ただ、残念なことに気づきによって広がる自分自身の世界を目の前にして、傷つくことを怖れ此処に留まるひとのどれほど多いことか。それを証左するような記事を偶然見つけた。
『遠ざかる尾崎の叫び 尾崎豊没後十五年若者は変わったか』
気づきに対しての直接的な内容ではないのだが、先日の朝日新聞にあの頃の若者と現代の若者とを、彼の歌に対しての印象や感想を通して比較した記事が掲載されていたのだ。
「僕が僕であるために」や「15の夜」など、当時の若者たちに圧倒的な支持を受けていた尾崎豊はある日、あっけなくこの世を去った。
あれから十五年…今では彼の歌は高校の倫理の教科書にも載るくらい、社会的に認知されるようになっている。
「社会への反抗」「社会への苛立ち」への表現と見られがちな彼の歌詞を、その典型として描かれた教育現場の先生たちが「実はこれらの歌は、自分自身と向き合い自分の生き方を模索し苦悩する姿なのだと」評価「自分と他者とのアイデンティティーの問題が内包されているのだ」と捉え、教科書への掲載を望んだ結果だという。
確かに単なる社会への反抗ならば、『卒業』に書かれている「人は誰も縛られたかよわき子羊ならば 先生あなたはかよわき大人の代弁者なのか」といった表現はしないだろう。
少なくともここにあるのは対立軸ではない、共に悩める存在として大人を見ていることに他ならないのである。
そこに彼の生きることへの戸惑いと内省への深い洞察が垣間見られ、あの時代を共に生きた若者たちが彼に共感し自分自身を投影したのだ。
が、そうした(教科書に載るという)事実とは裏腹に、肝心の若者たちからは共感を得られなくなっているのだという。
しかも、そうした若者が年々増えているそうである。
「周りに迷惑を掛けるのは間違い」「大人も子供のことを思っているのに反発するのはおかしい」etc。
「何とものわかりのよい若者たちだろう…いや、このものわかりのよさとは…一体これはどういうことなのか?」
正直、あまりにも素直で従順な彼らに私のほうが驚かされた。
なぜなら私たちの十代の頃は、社会の矛盾、大人たちの矛盾、そして自分たちが抱える矛盾に毎日毎日翻弄され自分はもしかして精神的におかしいのではないか、二重人格者なのではないかと真剣に悩んだものだった。
それは決して一部の若者ではなく、仲間みんなが抱える「社会や人間が抱える矛盾との闘いの日々」であったように思う。
本気で担任の先生と口から泡を飛ばしてやりあった男子生徒がいた。それを他人事とは捉えずに一緒になって考え、援護しようと意気込んだ十五歳のわたしたち。
そして、それらを乗り越えた時、若者は初めて大人として生きることを受容した(できた)のではなかったのか。
考えられる理由は何か…精神科医の香山リカさんは「反発したり知りすぎると損をする。損得勘定が判断の基準になっている」と分析している。つまりは自分の心、内面までを損や得というものさしで計りコントロールしているということなのか…
一方、作家の吉岡忍さんの話によると、ひとつには彼の歌は内面に深く切り込んできて、現代の若者には触れて欲しくないところに及ぶからだという。現状に適応してトラブルなく過ごすこと、それが若者の価値観なのか…
今という時代は、小学生のうちから人の心を読み、人との摩擦を極端に避け、人との距離を上手に置いて付き合うことが当たり前のようになっている。
本音と建前を使い分け処世術を身につけてしまった大人ならまだしも、小学生のうちからこういうことに神経を使う、使わなければ円滑な(表面上の)交友関係を保てないとは…極端に傷つくことを恐れている姿がそこから垣間見えてくる。
結局彼らは自分を見つめること、内面に深く入り込むことで見えてくる「真の自分」に気づきたくない、それによって傷つくことをやはり避けたいのだろう。
そしてそれは決して若者たちだけではないこと、そこから表出する問題点、課題については前回触れた通りである。
時代、社会の流れが大きな壁になっているとはいえ「気づき」の意味や価値が色褪せ、無意味なものと化すわけではない。
逆に自分自身の内面としっかりと向き合うことで、自分が気づかなかった「逞しい」「強い」自分に出会えるはず。
その意味や価値は想像するよりずっと大きいことに是非気づいて欲しい。
そして、そのサポートをする役目をセラピストやカウンセラーは担っているということも…
昨年の暮れに起こった私自身の大きな気づき。
それによってあらゆるものが変わってしまい、今もその大きな流れのなかにいることを実感する日々を過ごしている。
あの時の気づきのひとつに『カウンセラーとはクライエントにとって安心できる存在なること』というのがあった。
実はそれは私自身が教育分析を受けてきたなかで感じた思いに他ならないのだが、あの時はまだそれが具体的にどういうものなのか「安心」とは一体どういうものなのかということが、漠然としか見えていなかった。
が、今回「気づくとは傷つくこと」という言葉によって気づいたのは、カウンセラーが自ら「気づき」を経験し「傷つく」という体験をしておくということがいかに大切か、重要であるかということだった。
もし、カウンセラーやセラピストが「気づき」への怖さを抱えたままクライエントと向き合ったとしたらどうだろう。
クライエントはおそらく「気づき」を起こす機会を逸してしまうだろう。
あるいはそんな状態のなかにあってもクライエントが大きな気づきを起こし始めた場合、カウンセラーは自らが体験していない場面に遭遇したことで、思わずたじろいでしまうかもしれない。
が、しかしそれは極力回避しなければならないこと。
「クライエントにとっての安心できる存在」となるためには、セラピストやカウンセラーが自ら「気づき」「傷つき」それでもなお「今、ここにいる」ということを体験し、実証しなければならないのだ。
そして「気づくことは何も怖いことではない、恐れることはないのだということ」さらに「たとえ傷ついたとしても大丈夫。ひとはちゃんとそこから回復する能力がある」ということをカウンセラーが身をもって示し、その上でしっかりと寄り添うことでクライエントの「気づくこと」への援助をすることが必要なのである。
カウンセラーやセラピストは自らの深い内面と対峙することを避けてはいけない。対峙し続けていかなければならないのである。
ここにカウンセラーやセラピストの「安心できる存在」の意味と価値があるのだと思う。
以前、ある交流分析のセミナーで、一般の(心理学を専門にしていないという意味)参加者がエゴグラムに関連して「人として(自分)としてのあるべき姿を示すものはどういうものか」と質問したことがあった。
それに対して、福井先生は「あるべき姿というのはありません。ただしカウンセラーとしてという限定ではありますが」と答えられていたことがあったが、おそらく「カウンセラーとしてのあるべき姿」のひとつにこうした問題、条件も含まれているのではないだろうか。
「腑に落ちる」それは「心が動く」ことなのだという。
心が動いて心の底からそう思えた瞬間。
それがやがて行動、実行へと結びついてゆく。
誰にとっても「気づき」そして「傷つく」ことは辛い。
しかしそこを乗り越えた時、新しい自分を実感するだろう。
☆☆☆ 最後に大切なメッセージを ☆☆☆
「気づきがあったからといって、即、それを行動には移さないで下さい。無理をすると良くありません。気づきは貴方のなかに記憶となって残り、いつかその時期がきたとき自然と貴方を導いてくれます。決して焦らないで下さい」
『遠ざかる尾崎の叫び 尾崎豊没後十五年若者は変わったか』
気づきに対しての直接的な内容ではないのだが、先日の朝日新聞にあの頃の若者と現代の若者とを、彼の歌に対しての印象や感想を通して比較した記事が掲載されていたのだ。
「僕が僕であるために」や「15の夜」など、当時の若者たちに圧倒的な支持を受けていた尾崎豊はある日、あっけなくこの世を去った。
あれから十五年…今では彼の歌は高校の倫理の教科書にも載るくらい、社会的に認知されるようになっている。
「社会への反抗」「社会への苛立ち」への表現と見られがちな彼の歌詞を、その典型として描かれた教育現場の先生たちが「実はこれらの歌は、自分自身と向き合い自分の生き方を模索し苦悩する姿なのだと」評価「自分と他者とのアイデンティティーの問題が内包されているのだ」と捉え、教科書への掲載を望んだ結果だという。
確かに単なる社会への反抗ならば、『卒業』に書かれている「人は誰も縛られたかよわき子羊ならば 先生あなたはかよわき大人の代弁者なのか」といった表現はしないだろう。
少なくともここにあるのは対立軸ではない、共に悩める存在として大人を見ていることに他ならないのである。
そこに彼の生きることへの戸惑いと内省への深い洞察が垣間見られ、あの時代を共に生きた若者たちが彼に共感し自分自身を投影したのだ。
が、そうした(教科書に載るという)事実とは裏腹に、肝心の若者たちからは共感を得られなくなっているのだという。
しかも、そうした若者が年々増えているそうである。
「周りに迷惑を掛けるのは間違い」「大人も子供のことを思っているのに反発するのはおかしい」etc。
「何とものわかりのよい若者たちだろう…いや、このものわかりのよさとは…一体これはどういうことなのか?」
正直、あまりにも素直で従順な彼らに私のほうが驚かされた。
なぜなら私たちの十代の頃は、社会の矛盾、大人たちの矛盾、そして自分たちが抱える矛盾に毎日毎日翻弄され自分はもしかして精神的におかしいのではないか、二重人格者なのではないかと真剣に悩んだものだった。
それは決して一部の若者ではなく、仲間みんなが抱える「社会や人間が抱える矛盾との闘いの日々」であったように思う。
本気で担任の先生と口から泡を飛ばしてやりあった男子生徒がいた。それを他人事とは捉えずに一緒になって考え、援護しようと意気込んだ十五歳のわたしたち。
そして、それらを乗り越えた時、若者は初めて大人として生きることを受容した(できた)のではなかったのか。
考えられる理由は何か…精神科医の香山リカさんは「反発したり知りすぎると損をする。損得勘定が判断の基準になっている」と分析している。つまりは自分の心、内面までを損や得というものさしで計りコントロールしているということなのか…
一方、作家の吉岡忍さんの話によると、ひとつには彼の歌は内面に深く切り込んできて、現代の若者には触れて欲しくないところに及ぶからだという。現状に適応してトラブルなく過ごすこと、それが若者の価値観なのか…
今という時代は、小学生のうちから人の心を読み、人との摩擦を極端に避け、人との距離を上手に置いて付き合うことが当たり前のようになっている。
本音と建前を使い分け処世術を身につけてしまった大人ならまだしも、小学生のうちからこういうことに神経を使う、使わなければ円滑な(表面上の)交友関係を保てないとは…極端に傷つくことを恐れている姿がそこから垣間見えてくる。
結局彼らは自分を見つめること、内面に深く入り込むことで見えてくる「真の自分」に気づきたくない、それによって傷つくことをやはり避けたいのだろう。
そしてそれは決して若者たちだけではないこと、そこから表出する問題点、課題については前回触れた通りである。
時代、社会の流れが大きな壁になっているとはいえ「気づき」の意味や価値が色褪せ、無意味なものと化すわけではない。
逆に自分自身の内面としっかりと向き合うことで、自分が気づかなかった「逞しい」「強い」自分に出会えるはず。
その意味や価値は想像するよりずっと大きいことに是非気づいて欲しい。
そして、そのサポートをする役目をセラピストやカウンセラーは担っているということも…
昨年の暮れに起こった私自身の大きな気づき。
それによってあらゆるものが変わってしまい、今もその大きな流れのなかにいることを実感する日々を過ごしている。
あの時の気づきのひとつに『カウンセラーとはクライエントにとって安心できる存在なること』というのがあった。
実はそれは私自身が教育分析を受けてきたなかで感じた思いに他ならないのだが、あの時はまだそれが具体的にどういうものなのか「安心」とは一体どういうものなのかということが、漠然としか見えていなかった。
が、今回「気づくとは傷つくこと」という言葉によって気づいたのは、カウンセラーが自ら「気づき」を経験し「傷つく」という体験をしておくということがいかに大切か、重要であるかということだった。
もし、カウンセラーやセラピストが「気づき」への怖さを抱えたままクライエントと向き合ったとしたらどうだろう。
クライエントはおそらく「気づき」を起こす機会を逸してしまうだろう。
あるいはそんな状態のなかにあってもクライエントが大きな気づきを起こし始めた場合、カウンセラーは自らが体験していない場面に遭遇したことで、思わずたじろいでしまうかもしれない。
が、しかしそれは極力回避しなければならないこと。
「クライエントにとっての安心できる存在」となるためには、セラピストやカウンセラーが自ら「気づき」「傷つき」それでもなお「今、ここにいる」ということを体験し、実証しなければならないのだ。
そして「気づくことは何も怖いことではない、恐れることはないのだということ」さらに「たとえ傷ついたとしても大丈夫。ひとはちゃんとそこから回復する能力がある」ということをカウンセラーが身をもって示し、その上でしっかりと寄り添うことでクライエントの「気づくこと」への援助をすることが必要なのである。
カウンセラーやセラピストは自らの深い内面と対峙することを避けてはいけない。対峙し続けていかなければならないのである。
ここにカウンセラーやセラピストの「安心できる存在」の意味と価値があるのだと思う。
以前、ある交流分析のセミナーで、一般の(心理学を専門にしていないという意味)参加者がエゴグラムに関連して「人として(自分)としてのあるべき姿を示すものはどういうものか」と質問したことがあった。
それに対して、福井先生は「あるべき姿というのはありません。ただしカウンセラーとしてという限定ではありますが」と答えられていたことがあったが、おそらく「カウンセラーとしてのあるべき姿」のひとつにこうした問題、条件も含まれているのではないだろうか。
「腑に落ちる」それは「心が動く」ことなのだという。
心が動いて心の底からそう思えた瞬間。
それがやがて行動、実行へと結びついてゆく。
誰にとっても「気づき」そして「傷つく」ことは辛い。
しかしそこを乗り越えた時、新しい自分を実感するだろう。
☆☆☆ 最後に大切なメッセージを ☆☆☆
「気づきがあったからといって、即、それを行動には移さないで下さい。無理をすると良くありません。気づきは貴方のなかに記憶となって残り、いつかその時期がきたとき自然と貴方を導いてくれます。決して焦らないで下さい」