ホリスティックヒーリング宙『心の扉を叩いてみたらきっと何かが見えるはず聴こえるはず』

ホリスティックヒーリング宙(sora)のヒーラー&臨床心理カウンセラー株本のぶこが心・心と身体について綴っています

バタフライ効果09'

2009-05-24 13:18:44 | 心・身体・癒し

先日、たまたま大講演会で昼休み、大高先生と話す時間があった。

今回の大講演会に参加した理由のひとつに統合的アプローチへの関心、興味があったことは前回触れたが、同じように自分のなかで湧き上がっていたことがある。

それは今後の方向性についてのこと。
本を書き上げて出版した。それはいいのだが、心のどこかに安堵感のようなものが湧くのと同時に、これからどうしていこうかという模索する気持ちが漠然と湧いていた。
そしてその思いを見透かした先生から言われたのが、先生と私の違いについての助言だった。先生にあって私にないもの、それが「幅広い知識」であり「ケースの量」だと。

そのことは私自身感じていたことであり、それを模索していたと言ってもいい。
それだけに助言をもらってからの私はずい分と考えた。
そして出した答えが「ケースについては自分ひとりでは解決できないが、知識については自分でどうにでもなる。
そうだ、これからは幅広い知識を得ていくことを考えよう」というものだったのである。

その最初の段階として、図書館で心理学の書籍を借りて読むということを自分に課し実践しているが、もうひとつ考え付いたのがある心理学の月刊誌を購入して読むと言うことだった。
図書館で借りて読むのは確かにいい、しかしともすれば自分の好きな分野(私の場合はユング心理学や、トランスパーソナル心理学といった分野なのだが)に偏りがちになる。
それでは幅広い知識を得ることにはならない。
が、こういう心理学の月刊誌ならば自分の指向と関係なくさまざまな心理療法、心理カウンセリングの知識を、しかも著名な方々から学ぶことができる。
そう考えた私は、先生にそのことを報告しながらふたつある雑誌のどちらが今の自分に合っているかを相談したのだった。

先生は、私になぜ月刊誌を購読しようと思うのかを聞き、「それはいいことだ」と言って「こちらのほうがいい」とアドバイスしてくれた。
が、ひとつ私が言った言葉に対しちょっとした発想の転換を促した。

私が言った「次のステージに向けて…」という言葉についてであった。

「本を書いたこと=ひとつの区切りをつけた」という思い、それが「次のステージ」という言葉となったのだが、その意識を先生は指摘し「次のステージという意識でなく、もっと別の意識を持ったほうがいい」と言い「バタフライ効果を頭に入れて(進んでいく)おくように」と言ったのだった。

「バタフライ効果」実はこの言葉を私は初めて耳にしたのだが、結構知られているようである。

バタフライ効果というのは簡単に言うと、ある場所での蝶の羽ばたきが、そこから離れた場所の将来の天候に影響を及ぼすというもの。


この表現はエドワード・ローレンツというひとが1972年にアメリカ科学振興協会でおこなった講演のタイトルに由来している。

『予測可能性-ブラジルでの蝶の羽ばたきはテキサスでトルネードを引き起こすか』

ローレンツは1963年、ニューヨーク科学アカデミーで自分の発見を掲載した中で「ある気象学者は、この説が正しいとすると、カモメのたった1回の羽ばたきが気候の成り行きを未来永劫変えうることに気付いた」と書いたそうだ。

さらには「北京で蝶が羽ばたくと、ニューヨークで嵐が起こる」や、「アマゾンを舞う1匹の蝶の羽ばたきが、遠く離れたシカゴに大雨を降らせる」という表現が使われることもある。

それは例えば、ブラジルでの蝶の羽ばたきというごく小さい要素であっても、テキサスでトルネードが起きるかという気候変動に大きく影響を与える可能性があるという事を表している。

だからと言ってブラジルの蝶の羽ばたきを観測すれば、テキサスの天気が予報可能であるということではない。
羽ばたきの風自体が嵐を引き起こす原因というわけでもない。

つまり、この言葉が意味するものは、たとえ小さな要素の組み合わせでも未来に大きな影響を与える可能性があるということだ。

先生は私に「本を書いた、そのことが地球を一周してどんなことをあなたに及ぼすか、それが小さいことか大きいことかはわからない。でも、それを意識していきなさい」と言ってくれたのだった。

本を出版して二ヶ月近くが経ったが、私自身目立った変化は感じられない。ただ、見えないところで何かしらの変化は起こっているのかもしれない。

実際、同じように二年前、本を出版した女性が私に「出版して一年半の間に大きく変化した」そうである。
もしかしたら、一、二年後、気がついたら私にも変化が起きていたということがあるかもしれない。

先生に指摘してもらったことが切っ掛けで、これから何をしていったらいいのか漠然としていた私だったが、数年後の自分のために、それがどういうものかはわからないが、何があっても大丈夫なように備えておこうという気持ちになることができた。

明確な目標はなくてもいいのだ。ただ、これからの自分を考えたとき、何かしら具体的な行動はできるような気がする。

 

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統合的アプローチとBFA

2009-05-24 13:17:58 | 心・身体・癒し

このところ私のなかで統合的アプローチに対しての関心、意識が強くなっている。

統合的アプローチというのは、カウンセリングをするうえで特定の技術、手法だけを用いず、いくつかの手法をクライアントの状態、状況に応じて使い分け提供していくというものだ。

なぜ私が関心を持つようになったか。
そこにはやはりBFAの存在が大きく関わっている。

BFAを学んできて三年。
BFAそのものも最初のころと比べると大きく変化してきた。

当初はボディワークの要素が強かったものが、特にこの一、二年でカウンセリングに自然に使える技術という位置づけになってきているのだ。

それだけではない。
ずっと大きな世界との印象を持っていたBFAが、ここ一、二年で一層その印象が強くなり、加えてBFAはすべてを包括しているのだということが理解できるようになってきたのだ。

大高先生がBFAのワークショップでおこなうオープンカウンセリング。
よく観察してみると、色々な手法を活用していることがわかるようになってきたのだ。

来談者中心療法そして、実存主義的心理療法と通じる概念をベースに、ゲシュタルトやNLPの手法のある部分を活用しているということも。。。。

今回、NLPの創始者であるグリンダー博士の講演会に参加しようと思った大きな理由がそれだった。
今まで特に志向してこなかったNLP。
というよりは、あまり食指が動かなかったと言ったほうが正しいかもしれない。

しかし、ボディフォーカスト・アプローチが統合的アプローチだと気がついた以上、
好き嫌いだけで触れないという考えは、カウンセラーとして活動しようとする人間の態度としては大いに問題があるだろう。

この際、先生が活用しているNLPがどういうものかを本物のグリンダー博士から学びたいと思った。
そしてもうひとつ参加しようと考えた理由が統合的アプローチに対しての興味、関心によるものだったのである。

さまざまな専門書を読んでみると、近年、統合的アプローチ(カウンセリング)というものがクロースアップされている印象を受ける。

ではなぜ統合的アプローチが注目されているかと言えば、現在、ある特定の手法だけのカウンセリング、セラピーでは、クライエントへの援助や欲求に充分対応しきれないとの考え方が生まれてきているからなのだそうだ。

現代はうつ症状を訴えるひとが増えたり、境界性人格障害の事例も目立つようになってきた。
それに伴い、そのときどきに求められる対応の仕方も多様になってきたことも統合的アプローチが注目される原因のひとつだろう。

学びのときは終わらない。


うつと自死09'

2009-05-21 13:17:23 | 心・身体・癒し

数日前、あるひとと話をした。

話しているうちに自然と話題は、かつてパートナーだったひとがうつを罹患したときの話題に…

パートナーは結果として、二十年あまりの闘病生活の末に自ら命を絶たれたという。

発病から闘病、死に至る過程で起きたこと、見守る側としての心理状態などを聴かせてもらいながら、ハッとしたことがあった。

やはりパートナーがうつに罹患し、現在闘病生活をしているというひとから聴いた状況と、とてもよく似ているのである。

パートナーが家族(特に妻)に投げかける言葉や、求める態度、さらには自分がこういう状況になった背景に強く影響しているのが誰であるかetc

不思議なほど会話の内容や過去への捉われの内容が一致している。そして自分自身の生き方へのこだわりが強いことも。

これはいったいどういうことなのだろう…

うつ症状がそういう共通点を生み出していくのか、それともそうした性格上の問題がうつを発症させるのか。

たしかにうつ症状を引き起こしやすい性格があるという話は以前から知っている。
几帳面、真面目、勉強家など。
しかし、それとは別にあくまで自分中心、自分の生き方までこだわる、そして親との関係性という共通項は、今回初めて知らされたものだった。

さらにうつと密接につながっている死という問題も。
世の中を儚んで選ぶ死。自分に絶望して選ぶ死もあれば、逆に自分を貫くために選ぶ死もある。


まだふたつしか事例を経験していないので何とも言えないが、どこか引っかかるものを感じ始めている。

 


 

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カーク・J・シュナイダー博士のDVD09'

2009-05-18 13:16:45 | 心・身体・癒し

先日、秋葉原で三日間の日程で開催された、日本カウンセラー学院主催の大講演会。

その初日の会場で、ちょっとした感動に出会った。

何と昨年の大講演会で見た、実存主義的心理療法の第一人者であるカーク・J・シュナイダー博士のセッションの様子を録画したDVDが売られていたのである。

昨年の大講演会では、学院の講義室を会場にワークショップが開かれ、私も参加したのだが、そのときワークショップの前に開かれていたのが博士がされたセッションの様子を録画したDVD日本語字幕版の上映会だった。

あるエイズに罹った男性と博士とのセッションは、とても素晴らしく、私はそのあまりの感動に熱いものがこみ上げてきたほどだった。

是非ともこのDVDを入手したいと思い、大高先生や学院の関係者に話をしたが、そのときは、あくまでこのDVDは大講演会のために作成したものであり、果たして日本語字幕版のDVDを作成、販売が可能かどうかはわからないということだった。
というより、おそらく無理だろうというのが大方の見方だったように思う。

実際、日本語字幕版を作成、販売するためには諸問題、諸手続きをクリアしなければならないようで、私自身、是非とも欲しいと願いつつも半ば諦めていたところがあった。

それだけに今回、大講演会場でDVDの現物を見たときは、まさか実現するとは思いもよらぬことだったので、少なからず興奮したことは言うまでもない。

実はこのDVD、アメリカでは教材として心理職のひとたちに販売されているそうだ。
それだけ内容的に高い評価を得ている、価値あるものだということだろう。

1年ぶりに見た、博士とクライエントの男性との対話はやはり素晴らしいものだった。

最初の段階では、自分に自信が持てず、社会に対して恐れや憤りの感情を持っている男性が、後半、博士との対話を切っ掛けに自分に何ができるのか、具体的に何をしたいと思っているかに気づき始め、自信を取り戻していく様子が感動的だった。

男性の話に真摯に耳を傾け常に頷きながら、時に自分が感じたことや質問をサラッと述べるシュナイダー博士。

その自然体の様子から、クライエントに対しての温かさと尊敬にも似た気持ちが伺い取れて、改めて心理に携わる者としてのあるべき姿を示されたような気がした。
それと同時に、クライエントが語る話の内容を、その核心のレベルで理解することの必要性、重要性を改めて感じた。

そして、最後はやはりクライエント自らが答えを見出していく様子に、人間が持つ力を信じることの大切さを教えられたのだった。

これからもこのDVDをバイブルのひとつとして見続けていこうと思う。


心の階層について考える09'

2009-05-15 12:12:18 | 心・身体・癒し

数日前、学院在学中から親しくしているカウンセラー仲間の友人と会うことがあった。

私が書いた本を読んでくれて、その感想を直接私に伝えたいということで、会うことになった。

出会ったときからバリバリと仕事をこなし、遊んでリフレッシュすることで仕事へのテンションをいつも高く維持する彼女は、いつもハツラツ、活き活きしている。

今回の私の「たおやかに生きる」を読んでの彼女の感想は、私の想像を超えるちょっと恥ずかしいくらいの評価をもらうことができた。

そんな彼女との会話は、先日の大講演会のNLPについてに及んだ。
彼女のNLPへの評価は決して高いとはいえないものだった。

そもそもNLPはアメリカで開発されたもの。
日本(アジア)にはそぐわないというのが彼女の見方だった。
強いこと、自己主張ができることを価値観に持っているアメリカと、微妙なニュアンス、雰囲気で相手の思いを汲み取りながらコミュニケーションをとれるアジア、日本。
馴染まないとの見方は、今回実際に本物に触れてみた私自身感じたことでもあった。それをひと言で表わすなら「一過性と催眠」

それを強く感じたのが、「痛み」に対しての捉え方とグループワークだった。

「痛み」ならびに身体症状に対してBFAは単なる症状とは捉えずに、そこに「心」の問題があると見ている。
それゆえに、「痛み」などの症状をタネに、丁寧にアプローチして徐々に「心の深層」へと入っていくのだ。
それによって、自分では気がつかなかった(無意識での)問題が表出。
そこに気づくことによって変化が生まれ始めるという考え方だ。
一方、NLPは「痛み」はシグナルであるとの考え方はとっていても、あくまでシグナルの域を超えない。
「今度、この痛みがきたら、これ以上無理をしないでということを伝えている」という、あくまで現象に対しての対応なのである。

ここに私はBFAとNLPの根本的な違いを実感したのだった。
言葉をかえれば「腑に落ちる」ところまでいくか「一過性」で終わるかの違いと言えるだろう。
「一過性」であるということは、その後も同じ現象、症状が起こる、続くということでもある。

三日間のレクチャーでは、いくつかのワークをおこなった。
そのなかのグループワークのひとつは、私が学院での卒業試験でおこなったものだった。
今、抱えている問題(人間関係など)を取り上げ、ネガティブからポジティブに書き換えていくというものなのだが、今回、仲間のひとがチャレンジする様子を観察していて感じたことのひとつに催眠的なものが存在するということだった。

それは現状の問題を感じたあと、過去の成功体験を思い出しイメージするなかで、トレーナーが体験者の表情や姿勢について、少しの変化も見逃さずよい方向へ変化したと体験者に伝えていたのだ。
「表情が明るくなりましたよ」「顔が下を向いていたのが上を見るようになりましたよ」など。
もちろん、ポジティブな変化を伝えることは大切である。
それに異論を挟むつもりはない。
ただ、「その気にさせる」ことで本当に腑に落ちたかたちでの変化をもたらすかどうかと言えば、少々疑問が残る。
さらにネガティブをポジティブに書き換えることに関しても、果たしていいのだろうかとの疑問が湧いた。

それを証明するかのような出来事が起こったことが一層私のなかに疑問を投げかける結果となったことは大きい。

その具体的な内容は、個人情報の範囲でもあるのでここで明らかにはできないが、読んでくれるひとがイメージできる範囲で説明すると、例えば悲しみを味わうということに関して、途中でポジティブな世界に引っ張り上げられることがいいのか、それとも悲しみの底までいって、そこから自力で(あるいは自然なかたちで)上がってくることがいいのかという問題だ。

よく言われていることに、落ち込んだときの対処法として、パワフルな元気が出そうな音楽や、明るい音楽を聴くより、落ち込んだ気持ちに添った音楽を聴き、その落ち込みに浸ることによって回復しようとする力が自ら湧き上がるものだという話がある。

悲しみがあることを自覚しながら、半ば強制的にポジティブなところへと引っ張られたとき、ひとは心のなかに乖離を起こしかねない。
それがいわゆる未完了によって起こる心の歪みといえるのでないか。

もちろん、実際にNLPを有効利用して仕事に活かしている人はたくさんいる。
一概に疑問視することはできない。
ただ、こういう問題を孕んでいることを私はそれを体験し、友人は持論として共有したことは無視できないという気がしている。

ひとは思う以上に簡単明瞭、単純にはできていない。
私たち心理援助職にあるものは、そこを心していかなくてはいけないと思うのである。


たくさんの刺激09'

2009-05-12 13:16:05 | 心・身体・癒し
回本を書いたことで私の土台はBFAであり、他のものに触れてもBFAに還ってくればいいんだと思えたとき、知識を入れようという気になれた。
その第一弾として、NLPに触れようと参加することを決めた。

以前からあった「本当」「本物」かどうか「本質」への気持ちと、今年の大講演会が「NLPの本物」のグリンダー博士でマッチしたことも思い切れた大きな要素だったと思う。

実際、三日間レクチャーを受けて実感したことは、私のなかにはあくまでBFAがあり、知識を得ながらBFAとの対比もテーマのひとつになっているのだなということでした。

今回のNLPのニューコード、無意識にアクセスするということにしても、BFAの無意識とどう違うのか、さらに身体症状を扱うということでも、NLPは感情にも(働きかける)と謳っているのだけれど、私が見て触れた限りではどうも現象への取り組みが強調されていて、感情への取り組みが見えてこなかったという印象が残っている。

昼休みたまたま大高先生と話をする機会を得た。
私が「幅広い知識を入れようとして、図書館から本を借りて読み始めているけれど、不思議にやっぱりユングやトランスパーソナルの本がやってくる」と言った時、先生が「それをあえて避けようとしないで、受け容れることが大事だよ。許容を広げても自然に指向する先に導かれるものだから」そしてバタフライ効果についても話してくれた。

本当にそうだなと実感することがあった。

実は、バタフライ効果の話を聞いた、その夜。
たまたまPCであるサイトにアクセスしたところ、目に飛び込んできたのが「バタフライ効果」の文字。これには驚いた。

そして大講演会でグリンダー博士が話し、実演したことで私のなかに湧き上がっていた「無意識」の解釈についても読み始めた『人間と象徴』という本に記されているのを発見。
こんな風にとらえれば少しずつ頭のなかで整理できてくるのかな…という感触を持ち始めている。

やっと少しずつ先生がよく言う「あなたなりのBFAを」ということが、わかってきた。
色んなものを取り込んでいるBFA。

その色んなもののどこを取り入れるかは個人個人違う。
ひとりひとり、その世界のどこかを取捨選択して自分なりの世界を作っていくのだ。

大高先生は先生がいいと思うもの、フィットするものを取り入れて先生の世界を作ってきたのだ。
だからと言って私がそのすべてを消化できたり、フィットできるかといえば必ずしもそうではない。

能力、力量の点でも先生は使いこなせても私は使いこなせないものがいっぱいあって、自分の度量に合ったものを選んでいくことになるのだろう。
そして私がフィットするものを選んでいくのだと思う。

グリンダー博士はとても温かくて気さくな方だった。
私が会場の外にある化粧室に行こうとして少し急ぎ足で歩いていたら、外国人の男性とすれ違った。
すれ違いざまに「コンニチハ」と言われて、私もとっさに「こんにちは」と返事をしたが「アレ?今のひと博士?)」って思わず二度見。

改めて振り返って、すごく刺激的な三日間だったなと痛感している。

大講演会09'

2009-05-09 04:15:28 | 心・身体・癒し
昨日から日曜日までの日程で、毎年恒例の大講演会が秋葉原で開かれている。

今年はNLPの開発者であるグリンダー博士が来日しての講演会。

今まで何度か大講演会には参加しているが、心理療法を実際に開発した当事者に触れるのは今回が初めてだ。

昨日は今まで学院で学んできたことの復習的なエクササイズや更に発展させた手法、NLPの考え方のレクチャーがあったが、後半、思いがけなくグリンダー博士が来てくださりレクチャーを受けることができた。

博士に質問したいことを募って、それに沿ってのレクチャーはとてもためになった。

帰りの電車から大きな虹を見た。
東京ではあまり見かけない二重の虹。

今日からのレクチャーを暗示するかのような虹にちょっと興奮した。

宗教と心理療法

2009-05-08 14:35:15 | 心・身体・癒し
以前、新聞に小池靖さんという宗教社会学者にインタビューした小さな記事が掲載された。

彼は宗教とそうとはいえないもの、その境界線上の社会現象を追っているのだという。

現代における宗教と自己啓発セミナーや「自分を超えた大きな力」を想定した自助グループや、スピリチュアルと言った分野に携わるひとたちなどについて、一見わかりにくいこうした人たちを理解し、世の中の有象無象といったものを説明したいという思いがあるのだそうだ。

そのキーワードのひとつが「セラピー文化」といわれるもので、いわゆる「心理学的、心理療法的な考え方を指す。

彼の説明によると、ひとは自分の心をどう説明し、納得するかを考え続けてきた。
そのとき大きな役割を果たしていたのが宗教だった。
しかし、現在、宗教は後退しつつあり、その代わりに心理療法的なものが台頭してきているのだという。

今までセラピー文化の主流は、アメリカが発祥地である「ポジティブシンキング」いわゆる積極思考。
ネガティブなもの、弱いものをできるだけ自分の周り、意識から排除し、ポジティブなものの考え方をもつことが最良であり、強い自分を目指して生きるという考え方が中心だった。

しかし日本では、90年代のあたりから「弱い自己」を肯定しようという動きが勢いをつけてきた。
その考え方の基本になるのは「そのままでいいんだよ」というもの。

そうした考え方に移行した背景には、やはりバブル崩壊後の将来への不安感や被害者的感情を重要視する傾向があると彼は見ている。

そして、これから続くであろう低成長や格差社会がもっと広がれば、こうした考え方が今まで以上に説得力をもつかもしれないというのが彼の見方なのである。

この記事を読んで真っ先に感じたのは、まさしく私が志向してきた世界観そのものだということだった。

かつて日本でも勝ち組、負け組という言葉が頻繁に使われた時期があった。
いかにして勝ち組になるか負け組から抜け出すかといった安易な語られ方が幅をきかせ、地位やお金に恵まれた暮らしを得ることが「人生の勝者」であるかのような風潮が蔓延。
セレブという耳障りのよい響きに惑わされもてはやされたことがあった。

しかし、そもそもひとの生き方に勝ち負けをつける必要がどこにあるのだろう。
いや、勝ち負けで判断すること自体おかしいことだ。
もし、そこに違いというものが存在するならば、勝ち負けではなく、生きることへの取り組み方、志の有る無しの差ではないかと思う。

地位や経済的に恵まれないことは決して人生の敗者ではない。
逆に地位や名誉、経済的に恵まれていなくても、自分がこの世に生を受けた意味を理解し、そこに向かって生きているひとや生きていこうとするひとこそが豊かな人生を歩んでいると言えるのではないだろうか。

上昇志向を否定するつもりはない。
しかし、上ばかりを見続け疲弊して自分自身を見失い、仕舞いには肉体、精神ともにボロボロになる生き方は、もう今という時代にはそぐわないのかもしれない。

それよりも自分の弱さ、苦悩、迷いなど「今、ここ」にいるありのままの自分を受け容れ、そこからどう生きることがいいのか、自分らしいのかを見つめ、さらにどう生きて生きたいのか、進んでいきたいのかをしっかり確かめていくことが大切なのだ。

そこにあるのは、宗教的な教えや教祖的な存在でなく、あくまで自分自身のなかにある、自分を信じる意識、心、力なのだと思う。
そして、それ(自分を信じる意識、心、力)があることを気づかせてくれる存在として心理療法が宗教に代わってきた大きな要素なのではないだろうか。

心理療法を提供する側として、小池靖さんの研究は大変興味深いものがある。
これを機に、少し宗教と心理療法との関係について調べていきたいと思っているところだ。


臨床心理学

2009-05-02 13:19:21 | 心・身体・癒し

「たおやかに生きる」を出版してまもなく二ヶ月が経とうとしている。

お陰さまで、最近「本を読んだ」という方々から読後感をいただくことが増えた。
有り難いことに、その多くが「読みやすい」「分かりやすい」といった感想。

そんななか、ある方からは「BFAを学ぶ人にとってはバイブルのような本」「BFAのワークショップに参加してきたけれど、改めてこういうことを勉強したのだということがわかってよかった」といった感想を。

また、ある方からは「あなたがどうやって生きてきたか、そしてBFAや大高先生と出会ったことで、どのように変わったかが分かった」そして、カウンセラー仲間のひとからは「BFAを志す方には貴重な教科書となり、カウンセリングをする私達にとって人間の力の持つすばらしさを教えてくれた」との感想が寄せられて、改めて書いてよかったのだと確認することができた。

しかし今回、解説の最後に「心理カウンセリングの語り部としてスタートを切った私の今後に期待したい」という一文を書いてもらった大高先生から、それに関連してこんなメッセージをもらったのだった。

「私先生)とあなた(私)の違いは幅広い知識とケースの量だ」そして「私(先生)のようになりなさいといっているわけではない。しかし、今後も書くことを続けていこうとするのなら、どうやってその問題=【幅広い知識とケースの量】を解決していくかを考えた方がいい」と。

しばらくどうしたものかと思案していたが、何はともあれ行動を起こすことと図書館通いが始まった。そして時を同じくして出会ったのが金剛出版で出している「臨床心理学」という月刊誌だったのである。

自分で選んだ本というのは、それなりの情報を得ているが、それでもやはり自分の指向、好みばかりをチョイスしがちだ。そんな状態では、幅広い知識はいつまで経っても得られない。そこであえて自分の好みとは関係ない、バラエティに富んでいる専門誌を読むことにしたのだった。


この「臨床心理学」という隔月誌。
内容が結構充実している。
それぞれの心理療法についての解説をはじめ、カウンセリングでの課題、問題点etc。
さらに編集同人にはそうそうたるメンバーが名を連ね、原稿を執筆するメンバーも、心理学関連の書籍を執筆してきた専門家というのが結構すごい。
今はもう鬼籍に入られた河合隼雄さんも生前は何度も執筆されていたという。

先日、書店でバックナンバーを選んで数冊買い求めたが、やはり期待通りの内容だった。これからは図書館と並行してこうした専門誌から情報、知識を得ていこうと思っている。
果たしてこうした取り組みがいつ活かせるかどうかはわからない。
しかし、先生から指摘を受けたことで私のなかの意識も明らかに変わったことは間違いない。

いつか活かせるときがくることを信じて学んでいこうと思っている。