ホリスティックヒーリング宙『心の扉を叩いてみたらきっと何かが見えるはず聴こえるはず』

ホリスティックヒーリング宙(sora)のヒーラー&臨床心理カウンセラー株本のぶこが心・心と身体について綴っています

何のために生きるのか、生きる意味とは

2010-10-28 09:56:26 | 心・身体・癒し

先達てのカウンセリングから数日、少々疲労感があった。

それは決して嫌な感じではなく、いい意味での疲労感。

単純に感動とか驚いたという表現ではしっくりこない、そう、圧倒されたという感じだったことを、書きながら思い出している。

一年半ほど前、ルームを訪れたときには「自分が生きている意味が分からない、何のために生きているかわからない」と言い「こんなにつらい人生が続くのなら死にたい・・・」と、毎週のセッションのたびごとに言っていた。


その同じひとが、一年半が経過た今、自分はなぜ
ある分野の仕事に関心、興味があるのかということを自己洞察しはじめた。

そして出した結論は、「その分野、仕事を通して自分を
知りたい」その強い欲求があったから。

そのことに気がついたという。

その仕事の資格を、私のところに通いながら勉強を続け合格したにも関わらず、ついこの間までは、価値のあるものとは思えない・・・と言っていたのにである。

しかし洞察の結果、その資格があってこそ、「自分を知りたい」という欲求を満たしていける、追究できると気づいたとき、初めてその資格が意味のあるものとなった。

その日のセッションの最後、あることを訊いてみた。

「あなたは何のために生きるのか、生きる意味は?」と・・・・

その問いに返ってきた答えは「自分を知るために生きるのであり、それが生きる意味なのだと思う」だった。

「ひとはそもそも自分で良くなっていく力がある」と自分のカウンセリングルームのパンフレットに記している言葉ではあるが、まさかこんなにも早く、その変容を目の当たりするとは思わなかった。

そして、いつだったか誰かが言った「クライエントによってカウンセラーは成長させてもらうのだ」との言葉が実感として迫ってくる。

これが終わりではない、これからが本当の意味での始まりなのだと思う。

生きる意味、何のために生きるかに気づき始めたひとの成長を見守っていきたい。


ゆだねていいんだよ

2010-10-24 11:09:09 | 心・身体・癒し

朝6時、いつものようにセルフワーク(瞑想)をしていたときのこと。

広げた両の手のひらに、いつもよりも強くビリビリと気を感じはじめたところで、突然ビジョンが現れた。

そこは駅のホーム、たくさんのひとが電車を待っている。

そのなかに、ひとり気になるひとがいた。背はあまり高くなく、トレンチコートを着ている。

後姿しか見えないので、男性なのか女性なのか、その時点ではわからない。

みんな何処へ行くのだろう・・・私は何処行きの電車に乗ればいいのだろう・・・そんなことを思いながら、電車がくるのを待っていた。

そして、ふと気がつくと、ほとんどの人は電車に乗って行ってしまっていた。

ホームに残っていたのは、気になっていたコートをきたひとと私だけ。

やがて、電車がホームに入ってきた。その電車に乗り込むふたり。

そこで初めて気になるひとが男性だったことを知るのだが、知ったひとではない。

ゆっくりと電車が動き出した。

いったい何処へ行くのか・・・わからない。

そのときだった「ゆだねていいんだよ」との声が聞こえてきたのである。

まさしく今、自分は何処へ行くかわからない電車に乗っている。

それを感じた瞬間「それしかないんだな・・・」との思いが、身体中に広がっていくのを感じた。

すると不意に「書く」という言葉が湧いてきた。

同時に「私は何故書くのだろう・・・」との思いが湧き起こり、さらに「入れないと書けない」との言葉が出てきたのである。

実はこの「入れないと書けない」は、いつだったかトレーナーの講師に私が言った言葉でもある。

そのときだった。

「そうだ!そういうことだったんだ」と気がついた。

私は今まで「書く」ということについて、単に書きたいから書くのだと思っていた。

伝えたいことがある。それを伝えるため、伝えたいがために書くのだとも思っていた。

でも、それだけではなかったのである。

伝えたいこと、伝えたい世界のことを自分がどれだけ理解しているかを、自分自身が知るためにも書いているのだということに気づいたのだった。

自分がどれだけ理解しているかを確かめるために書く、書いているのだということに気がついた瞬間だった。

BFAをどれだけわかっているか、理解しているかを書くことを通して、伝えながら確かめていたのだ。

その事実に気がついたとき、BFAをもっと知りたい、創始者、開発者である、日本カウンセラー学院 名古屋校 大高講師のこころと頭のなかにあるBFAの世界について、その諸々、そのすべてを知って、咀嚼して自分のものにしたいとの思いが、より強く心のなかに響いた。

私にとって「書く」という行為は、自分を知るということでもあることを、ワークが教えてくれたのだった。


身体症状を受容すると

2010-10-21 11:00:17 | 心・身体・癒し

今年の初めあたりから、心臓に違和感を感じるようになっていた。

例えるなら、電車が線路の継ぎ目に乗ると、ガタンと振動するときの感じが胸の中で起こる。そんな感じだった。

たまたまそれを主治医に話したところ、期外収縮という症状なので、一度診てもらったほうがいいとの指示が出たことから、早速、先日診てもらった

担当の先生は、確かに不整脈がときどきポーンと出る症状がある。しかし、結構みなさんが持っているので「心配ないでしょう」との診断。
ただ念のため24時間心電図を装着する検査をすることになった。

そして検査の結果、現時点では、治療の必要は無いということで一安心。

たしかに頻繁に不整脈は心電図からも認められたのだが、今すぐ治療を必要とするような、脈のうちかたではない。危ないのは、連続して脈が飛ぶ症状で、これは心臓が突然止まる危険性があるとかで、早急に治療が必要だという。

私は喫煙、飲酒、肥満、糖尿病といった、危険因子も持っていないので、大丈夫だろうと言われ正直ホッとしている。

すでに10日以上が経つが、ふと、あれほど脈が飛ぶ症
が頻繁に起こっていたはずなのに、最近は気にならずに過ごしているとに気がついた。

振り返ってみると、24時間心電図をつけていたときが一番動悸が激しったことも・・・

BFAでは、例えば不安、怒り、抵抗といったものがあって、それが自分中にあることを受容れたとき変化が起きるという捉え方をしている。

身体症状もそれと同じで、今回の私の場合、期外収縮という症状名を指摘され、不整脈があることを実感したときから、ある種の不安、恐れが生じて症状が頻繁に起こるようになったのだが、それが検査の結果。心ないものとわかった時点で、自分のなかに(症状が)あっていいもの受容れられた。それによって、変化が起こったのだと考えられる。

あってはいけないものと抵抗し、排除しようとするほどに、その壁は厚く高く聳えていく。

その症状や状況を受容れたとき、壁と感じていたものは、壁ではなくなるということを、今回も自分の身体を通して体感したのだった。



外見が変わって内面も変わる

2010-10-17 09:58:48 | 心・身体・癒し

先日、あるテレビ番組を録画していたものを見た

それは、体重が190kgにまで増えてしまった女性が、一年半かけてダイエットを続けきた様子を記録したものだった。

太る前は55kgがベスト体重だったその女性。減量目標体重は以前の55㎏。

番組のなかで体重を計ったところ、さすがに55㎏までには到達していなかったが、80kgを切っていた。120㎏近くまで減量したことになる。

彼女の頑張りに、スタジオに集まったゲストの人たちは、賞賛の拍手を送ったことは言うまでもない。同じようにダイエットに取り組んだことのある女性タレントはその苦しさを理解できるだけに、涙を流すほど感動していた。

番組の企画としては、今回が最後となる。

司会者が、これからどうするかを訊いたところ、その女性は突然泣き出した。その涙に誰もが、いままでの苦しみを振り返り、もう限界だと感じている、その涙だと受け取った。

ゲスト全員が「これだけ頑張ったんだから、55㎏にならなかったけど、もう充分だよ」との労いの声を次々に掛けた。

しかし、その予想を彼女は覆す。

「せっかくここまで頑張ってこられたのだから、55㎏になるまで続ける。ひとりでもやっていく」と決意を述べたのである。

周囲の人たちは、一様に驚きの表情を見せたが、彼女の決意は変わらなかった。

はたから見ても、あまりの過酷な減量作戦。120㎏近くも減ったのだから、もう無理をしないでここで満足、納得すればいいのでは?と思ったりするが、本人の気持ちには並々ならぬ決心がうかがえた。

その様子を見ながら気づいたことがあった。

それは、過酷なダイエットを一年半もやり続け、120㎏近くの体重を減らしたことで、今までにはなかった自分への自信や、根気、持続力といったものが知らず知らずのうちに身についていたのだなということだった。

何かひとつのものをやり遂げたとき、その目的を達成しただけでなく、それに付随したさまざまなものも、そのひとに備わっていくんだなと感じたのだった。

そして、ふと思い出した映画があった。

「マイ・フェア・レディ」

確かイギリスが舞台だったと記憶しているのですが、ある高名な学者の男性が、下町に生まれ育ち、道端で花を手売りしている若い女性をレディに育てていくと言うお話。

イギリスでは生まれた階級によって、話し言葉がはっきりと違うので、話をしただけで「このひとはどの階級の生まれ育ちか」ということがわかってしまうという。

映画では男性が、下町訛りがきつく、所作も決して品があるとは言えない娘を自宅に連れて行き、徹底的に教育していく様子が中心に描かれていた。

なかなか治らない下町訛り、つい日頃の所作がでてしまう娘は、厳しい教育に嫌気がさしはじめる。

育てる側の男性も、娘に成長が見られないことで、所詮、生まれは生まれレディにさせるのは無謀な試みなのかと思うようになっていく。

だが、やがて少しずつ変化が現れ、結果として彼女を社交界にデビューさせるとこまでたどり着くのである・・・。

しかし、物語はそこで終わりではなかった。

誰の目から見ても、立派なレディに変身した下町のじゃじゃ馬娘は容姿、所作、言葉遣いが変わっただけでなく、その意識、心=精神まで変化を遂げていたのだ。

レディに育てられているあいだは、男性の言われた通りに従順な、ある意味、お人形さんのような女性だったのが、容姿、所作、言葉遣いだけでなく、さまざまな教養をも身に着けさせられたことで、その内面まで変化していたのである。

そうなっていくことに、教育する側の男性自身まったく気づかなかった。

そこに、この映画の意図があったのだろう。


今回、190キロの体重を一年半かけて70キロ台にまで減らした女性も、ダイエットを始める頃、「今までの自分は、いつも中途半端。やりきったことがない」という話していた。

しかし、過酷な減量に挑み、それを1年半続けたことによって彼女は容姿だけでなく、その内面もいつしかたくましく、しなやかに変化していたのだった。

たしかに減量に挑むのはつらい、つらいけど自分が目標とした55㎏に到達するまでやり続けるのだという強い意志を持った女性になっていた。

心が変われば身体が変わるように、身体が(よい方に)変われば心も変わるという、ひとつの事例かもしれない。

これからどのくらいかかるのかも、どのような展開になっていくのかもわからないが、きっと今回の体験は彼女にとって大きな意味と価値があったことと思う。



本質を探るワークをやってみました

2010-10-14 23:16:41 | 心・身体・癒し

私が毎回参加している、ボディフォーカスト・アプローチ(BFA)のワークショップでは、色々なワークを体験します。

今日はそのなかのひとつ「本質を探るワーク」を紹介します。

「本質」とは一体何でしょう。まずはそこから入っていかなければならないのですが、おそらくはそのひとの本来の姿であり、生き方に通じる土台であり、ある種の「素材」のようなものではないかと思います。

とはいえ、わたしたちは今、ここを生きており、さまざまな体験を繰り返しているので、そのイメージは多少の変化が起こりうると考えます。

そういう点で、BFAワークショップで体験した「本質を探るワーク」はそのとき自分が(宇宙から)もらった、セルフイメージなのかもしれません。


「本質を探るワーク」を体験したのは、名古屋校でのワークショップに参加するようになって、一年程が経った頃だったと思います。

最初にBFAの創始者であり、学院講師のO先生が自らデモンストレーションワークをして、どんな風にやっていくのかを見せてくれました。瞑想的になり、しばらくそのままでいると、先生の身体が少しずつ揺れはじめ、仁王立ちになったかと思ったら両手をひろげ宙に円を描き始めました、身体はずっと軽く揺れています。

しばらくその動きを続けたのち、ワークは終わったのですが、先生のイメージとして出てきたものは「大仏様」でした。

参加した学院生・卒業生が妙に納得した表情を見せていたことを思い出します。

さて、次は参加者がワークを体験する番です。

まずは、自分が感じている自分自身のイメージを意識してセルフワークに入っていきました。

私がワークに入る直前までイメージのなかで見えていたビジョンは、「白いベールを頭から被った女性」そのビジョンから「マザー・テレサ」のようなひとが出てくるのかな・・・そんな予想を立てていました。

しかし、実際にワークをやって出てきたのは、私自身思ってもいなかった意外なものだったのです。

目をつぶり心を落ち着かせていきます。やがて右の頭上にビジョンが現れました。白い羽のようなものが見えます。よく見ると、それは翼のよう・・・ふわふわと宙に浮いています。

しばらくそれを見ていたら、右の方に大木が現れました。何の木なのかは分かりませんが、幹はひとが二人か三人手を繋いで抱えたほどの太さです。


やがて小さな子どもが目の前に現れたかと思ったら、右の頭上にふわふわと浮いて漂っていた翼が降りてきて、その小さな子どもの背中にぴったりと貼りついたのです。

その瞬間「ああ、天使だ・・・」そう思って見続けていたところ、その翼をつけた小さな子どもは大木の根元に腰をおろし、やがて胎児(勾玉)の格好で横になったのです。

そのときでした。まるで導かれるように自然に椅子から下り、その天使と同じ胎児の格好で床に寝そべったのです。

何故、そうしたのか自分でもわかりません。ただ、胎児の格好で寝そべっていながら、とっても穏やかな、安らぎのなかにいる感覚が湧き上がっていたことを今も憶えています。

どのくらいそのままの格好でいたのでしょう・・・先生の「そろそろ時間です」との合図によって、半分眠っていたような身体と意識は、ゆっくりと目覚めましたが「何とも幸せな気分が

身体じゅうに浸透している」そんな感じがしばらく残っていました。

昨日、セルフワークをしながら、ふっと「本質を探るワーク」との言葉が湧き上がりました。その言葉のままに意識を向けてみたところ、やがてスーッとあるビジョンが現れました。


それは遠くに見える女性の姿でした。長い髪をおろし、ふんわりとした衣装を身に着けています。そして何かを抱き、左へ首を少し傾げてそれを見ている・・・その視線の先にあったのは、赤ちゃんでした。赤ちゃんを抱いた、女性の姿だったのです。

そのビジョンを見ながら、ふっと湧いたのが「聖母マリア」でした。それが何を意味しているのか、示すのか…おそらくこれから明らかになっていくことでしょう。

穴を掘り続けるビジョンが、O先生の抱いているプロセスワーカーのイメージと(穴を掘り続ける人)一致していたように、もしかしたら何かが見えてくるかもしれません。

ただ過大な期待は持たず、あくまで流れに任せてみようと思います。


 



『アメリカカウンセリング日記』カリフォルニア通信

2010-10-11 11:00:17 | 心・身体・癒し
今日から不定期ではありますが、アメリカのカリフォルニア州
サンフランシスコ在住の友人、Y・Mさんからの便りを紹介します。
Y・Mさんは、アメリカの大学で心理学を学ばれて帰国、日本で
お勤めをされていましたが、昨年、日本カウンセラー学院を卒業
され、今年の夏に再び渡米、この秋から
CIIS(California Institute of Integral Studies)という心理学を強み
とする大学院に入学、学ばれています。
今日は、Y・Mさんからの「アメリカカウンセリング日記」の記念
すべき第一弾です。
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ここCIIS(California Institute of Integral Studies)は心理学、哲学、
宗教学に強みを持つ大学院でありアメリカの中でも優れたカウン
セリングのプログラムを持つ学校として世界中から学生が学びに
来ている。
アメリカでは東海岸と西海岸が最もカウンセリングが進んでいる
地域であり、特に西海岸にあるここサンフランシスコは最先端の
カウンセリングとその研究のしやすさからカウンセリングメッカと
言って良いだろう。
研究のしやすさというのはこの地域の特徴でもあるが、Diversity
(多様性)が豊かであり、世界中の様々な国の人が住んでいると
いうだけではなくLGBTQといういわゆる、性別の多様性も特徴的
である。
大学院での授業が始まって早1ヶ月以上が経つのだが、学校に
いても国、性別の多様性に驚くとともに彼らとの会話は非常に難
しいと感じることがある。
日本という国にいてモノカルチャー(単一文化)の中で育ってきた
私としては、だいたい”常識”という言葉を使ったときある程度他者
と共有できることが多かったのだが、このDiversityの中では私の
常識は他者の常識と異なることも多く場合によっては全く正反対
であることも珍しくはない。
また、ゲイやレズビアンといった人達のパートナーを呼ぶ時にも
大変注意を払わなくてはいけいし簡単にガールフレンド、ボーイ
フレンドと言い切れないなど自分の”常識”と同じ価値観を共有し
ていない人達との会話は細心の注意が必要である。彼らはマイ
ノリティーであるがためにとても傷つきやすく繊細なのだ。
どこが引き金となるか予想がつかない中でのコミュニケーションと
いうのはこういった繊細さを必要とする。
言葉は時として凶器になる。特にバーバル表現に重きがおかれる
ここアメリカでは言葉の選択には注意をしないといけない。
しかし、これは決してアメリカに限ったことではない。
繊細で傷つきやすい他者を相手にしたときに我々は無意識に他者
を攻撃していないだろうか?
この無意識がくせ者なのである。無意識だから自分のしていること
がわからない場合もある。気をつけたくても気をつけられないことも
ある。
無意識というのは非常にコントロールができない上にパワルフなの
である。
私は個人、家庭、そして社会の中で身に付けたこの無意識や習慣
というものが以下に影響しているかを考えずにはいられない。
要するに今無意識の一部が意識化しているのである。
でも未だにやはり私の無意識ははかり知れないのである。
では、どうすればいいか?
今の私には答えはない。ただできることは自分が無意識にやって
いること、言っていることがありそれはとても強烈なのであるという
ことを認識することである。
環境が変わり、カウンセラーとして繊細さと戒め、改めてその大切さ
を感じさせられた。
自己探求の道は始まったばかりだ。
                                    Y・M
                                   

                                 (原文掲載)
*:..。o○☆゜・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゜・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゜・:,。*:..。o○☆
いかがでしたか?
読ませていただきながら、うーんと唸ってしまいました。
マイノリティーの問題は、アメリカだけでなく全世界的、勿論日本にも
存在する問題ですよね。
『今無意識の一部が意識化しているのである。
でも未だにやはり私の無意識ははかり知れないのである。』
という一文に、膝を打ちました。まさしく、BFAはそこをしていこうと
いうアプローチ法だからです。
ただ、Y・Mさんの無意識の一部が意識化しているというのは、
現実社会で直面した問題によって、意識化せざるを得なくなった。
そういう点では、シビアな厳しい現実との対峙によって浮上した
無意識→意識化であることは間違いありません。
とても刺激を受けました。


次回もどうぞお楽しみに。

いよいよスタートします!カリフォルニア通信

2010-10-10 10:10:10 | 心・身体・癒し

以前、ここでもお伝えしました、アメリカの大学院で心理学を学んでいる友人Y・Mさんによる「アメリカ便り」が、いよいよスタートします!

Y・Mさんとは日本カウンセラー学院の同窓生という間柄。

昨春、私が代表を務めるカウンセリングルーム「ホリスティックカウンセリング宙(sora)」がオープンした際、オープン記念として、ボディフォーカスト・アプローチ(BFA)的カウンセリングのモニターさんを募集したときにモニターとして来ていただいたのがY・Mさんでした。

それ以来、親しいお付き合いをさせていただいています。

モニターをしていただいた当時、彼女は、まだカウンセラー学院に在学中で、初めて体験しボディフォーカスト・アプローチ的カウンセリングに「こんなアプローチ方もあるんですね。ブリーフアプローチのように「どうしたい」と、解決法を求めれるのと違って、とても穏やかなやさしいアプローチが、とても心地よかったです」と感想を書いてくださったことが印象に残っています。

それ以来、すっかりBFAのファンになったM・Yさんは渡米されるまで、セルフワーク体験会やBFAワークショップにも欠かさず参加してくださり、頼もしいBFAの理解者のおひとりとして、心強い存在でした。


そして今も、私のBFAを多くの人に伝えたい、広めたいとの思いを応援してくださっていて、今回のこの企画も快く承諾していただきました。


記念すべき第一回目は、明日です。

タイトルは、Y・Mさんの希望で、”アメリカカウンセリング日記”となりました。

書いていただくテーマは、大学院での授業や、学校外でのカウンセラーとのトレーニング、その他アメリカのカウンセリング事情などを予定しています。

大学院の忙しい学業の合間ということで、定期的にというわけにはいきませんが、長く続けていきたいと彼女も私も思っていますので、無理をせず継続していきたいと考えています。

どうぞ、皆さんお楽しみに!



余計なものを身につける

2010-10-09 10:22:38 | 心・身体・癒し
一昨日の朝9時半から昨日の9時半まで、24時間の心電図を装着した。

昨年の夏ごろから、胸のなかで電車が線路の継ぎ目で「ガタン」と揺れるときの感じがしていたので、数日前、循環器内科で診察を受けた。

期外収縮という症状で、分かりやすく言えば不整脈が認められた。しかし、不整脈自体は多くの人がもっており、心配することはないという。

念のため心電図をとっておこうということで、24時間の心電図を装着することになった。


この24時間心電図をつけるのは今回で4回目になる。

最初は数十年前、夜中になると急に胸がモヤモヤと不快感がはじまり眠れなくなることから内科を受診。結果として異常はなかった。2回目も、同じような症状で結果は同じだったが、そのとき装着した24時間心電図が、結構大きな箱を首から提げて一日を過ごすものだった。結構重く、腰に固定しているので思いのほか動きづらく少々不自由だった記憶がある。


前回と今回は同じタイプのもので、最初の頃に比べると、現在の心電図は胸の下の方に小さな箱を絆創膏でベタベタ貼るだけでOK、とても軽くて動きやすくなっている。

だが実際に装着し、24時間が経過して外してみてわかったことがあった。
自分では意識していなかったのだが、たとえ小さくて軽くても異物を身体に装着するということが、身体にとっては結構なストレスだったということだ。

心電図を病院ではずし、自宅に戻ってからのこと、妙な疲労感が身体じゅうを包んでいることに気がついた。いつもの単なる動きすぎての疲れとはちょっと異なった、何とも言えない不快感をともなっただるさとでも言おうか。

なにも疲労するようなことはしていないのに・・・と思いながら、ふと身体 を曲げてみると「痛い!」。
軽い筋肉痛のような痛みが、身体のアチコチに感じられて、「えっ!?」
確かにいつもより多く息を吸い込まないと、しっかり呼吸ができていない体感はあったのだが…これが妙な疲労感の元凶だったのだと気づいた。


本来、身体にあるはずではないものを一時的にしろ身につける。意識としては、納得の上で装着しているので、さほど苦痛ではないのだが、身体のほうで不自然な状態を察知、痛みというかたちで教えてくれたのである。

それは心も同じこと。

自分を押し殺して相手に合わせてみたり、やせ我慢をしてみたり、嫌なことでも我慢をしてしなくてはいけなかったりと、知らず知らずのうちに心に余計なものを身につけさせてしまう。

やがて、それが積み重なって、あるとき耐え切れず心や身体は悲鳴を上げ、身体症状や内臓疾患としてSOSを発信する時がくる。


たった一日、しかも軽い箱を身体につけて過ごしたそれだけで、こんなにも 違和感と疲労感を身体が感じてしまうことに改めて驚くともに、心に不自然な異物 を身につけさせないことが大事であると痛感した。

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忘れないためにも・・・グリーフ(悲嘆、大きな悲しみ)

2010-10-06 20:12:21 | 心・身体・癒し
mixiというコミュニティーサイトをしっているだろうか。

このブログをよんでくださっている方の中にもメンバーになっている方がいると思う。

mixiに登録してから数年が経つ。

初めに入った切っ掛けは、学院の同期のひとが企画していたカウンセ リングの勉強会の連絡網として利用するのが目的だった。

 その彼が、昨年の6月、50代の半ばという若さで亡くなった。 すい臓がんだった。

 病気がわかったときも、その後の治療の様子や経緯などをmixiに 報告してくれていた。
 カウンセラー学院のゲシュタルト療法講座を受講した影響もあってか、 彼は私に「病気と闘う」のではなく、「病気とともに生きる」そんな風に話してくれたことがあった。そして 「自分が病状をここで話すことで、同じ病気のひとの少しでも役に立 てれば」との考えから、ずっとmixiに書き込みを続けていたのである。

はじめ病気が分かったときは、長くて3ヶ月から半年といわれていたが、抗がん剤治療を受けるなどの成果もあって、一時期とても 順調な回復を見せていた。 しかし、がんがわかって一年が過ぎた頃、再入院との報告をmixiに書き込んだあと、あっという間に逝かれてしまった。

mixiにはマイミクという、親しい人同士が仲間として登録するシス テムがあり、亡くなったNさんと私はマイミクだった。

数日前、mixiにアクセスして自分のページのマイミク欄を何気なく見たとき、 ふと目に止まったのが、彼のページの名前と写真だった。 亡くなって一年以上が経つが、彼のマイミク登録を抹消する気には どうしてもなれない。 毎日、こうしてmixiを通して彼を感じることができるから・・・ 彼とともに過ごした時間を、思い出せるのがここだからだ。

 おそらくこれからもmixiを退会しない限り、彼のマイミク登録はそのまま にしておくことだろう。彼を忘れないためにも・・・

そんな話をある知り合いに話したところ、そのひとも同じように12年前、ある事故で幼馴染を亡くしたという体験があったことを聞いた。

知り合いは郷里に帰って、ある店の前を通るとき、決まって亡くなった幼馴染のことを思い出すという、その店にいるような気がしてついつい店に入りその亡くなった幼馴染の姿を探すという。

「たぶん、まだ幼馴染の死を受け入れていないのだと思う」と知り合いは言いつつも「それでいいのだと思っている」とも話してくれた。

私も亡くなったひとのことについて、ずっと言い続けていることがある。
それは、「亡くなったひとのことを思い出したとき、そのひとを供養している」と思っていると。


それでいいのではないかと思う。無理に忘れることはない。なぜなら、そのひとのことを思い出してあげられるのは、そのひとと関わりを持ったひとが生きている間だけしかないのだから。



カウンセラーとそうでないひととの違い

2010-10-02 20:10:25 | 心・身体・癒し

先日、友人とひさしぶりに会って話をした。

友人が私に向かってしみじみと「カウンセラーって大変な仕事だよね」と言った。

「え、どうして?そんなふうに思うの」と訊いたところ、「だって自分が思っているように相手が変わってくれないことの方が多いんじゃない?ストレス溜まらない?」という言葉が返ってきた。

返って来て気がついたことがある。友人はカウンセラーはアドバイスするひと、自分の考えたとおりに相手を変えていくことを目的、目標にしている、そんな仕事だと勘違いしているようなのだ。

それに気づいたことから、改めてこう返事をした「ううん、全然、ストレスは溜まらないよ。だって私の仕事は相手にこうしなさい、ああしなさいと言うのではなく、相手がどんな課題や悩みを抱えているかを耳を傾けて、その相手がそれをどんなふうにしてきたいか、どんなふうになって行きたいか、変わっていきたいかを聞きだして、そうなるにはどんなことができそうか、必要かを一緒に考える仕事なのだもの」と。

友人は私のその言葉を聞いた途端、「ハッ」としたような表情を見せ「そうなんだぁ」と言ったあとに「ふぅー」とため息をついた。

実は、友人には若いときに事故にあって身体機能が思うように働かなくなった家族がいる。なかなか仕事が軌道に乗らない家族もいて、ずっとそのひとたちを支えているという経緯があった。それだけならまだしも、関係があまりいい状態とはいえなのだそうだ。

話を聞いてみると、とても家族思いで「自分のことよりもまず家族のこと」と、一生懸命に頑張ってきたのにも関わらず、感謝するどころか反発されることのほうが多いという。それに心を痛め、どうすればいいのだろうと日々悩んでいたのだという。

そんな状況のなか、カウンセラーがどんな態度でひとと接し、援助活動をしているかを知った友人は、自分が今まで家族に対してとってきた態度が、必ずしも家族のことを思っての行動、言動になっていないことに気がついたようだった。

ちょっと考え込むような表情のあと、私の目を見ながら言ったのは「そうだよね。私が良かれと思っていることが、必ずしも家族にもいいと思ってはもらえない」それよりも相手がどうしたいか、どうなりたいかを聞いて、それに協力できることがあったら、協力するという態度が大事なんだね」との言葉であった。

このやりとりで気がついたのは、カウンセラーとそうではないひととでは、同じテーマに対しての相手への接し方、アプローチの仕方が異なっていることだった。

一般にひとの相談に乗るとき、私たちは相手のために良かれと思い、「こうしたらいい」、「ああしたらいいと」いろんなアドバイスをついついしてしまう。しかし、必ずしもそのアドバイスが相手の欲している内容と一致しているとは限らない。逆に反発されたり、「わかってくれないひと」との印象を与えてしまう場合もある。

なぜか・・・それは、相手の本当の欲求や願いを無視し、自分が勝手に思い込んだ場面を元に、求められもしないのにアドバイスするからである。

本当に相手のことを思うのであれば、まずは相手が何を欲しているか、どんなふうになっていきたいのかを明確にしてもらい、そのためには何が必要か、何ができるのかを一緒になって考えたり、寄り添い、納得するような方法や答え、結論を導き出す、そのためのお手伝いをすることなのだ。

友人もそのことに気づいたようで、「帰ったら、家族に話を聞いてみる」と話してくれた。

普段、気がつかずにいた、カウンセラーとそうでないひととの違い。今回、友人との話から、意識の違いを知ることができ、とても参考になった。

これはカウンセラーやセラピストだけでなく、一般のひとも他人と接するときの大事なポイントだと思う。

自分の気持ちを押し付けるのではなく、本当に相手がどうなりたいかに添った接し方をする。その点に、ちょっとだけ意識することで、ずい分コミュニケーションが変わってくるのではないだろうか。相手の自分への印象や接し方も変わってくるように思うのだが。

 

 

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