入学していたら、講師の大高先生に会うことはなかったでしょうし、ボディフォーカスト・アプローチに出会うこともありませんでした。それは即ち、今のような丈夫な身体を獲得することもなかったということにほかなりません。

すべては必然。絶妙なタイミングで物事が進み、鍵となる大事なひととの出会いが用意されていたことに、宇宙の采配を感ぜずにはいられません。

私自身も今回のことで、改めて自分がどんなことを思い、どんな風に生きていきたいのかを再確認することができました。

私の記事を読まれたことが切っ掛けで、たくさんの方が心理を学びたい、カウンセラーになりたい、そして心と身体を一致、統合させることで丈夫になれるのだと思い、気づいていただけたら幸いです。

 

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意識障害・昏睡状態のひとへのワーク

2010-07-18 14:09:21 | 心・身体・癒し

先日、私が会員になっている日本プロセスワーク協会の第二回大会に参加してきた。

大会と銘打っているので、相当のひとが集まるのだろうと想像して出かけたが、意外にも参加者は数十人。
会場も、あるところのある研究室の一室を借りての、こじんまりとした大会だった。

今回私が参加しようと思った一番の理由は、以前から興味を抱いていた「コーマワーク」いわゆる意識障害・昏睡状態に陥ったひととワークする、コンタクトをとるという技術では屈指のFさんの講演があると知ったからだった。

全部で三人のかたが、それぞれ携わっている世界や社会、専門としている分野について講演をしてくださったのだが、Fさんの講演が最初だった。

コーマワークについてのお話、実際にコーマワークを提供した方の実例などの話のあと、私たちもコーマワークを体験することになった。

グループディスカッションをする目的で、はじめからグループ分けされていたのだが、そのグループごとに二人一組なってコーマワークを体験することに。

ひとりが意識障害をもっているひとの役になり、もうひとりがコーマワークを提供する役になって、エクササイズが始まった。

最初にまず、意識障害の役のひとが椅子に腰掛け、目を閉じてゆっくりと呼吸を整えていく。自分は今、意識が混濁しているとのイメージをもちながらの呼吸をはじめた。

少し時間を置いてコーマワークを提供する側が、その意識障害のひとの呼吸を観察し始める。
そして、お互いに準備が整ったと感じたところで、提供する側が、相手に「これからコーマワークをさせていただきます。肩に手を置かせていただきます」と声をかけた。

私たちにしても突然、自分の身体の一部に触られれと驚いたり、拒否する気持ちが湧き起こったりする。ましてや自分の思いを声やしぐさで表現することが難しいひとにとって、突然の介入は何が起こったのだろうという混乱を相手に起こさせてしまうので、まず最初にすることは挨拶、自己紹介とこれから何が起こるかを知らせることだ。

私とペアを組んだのは、若い女性の方だった。最初に私がコーマワークを提供する側になった。

声をかけたあと、コーマワークを提供するひとが、意識障害のひとの肩にそっと手をのせた。そして意識障害のひとの呼吸にあわせてその手を肩に軽く押し付ける動作を始めたのだった。

このとき、大事なことはあくまで意識障害のひとの呼吸に合わせること。そのひとが息を吐くときに、提供者は肩に置いた手を軽く押し付けること。ただ黙って、その動作を続け、他には一切なにもしなかった。

しばらくそれを続けてエクササイズは終了。

意識障害の役をしたひとに感想を聞いたところ、とっても安心感があった。まるで自分が守られているような、そんな感じがしたそうである。

次に立場を逆にして、私が意識障害のひとの役をやった。
やってみて、イメージして感じたのは、たとえ嘘であっても、意識障害をもっているという立場に身を置いてみると、結構不安感があるということだ。
外界から遮断されて、ただひとりというのはとても孤独感がある。

そうした状態のひとが、誰かから存在を認められコンタクトをとろうと働きかけられることが、どれほど安心感を得るか、守られている=思いをもらっているという実感が湧くものかを、今回初めて体験したのだった。

Fさんの解説によれば、時折り表情に変化が見られるときがあるそうだ。
そのとき、とても重要なことは、その表情をそのまま受け取り、相手に返すことだという。

たとえば、何か言葉を投げかけたとき、相手が顔を赤くして、一般的な感覚としては、何かに怒っているのかな、憤っているのかなとついつい沿想像してしまうが、こうしたとき決して判断や解釈をしないことが求められる。

相手は限られた表現の手段として、表情を変えているのであって、それが一般的に私たちが見て判断する「怒っている表情」「悲しんでいる表情」etcとはいえないのだ。

あくまで伝えるときは、「顔が赤くなっていますね」「ちょっと眉が上がりましたね」など、見たままを伝えなくてはいけないのだそうだ。

学院に入学してからずっとカウンセリングについての学びをしてきたが、やはり基本は解釈しない、判断しないに尽きる。

そういう点で、コーマワークの呼吸の様子を丁寧に観察するところから始まって、ちょっとした表情の変化、微妙な動きを観察し、それをそのまま相手に伝えることは、カウンセリングの基本中の基本なのだと改めて実感したエクササイズであった。

次回はコーマワークの実例について、簡単に紹介してみようと思う。

 

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読売新聞と産経新聞に掲載されることになりました

2010-07-13 21:37:10 | 心・身体・癒し
6月8日、朝日新聞の朝刊に掲載された、学院のインタビュー記事が

読売新聞と産経新聞にも掲載されることになりました。


担当者の方からのお話によると、読売新聞は7月15日(木)の朝刊、

産経新聞は7月20日(火)~22日(木)のいずれかの朝刊だそうです。


記事は、朝日新聞の朝刊に掲載されたものと同じものだということで、

読売新聞は朝日新聞と同じように、東京、神奈川、埼玉、千葉、茨城、

静岡、栃木、群馬、山梨の一部。


産経新聞は東日本全域だそうです。


もし、購読されていましたら是非読んでみてください。



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もし、私にお手伝いができることがあるならば・・・

2010-07-10 12:07:45 | 心・身体・癒し
昨日、ひさしぶりに名古屋の友人にメールをしました。

彼女とは、学院名古屋校で開催された、ボディフォーカスト・アプローチのワークショップで隣り合わせとなり、たまたまランチを一緒にした折に色々と話をしたことが知り合う切っ掛けでした。

までどんな人生を送ってきたか、なぜ心理の勉強をしようと学院に入学したかなど、初対面にしてはずいぶんと踏み込んだ話をしてくれた彼女。

そのときもプライベートに様々な問題を抱え、孤軍奮闘していることを少しつらそうに話していました。

そして、その日のワークショップ終了後、別れ際に彼女が「これからも色々と相談にのってくださいね」「つらいときはメールしてもいいですか」と…

私も「もちろんです」と返事をして別れました。


そして、そのあとの名古屋でのワークショップでも、ある女性から「名古屋にルームがあったなら、カウンセリングをしてもらいに行くのに・・・」と言われたのです。

ふたりの言葉は、カウンセラーとしては嬉しいものでしたが、同時に少し戸惑いました。

そして時間が経つほどに考えてしまいました。

「名古屋に住んでいる彼女たちが、東京に住んでいるとわかっている私になぜあのときそう言ったのだろう…プライベートでの踏み込んだ話、抱えている悩みを話してくれたのだろう。そんな彼女達にいったい私は何ができるのだろう…」

もちろん何もできずに、時間だけが過ぎていきました。


そして先日。東京であったBFAのワークショップでのこと。

オープンカウンセリングに参加した方が、つらい生い立ちを話される場面に遭遇しました。


何十年と経過した今も、そのとき負った傷は癒されていないことは誰の目にも明らかでした。


そんなつらいカウンセリングが終わったとき、講師がこう言ったのです。


「私は名古屋にいて、再びあなたにカウンセリングを提供することは難しいと思います。一回だけのセションは、かえって苦しい思いをさせてしまうかもしれないですね。でも、もしこの先、私に何かお手伝いできることがあったら、させて欲しいと思っていますので」と・・・


その言葉を聴いた瞬間に、カウンセリングを受けた女性の表情が明るくなるのを見たとき、私のなかで「パチン」と何かがはじけました。

「ああ、これでいいんだ」そう思いました。

先の名古屋校のワークショップで知り合ったふたりに対して「自分はいったいどうしたらいいのだろう」とずっと考えてきたことの答えが見つかった瞬間です。


「お手伝いできることがあったら、させて欲しいと思っています」率直にその気持ちを伝えることが大切だと気がつきました。その思いに距離は関係ないのだということも・・・


以前、私はカウンセリングで癒されたという実感を持ってから、自分もひとを癒したい、癒すひとになりたいと、ずっと思っていました。

でも、あるときその考えはちょっと方向を間違えると傲慢になりかねない、そんな危険性を孕んでいることに気がつきました。


そして今、「ひとは他者から癒されるのではなく、自らを癒すのだ」と思っています。


昨日、メールをした名古屋の友人から、早速今朝、返信が届きました。

私と会ったときとは状況が変わってきて、少しずつよい方向へ向かっているそうです。

メールを読みながら、「よかったね」と言っている自分の顔が笑っていました。

たしかに彼女は自分の力で道を切り拓いて進んでいる。

私ができるのは、そんな彼女を遠くから応援し、いつも見守っていることを伝えることだけ。きっと、それでいいのだと思います。


出会いは不思議だなとつくづく思うこのごろ。

東京と名古屋、たった一回のワークショップでできた縁をこれからも大切にしていこうと思っています。



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円形脱毛症をワークする

2010-07-07 13:41:28 | 心・身体・癒し

先日、円形脱毛症を見つけた。

今は、ほんの小さなことでもワークをしてみようとしていることもあり、早速、円形脱毛症のワークをやってみた。

目を軽く閉じて、鏡で見たその箇所の大きさや、触ったときの感触、どんな 感じがするかetc しばらく味わっていると、ビジョンがでてきて1センチほどのそれが段々と 広がって盛り上がってきた。

 同時にその場所が熱く感じられる様になってきて・・・それでワークは終了。

都合 二日間、続きをやってみたがこれといった感覚、ビジョンの変化は見られなかった。
それから一日置いてふと気がつくと、ほんのり赤かった脱毛した箇所は白い肌に戻り、髪が 生えてきていた。

 時期的に生える頃だったとも考えられるので、症状に関してはこんな変化が あったとしか報告できないが、そのときふっと出てきた言葉があった。

それは「手放しなさい」
ここしばらく思うところがあり、それにちょっと縛られていた実感があっただけに「そういうことだったのか」とそんな気がしていた。

あらゆるものの捉われを手放してこそ、新たな展開が始まる。
このところの経緯を振り返ると、本当にそうなのだと思う。

自分がこうなりたいと思うなら、それにまっしぐらに進めばいい。 どういう結果になろうと、少なくともその過程は自分自身が納得しているのだから。

真っ直ぐにただひたすらに・・・

この真っ直ぐにひたすらにという思いを書いていながら、ふと思い出した詩があった。

谷川俊太郎さんが書いた「まっすぐ」という詩。
「魂のいちばんおいしいところ」という詩集に収蔵されているのだが、この詩を初めて読んだときに感じたのは、「そうだ、真っ直ぐは、ただ単に真っ直ぐなのではない。真っ直ぐに伸びる、真っ直ぐに貫くということは、周囲の圧力、パワーに負けない力を必要とするのだ」ということだった。

心が震えるような感動を覚えたものだった。

まさか円形脱毛症のワークから、「真っ直ぐ」がでてくるとは思わなかったが、これが思考ではないということなのだろう。今、私が必要としてる、大事なキーワードがそこにあるのだと思う。

おそらくこれからまた「真っ直ぐ」への気づきが何かでてきそう。
そんな気がしている。

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穴を掘り続けるひとからの気づき 

2010-07-04 13:53:23 | 心・身体・癒し
先日の「穴を掘り続ける」ビジョンから始まった流れは、少しずつ変化してきています。

同時に感じるのは、結果として自分の心を表しているということ。

前回は米粒ほどだった私が徐々に大きくなって、等身大の大きさをになったときに俯瞰から実感をともなう体感を得たという事実。その時感じたのが、自分の意識の半分が男性、もう半分が女性になったというものでした。

やがて出てきたキーワードが、「統合」と「両性具有」のふたつ。

このとき大事なのは、「これは一体どういうことを表しているのだろう」と思考で解釈しないことです。あくまで起こることをそのままに、そのまま受容れていく。それだけをずっと続けていく、その過程である瞬間「あ、こういうことなんだ」と気づくことがあります。

今回の「統合」と「両性具有」を意識しながらがら、毎日、瞑想を続けていたのですが、数日前 新たなビジョンが出てきました。

ある一組の男女がベンチに並んで腰掛けている姿でした。ただ、男女は白いシルエットでどんな表情をしているかまでは分かりません。その男女をただただ見続けていたら「バランス」というキーワードが湧き上がってきました。
ビジョンはそこで終わり。

そして昨日「バランス」というキーワードに関して、ふと気がついたことがありました。

自分がなりたいと思っていたものと穴を掘り続けるビジョン、そして講師がイメージしていたものとが一致して、そこを目指すことになったのはいいのですが、果たしてそうなったときカウンセリングに対して、どういうスタンスを取っていくことがいいのかなと思い始めていたことに気がついたのです。

自分がなりたいと思っていたもの、それはボディフォーカスト・アプローチの世界でのプロセスワーカー的な存在でした。
昨年の春、初めての本「たおやかに生きる」を出版しましたが、その目的のひとつにはボディフォーカスト・アプローチ=BFAを広く知ってもらいたい、伝えたいということでした。

私が学院に入学して出会ったBFA。
そのBFAに出会ったことで私は心のみならず病弱だった身体までもが丈夫になりました。その理由はいくつも挙げられるのですが、ひと言で言ってしまえば「心が変わって身体が変わった」ということに尽きます。

そうした事実を踏まえ、私と同じように病弱だったり障碍を持っていたり、常に病気とはいえないのだけれど半健康体といったひとたちに、私のように変われる可能性があることを伝えたい。心も身体も(五体満足ではないけれど)健康的になって生き生きと充実した日々をすごしてもらいたいと思ってきたのです。

しかし、一年が経過して痛感したのは、BFAはなかなか言葉では伝わりにくい、体感でその変化や効果を実感して初めて理解してもらえるもの、納得してもらえるものであるということでした。

それは理論や概念だけを書いていては伝わらないということの証左であり、結果「たおやかに生きる」のような書き方では、本当に伝えたいことは伝わらないということにも気がついたのです。
そのことに気づいてから、ずっと「どうしたらいいのだろう」と考え、悩んできました。

そして今年、五月の連休にアーノルド・ミンデル夫妻のセミナーに初めて参加し、プロセスワーカーの方々と接するなか私の中に「あ、もしかしてこういうことかもしれない」との思いが湧きあがりました。

理論や概念と一緒に、実際に自分がBFAで体験してきたことをそのまま伝えること。
それを実践して初めて、BFAはどういうものか、どういう世界なのか、それをやっていくとによって何を体験し、どんな効果、成果が得られるのかが伝わり、理解してもらえるのだということに気がついたのです。

そして、穴を掘り続けるビジョンのことやそのビジョンが表出する前に自分のなかに生まれていたBFAの世界でのプロセスワーカー的な存在になりたいという思いといったものを講師に話したとき、奇しくも講師からかえってきた答えが、講師自身がイメージしていたプロセスワーカー「ただただ何も考えずひたすら穴を掘り続ける人」だったというわけです。


昨日「バランス」というキーワードに関して、ふと気がついた「そういうことだったのだ!」と腑に落ちたのと同時に思ったのは、「カウンセリングを提供すること」と「穴を掘り続ける人になること」そのふたつのどちらかを選ぶのではなく、両方をバランスよくやっていくことが私のテーマであり、それが自分にとっての両輪であり、自然体なのだなということでした。

ふたつをバランスよくやっていくことによって、目指すものが深まっていく…それにも気がついたのです。

考えるのではなく、起きることをそのままに、起こるがままにしていくことで自分が今、望んでいる姿が見えてくるときがある。

今回のセルフワークによって、改めてそれを実感しています。

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時間軸を縦軸で・・・

2010-07-01 08:29:17 | 心・身体・癒し
六月も昨日で終わり、今日から七月ですね。

一年の半分すぎたわけですがレンダーを見ながら、皆さんはどんなことを思われますか?

「もう一年の半分が終わったんだな…」と感慨に耽ったり、「ああ~、もう残り半分しかない…」と何故か無性に焦りを覚えるなどという方は結構多いかと思います。

片や何も思わず、これといった感慨に耽ることもなく、ただ淡々と毎日を過ごしている感覚の方もいらっしゃることでしょう。

時間に対する感じ方・感覚は、本当ひとそれぞれですが、結果、行動パターンにも反映されるのだろうと思います。

実は以前の私はいつも「ああ、もう一年の三分の一が、半分が終わっちゃった~どうしよう」と常に漠然とした焦りを覚えて生活するタイプでした。


そう、学院に入りそしてボディフォーカスト・アプローチと出逢うまでは……

それがどこからくるものなのか、なぜこれ程までに時間に対して焦りを覚えるのか…ずっとわかりませんでした。

その理由がわかったのは、学院に入学して間もなく教育分析の時間に受けたワークでした。

今日はそれをお話しようと思います。



まずは講師の「何か気になることはある?」との言葉からテーマを見つけていくことに。

早速 湧き上がったのが「時計を見る癖」でした。

私は小さい頃から、何故か日に何度も時計を見る癖がありました。ただ見るだけならいいのですが、何故か必ず時計を見ては「ああ、もう○時だ~」と心のなかで思ったり、時には声に出し、ため息をついていたのです。

なぜそんなことを思うのか、ため息をついてしまうのか、何か変だなという感覚は漠然とはあったのですが、それについて深く考えることなどないまま、気がつくと数十年間が経過していました。


目を閉じてしばらくしていると、時計が見えてきました。

講師が小さな声で「その時計をじっと見続けることはできるかな」「それをじっと見て何か感じたり湧いてきたことがあったら話すように」とささやきかけます。
の声を聴ききながら、五感を研ぎ澄ませ、時計をじっと見続けていきます。

やがて見えてきたのは、子どもの頃に住んでいた家でした。
茶の間の隣の和室が見えます。
窓からさす光が部屋を明るくしている情景から昼間のようです。
そこには一組の布団が敷かれていて、誰かが寝ています。
どうやら子供のときの私のよう。
窓の下には座り机があって、机の上には教科書やノートが開かれたままになっています。
たぶん病気で寝ているのでしょう。しかし回復期なのか眠ってはいません。

しばらくそのまま見続けていると、ビジョンを見ている私自身の身体が段々ムズムズしてきました。

それを察した講師がすかさず「どうするそのまま寝ている?それとも起きるかな?」と声をかけました。

その言葉を聴いた私は、迷わず「起きる」といってビジョンのなかで布団をはぎ、机の前に座り何かを書き出しました。

「何を書いているんだろう」と講師。
「たぶん勉強家日記を書いているんだと思います」と答えた途端、心の琴線に何かが大きく触れたのを感じました。

その瞬間、大粒の涙があふれだしました。

止めどなく流れる涙をどうすることもできず、しばらくずっと泣いていたことを思い出します。そして間もなく、私はあることに気がつきました……

気がついたあることとは、私は長い間、常に自分には時間がないのだと思いながら生きてきたということでした。

物心ついたときからそのときまで、ずっとその思いを抱えながら生きていたことに気がついたのです。
まるですべてを洗い流すかのようにしばらく泣き続けました。

そしてその涙が収まったころ、講師が「何か感じた?」と訊きました。
その瞬間、ふっと湧いたのが高校生の時、担任の先生に言われたある言葉でした。
当時の担任の先生が私に向かってこう言ったのです。
「普通の人は生から生を見るけれど、あなたは死から生を見ている」と…

「ああ、すべてはこの言葉に集約されていたのだ」と気がついた瞬間でした。

実は、私が誕生したとき、お医者さんから二十歳までは生きられないと言われたのだそうです。
実際、生まれたときから学院に入るまで、ずっと病弱で何度も死に直面したことがありました。
そして十代の頃、初めて親から「二十歳まで生きられないと言われた」という話を親から聞いたときから、いつしか「私には時間がないのだ」との思いが生まれのです。

そうした潜在的な意識が、時計を見るたびに「もう○時」という言葉を私に言わせていたのでしょう。

そう、私は死から時間を逆算して今を生きてきたのでした。

ワークを体験して、あのとき私が何を思い、何を感じたか…正直 よく憶えていません。
ただ、いつのまにか私のなかで死から生を見る感覚は消え失せていました。
時計を見ても「ああ、もう○時だ~」と思うことは勿論、声に出すこともなくなりました。

そして気がつくと、一年の何ヶ月間が過ぎると、決まって言っていた「一年の何分の一が過ぎた」という言葉さえも口にしなくなっていました。
時間を逆算しないで生きられるようになっていたのです。

素直に自分の「生」を前に据え 「今、ここ」を感じること、それが本当の意味の生きることなのだと思えるように、そして生命を生き生きとしたものとして感じ取れるようになったのです。
私たちは時間を過去、現在、未来というように横軸で捉えて生活しています。
しかし、時間はあくまで経験と経験の間にある空間、隙間のようなもので、すべての体験は、「今、ここ」の瞬間での経験にほかなりません。
他のどこでもなく「今、ここ」なのです。


それを実感したのは、ずっと以前「三人姉妹」という伊・独・仏の合作映画を観たときでした。
チェーホフの「三人姉妹」がベースになった映画で、ストーリーは三人の姉妹
が恋愛によって、それぞれの人生を変えたいと行動を起こすのですが、結局は以前の生活に戻っていくというものでした。

この映画を観終わったあと、帰りの電車のなかでたまたま聴こえてきたのが井上陽水さんの「少年時代」そのなかのフレーズ♪夢はつまり思い出のあとさき~♪という詞を聴いた瞬間、映画とリンクして湧き上がったのは、過去も「夢幻」未来も「夢」確かめられるのは「今、ここ」しかないのだという思いでした。


かつて何十年もの間、私のなかにあった「自分には時間がない」との思いや「死から生を見る」という感覚は、現在はもうありません。
内と外とに境界がないという感覚、有限の時がイコール永遠のときという風に変わったとき、私のなかで生も死も同じ重み、誰もが体験する必然の出来事と変化していったのです。


この瞬間、瞬間を感じること、感覚や感情で「今、ここ」を体験していくということが
時間軸を縦軸で生きるということなのだと思います。



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