ホリスティックヒーリング宙『心の扉を叩いてみたらきっと何かが見えるはず聴こえるはず』

ホリスティックヒーリング宙(sora)のヒーラー&臨床心理カウンセラー株本のぶこが心・心と身体について綴っています

病とともに、そして…

2009-06-29 13:27:19 | 心・身体・癒し
昨年の六月、学院で同期だった男性が亡くなった。

まだ五十代半ば、早すぎる死であった。

昨年の春、身体に病巣が見つかったが、できたところが難しい場所で担当の医師から手術ができないとの診断を受けたという。

更に病状は決して予断を許さない状態であるとの話に、親しくしていたカウンセラー仲間たちは大きな衝撃を受けた。

残された治療法は、抗がん剤治療。
数週間に一度、苦しい治療が始まった。

そして、最初のハードルをクリア。
半年後、二度目のハードルをクリアし、この春、三度目のハードルをクリアしたばかりの永遠の旅立ちだった。

彼は発病と同時に、自分の病気を自らのホームページで明らかにした。

さらに主治医と相談の結果、万が一のことを考えカウンセリングルームを閉じることを決意したのだった。

その頃はまだ、充分にカウンセリングをおこなえる体力、気力を持ち合わせていたが、病の性質上いつ病状が急変、クライアントに迷惑がかかるとも限らない。
それを考慮しての苦渋の決断であった。

その頃彼は、自分のホームページを病気と病状を説明した内容に変更、アップし、それ以降、病状について定期的に報告し続けた。

自らの病気と治療の経過を報告することで、少しでも自分の体験が多くの人たちに役立ってくれることを願ってのことだったと聞いている。

ホームページに付けられた新たなタイトルは「病と共に生きる」だった。
闘病との言葉どおり、一般的にひとは病に罹ると闘う。
そして病に打ち勝つとの意識を強く持つ。

そうした強い意思、強靭な心を持つことが病を乗り越える最大の力、パワーになるのだと、誰もが考えがちである。

しかし彼は違った。
事実と向き合い、病を受け入れ、対峙しながら限られた時間を精一杯生きようと考えたのだった。
いや、彼はもしかしたら限られた時間という捉え方ではなく、たとえどのような出来事に見まわれたとしても、すべては自分に与えられた時間という感覚で、今、このときを大切に生きることだけを考えていたのかもしれない。

そして常に快癒を信じ、奇跡を信じ、希望を持って新しい効果的な治療法が施される日を待ちながら一日でも長く生きることを自らに課していたのではないだろうか。

絶望ではなく希望を…執念よりも自然体で毎日を生きることをテーマにしての一年余りだったような気がする。

葛藤は当然あったはずだ。
苦悩に眠れない日々を過ごしたことも容易に想像できる。

しかし、彼は最後まで希望を持ち続けた。
彼を見守る私たちも彼が戻ってくることを祈り、信じた。

そうした日々をともに過ごすことで、彼から何があっても希望を持って生きることの大切さを教えられた。

亡くなる少し前、私も親しくしているカウンセラー仲間のひとがお見舞いに行ったそうだ。

彼はそのひとに「まだまだやり残したことがある。必ず戻る」と話したという。

残念ながらそれは実現しなかったが、改めてこの一年余りの時間を思うとき、直接的なカウンセラーとしての仕事はしなかったかもしれないが、その生き方や取組み方にカウンセラーとしての最後の仕事を見たように思う。

あるがままに、今、ここに生きることを身を持って示し、そして旅立った彼。

ここに心から哀悼と感謝の気持ちを彼に捧げます。
Nさん有難う、そして本当にお疲れさまでした。


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生と死のはざま09'

2009-06-27 09:25:52 | 心・身体・癒し
昨日の朝、テレビをつけた途端、マイケル・ジャクソン死亡か!?とのニュースが飛び込んできた。

その時点では、日本時間で朝4時半、マイケルが救急車で病院に運ばれたとの事実、呼吸が停止し蘇生施術がおこなわれたということくらいしか情報が入ってこない。
ニュースを伝えるキャスターからは、正確な情報が伝わってこない苛立ち、焦燥感のようなものが漂っていた。

そして昼頃には、マイケル・ジャクソンが死去したことが正式に発表されたとのニュースがトップニュースで伝えられるなど、その衝撃の大きさが計り知れないことを物語っていた。

ある情報番組によれば、この7月にマイケルは世界ツアーをスタートさせる予定だったとか、先達てそのメッセージををマイケルが自らファンのまえで報告する映像が紹介され、それを熱狂的に歓迎、喜ぶファンの姿らが映し出されていたが、本当に世界的に支持されたスーパースターであったのだと改めて知らされた場面だった。

ファンはもちろん、スタッフ、本人もまさか最期の時がこんなにも突然訪れるなどとは想像もしていなかっただろう。
体調がよくないこと、心臓が悪かったことは知られていても、こんなにも早く、しかも突然に彼がこの世からいなくなるとは誰が予想していただろう。

彼の死についてのニュースを見ながら、ふと私は十数年前に亡くなった伯父の最期のときを思い出した。

不治の病に冒され、余命を告げられた伯父は途中、周囲が目を見張るほどの回復を見せ、このまま快癒するのではないかと思われた。
しかし次第に病状は悪化、主治医が説明してくれた通りの経緯を辿り始め、やがて危篤状態に…今日、明日がヤマというところにきた。
そしてある朝、家族や兄弟が見守るなか臨終を迎えたのだった。

その瞬間のときの様子を父から聞いたとき思ったことは、ひとの死とは思った以上にあっけないものなのだなということだった。
さっきまで息をしていたひとが、ある瞬間に息をしなくなる。
そこに生じる生と死の境界は、決してドラマチックなものでも劇的でもない。

あまりにも淡々とした時間の、その時の流れの一瞬のできごとに感じられた。
たとえて言うなら、まるでテレビのスイッチを切ったような…そんな感覚に陥ったのである。

生と死のはざまとはそういうものなのかもしれない。

「世界的なスーパースターの死の瞬間」も同じように訪れたのだろう…そんなことを思ったマイケル・ジャクソンの訃報であった。

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山は高く聳えているが

2009-06-24 13:25:15 | 心・身体・癒し

ここ一か月ほど、自分のなかに混乱や葛藤、矛盾や乖離といったものが生じ,苦しい思いが続いていた。

そのきっかけは教育分析のトレーナーである大高先生から、今後の私の取り組みとして幅広い知識が必要であるとの指摘を受けたことだった。

そして実際に、今まで以上に心理学や心理療法の書籍を読み始めたのだが、その頃、私のなかに統合的カウンセリング、統合的アプローチに対しての思いというものが強くなり始めてもいた。

それは、ボディフォーカスト・アプローチが単なる心理療法、ワークのというくくりではなく、統合的アプローチの要素が盛り込まれているということを、BFAのワークショップでのオープンカウンセリングで知ったことが大いに関係していた。

さらに今回、偶然選んだ書籍の何冊かが、統合的アプローチに関するものだったことから、一層、統合的アプローチへの関心が強くなったのだった。

で、わかったことは統合的アプローチが色々な療法、カウンセリングの手法を取り入れているということである。

この手法で、この療法でというのではなく、そのひとの、そのときの場面や状況にあった手法、療法を取り入れていく。
表面上は、とてもシンプルで簡単そうに見えるが、実は多岐に渡って療法を理解していないといけない。

そうしたことを知った時、私のなかで今まで味わったことのない不安、葛藤、矛盾、乖離が起こリ始めた。

まず最初に起こったのが、自分にはそうした統合的アプローチができる能力が果たしてあるのだろうかという疑問だった。
書籍を読んでみると、様々な場面でいろんな療法を提供することができなければいけないとの記載があり、現在うつ病に有効であると言われ、脚光を浴びている認知行動療法を始めとして、ゲシュタルト療法、ハコミセラピーetcが挙げられている。

そこで湧き上がったのが、今までの自分は何と知らないことがいっぱいだったのだろうという思いであり、どうすればいいのだろう…という不安であった。
単に統合的アプローチを提供することへの不安だけならよかったのだが、あらゆることが不安という状況に陥ってしまったのである。

もっと努力しなければ、もっと頑張らなくては…そんな思いに苛まれてしまったのだった。

しかし、それでも知識を入れることへの取り組みは続けていた。
が、ここで二番目の問題が起こり始める。

理論は大事、知識は大事。それは充分承知している。だからこそ熱心に読んでいた。しかし、そうすればそうするほど、心の反対側で「技術を超えたところにあるもの」の存在が頭をもたげ、「理論だけじゃないよ」との声が聴こえてくる。
が、また少しすると今度は「技術を超えたところにあるものだけじゃないだろう」との声も聴こえてきて、混乱を起こすようになってきたのだった。

そんな状況にあることを先生に話したのだが、いともたやすく先生は私のなかにあった不安、葛藤、矛盾、乖離を粉砕した。
統合的アプローチを提供したい、しかしそのための療法についての知識や実践力がないことへの不安があるのなら「(学ぶこと)やればいいだけだ」と言ったのである。

それには私も二の句を次げることができなかった。
あまりにその通りだったからだ。

そして現在まで、あの頃の混乱がどういうものであったかを再検証してみてわかったのは、すべてのものを知らなかったわけではないことだった。
それによって、それぞれに「大丈夫」「もう少し深めていった方がいいもの」「勉強しなくてはならないもの」の整理がついてきた。

同時に、ある療法についての書籍を読んだことで、理論と技術を超えたところにあるものとを明確に分けなくても取り組んでいける考え方、向き合い方があることもわかってきた。
そこからだ、どうやらひとつの世界のなかでうまく調整できそうな感触に落ち着いてきた。

苦しかったひと月が終わろうとしている今、痛感しているのは、知らないことを知ることによって、自分が思っていた世界が難しく感じられるようになること、目指す山が高く聳えるということだった。

知らなければ知らないまま「こんなものだろう」「この程度だろう」とたかを括って、そのままあえて努力もしないままでいたら大変なことになる。
いつか、もし成長できていないことに気づいたとしても遅い。

本当の意味で成長したいのであれば、知ることで、知らなかったことの苦しみを味わい、焦ったりもがいたりすることは、ある意味では必要なことかもしれない。

知らなかったことを知ることで生じる怖さはあるが、知らないことを知らないでいることも怖い。
どちらが怖いかといえば、私は後者の方がより一層怖いと感じる。

今回のことで、自分が思っているスキル、世界といったものが想像していた以上に難しいことがはっきりした。
それにより、目指す山が高く聳えていることを知ったことで怖さを実感している。
そして、その山を登っていくには、気力、体力、持久力そして経済力が必要だとも痛感している。

果たしてずっとその山を登り続けることができるかどうかは分からない。

しかし、少なくとも今の私はそこから逃げたくないと思っていることだけは確かなようだ。

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脳死はひとの死09'

2009-06-21 13:24:31 | 心・身体・癒し

先日、国会で臓器移植法の改正案が可決された。

A案からD案まで四つの法案が提出されたが、その投票方法をめぐって問題が取りざたされた。
A案から順次投票がおこなわれることになっていたのだが、最初に過半数をとった案が採用され、その時点で残りの法案は無効になるというもの。

当初、この方法は後に提出されるほど有利との見方が大勢を占め、おそらくA案は採用されないのではないかと予測されていた。

しかし、結果は大方の予想に反し、一番最初に提出されたA案が過半数に達したことで可決。残り三つの案はその時点で投票にかけることなく終わったのだった。

このA案は「脳死はひとの死」であるとの判断によって、臓器移植をおこなえるというもの。
本人の同意はもちろん、家族の同意があれば臓器提供が可能となった。
さらに国内では認められなかった、子どもさんの臓器提供も認められるという。

今まで子どもが病気で重篤の状態になり臓器移植が必要と判断された場合、外国まで出かけ、ドナーが現れるのを待って臓器移植手術を受けるというのが通例だった。
しかし、現実には莫大な費用がかかるのと、もうひとつ大きな壁となっていたのが、
手術をおこなう国が日本からの患者の受け入れを以前より厳しくし始めたことだった。

自国でもたくさんの患者が臓器移植を待っている、それなのに日本からの患者が優先的に手術を受ける(重篤なケースのため)ことへの不満が出てきたのだ。

そうした事情もあり、日本の臓器移植が必要な子どもたちを持つ親御さんは、一刻も早い臓器移植法の改正を望んでいたのである。


この臓器移植法案というものは、自分がどういう立場に置かれるかによって、ずい分と捉え方に違いが生じるものだと思う。

脳死の判定をされても心臓は動き続けている。
まして子どもの場合、身体は成長していく。
その姿を目の当たりにした親御さんは、わが子が死んだとは到底認めることはできないだろう。

もちろんその気持ちは子どもだけではない、家族が、愛するひとがそのような状況に陥った場合、脳死=死とは簡単に認めることはできないだろうと思うのだ。

片や、今、このときを生きながら、臓器移植をしなければいけない、一刻の猶予もない状況に置かれているわが子を目の前にした親御さんの気持ちを思うと、このままではいけないのだろうとも思う。

生と死に関わる問題は難しい。

ただ、あえて個人的な意見を述べれば、やはり「脳死はひとの死」との判断に対してはもう少し慎重であって欲しい。
そういう点では、やはり臓器を提供する側、臓器を提供される側のほかに客観的にそれを審査、検討する機関の存在も必要ではないだろうか。

今回の法案提出でも問題として上がっていた、子どもの臓器提供に関して、児童虐待による死というものに対してどう受け止め、対応していくのかということについても、もっと議論しなければいけなかったことなのではないだろうか。


これは私個人の価値観、死生観だが、私の場合はあくまで自然体に生き、そして死んでいくことを望む。

ゆえに自分の臓器を提供したいという意思は持っていないし、万が一、臓器を提供してもらうことで生き続けられるとしてもそれは望まないというのが、私の意思だ。


こうして書いていても、本当にそれぞれの考え方、価値観、死生観であり、どれが正しいかというも問題ではないということを痛感する。


参院での可決を控え、参議院議員によるE案作成が始まった云々との報道もされているが、果たしてどういう結果になるのだろう。動向を見守りたい。

 


憤り09'

2009-06-17 13:23:35 | 心・身体・癒し

先日、アメリカのピアノコンクールで優勝した辻井伸行さん。

帰国してから休む暇なく演奏会を開いたそうだ。

CDの売り上げが急上昇、クラシック業界に対しても大いに貢献している。

そんな彼が帰国して初めておこなった記者会見。

ニュースなどで見た人も多いだろうが、その会見のなかでひとりの女性記者がした質問が大きな物議をかもした。

「もし、一日だけ目が見えたら…」と言ったのである。

私もその質問をした場面をテレビで見たが、驚きや呆れを通り越して怒りに近いものを感じた。

何故、辻井さんにこういう質問をしなければならなかったのか。

そこに垣間見れるのは、その記者の「目が見えない=不幸である」「目が見える=幸せ」という単純な価値観だ。

だから、辻井さんの快挙を素直に喜び、評価するということをせず、彼の目が見えないことをネガティブなものとしか捉えられず、それが先の質問となって表れたのである。

彼にとって「もしも目が見えたら」という質問はまったく意味を持たない。なぜなら彼の人生のなかに目が見えるという場面は存在せず、事実その可能性もない。

初めからないもの、加えてこれからも得られる可能性が(まったく)ないもの求め、万が一あったらどうだろうという発想に何の意味があるというのか。

もし、その記者が、自分がもし「どこかの国のお姫様だったら」といったような夢を見るのと同じような感覚で質問をしたのなら、とんでもない話だ。


生まれつき目が見えず、色々な面で不自由な生活を強いられてきたなかで、並外れた努力と、才能を開花させた彼にとって「目が見えること」は夢などではなく、どうやっても得られない現実なのだ。
そして、そこに存在するのは不自由であるという事実であって、決して不幸ということではないのである。

厳しいことを言えば、あのような質問しかできなかった記者は、自身の内面の貧しさを露呈させてしまったと言えるだろう。
女性記者には、現実を真っ直ぐに受け止め、その上で辻井さんのご両親への労いや、今までのご苦労に思いを馳せたような内容の、辻井さんにとって意味のある、豊かな感性を引き出すような質問をいて欲しかったと思う。

言葉というのは、ときにそのひとの価値観のみならず人間性までもを露呈させてしまうときがある。

今回の記者会見はまさしくそれを示したと感じている。

 


一通のメール

2009-06-14 13:22:58 | 心・身体・癒し

ある方からメールが届いた。

カウンセラーとしての活動を支援してくれているところのスタッフの方で色々とお世話になっていた。

メールも本のPRについての話だった。

しかし、それだけではなかった。
その方が、私の本を読んで何を感じたかをメールにしたためてくれていた。

実は、その方には家族のひとりに、ある問題を抱えた方がいらしゃったのである。

その具体的な内容は記されていなかっが、取り巻く状況が非常に重たく、どうしようもないやるせなさや、猛烈な疲労感、焦燥感のようなものを感じていたということが書かれていた。

だが、私の本を読んで「自分はこんなことで下を向いていてはいけない」「まだまだ走れるぞ」・・・という気持ちにさせてもらったとその方は言い、文面の最後には、お礼を述べたいとまで書いてくださっていたのである。

私は文章を読みながら、胸が熱くなりこみ上げてくるものを感じていた。

先日、たまたまその方に会ったときも、何か感じるものがあるような話をされていたことを思い出した。
そして私自身、何かあることを感じながら、あえてそこには触れることをしなかった。
が、やはりそういう事情があったのだ。

今でこそ我が家は穏やかで、病弱だった私も両親以上に丈夫になったが、長い間、慢性的な疲労感、不安感に苛まれる毎日を過ごしてきた。
さらに私個人の問題としては、今も決して将来への不安が拭いされたと言える状況ではない。

しかし、学院に入学して心理学を学び、大高先生と出会い、BFAに出会ったことで「今、ここ」を大切に生きること「あるがままに生きる」ことがどれほどひとを解放させるかを実感しただけでなく、すべての体験が意味を持ち、力になりうるか、誰もが使命を持って誕生したのだということに気づけたことはとても大きい。


実はこのところいろいろなことがあり、自問自答する毎日が続いていた。
力不足を実感するたびに、このままでいいのだろうか、もっと何かを追い求めなくてはいけないのではないだろうかと、思い悩んでいた。

でも、このメールをいただいて、何かが吹っ切れた。そして、ずっと今まで私が何をもとめ、どうなりたいと思ってきたかを再確認した。

もちろんたくさんの技術を獲得することは大事だし、それが心理職だとも思う。

でも、一方で、それだけではないことも体感として感じていた。そして私はその体感の方をやはり大切にしていきたいと思い続けてきたのだった。

いただいたメールに私はこんな返事を書いた。

私のこれからの願いは「ひとを癒し」「励ます」存在になることです。○○さんに「自分はこんなことで下を向いていてはいけない」「まだまだ走れるぞ」・・・という気持を持っていただいたと伺い、とても嬉しかったです。私の方こそ心より感謝したいと思います。と…

色々なところに旅をしても、最後はやっぱりここへ戻ってくる。

きっとこれが私なのだと思う。

そのことを強く実感できた一通のメールに心から感謝したいと思う。


トランスパーソナル心理学と精神疾患

2009-06-11 13:22:21 | 心・身体・癒し

自己心理学では、大きく分けて4つの心理学が基本になっている。

精神分析学、認知行動学、人間性心理学そしてトランスパーソナル心理学。

現在、うつ病には認知療法が効果的と言われているが、すべての精神的疾患に効果的というわけではないという。

そこで考え方として取り入れられるのがトランスパーソナル心理学による考え方だ。


トランスパーソナル心理学では、統合失調症的な精神疾患で語られる話の内容を夢と同等なものと捉えている。さらに、そうした夢は自己成長の過程での内的世界で起こるものと考えているのだった。

この考え方は実存主義的心理療法の根底にも流れていて、昨年の学院主催の大講演会に来日した実存主義的心理療法のカーク・J・シュナイダー博士も同じことを語っていた。

ユング心理学の本にも同じようなことが書かれているが、ユングの場合はもっと具体的で、ある精神疾患のひとが太陽を見ながら語った内容が、ずっと以前にある書物に書かれていることとほぼ同じだったことに驚愕したこと。夢と内的世界のつながりといったものを確信したということだ。

ただ、周囲のひとの理解や対応の仕方は難しいかもしれない。

一般的にはなかなか理解しづらい捉え方であり、そのひとの内的世界で起こっていること、実際に体感されていることとして違和感なく耳を傾け受容していくには、やはりベースになっているトランスパーソナル心理学を理解する必要性があるかもしれない。

ある事例が紹介されていた。

クライアントが話すことは、いつもある生き物のことだった。
クライアントが夢のなかで飼っているのだという。
いつまで経ってもそこから離れられないことにカウンセラーは少しの焦りを感じていた。

それからしばらくしたある日、クライアントが面接に訪れ泣いて夢のなかの生き物が囲いのなかから飛び出して死んだと言った。

カウンセラーはクライアントが悲しむのをそばで見守っていたが、やがてクライアントがこう言った。「あのこが死んでしまったのは悲しいが、囲いから出られたことはよかったと思う」

クライアントのこの変化がきっかけとなり、幻聴などの典型的症状は改善。
普通の生活に戻ったそうだ。

この場合、クライアントの症状は統合失調様障害との見方であった。

これはあくまで予測の域を超えないが、もしクライアントが話す内容を内的世界での夢と同じようなものと捉えず、異常であるから即、薬物で治すとなった場合、このような流れ、結果になっただろうか。

それを思うと、やはり実存主義的心理療法のシュナイダー博士が言ったような考え方が大事なように思う。
そしてトランスパーソナル心理学的な意識の必要性をも感じるのである。

 


開かれた「場」09'

2009-06-08 09:21:26 | 心・身体・癒し

今日のニュースで嬉しいことがあった。

世界的な演奏家を多く送り出している「バン・クライバーン国際ピアノコンクール」で日本人の辻井伸行さんが、中国人ピアニストと並んで1位となったのだ。

辻井さんは全盲で、国際的なピアノコンクールにおいて全盲のピアニストが優勝したのは極めて異例のことだという。

今回、辻井さんはまずは書類選考で151人残ったうちのひとりに選ばれ、さらに決勝では6人に絞られたなかから1位に選ばれたそうである。

彼は生まれたときから全盲だったが、とても音に対しての感覚が鋭敏だったそうで、4歳の時からピアノを本格的に学び始めたという。
その後、メキメキと才能を発揮。
7歳のときには全日本学生音楽コンクールのピアノ部門で優勝している。

10歳のときにはオーケストラとの共演を果たしプロデビュー。
4年前にはショパン・コンクールに出場「批評家賞」を受けている。

彼のピアノは音色が美しく、指揮者の佐渡裕さんが彼の演奏について「天から降ってくるようだ」と述べて、高く評価しているとか。

ここまで書くと、彼には持って生まれた天分に恵まれた幸運なひと、とイメージされるかもしれない。
たしかにそれはあるだろう。しかし、それ以上に彼が続けてきた努力の日々は並大抵なものではなかったはずだ。

ピアノの鍵盤の位置をすべて覚え、楽譜の音の強弱や、あらゆる表現を身体に覚えこませ、染み込ませたなかで彼独特の世界を構築していったのだった。

もちろんプロとして当然のことだろうが、毎日8時間の練習は欠かせないという。
何よりそれを一切苦痛と思わず「疲れない」「飽きない」というところが凄い。
「ピアノは体の一部。目の見えないことがハンデとは思わない」と言っている。

だからこそ、全盲であることなど関係なくプロとしてやっていけるのだろう。

現在、上野学園大3年で二十歳の辻井さん。
「アメリカのお客さんもとても温かい声援を送ってくれた。またアメリカに戻ってきたい」と話していたそうだ。

彼の快挙もそうだが、ここ数年、文化的なことに限らずスポーツの世界でも障害があるかないかという基準、線引きからあえて外れ、本当の自分の実力を試したいと、積極的に健常者と同じフィールドで競技をしたり、勝負をしたりする障害者が増えてきている。

ある面では、もうハンディキャップはハンディキャップではなく個性のひとつであるという捉え方、意識が障害者そして健常者のなかで広がってきているのかもしれない。

それは特別な枠のなかで、守られた枠のなかで認められるのではなく、どんなに厳しくても辛くても開かれた自由な世界で自分の力を試したい、発揮したいという本来、ひととして当たり前の欲求が、市民権を得つつあるということではないか。

これから益々、辻井さんのようなひとが活躍するだろう。
そして、それが障害があってもなくても関係ない、開かれた「場」を作り出す原動力になっていく気がする。


自己心理学

2009-06-05 10:00:48 | 心・身体・癒し

このところ心理学や心理カウンセリング、心理療法についての書籍を読むことを毎日の習慣にしている。
それによって気がついたことのひとつは、過去に読んだ本でそのときは理解できなかった内容が、現在は理解できると感じられることだった。

在学中は、ただ無我夢中で手当たり次第に読んだものだが、明らかに理解度は低く、今にして思えば単に活字をなぞっていただけなのかもしれない。
まだまだ分量、内容ともに少ない状態にあるが、そんななかでも新たな出会いに遭遇、興味深い分野を開拓しつつある。

そのひとつが「自己心理学」というものだ。
今回、私はこうしたジャンルがあることを初めて知ったのだが、本によると自己心理学は1970年代にアメリカのハインツ・コフートという精神科医を中心に創設された新しい心理学理論なのだそうだ。

コフートは元々、精神分析学派の人だったが、精神分析の考え方と自己成長欲求への重要性を認識させた画期的な理論と言われているそうである。

そういう点で、自己心理学は精神分析と人間性心理学のふたつの考え方を統一していこうとする心理学だという。

本では精神分析と人間性心理学の考え方を基本に、実際のカウンセリングの場において、それプラス認知行動学、トランスパーソナル心理学派の考え方もとりいれたまさいく統合的なアプローチの仕方を紹介している。

認知行動学からは、うつ病に効果があると言われている認知行動療法の手法を、そしてトランスパーソナル心理学の考え方からは、たとえば統合失調症などの罹患者に見られる内的世界を語ることについての理解の仕方、取り組み方について紹介されている。

この内的世界を語るクライエントへの理解については、大高先生が以前からレクチャーしてくれていたことであり、また昨年の大講演会に来日した実存主義的心理療法のカーク・J・シュナイダー博士も話されていて、私個人としては、結構重要な捉え方と考えている。

以前と違い、現在は多くのひとたちが特定の心理療法、心理カウンセリングの方法では限界があり、これから益々統合的アプローチ、折衷アプローチが求めれ主流を占めると述べていることから考えて、新しい自己心理学というジャンルについても市民権を得ていくことだろう。注目していきたいと思う。

 


抗うつ薬と心理療法

2009-06-02 10:01:40 | 心・身体・癒し

うつ病の薬、抗うつ薬については、以前から自殺する危険性が問題になっていたが、最近になって新たな問題が浮上してきた。

抗うつ薬を飲んでいるひとが家族に暴力を振るったり、強盗障害事件を起こし、警察に逮捕されるなど放置できない問題が頻繁に起きているというのだ。

実際、加害者となったうつ病のひとにインタビューするのを聞いたが、本人はそのときのことを覚えていないのだそうだ。
警察は精神鑑定を実施、当時、心身こう弱状態にあったとして裁判は執行猶予の判決が言い渡されたという。

なぜこうしたことが起きているのだろう。
どうやら背景にはうつ病についての診断と薬の処方に問題があるようだ。
以前、私が学院の臨床技術向上プログラムに参加したとき、基本講義に来てくれていた精神科のお医者さんは、日本には躁鬱病のひとは少ないと話していた。

しかし現在、双極性障害いわゆる躁鬱病の患者さんは増えているそうだ。専門家によっては、今までうつ病としか診断しないできただけで、潜在的には躁鬱病の患者さんは昔からいたのであり、ようやく医療の方がそちらに目を向けるようになったのだと言うひとも少なくないという。
従って今、患者さんが増えているのではなく、今まで表にでなかったひとが明らかになってきただけなのだとも。

そこで新たな問題が浮上してきた。
それは今までうつ病と診断されてきたひとたちのなかに、本来躁鬱病と診断され然るべき治療が必要なケースが相当あると予想されることだ。

ところがお医者さんの側の知識、認識不足から誤診されたまま何年もつらい日々を送っているひとがたくさんいるというのが現状なのだ。
そして、それが先に述べたような暴力的行動を誘発させている。

抗うつ薬はうつ病にかかったひとの脳のなかで少なくなったドーパミンを脳内でブロック、減少するのを防ぐ役目を果たすという。
本当に単純なうつ病であればそれでいいが、万が一躁鬱病だった場合は大変なことになる。
抗うつ薬があくまでうつの時に有効なのであって、躁鬱病の躁状態のときには逆にドーパミンの分泌が過剰になり攻撃的になってしまうという。

うつの特徴は不安感。抗うつ薬はその不安感を軽減させるために必要なもの。それを躁状態のときに服用すれば、衝動的かつ暴力的なものを引き起こす要素を持っていることは充分考えられる。
さらにこの薬は安易に増やしたり、急に服用を停止することは大きな副作用をもたらすと注意書きがされているのだとか。
にも関わらず、暴力事件を起こした患者さんのケースの場合、担当医は限度まで薬を増やした状態で、患者さんが効き目を実感できないとの訴えに急に服用をやめさせてしまった。

うつ病の専門医のひとたちも危機感を覚え、対策を考え始めているということだが、現在、新たな視点として注目されているのが心理療法なのだそうだ。

アンケート調査によると、投薬治療だけの場合の再発率と心理療法を組み合わせた治療の再発率には、二倍近い差が認められているのだという。

ある医療機関では臨床心理士はもちろんのこと、理学療法士や栄養士、看護師などがチームを組み、患者さんの様子を報告しあい、診断に役立てているのだという。
転院してきた患者さんについて、前の病院でうつ病と診断されたにも関わらず、実際には多弁で陽気な場面に全員が遭遇。うつ病という診断に疑問を投げかけていて、協議の結果、担当のお医者さんはそのひとの診断を躁鬱病に変更した事例がいくつもあるそうだ。

こういうことを踏まえ、もし家族の誰かがうつ病と診断され投薬を受けているにも関わらず、何年にも渡って好転しない、あるいは暴力的になったとの印象を受けたときには、速やかに診断に間違いがないかを確かめるよう、お医者さんは言っている。

明らかに今、うつ病に対して今までとは違った認識が求められているのである。

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