ホリスティックヒーリング宙『心の扉を叩いてみたらきっと何かが見えるはず聴こえるはず』

ホリスティックヒーリング宙(sora)のヒーラー&臨床心理カウンセラー株本のぶこが心・心と身体について綴っています

余命と与命

2010-09-27 06:51:36 | 心・身体・癒し

先日、テレビで余命告知の問題を取り上げた番組を見た。

統計によると、余命告知の半分以上が癌によるもの、次に心疾患となっていた。

番組では、ある大学病院の教授を取材、教授の担当する患者さんが癌だとわかった段階で、病状説明と一緒に余命告知をどういう風にするのかの話を聞いた。
欧米では、余命を告知するのは当たり前のことと認識されているそうだが、日本の場合は、まだそういうところにはいっていない。

教授の話によると、診察をしてきて患者さんの性格をある程度わかっての告知ということになるそうで、患者さんの家族とも相談の上、個人個人、告知したほうがいいか、告知しないほうがいいか判断するのということだった。

告知をされた患者さんは、精神的にダメージを受けるわけだが、ある一定の段階を踏むという。否定から入り悲観、怒りなどを経て、最期には諦念という境地に入るというのが一般的に言われていることだそうだ。

しかし、それもやはり個人差があり、否定から一気に諦念にたどり着くひともいれば、最後まで諦念の境地にはたどり着けず、無念の思いを抱えたまま最期のときを迎えるひとも現実にはいるという。

番組では何人かのがん患者さんにインタビューをしていたが、あるひとりの女性の話が印象的だった。

その女性はまだ若く、親御さんも健在ということだった。あるとき突然、女性が癌を告知され、余命半年から一年と医師に宣告されたという。しかし、その後の抗がん剤治療が候をそうしたのか、女性は元気を取り戻し、余命を告知された一年を無事に乗り越え、今は3年が過ぎたそうである。

このことで余命とは、果たして本当に信用していいものなのかということが、話されていた。たしかに過去の同じような症例を参考に、データーに基づいてのことだろうが、だからといって、それがすべて正しいとは言い切れない。そのときの外的状況や、本人のコンディションによって症状には変化が見られるのが普通である。

ましてや余命告知となれば、単なる病状報告とはわけが違う。
それに関して、先に紹介した女性の患者さんは、ある程度治療をおこない、気力が回復した段階で、「実はあなたは・・・」という感じで告知を受けられたらいいと話していた。そうすることにより、気力が衰えずにいられたといい、もし最初に告知されていたなら、過酷な治療に耐えられたかどうかわからないと話していた。

実際、この情勢は余命半年と家族は告げられていたが、抗がん治療が功を奏して現在、3年目だという。このことからも生命というものが必ずしも告知どおりにいくとは限らないことは明らかで、この問題の難しさを物語っていた。

大変興味深かったのは、ホリスティックな考え方をベースに患者さんと向き合っている、ホリスティック医学協会の帯津先生が、「人間が人間に余命を告知すること自体、大変傲慢な行為である」との意見を話されていたことだった。

先生によると、「余命は余命=あまった命ではなく、与命=与えられた命」だそうだ。

命に余ったものなど何もない。そのひとがそのひとの生命を生きている、そのひとに与えられた生命の時間を生きているのだ。

本当の意味の「よめい」とは与えられた命=与命と捉えるべきなのかもしれない。

 

 

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愛がもたらした奇跡の回復

2010-09-21 11:31:25 | 心・身体・癒し

先日、ある番組を見た。

あるひとりの女性の物語だった。
その女性は10歳のとき、交通事故に遭い、脳に大きなダメージを受けたという。
一命は取り留めたものの、身体に障碍が残っただけでなく、高次脳機能障害という病気を抱えることとなった。

高次脳機能障害という症状は、一見すると健康体のように見えるが実は脳に大きなダメージを受け、例えば感情のコントロールが効かなくなり興奮しやすくなったり、少し前のことをすぐに忘れてしまうといった症状が認められるということだった。

女性の場合は、少し前の記憶もすぐに忘れてしまう後遺症を抱えてしまった。
学校に通っても、友達の名前、顔を憶えられない。勉強も記憶ができないため教えてもらってもすぐに忘れてしまうことから、ずい分と精神的にも苦痛を抱えての日々だったことだろう。

やがて彼女の病気を理解する男性とめぐり合い結婚、幸せな結婚生活がはじまった。そして妊娠。しかし、周囲は彼女が出産することに反対した。

子どもを産んだあとのことを思ってのことだった。すぐに記憶をなくしてしまう彼女に子育てなどできるはずが無いというのが周りの見方だった。しかし、反対を押し切って彼女は出産する。

が、案の上子育ては想像を絶するほどの大変さだった。子どもが泣いていても、どうして泣いているのかが分からない。ミルクをいつあげたのか、おしめをとりかえたのはいつだったかも忘れてしまう。

さすがの彼女も、すっかり子育てに自身をなくしてしまった。そのときだ、彼女のか母親が叱咤激励。そこから彼女の奮闘の日々がはじまった、

すべての行動、出来事を彼女はメモしていったのだった。そして少しずつ、家の仕事ができるようになっていったのである。

番組では彼女のそうした変化が、脳のなかでどのように変化しているかを探るため検査を実施した。だが、検査の結果わかったのは、肝心の場所には変化が見られないということだった。

人間の脳で記憶をつかさどる海馬は通常よりも小さく萎縮したままだったし、神経伝達の機能は、事故当時引きちぎられた状態だったが、回復してはいなかった。

ただ、違っていたのは脳の前頭部のある箇所に発達の様子が認められていたことだった。それについて専門家は、彼女の子どもを思う気持ち、必死に子育てをしていこうという努力が、脳の機能に変化をもたらしたのだろうということだった。

海馬が小さく萎縮して記憶することができなくなったはずの彼女ではあるが、子どもさんのことはしっかりと名前も顔も記憶できているそうである。そこも不思議なことではあるのだが、やはり「愛」の力なのだろう。

番組では最後に、彼女が子どもさんのために料理をつくるところを映していた。何度も教えてもらったことで、徐々に自分で手順を理解、作れるようになってきたそうである。

「これがお母さんの味」というものを子どもさんに残してあげたいと彼女は言っていた。

到底回復など見込めない、それほどの大きな怪我と後遺症をもったひとがここまで回復できたこと自体奇跡なのかもしれない。

しかし、この番組を見て感じたのは、人間の可能性についてであった。

生まれたときから障碍をもっているひとも同様だが、障碍がある=できないのではない。可能性はやはりあるのだ。ただ周りがそれを信じ、早く見出し、どれだけ支援し、育てていこうとするか、そうした意識を持っているかにかかっている、そんな気がした。

これからも彼女の努力と奮闘の日々は続く・・・

 

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認知症と感情についての新しい取り組み

2010-09-17 10:07:56 | 心・身体・癒し

先日、認知症を取り上げた番組を見た。

認知症は罹患した本人もつらい(斑ぼけと言われる状態のときなど)が、介護している家族も相当のストレスを受けながら、出口の見えない日々を過ごしている。

番組では、認知症の症状のうち典型的な例をあげ、それがある対応によって改善した事例を紹介していた。これはある意味、画期的なことかもしれない、そう番組の進行役は話していた。

ふたつの事例が紹介されていたが、ひとつはご主人が数年前に認知症に罹ったご夫婦、もうひとつは奥さんが認知症に罹ったご夫婦だった。

ご主人が認知症に罹ったご夫婦の場合、ご主人が遠くに住む兄弟の家に行くといってきかず、それを止めると奥さんに暴言を吐いたり、ときに暴力をふるったりしたのだという。

奥さんはそのときのことを話しながら、時々声を詰まらせていたが、聞いているほうも、どれほど過酷な毎日であったか容易に想像できた。

一方、奥さんが認知症に罹患したご夫婦の場合、ご主人が家事のすべてを担い、献身的に奥さんの介護をしていたという。しかし、ある頃から、その奥さんがご主人の介護を拒否するようになったのそうだ。

そのときのことを話されたご主人は、目に涙を溜め、あまりの辛さに心中することも考えたと話されていた。

その二組のご夫婦になにが起こったか。

それが今回のおおきなテーマであった。

ある大学の先生が開発した、アンケートシート(名称ははっきりと憶えていないが)が紹介された。シートは、介護している方が、記入するのだという。

具体的には、認知症に罹っているひとが、日ごろどんな言動をしているか、どんな行動をしているか、どんなことにどんな反応をしているかを、認知症に罹っている人の立場になって詳細に書き込んでいくと言うもの。

まず最初にすることは、介護されている人の絵を描くこと。そしてその人の口癖などを書き込んでいく。

それを書いていくと、認知症に罹っている人の言語、行動、反応がどのようなものかが浮かびあがってくるのだそうだ。そして、そのことによって、介護する側のひとが、認知症のひとがどんな気持ちでその言葉を発したか、どんな気持ちで行動を起こしたか、そんな気持ちで相手に対して反応したかが見えてくるようになるのだという。

例えば、否定していたとか、何か自分でできることをしたいと思っていることに気づいたり・・・

先に紹介した二組のご夫婦も、そのシートに書き込んだことで認知症に罹ったパートなーがどういう気持ちだったかを推し量れるようになってきたという。そして、それによって、介護する側の対応も少しずつ変化するようになったそうだ。

大事なのは否定しない、説得しないことだという。

このケースで注目されたのが、認知症にかかっている人の感情への対応だ。
シートを開発したお医者さんの話によると、認知症に罹ったひとが何かをしたい、ほしい要求したとき、多くの場合、周囲のひとたちは、それをどうにか忘れさせよう、諦めさせようと努力する。

すると、認知症にかかった人は一旦は説得に応じて、要求を諦める。が、再び思いだしては要求。しかし、また説得されて引っ込めるいうパターンを繰り返す。よくあるパターンなのだが、それが実は認知症の症状を悪化させる原因になり得るのだそうだ。

どういうことかというと、認知症にかかった人が何かをしたい、なにかが欲しいという要求をして、それはできない、無理であると説得されたとしよう。そのとき、表面上では諦めるのだが、実はそのときの感情はしっかりと残るそうで、感情が伴った記憶は憶えているのだという。
たとえいきさつは忘れても、そのとき感じた感情は残ってしまう。
脳のなかにある扁桃体が残すのだとか。

自分がしたいといったことを諦めさせられた悲しい思いなどさまざまな感情、その相手への憤りや悲しみ、怒りなどがその人(認知症)の身体に残り、あるときそれが蓄積され爆発するのだそうだ。
特に認知症に罹った人は感情が敏感になっているらしい。

そうしたことを防ぐための対応としては、認知症の人の言動、行動、反応パターンから、その人の感情を推し量り、それにあわせた対応をしていくこと。
それが、効果的だということが研究によって明らかになり、認められ始めているのだという。

先に紹介した、奥さんが認知症の場合、奥さんは家事全般が得意で大好きだったのそうだ。それをご主人が奥さんの世話は勿論、すべての家事を奥さんから取り上げてしまったのが、結果的には認知症の症状を加速させる逆効果となってしまった。

シートの記入をしたことで、奥さんが料理が得意でするのが好きだったことを思い出し、奥さんができる範囲の料理の支度を頼むようにしたところ、それまでぼんやり、何も手につかず、ただ椅子に腰掛けているような生活だったのが、喜んで自分ができる家事を率先してやるようになったのだという。

さらにそれを続けたことによって、表情に変化が見られ、認知症の症状(失禁)が無くなったり、少しずつではあるが認知症の症状も治まってきたという話であった。

一方、ご主人が認知症に罹った人の場合も、兄弟の家に行くと兄弟は留守と言ってみたり、あれこれ理由をつけて忘れさせよう、行かなくさせようとしていたのを、ご主人が言うとおりに、行きたいね・・・と相槌をうった、その人の気持ちに沿った対応をしたところ、暴言、暴力を振るわなくなり、ずいぶんと精神的に落ちつきを見せるようになったという。

この番組を見ながら感じたのは、私自身が今まで指向し実践してきた、感情や感覚を大切にしたカウンセリング、BFAの考え方をべースにしたカウンセリングの方法が、理に適っていたということだった。

思考や理屈ででものごとの考え方を変化させようとしても、本当の意味で、気持ちがそれを受容れなければ、感情はそのひとのなかに残ってしまう。
そして残ったものが蓄積され、飽和状態となったとき、突然爆発するのだということを、この認知症の事例は示している。

そこにある感情を認め、許し、受容することによって、そのひとの心のなかにあった思いは変化を始める。

認められないゆえに残っていた感情が、その感情を認め、感じきることによって、エネルギーは解消されていくということだろう。

認知症になって、家族や周りのひとたちとのコンタクトをとることが難しくなったからといって、ものごとを感じる心、感情までなくなるわけではないことを、この研究と結果、対応方法が示している。

理屈や思考だけではない、感情について、もっと私たちは大切に考えていかなければならないということではないだろうか。

 

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科学で解明できることだけが真実なのかという疑問

2010-09-15 08:46:00 | 心・身体・癒し

コーマワーク(意識障害・昏睡状態の人との対話)のセミナーには、さまざま職種、立場の人たちが参加した。

講師の二子さんも、ご自身のブログで触れているが、13名の参加者はそれぞれ、医療現場にいる方、ご家族が昏睡状態にある方、子供と関わるお仕事やセラピスト、コーマワークをすでに提供している人、年齢も20歳のお孫さんとそのお祖母さまというペアなどなど…バラエティ豊かな顔ぶれであった。

セミナーでは、始めに二子さんのレクチャーがあり、そのあとは参加者がそれぞれペアを組み、昏睡状態にある人、ワーカーという両方を経験しながら、エクササイズをいくつも体験していった。

それによって、今まではまったく想像すらできなかった繊細な感覚が自分自身のなかにあったことに驚いたり、ある体験によって自分の感覚が、ある瞬間から研ぎ澄まされていくのを体感したり、また昏睡状態の人の立場を体験したことによって、身体が動かせないこと、暗闇にたったひとりで存在しなくてはいけないという現実に直面したとき、ひとはどれほどの孤独と不安を抱えていくかということまでもを体験(想像の域は超えないという限界はあるが)できたことは、大きな大きな発見であり、収穫だった。

それと同時に、二子さんから現実にあったこととして聞いた実例は、たとえ意識障害であっても、昏睡状態であっても、意識障害や昏睡状態から覚醒したり、ある程度自分の意志を周囲に告げることができるようになる可能性があることを私たちに教え、私驚きと感動を与えてくれるものだった。

決して夢物語ではない、現実にあった話はそれだけで説得力をもつ。

それだけに、あの日、参加されたご家族が昏睡状態にある方などはおそらく、そこに希望の星を見出して帰られたのではと想像するが、一方で、これがおそらく社会のコーマワークへの眼、見方なのだろうと感じた場面もあった。

それは科学的な背景や裏づけがないということで、現実に昏睡状態から醒めた方や、呼びかけても反応がなかったものが、わずかな眼の動きや方向、指をちょっと曲げる、動かすといった反応を見せるようになった方が存在するにも関わらず、その事実をなかなか受けいれられない、認められないとする声だった。

実はこのことについては、私自身、以前も同じようなことを医療の知識を持ったひとから言われ、否定されたという体験があった。

それは昨年の春に出版した、自著「たおやかに生きる」のなかで書いた「昏睡状態の人と対話する」についての文章についてだった。

本を読んだ医療に従事するひとが、私が書いたことはおかしいと指摘、昏睡状態の定義から始まり、身体を通してさまざまな方向から測定されること、それによって上がってきた数値によって、状態が判断されることを説明。昏睡状態の人と対話する方法があること自体、有り得ない認められるものではないと話したのだった。

医療に関わる人にとってデータや診断は、症状や容態を判断する上では最も重要なものであろうことは、容易に想像できる。それゆえ、データや診断によって意識の回復は不可能と判断された人が、意識を回復すること自体、科学的には有り得ないことであり、その可能性を説いているコーマワークは、その根幹を揺るがすものとして
到底受容れられないものなのかもしれない。

しかし、現実にコーマワークによって意識が回復し、対話ができるところまではいかなくても、家族や身近な人と意志の疎通が可能となったひとは存在するのである。

目に見えるものがすべてではなく目に見えないものにも真実があるように、科学的見地で説明できること、解明できることだけが真実ではなく、科学では説明できないことにも真実はあるといえるのではないだろうかと、私はそう思う。そして、そのことを今回、コーマワークのセミナーに参加して、尚一層強く感じて帰ってきたのだった。

コーマワークを知るひとはまだまだ少数である。もっともっと、コーマワークの存在が広く知られ、多くのひとに認知され、医療現場においても、ひとつの意志の疎通のツールとして提供されるようになって欲しいものだ。

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☆ 星々のささやきを聴き取るように ☆

2010-09-14 08:54:51 | 心・身体・癒し

先日、コーマワークセミナー講師のふたこさわるさんが、ご自身のブログに私がミクシーのなかで書いた、セミナー参加の感想を紹介してくださったことは、すでにお知らせしましたが、数日前、新たなにここで書いた文章も紹介してくださいました。

その際、ふたこさんがコメントを寄せてくださいました。

もしよろしかったら、ふたこさんのブログを覗いてみてください。

 ☆ 星々のささやきを聴き取るように ☆

(受講者の声)東京コーマワークセミナー

二子渉さんのブログ 風使いの小屋 ブログ版

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コーマワーク二子渉さんのブログに紹介していただきました。

2010-09-12 04:02:27 | 心・身体・癒し

先日、コーマワーク(意識障害・昏睡状態の人と対話する)セミナーに参加したことはここにも書きましたが、

そのときの体験と感じたことを、書きましたところセミナー講師の二子渉(ふたこ わたる)さんが、ご自身のブログに転載、紹介してくださいました。

あわせて、私の文章に対しふたこさんが、コメントを寄せてくださっています。

是非、どんな体験をし、どんなことを感じたのかを読んでいただければと思います。

コーマワークセミナー参加者の声  

            ↑

ふたこわたるさんのブログ「風使いの小屋」

 

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コーマワーク☆究極のあるがまま

2010-09-09 10:53:40 | 心・身体・癒し

 セミナーでは、友人のSさんも参加していた。
Sさんは学院時代の同期生で、今年五月の連休に開催されたアーノルド・ミンデルのセミナーでも一緒になっている。それ以来の再会だった。

卒業後の勉強会などで会うと、身近な方にコーマワークを提供したいと話していたSさん。現在すでに、コーマワークを提供しているという話を聞いたことから、是非、Sさんのコーマワークを体験させてほしいとお願いして、してもらうことになった。

時間にしてわずか20分ほどのワークではあったが、今までにない感覚を味わった、そんな感じだった。例えるなら、「安らぎと安心の時空にただ在った」そんな感覚とでも言おうか。
こんなにも時間とはゆったり流れていくものなのか…そんな驚きにも似た感覚を味わった。

ワークは、三人一組だったことから、次に体験するひともせっかくの機会と、Sさんのワークを受けてもらうことにした。結果、Sさんが実際、どんな風にワークを進めていくか、その様子の一部始終を観察できたことは、とても大きな収穫だった。

最初にワーカーが昏睡状態の人に向かって、自己紹介するところからからコーマワークは始まる。

今、ワーカーはクライエントのどれくらい離れたところにいるかどんな風に近づいているかを昏睡状態の人に伝えながら、すぐ傍まで近づいたワーカーは耳元に顔を寄せ、クライエントの呼吸に合わせて、やさしく語りかけながら肩に手を添え、昏睡状態の人の呼吸に合わせ、その肩に圧を軽くかけていくそして昏睡状態の人の表情や、身体の一部、指先といった細かな部分にまで最新の注意を払いながら、同時に周りの雰囲気や様子を昏睡状態の人に伝えていくという、何とも複雑な仕事である。

こうしたことを実際のコーマワークでは一時間から一時間半、途中二十分ほどの休憩を入れながらが続けていくのだという。

自分が昏睡状態でコーマワークを受けていたときは、コーマワーカーとのかかわりの中でしか、自分の周囲に漂う時間と空間を味わうことしかできなかったが、第三者という立場で、コーマワーカーのワークを提供するすべてを見られることはそうあることではない。

コーマワークが始まった段階からすでに場の雰囲気は独特な様相を見せ始めていたがワークが進むほどに、Sさんとクライエントさんの空間だけが別の空気感を醸し出していた。それはまるで、何かの舞台を見ているような…ゆったりとした動きのなかに独特の流れ、リズムのようなものを感じとるこことができたのだった。

そのとき痛感したのは、コーマワークは提供する側の居ずまいや、佇まいが試されるものであるということだった。その場にコーマワーカーが「存在する」、そこからすでにコーマワークは始まっているのだ。そして、クライエントに語りかける口調も言葉、動き、流れすべてが、Sさんの感性から滲み出てくるものであることが空気感から伝わってきたのだった。

ここにこうして書き記していると、あのときの光景がまざまざと甦ってくる

本当にひとつひとつの動作を丁寧に、慎重に進めていくSさんの様子を見ながら感じたのは、いかに自分がカウンセラーとしての繊細さに欠けていたかということだった。

ボディフォーカスト・アプローチを学び、瞑想を日課にして、他人よりはそういったところでのトレーニングをしてきたつもりだった。しかし、実際にコーマワークを体験してみて、まだまだ自分は繊細になっていかなければいけないのだと痛感したセミナーでありエクササイズ体験であった。

私は今回が初めての参加であり、コーマワークはまったく初歩の初歩である。
案の定、ほとんど上手くいかなかった。そんなこともあって、現在はSさんがワークしてくれたそのときの声、間合い、空気感といったものを思い出し、自分のなかで体感として反芻することを毎日やってみている。

あれから10日あまり。
改めて感じるのは、コーマワークは究極の「あるがまま」の姿であるということだ。

自分の意思では何もできない、言葉も話せない、動けない。その現実を昏睡状態の人はそのままに受容れて生きている。そしてコーマワーカーはそうした状態にある昏睡状態の人に対して、「そのままでいいですよ」、「あるがままにいてください」とのメッセージを伝え、そのあるがままの状態がときに示す微細な変化を捉え、逃さず再び昏睡状態の人に返していくのである。

それは本当に、気の遠くなるような作業であり、長い時間、根気をもって接し、関わり、ふれあったことによって、奇跡のような意志の伝達、心の交流を育んでいく。

コーマワークの世界の入り口をちょっと覗いた程度のレベルでしかまだない私だが、こうした究極の世界に触れたとき、心の底から湧き上がった思い、それはコーマワークは、テクニック・技術以前に、ひととしての居ずまい、佇まい(純粋性と言ったひとがいましたが)が試されるものであるとの思いであった。

勝手な解釈、判断、思い込み、想像さえも自らの内から消して、ただひたすらに昏睡状態の人が発する微細なメッセージを受け取ることだけに全神経を集中させる。

そこに求められるものは、ただただ、純粋に誠実に、真摯に意識障害・昏睡状態にあるひとと共に在ることだろう。そして初めて、そうしたひとたちのかすかなメッセージを受け取ることができるのだと思う。

学院に入学して担任となったO先生が、授業のなかで「是非読んでほしい」と紹介してくれた「昏睡状態の人と対話する」という本。

今回、コーマワークセミナーに参加して、どうしてO先生がこの本を薦めたか、本当の意味がわかったような気がした。


 

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コーマワーク・呼吸を合わせゆったりとした時間の流れのなかに

2010-09-06 05:22:18 | 心・身体・癒し

先月の29日。コーマワーク(昏睡状態の人と対話する)セミナーに参加したことは、ずでにここに書き記したが、昏睡状態というものがいったいどのようなものかを、実際に体験してみるエクササイズを終えた私たち、次にクライエントさんに対しておこなわれているワークを、段階的に体験することになった。

相手と呼吸を合わせるエクササイズ。
これは先だってプロセスワーク協会の大会で、コーマワークの講演をされた二子さんのリードのものおこなわれたものだった。

ワークは、自分がそこにいることを、まずは相手に知らせることから始まる。傍に近づき、相手の呼吸を感じ、その呼吸にあわせ自分も呼吸をし、その呼吸音を相手の耳もとで伝える。書けば数行で説明できてしまうものだが、実際におこなうとなると、想像以上に時間がかかる。
単に呼吸を合わせるだけでなく、相手が吐く息にあわせ、先に記したことを実践していくのだ。

自分のペースではなく、あくまで相手の呼吸ペースに合わせ言葉掛けをしていく。ひとつの動作が普通であれば数秒で済むものを、数十秒かけておこなっていく。根気のいる作業である。

しかし、そのエクササイズを体験して感じたのは、時間とはこれほどまでゆったりと流れていくものなのかという驚きに近いものだった。
ワークにかける時間はどれもが20分間程度だったが、普段生活していて感じる同じ時間とは思えないほど、それはそれはゆったりとした時間が自分の周りを流れていったのだった。

時間というものが、そのとき、その場、シチュエーション、過ごし方によって感じる速さを変えていくかを、今回ほど実感したことはない。
それと同時に、いかに現代にあって私たちの暮らしは、合理性を追求し無駄を省くことこそが重要であるかのようにこれでもかと速さを求めているか思い知らされたのだった。必ずしもそれがいいことではないということも…

もっと時間の流れを身体で感じながら、ゆったりとしたなかに身を置く、そんなゆとりを持って日々、生きていきたい。そんなことを感じたのもコーマワークの学びの成果だったように思う。

ただ、視点を変えてみると、ゆったりとした時間の流れを昏睡状態という特殊な状態に置かれている人は、どう感じているのだろうという思いが湧くのも確かだ。
病にあるときの時間の流れは、それはそれは長く感じるものであり、苦痛を伴うものである。実際に昏睡状態にあった(そして目覚めた)ひとに聞いてみたいことのひとつである。

続く・・・

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コーマワーク(意識障害・昏睡状態のひとと対話する)セミナー②

2010-09-04 05:21:25 | 心・身体・癒し

セミナーでは、まず講師の二子さんから、コーマワークについての説明があった。

コーマワークのベースとなっているプロセスワークについて、実際アメリカでプロセスワークを学んできた二子さんが話すミンデルさんやプロセスワーク、その背景にあるユング心理学がいう無意識、そしてフロイトが定義した精神分析における無意識との違いをレクチャーしてくれた。

レクチャーのあとは、早速エクササイズがおこなわれた。

まずは昏睡状態とはどういう感じなのかを体験するエクササイズから。
昏睡状態になってみると言っても、実際、どういう状態を昏睡状態、意識障害と定義しているのだろう。
おそらく誰もがそう考えるのではないだろうか。

セミナーで配布された資料によると、昏睡状態ならびに植物状態と言われる状態には定義があるという。
日本脳神経外科学会が定めたもので、(1976年)

1.自力移動が不可能である。
2.自力摂食が不可能である。
3.糞・尿失禁がある。
4.声を出しても意味のある発語が全く不可能である。
5.簡単な命令には辛うじて応じることもできるが、ほとんど意思疎通は不可能である。
6.眼球は動いていても認識することはできない。
以上6項目が治療にもかかわらず3ヶ月以上続いた場合を「植物状態」とみなすということだった。

それとは別に脳死に関わるものとして、今回資料では「閉じ込め症候群」という状態にも触れていて「意識ははっきりしているけれど、目以外は動かせない」という状態もあるそうだ。

参加者それぞれにイメージした昏睡状態に入って、会場が静寂に包まれたとの感覚が生まれた頃、突然大きな物音がした。
バタンと乱暴にドアを開閉し大声で誰かと話したかと思ったら、照明が消されそしてつけられたのである。

これには誰もが驚いた。それと同時に湧き起こったのは暗闇の世界にいることでの恐怖心と不安感だった。

そして、その瞬間を境目にして、自分の中に明らかな変化が生まれた。それは、自分の周りに対してそれ以前には比べ物にならないほど、感覚が鋭敏になり、神経が研ぎ澄まされてきたことが、実感としてわかった。

これはおそらく、暗闇の世界にあって自分の周囲でいつ何が起こるかわからないことへの恐怖心や不安感を少しでも早くキャッチし、軽減しようとする、身体的自己防衛機能が、体験によって働き始めたことによるものだと思うが、昏睡状態のひとが常に味わっているであろう状態でもあることを、私たちはこのエクササイズによって初めて知ったのだった。

昏睡状態になってみて、大きな物音を体験する前と後の感覚の違いを実際に体感し終え、私がいったい何を感じたかと言えば、いかに日頃、自分自身の感覚に鈍感に生きていたかということだった。見方を変えれば、これほどまで感覚を鋭く、神経を研ぎ澄ませることが可能であるということに気づかされたと言っていい。

この最初のエクササイズを体験したことにより、その後、いくつかのエクササイズを体験したが、どこかそれまでより鋭敏な状態でいられる自分を感じながらそれらを実践していった気がする。

それほどこの「昏睡状態を体験する」エクササイズは強烈な印象と感覚を与えたのだった。

続く…

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コーマワーク(意識障害・昏睡状態のひとと対話する)セミナー

2010-09-01 08:41:26 | 心・身体・癒し

今週の日曜日、コーマワーク(意識障害・昏睡状態のひとと対話する)のセミナーに参加した。

コーマワークとの出会いは、2005年に遡る。

この年、学院に入学して数ヶ月が経った頃、担任の講師から読むことを薦められたのが、アーノルド・ミンデルが書いた「昏睡状態の人と対話する」という本だった。

はじめて読んだときの衝撃と感動は、今も思い出せるほど、それはそれは大きなものであった。そして、この本との出会いが、その後、講師によって始まったボディフォーカスト・アプローチを学ぶことへと繋がったと言っても過言ではない。

なぜ、これほどまで感動したかと言えば、やはりそこには祖母の死が深く関係している。

私たち家族が札幌から東京へと移り住んでから、昨日で丸9年が経つが、実はその同じ年の5月に祖母が亡くなっている。
そのときの様子は、過去に何度か書いているが、実は、亡くなる一ヶ月前に病院を転院している。そのとき、転院先の病院から、祖母が万が一のときに、延命処置を施すかどうか選択するよう促されたのだった。

祖母の実の娘である、私の母がそのとき決断したのは「延命処置はしない」ということだった。今までの人生、生き方を思ったとき、おそらく祖母は「延命処置を望まないだろう」と、母はそう判断したのである。

そうした母の決断に対して、家族である父と私は異存はなかった。というより、母と同じ気持ちだったと言ってもいい。しかし、だからと言って100パーセント迷わなかった、心が揺れなかったと言えば嘘になる。それほど、延命処置という問題は、家族にとって辛い選択であり、心に重石を抱えたような重苦しさを残すものだと、そのとき初めて知ったのだった。

それからほぼひと月後、祖母は旅立った。
まるで、母の決断は正しかったとでも言うように、あえて医療のスタッフが手薄になる休日に、誰にも知られないまま逝ったのである。

その事実を知ったとき、私たち家族全員がある種の安堵感を覚えたのは確かだった。母が選択したとおりのことが起こったことが、母のみならず家族をホッとさせたのかもしれない。

そんな出来事があった数ヵ月後に、出会ったのが「昏睡状態の人と対話する」という本だったのである。

読み終えて強く思ったこと、それは「もし、あのとき(延命処置をするかとの選択)、このアプローチ法を知っていたら、もし、このアプローチによって祖母の意思が確認できたなら、どんなにかよかっただろうに」ということだった。あのとき、もし祖母が自ら延命を望む、望まないの意思を示してくれたなら、私たち家族は迷うことなく祖母の意思を尊重し、それによって生じた結果についても不安を覚えることなく納得できたはずである。

そんな体験から、私の心の片隅にはずっと「コーマワーク」は存在し続けてきたのだ。

この本を読んだときには、プロセスワーク(コーマワークのベースとなっている)を学ぶにはアメリカに渡って勉強するより方法はなく、断念せざるを得なった。しかし、あれから5年あまりが経った今、プロセスワークを日本で学べるシステムへと状況は変化している。

それと同じように、まったく機会がないと思われていたコーマワークに触れられる、学べるチャンスがいつのまにが訪れていたことを、私はつい最近まで知らなかった。
そのことが、実はちょっと残念ではあるのだが、おそらく私がコーマワークに触れるためには、この5年という時間は絶対必要だったのだろう。そんな風に思いながら参加したコーマワークセミナーであった。

続く…

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