ホリスティックヒーリング宙『心の扉を叩いてみたらきっと何かが見えるはず聴こえるはず』

ホリスティックヒーリング宙(sora)のヒーラー&臨床心理カウンセラー株本のぶこが心・心と身体について綴っています

突然のめまい

2009-04-29 14:33:20 | 心・身体・癒し

昨年のこと、母が突然強いめまいに襲われた。

日中、新聞を読んでいたところ、急に「目がまわる」と訴えたかと思ったら、身動きができなくなった。
それほど強烈なめまいだという。

普段、血圧は高めではあったが、今までめったにめまいを訴えることはなかった母である。
みるみる表情もグッタリしてきて、目も窪んで、傍の目からも具合が悪そう。

吐き気を伴ったことから、前日の夜に食べたものに食あたりをしたのかと思ったが、同じものを食べた父と私はまったく異常がない。

たぶん体調が悪かったのだろうと想像したが、あまりに症状が強かったことから結局、半日床についたままだった。

そして二週間ほどが経った先日、再び突然に強いめまいが母を襲った。

症状は前回とまったく同じ、やはり吐き気を伴う、強烈なグルグルまわる回転性のめまいだった。

二度も続けての症状に、このまま放置することはできないと、話し合い。数日後、某大学病院を受診することにした。

その日のうちに首の骨のレントゲン写真を撮り、翌日にはめまいの検査。
そして、来月にはMRIの検査をすることになっている。

受診と一緒に、インターネットや医学書などで症状と照らし合わせてみたのだが、どうやらメニエール病に症状が似ている。

説明によれば、この病気は30代から50代の働き盛りの男性が罹患しやすいとか。

過労やストレスが大きく関係しているらしい。

母は70代の終わり。そういう点では必ずしも罹りやすい条件を備えてはいない。しかし。過労とストレスという点では大いに思い当たるふしがあった。

まず思い当たったのが、急に決まった私のルームオープンである。母が勧めてくれたとはいえ、これによって明らかに母への負担が増えた。

毎週一日は池袋に出かける私に代わって、食事の支度をしなくてはいけなくなった。今までもしていたが、一日余分に負担が増えるのは、高齢者の母にはやはり体力的に大変だったのだと思う。

さらに先日、マンションのインターフォンが全戸新しくなった。新しくなったのはいいのだが、今までは受話器を耳に当てての対応だったものが、壁に備え付けられた箱型のマイクで聞いたり話したりしなくてはならなくなったのである。

二十年ほど前、顔面麻痺で耳の手術をした母は、すこぶる聴力が悪い。そういう事情もあって、尚更、新しいインターフォンでは聞きづらいのだ。

そのことでのストレスもあって、急にイライラすることが多くなった母。
ちち
おそらく何重ものストレスがかかっての発病だったのではないか。

このように、ストレスは突然、身体に変調を起こすことがある。自分でストレスを感じている場合はもちろんのこと、自覚がないままストレスにさらされている場合も同様である。しかも、こういうストレス性の病気は、簡単に治らなかったり、習慣性になるものも多いと聞く。

ストレスに過剰反応することはないが、やはり自分の精神状態、身体状態には気を配りたいものだ。

 


こころと言葉の不思議について

2009-04-26 14:31:16 | 心・身体・癒し

ここ数日、在学時代に読んだ本を再び書棚から取り出して読み始めている。

言語と心理の関係についての本を読んでいたのだが、改めて「言葉」というものが持つ「陰」の部分、そして実際に発せられる「言葉」には表われない、その陰、裏にある本当の思い、本心といったものについて触れて見たいと思う。

本ではそうした心理的な要素を含んだ発言を取り上げ、「般化」や「削除」などに分類、カウンセリングの場においての取り組みを指南しているが、実は、こうした「般化」や「削除」などの言葉の使い方、会話は、誰もが何気なくしていることだ。

例えば「般化」の事例としてよく耳にするのが、子どもが親に何か(多くは物品)を要求するときの会話「だって、クラスのみんなが持っているんだよ。だから僕にも買って」というもの。

このとき親の対応として「そうか、だったら買ってやるか」という家庭があれば、一方で「みんなというのはクラス全員なのか?誰々が持っているか名前を言ってみなさい」と、簡単には子どもの要求に答えない家庭もある。

それと同じように、大人の場合も「誰も私のことをわかってくれない」「誰も僕のことを好いてくれない」と訴えるケースがある。

しかし、話をよく聴いてみると誰もというのは必ずしも自分の周りのひとたち全員ではないことがはっきりしてくる。
話の過程で、実は全員ではなく特定の「場」に集う人たちに対してや「このひとにわかって欲しい」といった限定された対象に対して抱いている欲求であることが見えてくる場合が結構ある。

そこが明確になった段階で、発想を転換したり、具体的に「そのひとたち」「このひと」にどうやってわかってもらうか、好いてもらうかについて、自分ができることを考えていけばいいのである。

言葉というものは面白いもので、気がつかなければスーッと流れてしまうものも、ちょっと注意して聞いているとそのひとの本当のこころが見えてくる。

先日、あるひとと話をした。
そのひとは、いつも自分や周りについて論理的に分析、解釈する知的な雰囲気を漂わせている。

時間についてもアバウトではなく、つねに計画性を持って行動したいという、どちらかというと几帳面なタイプのひとだった。

そのひとが、新年度を前に、今年からもう少しゆとりを持たせて生活したいという。
そのためにどうしたらいいかという相談であった。

私はそのひとの話をずっと聴いていたのだが、なるほど一週間のスケジュールはほぼ決まっている。
家業の手伝いや趣味に加えて、週一回のボランティアが組み込まれていて、自由な時間は週に三日。
そのうち家の仕事に二日を費やし、あとの一日は家族との時間に使いたいという話だった。

ところがそう予定していたところに、新たにふたつ「引き受けて欲しいことがある」との話が舞い込んできたというのだ。
ひとつは地域の仕事であり、もうひとつは趣味に関係した仕事だそうだ。

今でさえ時間的なゆとりがない状態のうえに、ひとつならともかくふたつ一度に依頼がきて、頭のなかはちょっとしたパニック状態だった。

しかし、時間をかけて話していくうちに、「どうにかやりくりすればひとつは引き受けられるかな」というところまで考えがまとまった。

そこで「ふたつのうちどちらを」と水を向けたところ、意外にも帰ってきた返事が「どちらとは決められない」と「やってみなければわからない」というふたつの言葉だったのである。

この反応から、必ずしも依頼された仕事を断りたくはないのだということが読み取れた私は「ひとつに決められないという気持ちと、やってみなければわからないという気持ちがあるのですね」と質問してみた。

するとそのひとは、「そう言われてみれば…」と、ハッとした表情を見せ「断ることばかり考えていたけれど、本当はやってみたいのかもしれない」「工夫すればふたつとも引き受けられるかもしれない」「やってみて駄目だったら断ることを条件にして引き受けてみようかと思う」というところまで答えを見出したのだった。

初めの対話をそのままに聴いていった場合ゴールは「いかにして断るか」「ふたつの依頼のうち、どちらを選ぶか」に留まっていたかもしれない。

しかし「やってみなければわからない」という言葉の裏に、実はそのひとのなかにあった「できればやってみたい」という思いがあったのである。
そのことをこちら側が汲み取り、「どう?」と提示したところから状況は変わっていった。

そしてもうひとう重要なことは、ふたつのうちひとつを必ずしも選択させる必要はないということ。
本人がどうしてもひとつを選びたいと願っていることに疑いの余地がなければいいが、そうでない限りはどちらもありを想定内にいれておくことはあっていい。
これは決して矛盾ではなく、両方必要との欲求だと考えれば、自分にも思い当るはず。

こうしてみると、言葉は他者のみならず自分をも惑わせる要素を孕んでいる。
心理職である私たちは当然のことながら、そうでないひとも普段の自分と時折り向き合ったり、自分の思いを書き言葉にしてみるといいかもしれない。

そうすることで気がつかなかった、今の自分のこころの状態に気づくことができる可能性は大いにあるのではないだろうか。


アシュリーの死

2009-04-23 14:29:30 | 心・身体・癒し

昨年、あるひとの訃報をニュースで知った。
そのひとの名はアシュリー・ヘギ。
享年17歳だったという。

通常のひとと比べておよそ10倍の速さで老化が進む難病プロジェリア症候群にかかりながら、精一杯その短い生涯を生きた女性だった。

私が彼女の存在、そしてプロジェリア症候群という稀少疾病があるということを知ったのは、あるテレビ番組だった。

このプロジェリアという病気は遺伝子の異常によって発症すると言われており、世界でも患者数がとても少なく数十人程度、800万人にひとりの割合だという。

テレビ局は、1回目の放送以降も彼女を取材し続け、今まで何度か特集番組を組んで放送を続けてきた。

平均しての寿命は13年から14年と言われ、彼女の17歳という年齢はプロジェリアの患者としては最高年齢だったとか。
しかし、わたしたち一般のひとたちと比べれば、本当にあまりに短い人生である。
しかも、そういう運命であることを病気がわかった時点で、彼らは自分の生命があとどのくらいあるかを悟らされるのである。

大人になっても「死」を思ったり考えたりすることを恐怖として捉えているひとは大勢いる。
なのにその現実をわずか何歳かの子どものうちに知らされるのだ。

事実を受け入れなければならないとはわかっていても、これはあまりにも過酷な運命だと言わざるを得ない。

だが、アシュリーは自分がそうした病気であることを真摯に受け止め、やがて遠くない将来に死が訪れるということを受け容れながら、限りある日々を精一杯に生きたのだった。

アシュリーは生前、次のような言葉を残している。

「プロジェリアと言う病気をどう思っているかは、昔と変わっていないわ。私がプロジェリアだということには、ちゃんとした理由があるの。神様が与えてくれたものだから、すてきなことなのよ。だから、私は大丈夫」

「死ぬのは悲しいことだけど、必ず訪れるものだと思うの」

この言葉を眼にしたとき、ひとは彼女の精神力の凄さ、逞しさ、その達観した価値観や悟りに驚きの声をあげ、賞賛するだろう。

しかし同時に忘れて欲しくないのは、こうした考えに辿りつくまでに彼女が流した涙の日々や葛藤の日々、希望と落胆と諦念をどれだけ繰り返してきたかということだ。

決して初めから彼女はこうした心境になっていたわけではない。
他人より10倍のスピードで老化していく日常にあって、他人が10年かけて体験し味わう悲しみや痛み、苦悩を1年、いやそれよりもっと凝縮して体験、体感したからこその言葉のはずである。

生まれたときから始まった病気は、物心ついたとき、すでに同じ年頃の子どもたちと違うことを否応なしに彼女に教え、多くのことを諦めることを強いたであろうことは容易に想像できる。
どれだけ苦しんできたことか。
それを思うと胸が痛い。

ただ、彼女が自ら「神様が与えてくれたものだと思う」と言ったとおり、この難病にあっても前向きに生きていけばできることもたくさんあることを、同じ病に苦しむ子どもたちに生涯を通し、身をもって伝えた意義は大きい。

自分の置かれた立場や境遇を受け容れることはたやすいことではない。
すんなり受け容れられるなどということの方が稀である。
だから私たちはそこから目を背け楽な生き方を模索する。
模索しながら、付け焼刃的な解決法で一時的な安らぎを得る。
結果として再び同じ苦しみを味わうスパイラルに陥るのだ。

どうか彼女と自分とを比較して、単純に「自分は幸せだ」だけで終わらないで欲しい。
彼女が多くのひとたちにその人生を賭けて何を伝えたかったかを感じ、考えて欲しい。
苦しみ、悩み、痛みを避けること、目を背けるのではなく、それを味わい体感しながら、生きるということがどういうことであるか、自分に課せられた使命が何であるかを考えて欲しいと思う。


アシュリーの死09'

2009-04-23 13:14:46 | 心・身体・癒し

今朝、あるひとの訃報をニュースで知った。
そのひとの名はアシュリー・ヘギ。
享年17歳だったという。

通常のひとと比べておよそ10倍の速さで老化が進む難病プロジェリア症候群にかかりながら、精一杯その短い生涯を生きた女性だった。

私が彼女の存在、そしてプロジェリア症候群という稀少疾病があるということを知ったのは、あるテレビ番組だった。

このプロジェリアという病気は遺伝子の異常によって発症すると言われており、世界でも患者数がとても少なく数十人程度、800万人にひとりの割合だという。

テレビ局は、1回目の放送以降も彼女を取材し続け、今まで何度か特集番組を組んで放送を続けてきた。

平均しての寿命は13年から14年と言われ、彼女の17歳という年齢はプロジェリアの患者としては最高年齢だったとか。
しかし、わたしたち一般のひとたちと比べれば、本当にあまりに短い人生である。
しかも、そういう運命であることを病気がわかった時点で、彼らは自分の生命があとどのくらいあるかを悟らされるのである。

大人になっても「死」を思ったり考えたりすることを恐怖として捉えているひとは大勢いる。
なのにその現実をわずか何歳かの子どものうちに知らされるのだ。

事実を受け入れなければならないとはわかっていても、これはあまりにも過酷な運命だと言わざるを得ない。

だが、アシュリーは自分がそうした病気であることを真摯に受け止め、やがて遠くない将来に死が訪れるということを受け容れながら、限りある日々を精一杯に生きたのだった。

アシュリーは生前、次のような言葉を残している。

「プロジェリアと言う病気をどう思っているかは、昔と変わっていないわ。私がプロジェリアだということには、ちゃんとした理由があるの。神様が与えてくれたものだから、すてきなことなのよ。だから、私は大丈夫」

「死ぬのは悲しいことだけど、必ず訪れるものだと思うの」

この言葉を眼にしたとき、ひとは彼女の精神力の凄さ、逞しさ、その達観した価値観や悟りに驚きの声をあげ、賞賛するだろう。

しかし同時に忘れて欲しくないのは、こうした考えに辿りつくまでに彼女が流した涙の日々や葛藤の日々、希望と落胆と諦念をどれだけ繰り返してきたかということだ。

決して初めから彼女はこうした心境になっていたわけではない。
他人より10倍のスピードで老化していく日常にあって、他人が10年かけて体験し味わう悲しみや痛み、苦悩を1年、いやそれよりもっと凝縮して体験、体感したからこその言葉のはずである。

生まれたときから始まった病気は、物心ついたとき、すでに同じ年頃の子どもたちと違うことを否応なしに彼女に教え、多くのことを諦めることを強いたであろうことは容易に想像できる。
どれだけ苦しんできたことか。
それを思うと胸が痛い。

ただ、彼女が自ら「神様が与えてくれたものだと思う」と言ったとおり、この難病にあっても前向きに生きていけばできることもたくさんあることを、同じ病に苦しむ子どもたちに生涯を通し、身をもって伝えた意義は大きい。

自分の置かれた立場や境遇を受け容れることはたやすいことではない。
すんなり受け容れられるなどということの方が稀である。
だから私たちはそこから目を背け楽な生き方を模索する。
模索しながら、付け焼刃的な解決法で一時的な安らぎを得る。
結果として再び同じ苦しみを味わうスパイラルに陥るのだ。

どうか彼女と自分とを比較して、単純に「自分は幸せだ」だけで終わらないで欲しい。
彼女が多くのひとたちにその人生を賭けて何を伝えたかったかを感じ、考えて欲しい。
苦しみ、悩み、痛みを避けること、目を背けるのではなく、それを味わい体感しながら、生きるということがどういうことであるか、自分に課せられた使命が何であるかを考えて欲しいと思う。


飛躍という言葉の意味

2009-04-20 13:14:07 | 心・身体・癒し

4月18日(土)学院のHPにある、『講師のひとりごと』に講師が私と先輩カウンセラーのことについて書いた文章が載った。

どちらもボディフォーカスト・アプローチが私たちにもたらした飛躍について綴ったものだった。

私については本を書いたこと。
その内容というのが、私がBFAによって変わったこと。
どのように変わったかといえば、自分自身になったこと。
自分をすべて受け入れたことによって、自由になれたと書いてくれた。

そしてもうひとりの先輩については、対話のスキル、理論背景、NLPやゲシュタルト、POPなどを学んだことでカウンセラーとしての自信をつけたこと。そして、それを統合するのにBFAが大きく貢献したことをさりげなく綴っていた。

先輩については私自身、BFAのワークショップで一緒に学びながら、いろいろなことを教えてもらったり、アドバイスをもらったりして随分とお世話になっている方でもあるので、講師の言わんとしていることが文章から立ち上がってくるのを強く感じた。

先輩はすでにBFAをカウンセリングに積極的に応用しており、BFA的カウンセリングの最初の実践者であるということが、私たちBFAを学んでいるものたちの目標的存在であることは間違いない。

講師は先輩と私に対して「飛躍」という言葉を使っているが、実は先日の講師との対話で私は、例えばそれが「飛躍」だったとして、そこからどう変わっていくか、進化していくか、成長していくかをすでに求められているのだということに気づかされta

それは今まで三年余りの教育分析で聞いたことのない、講師の厳しい言葉にほかなからず、あの日以来、私のなかにまるで竜巻かつむじ風のようにずっと自分への問いかけとして周りつづけている。

今回、著書『たおやかに生きる』で講師に解説を書いてもらったが、その文章の最後で「心理カウンセリングの語り部としても歩み始めた株本のぶこ」のライフワークに期待したい」と書いてくれているのだが、教育分析のなかでそのことに関連して講師はあえて自分と私との差に触れた。

講師と私との差、それは幅広い知識の有る無しと、ケースの数の差だという。
実は私自身、その事実をここ一、二年強く感じ始めていた。
そして、それが講師には追いつけない、埋めがたい力の差でもあると痛感していたことでもあった。

しかし、今まで講師はそこにあえて触れることをしなかった。
なぜかはわからない。
ただ、今までの私にはそこを指摘し変化することが強く求められる状況になかったことも事実だった。

だが、今回の本の出版、そしてルームのオープンという大きな変化によって、今までとは同じではいられない許されない状況になったことは、私自身痛感していること。

そこを講師はあえて自らの立場や、講師が日々勉強と研究を重ね、蓄積してきたものの大きさを私に提示することで気づかせ、発奮材料としたのだと理解した。

正直に言ってしまえば、念願であった本の出版が実現したこと、夢が叶ったことで現在、私の中に多少なりとも虚脱感があることは否めない。
それと一緒に「さて、これからどうしていこう」という迷いのような、明確な目標が定まらない状況があったのも事実だった。

今にして思えば、講師は私のなかにそれを読み取ったのかもしれない。

講師は「講師と私との差」を話しながら「このことをコンプレックスとは捉えずに」と念を押し、「自分の世界にとどまらず、他者との関わりの中で生じる事例を増やし、多くのひとに説得力を持って伝えることだ」と私の奮起を促した。


そして今、そうした指摘によって、少しずつ自分がこれから何をしていかねばならないか、今後、心理カウンセリングの「語り部」として何が求められるのかが見え始めてきた。

ケースをたくさん経験することは、相手がいなければできないこと。
すぐに実践に結び付けられるかどうかはわからない。
しかし幅広い知識を得ることは私の意識で可能である。

まずはそこからスタートすることで、心理カウンセリングの「語り部」としての幅を身につけていくことはできるはずだ。

私自身、自覚しながらもどう動いていいか模索をしていたが、こうして講師からの指摘を受けたことが切っ掛けとなり具体的にイメージすることができたように思う。

ひとはひとつところに留まってはいない。
その変化による結果がどうなるかはわからないが、自分の意思で変化の先をある程度方向付けすることは可能なのだと思う。


使命09'

2009-04-17 19:46:30 | 心・身体・癒し
昨日、学院に著書を謹呈してきた。

現在、学院は神田に二校、名古屋と大阪にそれぞれ学校がある。
名古屋校、大阪校にも置きたいと言ってもらい計四冊持参した。

昨日は教育分析の日でもあったので、挨拶を済ませてから教育分析を受けた。
講師にも一冊進呈。
すでにインターネットで購入し、読んだと言われちょっと驚いたが、私の気持ちとして受け取ってもらった。

講師の奥さんにも読んでもらったそうで「わかりやすい」「読みやすい」という感想をもらったことが嬉しかった。

私は講師と違って、幅広く深くBFAの土台になる世界を学んだわけではないので、専門的なことは書けない。
難しくも書けない。
だからそこ、誰にでもわかりやすく、読みやすい文章をと心がけたつもりだった。
それだけに、専門外の方から「わかりやすい」「読みやすい」との感想をもらったことは、何よりも嬉しいことだった。

これからもその姿勢は崩さずにいたい。

今回の教育分析ではあえて、テーマを決めず自然の流れで話していくことにした。
そのなかで講師が言ったことが今も頭の中で渦巻いている。

それは講師のかつての師、講師、私に共通するものについての話だった。
今回の本を書いたことについて、講師が感じたのは、講師の師も、講師もそして私も、多くのひとに「本質」というもの「こういう生き方をしていくことが楽に生きられるか」と伝える使命があるのではないかという。

そしてそれぞれが自分なりの表現方法を見出し、伝えていくことが求められているとも。

講師は『たおやかに生きる』の最後に書いてくれた「解説」を開き、心理カウンセリングの語り部としてスタートした私に期待したいとの文章を示し「語り部」として伝えることの意識を私に確認したが、なるほどそんな風に捉えてくれているのかと身の引き締まる思いだった。

これからのことは私自身、どう展開していくか分からない状況ではあるが、やはり今後も書くということ「伝える」ということはやっていきたいとの思いはある。
それと同時に「語り部」というものが、いくつもの要素、可能性を持っていることもおぼろげながら感じている。

書くということも「語り部」だろうし、声に出すということもまさしく「語り部」に相違ない。
そういう点で、カウンセリングのなかで伝えることのみならず、書くこと、ワークショップをすること。
その三つが今後の私の活動の柱になっていくような気がする。

それが講師の言った「使命」であるなら、宇宙の采配によってその通りになっていくのだとも思う。

今、自分のなかにあるのは、それを実践していくために私が何を学び、何をすべきかを明確にしたいということ。
そこが見えてきたとき、具体的な行動が可能になるような気がする。

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知識より実践09'

2009-04-17 13:12:03 | 心・身体・癒し

昨日、横浜でワークショップをしてきた。

昨年の10月に初めてワークショップを開かせてもらったところでの2回目。

今回も参加者は4人。そしてテーマは「夢」を取り上げた。

参加してくれた方のうち、リピーターはふたり。

そして初参加の方のひとりは新潟に住んでいると聞いてびっくり。

前回と同じようなプログラムで進行していったが、ちょっと話す内容のボリュームを増やしたせいか、喋りすぎたかなというのが反省点。


逆に前回触れなかった、流れに任せることやシンクロニシティー、ネガティブとポジティブについての捉え方についての話には、参加者からも共感やちょっとした驚きの声が上がったことは今後の流れを考えていくうえで大いに参考になった。

夢のワークの前に身体症状、身体感覚のワークをしたが、ボディフォーカスト・アプローチの言葉の意味やBFAの世界観や解説に時間をかけてしまい、セルフワークやシェアに充分に時間を取れなかったとの反省が残った。

やはり参加してくれるひとたちは体験をしたいと思ってきてくれる。そこを忘れずにプログラムを組むことの大切さを今回改めて認識させられた。

それにしても普段から瞑想に取り組んでいる人たちというだけに、私が思う以上に深く内的世界に入っていくので、シェアが大変興味深い。

ありがたいことに、主催者の方から定期的に開催したいと言ってもらえたので今後の取り組みとして、時間の配分など練り直していこうと思っている。

 


思いを戴く09'

2009-04-14 11:51:37 | 心・身体・癒し
二日続けて嬉しいことがあった。

日曜日、親しい友人からルームオープンと本を出版したお祝いにと胡蝶蘭の鉢植えが届けられた。
お祝いに胡蝶蘭を贈るという話をよく聞くが、実際私のところにその花が届くなどということは一生ないこと、あり得ないことだと思っていた。
それだけに友人の心遣いがとても嬉しく、感謝の気持ちでいっぱいだった。
早速、記念に胡蝶蘭の花と一緒に写真を撮り、贈ってくれた友人に、本の謹呈と共に送ることにしたのだった。

そして月曜日。
かつて学院で共に学んだ友人が、わざわざ広島から池袋のルームを訪ねてくれた。
当初の予定では、あるワークショップが東京であるので、それに参加するついでに来てくれるという話だったが、話を聞いてみると肝心のわーうショップは申し込みが締め切りに間に合わず、結局は参加できないことになってしまったのだという。

世田谷のあるギャラリーで開催されている絵画展にも行くとも言ってはいたが、結果的には私のために上京してくれたようなもの。
そのことを知り、友人の思いの温かさが本当にありがたく嬉しかった。
そして、今回私のラッキーアイテムとなって運を運んでくれた「フクロウ」のグッズを探してくれたという彼女が、とても可愛くて綺麗なガラスでできたフクロウのオルゴールをお祝いに持ってきてくれたのだった。

オルゴールの曲名は「世界でひとつだけの花」
今回、ことを起こすきっかけともなった私の心境「ひとりで立つ」ということにもぴったりの曲である。
今まで色々なことを話してきたからこその彼女の思いやりがここにこめられているように思われて…感謝しても仕切れない。

私にとってふたりの友人(特に学院のクラスメイト)は東京に来てから親しくなったひとである。
札幌からこちらに出てくるとき、正直果たして友人はできるのだろうかと不安であった。
しかしこちらに来て足掛け八年、今回のことをこんなにも自分のことのように喜んでくれる友人ができたことに改めて心から感謝している。

そしてこれからも、このふたりの友人や、今回ルームを訪ねてくれた友人や知人のあたたかな思いを戴いていることを大切に受け取り、私自身もまた、そうした純粋な気持ちで思いをかけてあげたいと思ったのだった。

今、心はたくさんの思いをいただいて幸せに満ちている。
みなさん本当に有難うございます。


初回面接

2009-04-11 13:01:36 | 心・身体・癒し

実際にカウンセリングルームをオープンしてカウンセリングをクライアントに提供し始めてみると、今まで勉強会でやってきたものと実際の流れが必ずしも現場にそぐわないことに気づかされる。
例えば初回面接。

初めはともかくクライアントの話を一切遮ることなく、肯定的関心を持ち共感、受容の気持ちで聴いていくというのが基本。

その時間と空間のなかで、クライアントに、安心して心にあるさまざまな問題を、すべて話してもらうというのが、最初にカウンセラーがしなければいけないこと。

そして、最後に次回へ繋ぐ提案をしなくてはいけないのだが、このときどういう提案の仕方をしたかによって、次に続いていくかどうかが決まる。
さて、自分自身の初回面接を振り返って感じるのは、クライアントの話をじっくり聴くところまではいいのだが、面接時間がきて、次回へ繋ぐ提案をするというところがスマートにいかない。

そこをどうすればいいかという問題について先日レクチャーを受けた。

色々話していくうちに気がついたのは、知らないうちに自分のなかでクライアントが話してくれた内容の重要性の順位を設定していたことだった。
そして、その一番の問題をクライアントに意識させてしまうことで、次のセッションを避けられてしまうことを危惧するがゆえの躊躇の気持ちが湧くことに気がついた。

実は、この問題については、実際に起こっていることとして仲間から聞いた話だった。
しかし、先生からは、特にそこを指摘され注意を受けた。

どんな課題に取り組むか、どんな順序で取り組んでいくかは、あくまでクライアントであって、カウンセラーはそれをお手伝いするだけ、すべてはクライアントの意思によってのみ決まるのだと。
特に私の教育分析・スーパービジョンのトレーナーである大高先生は、カウンセリングの時間は、すべてクライアントのための時間であるという考え方をことあるごとに話されるだけに、こうした問題については厳しく妥協を許さない。

改めて、カウンセラーとしてのあるべき姿勢を認識させられたレクチャーだった。

たとえ経験豊富な仲間との会話であっても、話を鵜呑みにせず、あくまで基本に忠実にクライアントに接していかなければならないということを肝に銘じたことは言うまでもない。

 

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水のきらめき

2009-04-09 13:11:10 | 心・身体・癒し

4月6日(月)著書『たおやかに生きる』が、インターネットでの販売を開始したのと同時に、今回原稿を書くのに際して、色々と指導、助言を受けた、ライターであり編集者でもあるつなぶちようじさんのブログ『水のきらめき』でも、拙書を紹介していただいた。

単なる紹介に留まらず、私がどういういきさつでこの本を書くことにしたのか、心理学やBFAとの出会いについても触れてくださったことは、とても嬉しい。

さらに今回、出版と時を合わせてカウンセリングルームをオープンしたことにも触れて下さり、ホリスティックカウンセリング宙のホームページのURLまで載せていただいた。

本当にありがとうございます。

『水のきらめき』をアクセスすると、まず最初に飛び込んでくるのが大きな写真。
祭りといった伝統的な行事であったり、空や海、広大な風景であったり…
実は、今回の著書の表紙もつなぶちさんが「こういう景色の写真がありますがどうですか」と言って下さったもの。

空と山と細い道のイメージが、現在の自分の心象とマッチして、とても満足している。

驚くのは、ご自身のお仕事があるにも関わらず、毎日たくさんのブログや文章をピックアップして紹介していること。

色々なジャンルに触れているので、『水のきらめき』にもアクセスしてみて下さい。<br clear="all">
http://www.tsunabuchi.com/

『たおやかに生きる』  株本 のぶこ


  オンブック出版   http://www.onbook.jp/bookd.html?bid=0129

 

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出版されました09'

2009-04-06 13:10:33 | 心・身体・癒し

本日、オンブック出版のサイトから、本を注文していただけるようになりました。

今回は、七年ぶりに毛筆でタイトルと名前を自分で書いていることもあり、インターネットからではなく、私から購入してサインを欲しいと言ってくださるかたもいらして、少々恥ずかしい気分ですが、とても嬉しく思っております。


インターネットのみの販売ということで、少々面倒ということもあり、またインターネットでの買い物をしたことが無いという方もいらしゃると思います。

私から直接をご希望の方がいらっしゃいましたら、どうぞご連絡下さい。


    『たおやかに生きる』  株本 のぶこ


  オンブック出版   http://www.onbook.jp/bookd.html?bid=0129
 


理解されていることへの不安と安心09'

2009-04-06 13:09:50 | 心・身体・癒し
先日、カウンセラー仲間の友人と久しぶりに会って話をした。

同じ時期、同じ時間をともにした仲間だが、卒業してからの方向性や意識には大きな違いがある。
しかし、それを互いに認識し、理解したうえでの付き合いは楽しく、そして刺激的でもある。

今回は、あるテーマについての話が中心になったのだが、そのなかで共通の意識として浮上したのが、自分が他者に理解されていると感じているかいないかによって、その言動や行動は違ってくるというものだった。

ひとは皆、大なり小なり自分のことを理解してもらいたいと思って生きている。
なかには「別に理解してもらわなくても、自分は自分の信じる道を歩んでいくのだ」と自信を持って突き進んでいくひとや、自分が追究しているる世界はなかなか他人には理解しにくいものだと自覚し初めから多くを期待していないひともいるだろう。

だが、そういう孤高のひとであっても、理解してくれていると実感できているときと、理解されていない、あるいは理解してもらえているのかどうかが掴めない、わからないという場合とでは、やはり精神的な違いはあるのではないだろうか。

そしてその心理的なものとして見えてくるのが、不安感のような気がする。
理解されていると実感できる時は、その言動や行動にある種の自信のようなものが伝わってきて、心と身体が「開いている」との印象を持つのだが、逆に理解されていない、理解してもらえているのかわからないと感じている時は、その言動や行動に微妙な揺れや不安が伝わってくるだけでなく、どこか心と身体が「閉じている」との印象を受けてしまうのだ。

自覚のあるなしに関わらず、まるで小さな波動のように伝わってくることを、今回の対話で確認しあったのだった。

もし、自分の身近に「自分は理解されていないのではないか」と、ちょっとした自信のなさや不安感を漂わせているのを感じたとき、あなたはどうするだろう…
そしてもし、自分がそういう心持ちになってしまったとき、あなたは身近なひとにどうして欲しいと思うだろう…

おそらくどちらの立場であっても、さりげなく自分は相手のことを理解しているのだと伝えることではないだろうか。
もちろんその理解度の程度はわからない。
本当に理解できているのかも、実際のところはわからない。
しかし理解しようとしていること、理解したい、共感したいと思っていることは伝えられる。

過剰な言葉や勇気づけなどはいらない。
自然に湧く、心からの共感を示すことだけでいい。

それによって「あなたのことをいつも思っている」ということが伝わることで、相手は「自分は理解してもらっている」のだと感じることができたとき、不安は安心に変わるだろう。

受容と共感的理解。
それは心理に携わるものの基本だが、心理に携わるひとだけではなく、ひととひととのふれあい、関わり、信頼を繋ぐものとして、とても大切なものだと思う。

そして、本来は誰もが求め、誰もができ得ることのようにも思う。

3万2249という数字が示すもの09'

2009-04-02 19:43:52 | 心・身体・癒し

3万2249という数字を、昨日の新聞で見た。
この数字、実は2008年の1年間に全国で自殺した人の数だという。

過去2番めに多かった、昨年の3万3093人よりは減少したが、これで11年連続、年間自殺者は3万人を超えてしまった。

新聞記事では、「高止まり」という言葉を使っていたが、この表現、まるで慢性的な現象のような印象を受けるが、あきらかに異常な現象である。

特に昨年は、アメリカのプライムローン問題に端を発して、世界的に経済がおかしくなった。
日本も当然大きな影響を受け、特に製造業は大打撃、昨年の暮れには派遣労働者の人を中心とした、突然の契約解除、それに伴う社宅からの退去を求められるひとが大量にでて、深刻な事態に陥ったことは、周知の事実だ。

その状況は年が明けてもまったく改善されていないどころか、ますます悪化の一途を辿っている。
働きたくても仕事がなく、蓄えも底をつき、どうしようもなくホームレス状態に陥っているひとたちも多いという。

さらに現在、派遣のひとたちのみならず、正社員の立場にあるひとたちにまで、雇用不安は広がっているという。
正社員であってもいつ自分も会社から解雇されるか分からないという不安が、一層状況を悪くしていると言えるだろう。

そんな厳しい状況が、自殺者の増加と無関係とは到底思えない。
新聞の記事でもそこを指摘していて、「昨年秋以降の景気悪化の影響が出始めている可能性がある」と述べている。

私は経済も景気のこともわからない、まったくの素人なので、そこからの視点で発言することはできないが、新聞やテレビなどから伝わってくる、現在の社会を見てつくうづく感じることは、誰もが誕生した瞬間から与えられている「ひととして生きていく」という、最も大切なそして最低限な条件さえも満たされていないひとたちが、この国に溢れているという事実だ。

遊びたいとか、ものを欲しいとか、贅沢をしたい、広い家に住みたいと言っているのではない。
「普通に寝起きできる部屋で暮らせたら」「食事をちゃんと摂れたら」それでいい。
その程度の願いなのだ。
逆の見方をすれば、その程度のことも満たされていないという現実がそこにある。

どう考えてもそれはおかしい、異常なことと言わざるを得ない。

日本の総人口から見て、3万2249人をいう数を少ないと感じるか、多いと感じるかは、ひとそれぞれ異なるかもしれない。
自殺したひとたちに対して何を思い、どう感じるかも、やはりひとそれぞれ違うだろう。

しかし、この世に生まれてきたひとは皆、なにかしらの意味と価値を持って生まれてきたはずである。
そして、そのひとり、ひとりに関わって生きてきた、生きているひとたちがいる。
誰かがそこからいなくなるということは、そのひとに関わってきたひとたちの人生をも大きく変えてしまう可能性がある。
自然な死であるなら、まだ受け入れられる可能性はあるかもしれない。
しかし、自ら生命を閉じるということからの周囲への影響は、決して小さいものではない。
それを考えたとき、生命はそのひとだけのものではないことに気づく。

皆、それぞれが多くのひとたちを関わりをもち、つながりを持ち、家に生き、職場や学校に生き、地域に生き、国に生き、世界に生き、地球に生きそして宇宙に生きていいるのだ。

3万2249という数字が示すもの、それは単に3万2249では終わらない。
その倍数、いや何倍もの数の悲劇を招くことを私たちは自覚していく必要があるように思う。

かつて3万2249の人生があったこと、そしてその人たちにとつながっている何倍、何十倍、何百倍もの人生が「今、ここ」にあることを…