ホリスティックヒーリング宙『心の扉を叩いてみたらきっと何かが見えるはず聴こえるはず』

ホリスティックヒーリング宙(sora)のヒーラー&臨床心理カウンセラー株本のぶこが心・心と身体について綴っています

ビジョンの続きは・・・

2010-06-28 04:34:10 | 心・身体・癒し
先日ここで紹介した、穴をひたすら削り「そこに留まりなさい」との声を聴いたビジョンの続きを探ってみるようにとトレーナーの講師にレクチャーを受けて数日。

今までは、テーマをもとに瞑想をしたり、前に出てきたビジョンを振り返って続きをやってみることが、ワークショップの「場」以外はあまり上手ではなく、何もでてこないことが殆どだったが、あの日、レクチャーを受けたあと、何度か「地面の穴~留まりなさいの声」を思い出して何度かワークをしてみたところ、一昨日、はじめて続きがでてきた。

最初の場面からずっと再現して、穴のなかに立っているところから続きは始まったのだが、暫くしていると、アクリル板を持った私が地面を削り始めた。

それは掘るというよりは、石庭の砂を熊手で均すような感じであった。

円を描きながら延々と、広くなった穴の地面の表面を削っていたのだが、それをしばらくやり続けていくうちに、見えていた土の壁も地面の底も白く変わってきて・・・気がつくといつのまにか仕切りがなくなり、広大な白い世界になっていた。

さらに私が米粒ほどになって、周りの白い世界はそのぶんものすごく広くなって無限のように感じられた。

やがて米粒ほどの私が発光し始めるのを、俯瞰して見ている自分が…。

少し黄色みがかった白い光に、包まれていると言うよりは自分が発生源のような感じ。

少しずつ少しずつ、米粒ほどだった私が徐々に大きくなって、等身大の大きさをになったとき、今まで俯瞰ていた感覚が、実感をともなう体感へと変化した。

そのとき感じたのが、自分の意識の半分が男性になったというものだった。

ビジョンはそこで終了したのだが半分が女性、半分が男性という感覚は初めてのもの。

そこで、これは何を表していたのだろうと考えることはせずに、ただただ起こることをそのままに体験していった。

そしてふっと湧いたのが「統合」と「両性具有」というキーワードだった。
そこで、ちょっと思い当たるふしが・・・

確かユング心理学にそういうテーマがあったはず・・・

ユング心理学はPОP、さらにBFAのベースになっている心理学。

思考では得られない、思いがけない展開のなかにちょっとした琴線にふれるもの、ヒントが隠されていることを徐々に感じ始めている。


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許すということ手放すということ

2010-06-25 00:50:28 | 心・身体・癒し

今日は「許す」と「手放す」について書いてみようと思います。

実はカウンセラーの勉強をするまで数十年もの間、私は男性恐怖症でした。いえ、「恐怖症だと思い込んでいた」と言ったほうが正しいかもしれません。

そう思い込むようになった切っ掛けは、いじめでした。

中学一年のときに体験した、クラスの男子生徒からのいじめが原因で長い間、私には男性恐怖症があるのだと思い込んでしまったのです。

いじめが始まった原因はわかりません。

ある日突然、数人の男子が私に暴言を吐き、あからさまに嫌悪感を見せるようになり、あっというまにクラスの男子全体に広がっていったのでした。

さらにいじめにこそ遭いませんでしたが、いつしか女子からも距離を置かれるようになり、クラスの中で孤立するのにそう時間はかかりませんでした。

いじめは中学二年にあがったときのクラス替えまで続いたのですが、結局それが原因で、以来、普通に男子と話をすることができなくなってしまい、成人になってからもずっと、自分は「男性恐怖症」なのだと思いんでいたのでした。

やがて学院に入り心理カウンセラーの勉強をするようになり、教育分析を受け始めて間もなく、否が応でもこの問題と向きあわざるを得ないときがやってきました。
自分のなかに男性と向き合うことへの恐怖心があることに気づいたのです。

そのときあるいは「自分は男性と向き合うことが難しい。ならば女性を対象としたカウンセリングに特化すればいい」と思うことで問題をやり過ごせたのかもしれません。

でも私は瞬間的に「この状況を抱えたままカウンセラーにはなれない」と感じ、それをトレーナーである講師に伝え、かつてのいじめ体験が根底にあることを話したのです。

そこで講師が私に出した宿題は「あなたをいじめたすべてのひとを思い出し、出てきたひとすべて、ひとりひとりに対して、今、どのような感情があるかを検証する作業をしてみる」というものでした。

実際にやってみて気がついたことは、必ずしもいじめに関わった男子生徒すべてに対して、未だ怒りの感情があるわけではないという事実でした。思い出せた十数人のなかで絶対に許せないと感じたのは、意外にも四、五人だったのです。

 さらにこの作業をしたことによって気がついたことがありました。

 私のなかで長い間、彼らのことを無理に「許そう」としていたということです。
誕生してから私たちは、親や周囲から当たり前のように「他者を許す」ということを学びます。

「自分が何かを犯してしまったとき、相手に許してもらうには、まず自分が他者を許せるような、広い心を持っていなかればならない」と教えられたり、「誰かに何かをされたとき、そのひとに対して怒りをもち続けることやいつまでも許せないと思うことは、結局その相手と同じレベルの人間でしかないということでもあるんだよ。だから許してあげなさい」と諭されたりします。

 そうしたいわゆる躾によって、私たちは無意識に「そうか、許さないとあの嫌なひとと同じレベルになってしまうのか」と思ったり「あのひとと自分とは違う。許すことで一段上のレベルにいられるんだ」と妙な優越感を抱いたり…結果、心にある本当の思い、感情を封じ込めてしまう。私の場合も実はそうでした。

しかし、それは決していいことではありません。無理に思い込むことは、自分の気持ちを無視し偽ることでもあります。

そうした長い間の無理な思い込みによって、私の心を侵食していったもの、それこそが「男性恐怖症」だったのです。

いじめに関わった男子生徒すべてに対しておこなった検証の結果、許せると思えた男子生徒に対しての思いは、そこで消化し終えることができましたが、絶対に許せないと感じた四、五人について「どうしようか」と考えました。

 「許す?」それとも「許さない?」自問自答が数日続きました。

そして私が出した結論は「許さない」というものでした。
もし私があのまま郷里で暮らし、この先も北海道で暮らしていくならば、彼らと再会する場合もあるだろう。何かしらの関わりを持つことも必要になるかもしれない。
しかし、私はもうあそこにはいないし、これからも行くことはない。
彼らに会うこともない。ならば無理に許すこともない。

 この結果を踏まえて、問題の男性恐怖症についてはどうだろうと考えた私は、あることに気がつきました。
自分では「男性恐怖症」があると思っていたのに、実際には平気で男性と話をしていたのです。

検証の結果をトレーナーの講師に報告して、私の「男性恐怖症」への捉われは終結しました。

同時に、何かあるたびに思い出していたいじめの体験を思い出さなくなりました。
自分の心を偽って、無理に許そうとしていたものが、許さない自分でいることを受容したことで、彼らへの怒りを完了させ手放すことができたのです。

 私たちは日常の中で、怒りや悲しみはあってはいけないものと思い、それを排除しよう忘れようとします。
しかし怒りや悲しみは、喜びや楽しみと同じようにあっていいものです。

自分のなかにある、怒りや悲しみをきちんと認め、それを受容れ、あることを許し、味わってください。

それによってプロセスは動き、変化し未完了のものを完了へと導きます。

そのとき大事なのは、怒りや悲しみといったものがあるとわかったとき、他者へその感情をすぐに向けないことです。あくまで自分のなかで認め、感じ切り完了させること。

完了させたとき、きっと未完了のときに感じていた思いは変化し事実だけが残っているはずです。

 

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茶話会&セルフワーク(BFA的瞑想)ミニ体験会開催のお知らせ

2010-06-23 09:25:21 | 心・身体・癒し

みなさんお元気ですか。 いつも読んでいただきありがとうございます 。

梅雨に入りましたね。

今年は湿気プラス気温も高め。こういうときは体力をつかいますので、皆さんもお身体にはくれぐれもお気をつけ下さい。

先日、茶話会&セルフワーク(BFA的瞑想)ミニ体験会を開催 しました。

人数は少なかったのですが、共通の話題も多く、とても刺激的で充実した時間を過ごすことができました。

7月の開催日が決定しましたので、お知らせします。

詳しくは下記をお読みください。

 

『茶話会&セルフワーク(BFA的)ミニ体験会』

☆場所:ホリスティックカウンセリング『宙』サンシャイン6045階  http://www.kokoro-sora.com/

☆ 7月27日(火) 13時半~15半時 ☆参加費 1,000円 当日払い (飲み物・お菓子付き。お菓子の持参大歓迎 )

☆人数:5名前後(定員になり次第締め切らせていただきます) 

 

※今回は開催日が火曜日になっていますので、その点お気をつけ下さい。

 ☆お申し込み☆ 氏名、電話番号、簡単な自己紹介、参加にあたっての思いなどを ご記入の上、「ホリスティックカウンセリング宙」のHPからお申込み 下さい。 件名は『茶話会&セルフワークミニ体験会』と記入をお願いします。

☆趣旨☆  心理のことなどを気軽に語り合い、セルフワークを通して自分自身の 広がりを体験。  参加者同士が楽しくお話しながら、交流を深めあう会です。  (宣伝目的や目的に沿わない方は、申し訳ありませんが、 お断りさせて頂くこともあります。ご了承下さい) サンシャイン45階から池袋の街が一望できるルームでの楽しひととき。 どうぞお気軽にご参加下さい。

☆セルフワーク(BFA)や心理のことにちょっと関心や興味がある方

☆お茶を飲みながら出会いを楽しみたい方

☆BFAや心理に興味があり、それについての情報交換をしたい方

☆どなたでもご参加できます。 皆さまお誘い合わせの上、どうぞお越し下さい。

 

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デモンストレーションワーク体験その後☆驚きの結果

2010-06-22 12:24:33 | 心・身体・癒し
アップが遅くなりました。
実は、一度書き上げたのですが、終わる寸前にPCがフリーズしてしまい、泣く泣く強制終了。
原稿がすべて消えてしまい、新たに書き直すというアクシデントがありました。

前回は、四月に開かれたボデォフォーカスト・アプローチのワークショップのなかで、私が受けたデモンストレーションワークでの体験が、ほぼ一か月後のある日、ある瞬間、不意に体感として甦ったことを綴った。

さらにそのとき同時にあるビジョンが現われたこと、そのビジョンとは、私が地面の穴に立っていて急に猛スピードで回転しながらその穴を削り広げていった場面、そしてその穴の淵に透明なアクリル板のような小さな板のような橋が掛かり、そこを渡って外界を見た瞬間に「無」を感じたこと、感じた瞬間どこからともなく「そこに留まりなさい」との声を聴いたことなどを綴ったが、あのとき私が感じた「ああ、そうなんだ」「ここにいていいんだ」との思いがどういう意味だったのか、何を私に伝えようとしていたのかは、まだその時点ではまったくわからなかった。

しかし、改めて振り返ってみると、その頃私のなかに漠然とではあったが、ある思いが湧き上がっていたことは確かだった。ただ、それが後の大きな展開の鍵、キーワードになるとは夢にも思っていなかったが……。

そしてひと月後のある日、たまたま講師に会った私は、この一ヶ月の間に起こったことのすべて話すことにした。

そのなかには、自分のなかにずっとあったカウンセリングに関しての不安感や怖さが、BFAのワークショップで講師のオープンカウンセリングを目の当たりにした翌日、私自身のセッションの場で再現する場面に遭遇、その結果、不安や怖さが手放せたことも含まれていたが、やはり話の中心は土の穴を猛スピードで全身を使って削っていくというビジョンのことだった。

すべて話し終えたところで、トレーナーの講師はいくつかの質問を私に投げかけた。講師が私に訊いたのは、次のようなことだった。

1)穴の中から橋を渡り、外に出たときの気持ちはどうだったか。

2)穴に留まっていたときの気持ちはどのようなものだったか。

3)嫌な感じがあったか、壁を感じていたか。

4)穴から出て外を見た瞬間の感じはどのようなものだったか。

5)「留まりなさい」の声が聴こえたときに感じたものはどのようなものだったかetc。

それに対して私の答えは

1) 特別な感情や解放感、広がりを感じることはなかった。

2) ただ、その穴のなかに立っている。その感覚しかなかった。

3) 怖さや嫌な感じ、壁、バリヤーを感じることはなかった。

4) 「ああ、無だな……」

5) 「ああ、そうなんだ」「ここにいていいんだ」

ひとつひとつの質問に答えながら気がついたのは、穴という一見ネガティブな印象を抱くような「場」に留まっていたのにも関わらず、私の意識のなかには壁、バリヤーといったものや怖さのようなものが全くなかったことである。
淡々と橋を渡り、完全に外界に出ることもなく、ただ外を見て「無」だな…と感じ、それを受容れていたことだった。

さらに講師は「留まりなさいという声に、これでいいんだ、このままでいいんだと思った『このまま』とはどのまま?これでいいとは『どれ』?何を示しているかを、考えるのではなく自分自身に問いかけてごらん」と言った。

その問いかけに対して、私のなかでふっとある思いが湧き上がった。
それこそが以前から漠然と感じていた、そして五月にミンデル夫妻のセミナーに参加したことで明確になったある思いだったのである。

それはいつの頃かずっと胸に在り続けていた思いであった。
だが、なかなかそれを言葉にすることができずにいた。言葉にすることを躊躇わせていた。何故か怖かった。

この場においてもまだ軽い抵抗感が私を思考に走らせた。
しかし、講師は即座に私のなかにあるその躊躇いを察知、思考ではなく、自覚している思いを言葉にすることを促した。それをすることによって、初めてあの(穴の)ビジョンが意味をもち始め変わっていくと強い口調で言ったのだった。

私は思いを言葉にする覚悟を決め、話すことにした。
実は私が抱いていた思いとは、BFAの世界でのプロセスワーカー的存在になりたいということだった。以前からその思いは、漠然としてはいたが私のなかにあったような気がする。

しかし、それが具体的にどのようなイメージ、かたち、姿なのかは私自身、長い間わからないままだった。それが明確になったのは、五月に開催されたアーノルド・ミンデル夫妻のセミナーだった。
三日間のセミナーに参加したことでプロセスワーカーの存在の意味と価値を実感。さらにPOPにとってプロセスワーカーが果たす役割がどのようなものであるかを目の当たりにしたことで、私のなかに漠然としか描けなかったBFAを伝える者としての在り様が、はっきりとしたかたちでイメージできたのである。

そしてあの日、ビジョンと同時に聴こえてきた「留まりなさい」という声によって、私はこの先も「BFAを深めていくことをテーマにしていくこと、そしてBFAの世界でのプロセスワーカー的な存在になることを目指したい」との意思を確認した、そんな気持ちになっていたのだ。

ずっと私の話を聞いていた講師が、驚くべきことを話してくれた。
それは、講師がイメージしているプロセスワーカーのイメージについてだった。講師がイメージするプロセスワーカーそれは「何も考えず、ただただ穴を掘り続ける人」だという。

その言葉聞いた瞬間、あまりのことに私は驚愕し言葉を失った。そして次の瞬間、涙が溢れだした。それは講師のイメージと私のビジョンがまさしくリンク、シンクロした瞬間だった。

講師が抱いていたプロセスワーカーのイメージと、私が見たビジョン=BFAの世界でのプロセスワーカー的存在になりたいがここまで一致するとは……夢にも思っていなかった。

この事実が明らかになった瞬間、講師は厳しい言葉を私に投げかけた「BFAを伝えることとはBFAを掘り続けた結果を伝えること」「知的に解釈し終わらせていては全然BFAをやったことにはならない。BFAの伝道者にはならない」のだとも……

長い間、自分がBFAと出会ったこと、やり続けたことで、抑圧や葛藤から解放されただけでなく、心身が大きく変化し、虚弱であった身体が丈夫になった事実を、どうやって多くのひとたちに伝えるか、どうすればBFAを広めていけるかについてずっと模索しつづけてきた。

その一連のものとして、実践の場でカウンセリングでBFAを提供し、効果を目の当たりにしてきた。成果も挙げてきた。しかし、それだけではBFAを伝えることは難しいということも同時に実感し始めていた。

そしてたどり着いたのが「私の体験を通して伝えること」であった。講師が言うように「BFAを掘り続けた結果を伝えること「それをやり続けること」だと気がついた。本当の意味での「BFAの伝道者」になるために、私はこの先もずっと、自分のBFAを掘り続けていきたい。否、掘り続けていかなければいけないのだと思う。



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デモンストレーションワーク体験のその後

2010-06-19 15:46:28 | 心・身体・癒し

以前にもここに書いた、四月におこなわれたボディフォーカスト・アプローチのワークショップでのデモンストレーションワーク体験について、実はその後日談があった。

あの夢のワークで、私は赤ちゃんを死なせてしまったのだが、その母親に謝罪の言葉を述べるまではすんなりとできたのだが、先生から「その母親になってみたらどうだろう」と提案され、母親と入れ替わったときから大きな抵抗感が私に襲い掛かったのだった。

「声に出したい、でも出ない」「ここまで(喉)まできているのに、出せない」という思いと、「ここで声に出さなければ、この体験は未完了のまま。完了させることはできない」という思いとが複雑に絡み合い、葛藤して私を苦しめた。

こんなに苦しいと感じたのはもしかしたら、今まで4年余りBFAをやってきて、初めての経験だったかもしれない。それほど強烈な抵抗感だった。

どれだけの時間がたっだろう・・・苦しみもがきながら、やっとの思いで意を決して私は、赤ちゃんの母親になりきって私に「子供を返して!」と何度も叫んだのだった。

正直、必死だった。自分がどのくらいの声で叫んでいたかまったくわからない。ただ、ワークが終わって、参加者のひとたちに感想を聞いたとき、馴染みのひとが「株本さんがこんなにも大きな声が出せるとは思わなかった」と言われたことを考えると、相当大きな声だったのだろう。

その後、色々な洞察から、今まで自分が漠然と感じながらもそれを表現できなかったこと、ずっと長い間感じていた悔しい気持ち、忸怩たる思いが、ある事柄を切っ掛けにやっと解き放たれたという思いが渾然一体となって表れたのだということが見えてきたのだった。

それについて私自身、思い当たるふしが山ほどあり、納得、腑に落ちたことから、夢のワークについては終結したとずっと思っていた。

ところがである。
デモンストレーションワークを体験してひと月が経った頃、あるとき不意に、デモンストレーションワークでの体験が、体感として甦ってきたのである。

それは紛れもなく、あの夢のワークで感じたとき感じた強烈な抵抗感だった。
自分では言葉に出したいのに出せないというジレンマ。
言葉にしなくてはこの体験を終了=完了することはできないのだと、頭と感覚ではわかっているのに、抵抗感が私にそれをすることを阻んだ、今までにない体験が甦ってきたのである。

その体感と一緒にあるビジョンとして表れたのは暗闇と、その暗闇のなかで大きな穴に落ちている私の姿だった。

ビジョンの暗闇のなかにいる私は、目に見えない抵抗感に絡め取られもがき苦しんでいた。どうにかしたい、でもどうにもできない。そんな焦りとあきらめの気持ちが湧いているのがわかった。

そんな状態がしばらく続いたかと思った次の瞬間、暗闇の穴のなかの私がその穴の壁面を力いっぱい押し始めた。必死に自分の周囲を三百六十度取り囲んでいる壁面を体全体を使って広げようとしている場面が展開されたのだった。

どれほどの時間、どれほどの広さを削ったのかはわからない。徐々に壁は広がりながらやがてその穴の壁のふちに、透明なアクリル板のようなものが架かっていた。
私は、そのアクリル板を渡り、外の景色を見てみることに・・・。

外の景色を見た私が何を見、何を感じたか。
ひと言で言うなら「無」だった。

土の穴から外の景色を見たならば、何かしらのイメージ、例えば「広がり」や「解放感」といったものを感じるというのが、よくある感覚、一般的な捉え方だ。
しかし、そのときの私が感じたのは、一切の広がりでも解放感でも、狭さでも暗闇でもない、ただ単に「無」の感覚でしかなかったのである。

そして景色を見ただけで私は、またその大きくなった地面にできた穴のなかに戻っていったのだが、そのときふと何処からともなく聴こえてきたのが、「そこに留まりなさい」という声であった。

そのとき私が何を思ったかと言えば「ああ、そうなんだ」「ここにいていいんだ」といういう思いであり、「これでいいんだ」という安心感、自己肯定感であった。

それが、どういう意味を持ち、私に何を伝えようとしていたのかを知るのは、それからまたひと月ほどあとのことであった。

それについては、次回ということで。

 

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成人の学習発達障害について

2010-06-19 10:11:58 | 心・身体・癒し

前回はひきこもりと学習発達障害についてふれたが、今回は成人の学習発達障害について触れてみることにする。

最近、成人の発達障害が問題になっているという。
具体的には「片付けられない」「落ち着きがない」「キレやすい」「人間関係がうまく結べげない」「時間に遅れる」「ミスが多い」「やらなければならないことをダラダラと先延ばしにする」「ひとの言うことを聞かない」といったものが、発達障害のひとにはよく見られるそうだ。

発達障害といえば、衝動的な行動をとりやすいという多動性障害や、社会性に難しさを感じる自閉症やアスペルガー、特定の能力を習得するのが難しい学習障害などが知られている。

今までは、さまざまな原因を理由に子供特有の症状と考えられてきた。しかし、実際は成人になっても治癒する障碍ではないことがわかってきた。どれと同時に、成人になったこれらの障碍をもったひとたちに、うつや依存症などを併発する可能性が少なくないことが分かりはじめ、より大きな問題を起こしかねないことも見えてきたという。

福島学院大学の星野先生によれば、たとえこれらの症状があっても、子供のうちは誰にでもあること、程度がちょっとひどいといった捉えられ方をして、親も周囲も本人も気づかないで過ごせるが、大人になって社会に出たときに大きな困難に直面するのだとか。

会社に入ってから、会話や対人スキルがうまくいかなくなったり、一方的に自分の気持ちをまくし立て他人の話を聞かない。
生活習慣にしても起床、睡眠、食事、時間、片付け、お金の管理などに支障をきたすのだという。
さらに感情のコントロールがきかないことから、衝動的な言動や行動をとってトラブルになるなどの問題が生じやすくなるそうだ。

また何かにのめりこみ易いことから、依存症になるリスクもあるという。

ある才能には突出している傾向があることから、職業的には専門職や技術者に多いそうだ。

先生の話よれば、発達障害は脳の機能の障害なので、成人の場合も的確な治療を受けることが望ましいという。

心理教育や認知行動療法、カウンセリング、自助グループの参加、薬物療法などがあるそうだ。

40代、50代になっても治療は遅すぎることはないという。本人、家族は勿論のこと、行政や社会がもっとこの障害に対して関心と理解をもって取り組むことが、ひきこもりやうつを減らしていくひとつの方法なのかもしれない。

 

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ひきこもりへの新たな視点

2010-06-16 13:02:17 | 心・身体・癒し

ひきこもりという現象が社会的に問題となってどのくらいの年数が経っただろう。

少なくとも二十年くらいは経っているのではないだろうか。私の周りにも子供さんが引きこもり状態のまま何年間も過ごしてきたというひとが何人もいる。

ここ数年は、よくメディアでも取り上げられるようになってきて実際に二十年以上も引きこもっていたというひとの話を紹介する番組が企画されるようになってきている。その番組で話しているのを聞いてみると、自分ではどうにかして底から抜け出したい、社会と関わりをもちたいと思い始めても、何十年も引きこもっていたために、どうやって社会復帰すればいいのか、どうすれば社会復帰できるのかがわからないというひとが多いことがわかる。

ひととの関わりを絶って久しいひとにとって、ひとと関わること自体恐怖となってしまっているのだ。現在は、そこを少しずつ、少しずつ慣らしていって社会に戻れるようにするための支援機関もでき始めているらしく、まずはそこへ出入りして人間関係を作り直すことから始めているひとを番組では紹介していた。

ひきこもりになるきっかけは例えば、学校で苛められた、勉強がつきていけない、たまたま長く学校や職場を休んだことが切っ掛けで、復帰のチャンスを逃してしまいズルズルと・・・というケースなど実にさまざまだが、先日、ひきこもりに関して興味深い記事を読んだ。

厚労省が今年新たに公表する「ひきこもり」に対しての支援ガイドライン。
それに書かれているひきこもる要因として、挙げられる第一位というのが何と「学習障害」によるものだというのだ。

その記事にはある成人男性の事例が紹介されているのだが、その男性は大手の会社に勤めていているという。
能力的には優れているのだが、日常生活がスムースにいかないという問題を抱えている。
まず、朝起きるのが苦手なのだという。

定刻に起きられず、何度も会社を遅刻する。その眠りも一般的とは言えず、一旦眠ると14時間くらいは平気で眠ってしまうのだそうだ。

本人はちゃんと起きようと、夜、目ざまし時計をセットして眠るのだが、朝になると起きられない。社会に出る前は親元で暮らしていたので、親に起こしてもらうことができたが、会社に勤めてからは一人暮らしを始めたので、頻繁に寝坊してしまい遅刻を繰り返しているのだとか。

さらに会社の仕事で誰かと待ち合わせて会うというときも、やはり遅刻を繰り返してしまうのだという。

それだけではない。出かける前になると、他のことが気になりだして、それについつい集中して出かけるのが遅くなるのだそうだ。優先順位はきまっているはずなのに、気になりだすと、どうしてもやめられなくなるのだという。

仕事に関しても、わからないことを上司に聞くということをせずに自分の判断で勝手にやってしまうところがあり、結果、ミスや失敗を繰り返し迷惑をかけることも何度となく起こったそうで、やがて周囲からは信用されなくなってしまったそうである。

整理、整頓も苦手。デスクの周りはいつも書類などが散乱し、肝心なときに見つからないということも日常茶飯事なのだという。

片付けようにもどこから手をつけていいのかも分からないということで、おそらく彼の場合、考えられることのひとつに「学習発達障害」が挙げられると記事には書かれていた。

こうしたことでのミスや、失敗を繰り返したことで信用をなくし、人とのコミュニケーションもが取りづらくなる=ひとと関わることが億劫になったり苦手になったり、「また失敗するのでは・・・」といった恐怖心や不安が、いつしか「ひきこもる」ことにつながっていくのだという。

となれば「発達障害」という病気が原因で、必ずしも本人だけの責任とは言えず、周囲からの何らかの支援、「発達障害」への対策は必要になってくる。

今までは「学習発達障害」=児童が抱える問題というイメージだったが、考えてみれば、児童は成長し青年になり、やがて成人となっていくのは必然だ。
それを考えると、成人のひとたちの「発達障害」をどう援助し、支援していくかがこれからの、否、早急の課題であり求められているのではないだろうか。

記事によると、先の事例のように学習発達障害であることが分からないまま、一般社会に出て仕事を始めた途端に躓いたことでひきこもりに至る事例のみならず、うつ症状を発症する事例もあるそうだ。

このところ急増しているうつ病を考えると、他人事として見逃してはいけない問題だと思う。

この問題については、次回も触れていきたい。

 

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誰もが持っている身体感覚

2010-06-11 10:37:23 | 心・身体・癒し

先日、一ヶ月ぶりに教育分析を受けてきた。

対話をしていくうちに浮き上がってきたのが、このところ漠然と感じていた「停滞感」についてであった。今回はそれをテーマにすることになった。

「停滞感、停滞感・・・」何度も言葉にしていくほどに益々体感として、その感覚がイメージを伴って湧き上がってきた。いつしか自然な流れとして講師のリードでワークが始まった。

「その停滞感ってどんな感じ?」と講師。

「うーん。何か固まっている感じ」と私。

「それは身体全体?それとも身体の一部なのかな?」

「・・・全体ですね。何か、縛られているという感じじゃなくて固まっている感じ。鉛のような…銅像のような・・・今、女の子が見えているんですけど・・・」

こんな感じでワークが進んだ。そして五分も経たないうちに、不意に湧き上がってきた。それはまさしく身体感覚。その瞬間、涙が急にこみ上げてきた。

「聞いていい?」と講師。頷いた私は、このところずっと右足の具合が思わしくないことを伝えたのだった。

ワークのなかで感じた感覚「固まって前に進めない」感じこそ、実際に今、私が感じていた症状そのものだった。
ワークと現実とがリンクしたのだ。
そこから次々と湧き上がる思いと気づき。

それによって自分なぜこんないも停滞感をが感じていたかが見えてきた。
それが何処からきていたかに気づくことができたのである。

実は私に停滞感をもたらしていたものはひとつではなかった。
いくつもの出来事、思いといったものがない交ぜとなって、まるで鉛の人形になったかのように、私にそれを教えていたのである。

数多の課題、問題が、長いあいだ私をがんじがらめにし、ある種の怖さを味あわせていた。
それを今回ワークしたことによって、気づかせてくれたのだった。
さらに漠然と感じていた停滞感を、自分自身の身体が症状として私に必死に伝えよう、教えようとしていたことにも気がついた。

身体症状や感覚は、感情、さらに気がつかないで捉われていた思考までもを如実に現すことを、今回、私は自分の身体を通して体験したのだった。

今までBFAのワークショップに参加したなかで、参加者の体験として目の当たりにしたことはあったが、実際に自分が体験したことで、より一層 身体感覚、身体症状が心(意識)とリンクすること、無意識を意識として表出させるものであることを認識しすることができた。

これは、今後のカウンセリング・セラピーの場においてクライエントを理解するうえで貴重な体験であり、提供する場面で充分活用できるワークを実体験できたことの意味と価値は計り知れない。

深く、深くそして広く、自由に軽く。
私のなかでBFAはまだまだ広がっていく、そんな予感している。

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日本カウンセラー学院ブログ 『講師のひとりごと』

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なぜあえてホリスティックなのか

2010-06-09 00:24:02 | 心・身体・癒し

今日は改めて、なぜ私が「ホリスティック」という名称をカウンセリングルームに使おうと思ったかについて、ちょっとお話をしようと思います。

遡ること五年前。

学院に入学したときの時点では「ホリスティック」の意味はおろか、この言葉があること自体知りませんでした。

それが在学中にプロセス指向心理学と遭遇。たまたまトランスパーソナル心理学を専門としていた講師と出会ったことからPOPやそれに関連したユング心理学に傾倒、そのつながりでBFAという「身体感覚や身体症状にアプローチする」心理療法を学び始めるようになったのでした。

そして、少しずつ病弱だった身体が丈夫になっていくのですが、ある日講師のから「あなたは心と身体を統合させる必要がある」とのアドバイスをもらいました。

「心と身体を統合?」最初その言葉を聞いたとき、何のことか、どういう意味なのかがまったく理解できなかったことを覚えています。
統合させなければいけない=分離しているということに他なりません。

漠然とですが、このとき私のなかで「このままではいけない」との思いが湧きました。おそらく自分が今まで病弱だった、その原因はそこにあるのだと無意識に感じたからだと思います。

それからしばらくしたある日、たまたま辿り着いたのが「ホリスティック医学協会」のHPだったというのも何かの巡りあわせ。そこで初めて、私は講師が言った言葉の意味を知ることになったのです。

ホリスティック医学協会が唱える「ホリステリック」の概念を読んだ私は、これが今まで私にに欠けていたことに気づきました。同時に、これそこが自分を全肯定する考え方だと悟った瞬間でもあります。

協会のHPには、

Holistic(ホリスティック)という言葉は、ギリシャ語のholo(全体)を語源としています。健康(health)という言葉自体がもともと『全体』に根ざし 現在、「ホリスティック」とは、「全体」「関連」「つながり」「バランス」といった意味をすべて包含した言葉として解釈されています。的確な訳語がないため、そのまま「ホリスティック」と絵いう言葉が使われてリンクしていますが,意味する内容は決して新しく輸入された考えではなく、もともと東洋に根づいていた包括的な考え方に近いものといえます。

・心と身体と生命を見つめて生きることに他ならない・五体満足だけが健康ではない

・心の自然治癒力を信じて・魂を響きあわせて・病をエネルギーに変えて生きる・宇宙に生きる。   という風に書かれていました。

私が特に心惹かれたのは

・心と身体と生命を見つめて生きることに他ならない・五体満足だけが健康ではない

・心の自然治癒力を信じて・魂を響きあわせて・病をエネルギーに変えて生きる・宇宙に生きる。

という箇所でした。

あえてカウンセリングルームに「ホリスティック」という名称をつけることを決めた理由がそこにあります。

人間を「身体・心・気・霊性」などの有機統合体ととらえ、社会・自然・宇宙との調和にもとづく包括的、全体的な健康観に立脚することを基本にすること。
生命が本来、自らのものとしてもっている「自然治癒力」を癒しの原点におき、病気や障害、老い、死といったものを単に否定的にとらえるのでなく、むしろその深い意味に気づき、生と死のプロセスの中で、より深い充足感のある自己実現をたえずめざしていくこと。
それを主眼にした生老病死(しょうろうびょうし)の考え方を人間の本質と捉える。

そうした考えをモットーにカウンセリングを提供したいと考えました。同時にその考えをベースにクライエントさんと真摯に向き合いたいと思いました。

私たちはとかく、生きること、生きていることのみに目を向けがちです。楽しいこと、嬉しいこと、喜びだけを感じて、悲しみやつらさ、苦悩からできるだけ避けて、目をそむけて日々すごしたいと思い勝ちです。でもそれは片手落ちな見方であり、真実ではありません。

光があれば影がある。白があり黒がある。陰陽の図のように、日々対極を生きています。それがあって初めてバランスが取れていく、ひとつになっていく、統合されていくのではないでしょうか。

よく言われていることですが、ひとは生まれた瞬間から「死」に向かって歩いている。それは紛れも無い事実なのです。
この世に生を受けた瞬間から、誰の身にも起こる、訪れる「生きること・老いること・病に罹ること」そして「死」こそが生命の本質だと思うのです。

時間はかかるかもしれませんが、多くのひとたちに共感していただける日がくることを願って、今日も私は「ホリスティック」なカウンセリングを目指して今を、生きています。

 

 


家族療法と実体験

2010-06-07 09:00:30 | 心・身体・癒し

心理カウンセリングを学んだ日本カウンセラー学院のHPをよく見るのですが、A先生が昨年ニューヨークのアッカーマン家族療法研究所に行かれて、共同開発された「家族療法」の専門コースが、いよいよ始まったことを伝える文章がUPされていました。

その文章の中で印象的だったのが、共同開発をした研究所のデビット先生の言葉です。

「自分が家族との関係を見直すことを無くして、家族療法の提供などできない」

この言葉を目にしたとき、ふと先日の出来事を思い出しました。

某講師とお話したとき、たまたま私自身の家族関係を取り上げることになったのです。話をしながらわかったことは、学院に入学してから数年の間に、少しずつ家族のかたちが変化していたことでした。まったく意識することなく、自然なかたちでよい方向へと変化していたことに気づいたとき、「自分自身で実践していたのだな」と感じるとともに何だかとてもいい体験をしたのだと思いました。まさにデビット先生の言葉どおりのことを私自身が、そして家族が無意識のうちにしていたことに驚くと共に、その体験と経緯をまとめ記憶しておく必要性を今、実感しています。

ちなみに某講師が仰ったのは、「日本の家族療法には縦軸が必要だということ」、「縦軸とは個人の感情、感覚であるということ」でした。

先日、アメリカの大学で心理学を学んだ方にお話を聞く機会があったのですが、その方の話しによるとアメリカの家族は、あくまで夫婦が基本。家庭生活の中心はつねに夫婦であり、あまり子供のこと日本ほど視野にいれていないとの印象があったそうです。

それが基本となり、理論的なものや行動による変化の促進を促す。先生はそれを横軸と表現したのですが、なるほどと思いました。同時にイメージとして見えたのが、立体的な十字形、クロスのかたちでした。

家族という単位であっても、結局は、ひとりひとりが自分と向き合い、深いところにアクセスしないと本当の意味での家族関係=人間関係は変わっていかないのではないかと思います。

私も体験を経てそれを実感しているところです。


朝日新聞に掲載されるお話ですが・・・

2010-06-05 11:04:22 | 心・身体・癒し
朝日新聞に掲載されるお話ですが・・・

6月9日(水)とお知らせしましたが、8日(火)になりました。

文化面ということですが、そのページの前後の可能性もあります。

新聞は、先日の電撃的なニュースが起こるなど、流動的ですので

8日(火)~11日(金)の間という可能性も示唆されています。


ご迷惑をおかけしますが、その点ご了承ください。

どうぞよろしくお願いいたします。