今日は「許す」と「手放す」について書いてみようと思います。
実はカウンセラーの勉強をするまで数十年もの間、私は男性恐怖症でした。いえ、「恐怖症だと思い込んでいた」と言ったほうが正しいかもしれません。
そう思い込むようになった切っ掛けは、いじめでした。
中学一年のときに体験した、クラスの男子生徒からのいじめが原因で長い間、私には男性恐怖症があるのだと思い込んでしまったのです。
いじめが始まった原因はわかりません。
ある日突然、数人の男子が私に暴言を吐き、あからさまに嫌悪感を見せるようになり、あっというまにクラスの男子全体に広がっていったのでした。
さらにいじめにこそ遭いませんでしたが、いつしか女子からも距離を置かれるようになり、クラスの中で孤立するのにそう時間はかかりませんでした。
いじめは中学二年にあがったときのクラス替えまで続いたのですが、結局それが原因で、以来、普通に男子と話をすることができなくなってしまい、成人になってからもずっと、自分は「男性恐怖症」なのだと思いんでいたのでした。
やがて学院に入り心理カウンセラーの勉強をするようになり、教育分析を受け始めて間もなく、否が応でもこの問題と向きあわざるを得ないときがやってきました。
自分のなかに男性と向き合うことへの恐怖心があることに気づいたのです。
そのときあるいは「自分は男性と向き合うことが難しい。ならば女性を対象としたカウンセリングに特化すればいい」と思うことで問題をやり過ごせたのかもしれません。
でも私は瞬間的に「この状況を抱えたままカウンセラーにはなれない」と感じ、それをトレーナーである講師に伝え、かつてのいじめ体験が根底にあることを話したのです。
そこで講師が私に出した宿題は「あなたをいじめたすべてのひとを思い出し、出てきたひとすべて、ひとりひとりに対して、今、どのような感情があるかを検証する作業をしてみる」というものでした。
実際にやってみて気がついたことは、必ずしもいじめに関わった男子生徒すべてに対して、未だ怒りの感情があるわけではないという事実でした。思い出せた十数人のなかで絶対に許せないと感じたのは、意外にも四、五人だったのです。
さらにこの作業をしたことによって気がついたことがありました。
私のなかで長い間、彼らのことを無理に「許そう」としていたということです。
誕生してから私たちは、親や周囲から当たり前のように「他者を許す」ということを学びます。
「自分が何かを犯してしまったとき、相手に許してもらうには、まず自分が他者を許せるような、広い心を持っていなかればならない」と教えられたり、「誰かに何かをされたとき、そのひとに対して怒りをもち続けることやいつまでも許せないと思うことは、結局その相手と同じレベルの人間でしかないということでもあるんだよ。だから許してあげなさい」と諭されたりします。
そうしたいわゆる躾によって、私たちは無意識に「そうか、許さないとあの嫌なひとと同じレベルになってしまうのか」と思ったり「あのひとと自分とは違う。許すことで一段上のレベルにいられるんだ」と妙な優越感を抱いたり…結果、心にある本当の思い、感情を封じ込めてしまう。私の場合も実はそうでした。
しかし、それは決していいことではありません。無理に思い込むことは、自分の気持ちを無視し偽ることでもあります。
そうした長い間の無理な思い込みによって、私の心を侵食していったもの、それこそが「男性恐怖症」だったのです。
いじめに関わった男子生徒すべてに対しておこなった検証の結果、許せると思えた男子生徒に対しての思いは、そこで消化し終えることができましたが、絶対に許せないと感じた四、五人について「どうしようか」と考えました。
「許す?」それとも「許さない?」自問自答が数日続きました。
そして私が出した結論は「許さない」というものでした。
もし私があのまま郷里で暮らし、この先も北海道で暮らしていくならば、彼らと再会する場合もあるだろう。何かしらの関わりを持つことも必要になるかもしれない。
しかし、私はもうあそこにはいないし、これからも行くことはない。
彼らに会うこともない。ならば無理に許すこともない。
この結果を踏まえて、問題の男性恐怖症についてはどうだろうと考えた私は、あることに気がつきました。
自分では「男性恐怖症」があると思っていたのに、実際には平気で男性と話をしていたのです。
検証の結果をトレーナーの講師に報告して、私の「男性恐怖症」への捉われは終結しました。
同時に、何かあるたびに思い出していたいじめの体験を思い出さなくなりました。
自分の心を偽って、無理に許そうとしていたものが、許さない自分でいることを受容したことで、彼らへの怒りを完了させ手放すことができたのです。
私たちは日常の中で、怒りや悲しみはあってはいけないものと思い、それを排除しよう忘れようとします。
しかし怒りや悲しみは、喜びや楽しみと同じようにあっていいものです。
自分のなかにある、怒りや悲しみをきちんと認め、それを受容れ、あることを許し、味わってください。
それによってプロセスは動き、変化し未完了のものを完了へと導きます。
そのとき大事なのは、怒りや悲しみといったものがあるとわかったとき、他者へその感情をすぐに向けないことです。あくまで自分のなかで認め、感じ切り完了させること。
完了させたとき、きっと未完了のときに感じていた思いは変化し事実だけが残っているはずです。
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