ホリスティックヒーリング宙『心の扉を叩いてみたらきっと何かが見えるはず聴こえるはず』

ホリスティックヒーリング宙(sora)のヒーラー&臨床心理カウンセラー株本のぶこが心・心と身体について綴っています

どうしていいか分からないとき

2008-05-29 12:01:23 | 心・身体・癒し
カウンセリングで話を訊くとき、よく出てくるテーマのひとつに「何かをしたいと思っているのだが、どうしていいか分からない」というのがある。

自分でやりたいことが漠然とは見えるのだが、ではそれを具体的にどう行動に結び付けていけばいいかが分からないと思っているようである。

私も例外ではなく、自分自身が抱える問題や家族の問題などでなかなか思った通りにはいかないことが多い。

だからといって今、何もしないでいるのも時間がもったいない、充実したときを過ごしたいという願望が強い場合、それが結構ストレスになる。

こんなとき、ひとつの方法がある。
それは、実現可能かどうかを考えず「自分は今、全知全能の存在である」と仮定し、その立場で何がしたいかを明確にしていく作業をするのである。

あくまで仮定なので非現実的であるとか実現不可能であるとか思う必要はない。
この段階では、「今、自分は何をしたいのか」、「何を望んでいるのか」、「どんな人生を歩みたいのか」をはっきりさせることが目的なのである。

それがはっきりしたところで次は、その目的を実現化するために必要なことは何かを探っていく。丁寧にひとつずつ挙げていくことが大事である。

それがすべて出尽くしたところで、ではそのなかで実際に今の自分ができることは何かを挙げていく。
そこで初めて、今の自分が置かれている状況と照らし合わせ、無理だと思うものは先送りしていけばいい。そして、いつか実現可能な時期がくるのを待って取り組めばいい。

まずは今、できることは何かを洗い出し行動に移すことが初めの一歩になる。
一歩踏み出すことによって、そこに細くても道筋はつく。
そこからは状況にあわせて進んでいけばいいし、状況が変わった段階で変更していけばいい。

ここで肝心なのは、一度決めたからといってそれに固執しないこと。
もし、それが本当に自分のやりたいこと、担わされている役目だとしたら、回り道をしてもそこへたどり着く。

視点を変えれば、回り道したことで得られるものがあり、それによってより強固なものになっていく可能性がある。
体験に無駄なことはない。

もしあなたが今、どうすればいいか分からないと感じていたら試してみる価値はあるはずである。
私もかつてそうやって自分が本当にしたいことをはっきりとさせ、今、牛歩の歩みながらそこへと向かっている。



心の医学そして受容

2008-05-26 10:06:57 | 心・身体・癒し
以前は心の病気と言われていたものが、科学の発達と共に実は頭の病気だと言われるようになった。

しかし、どんなに科学が発達したからと言って科学がすべてではないはずである。

現に、科学ですべてが解決されるのならば、脳の病気と診断され薬を処方された人は時期がくればみんな治癒するはず。

しかし実際にはそう簡単には治らない。
さらには病院を訪れる人たちは薬を欲しくてやってはくるが、同時に自分の話を聞いて欲しい、つらい思いを訴えたい理解して欲しいと思って訪ねてくる。

それをもし担当のお医者さんが頭の病気だから薬さえ飲めばいいと、心の方を愚かにしたならば、患者さんは回復するどころか、症状を悪化させてしまうだろう。

たとえ現代医学が進歩しても心の存在を忘れた取り組みや対応は決してよい結果はもたらさないのである。

そして私たち心理職は、その「科学」では割り切れないところと向き合っていくのが仕事なのではないだろうか。

以前、私が在学時代からずっと教育分析を受けている講師に「本物のメゾット、テクニックとはそういうものか」と聞いたことがある。

その質問に対して、講師が言ったのは「受容に尽きる」であった。
自分の今をあるがまに受け容れて、そのとき起きていることをそのまま受け止めること、そしてそれをカウンセラーやセラピストは受容しやすいように援助していくのだと。

その話を聞いたときはすぐにはイメージできなかったが、今はそれを自分自身のこととして理解し、納得できる。
それは、私自身が辛く、キツイと思う体験をしたなかで気づいた受容するということがどういうことなのか、そして結果なにをもたらすかを実感したからだった。

あらゆる技法、テクニックを超えたところにある受容を私はこれから多くの人に伝え、促していきたい。



子どものうつ病

2008-05-23 10:05:46 | 心・身体・癒し
子どものうつ病が今、注目され始めている。
先日の新聞に、子どものうつ病についての記事が載っていた。

北海道大学の先生が調査して発表しているのだが、それによると今まで考えられていた数よりもずっとその罹患者数は多いという。

症状としてはおとなのうつ病とあまり違いはないそうだが、それに引きこもりや不登校、腹痛やだるさといった身体症状が絡んできたり、子どもゆえに症状や状態を言葉で表現できなかったり、あるいは家庭内暴力や不登校といった社会現象に紛れて、ついつい「子どものうつ病」は見過ごされてきたのだという。

加えてうつ病は大人がなる病気、症状であって子にはうつ病は存在しないといった間違った捉えられ方をしてきたのも結果的には放っておかれる一因になったようである。

肝心のお医者さんのなかにも「気のせい」「性格上の問題」と捉えているひとがいるそうだ。

今回の調査によって、子どもにもうつ病は存在するのだということがわかったうえは、やはり手をこまねいたりせず、的確な処置、対応をして欲しい。

記事にも書かれていたが、それを放置しておくと、子どもたちは大人になって再発したり対人関係、社会生活の面での障害がそのまま持ち越されてしまう危険性をはらんでしまう。
子どもは自分のそうした症状についての知識もなく、また上手に訴える術をもたない。
そこはやはりおとなが注意して、早期にその種を見つけ出し迅速かつ的確な治療へと導いていく必要がある。

また、子ども自身も自分のそうした症状に対して苛立ちや不安を抱き身の置き所のない状態だったものが、
自分がうつ病だとわかって、ホッとしたと話すケースがあるという。

これからは積極的に、子どものSOSを見逃さないように、そしていつでも誰にでも自分のことを相談できる、相談していいんっだよという雰囲気をおとなたちは作っていっていかなくてはならない。


ひとの心を掴む

2008-05-20 10:04:46 | 心・身体・癒し
3日間のスクーリングも無事終了。
またいつもの日常がもどってきた。

今回のスケジュールは朝5時起床、9時から18時まで授業、よる8時帰宅という結構ハードなものだった割には、疲労感があまりない。

何故だろうと考えて気がついたことがある。
それはやはり授業が面白かったこと、そしてもうひとつが講師に対しての印象だった。

行動科学という分野に心理学が含まれていたことで、学んできた「動機付け」「コミュニケーション」「大衆心理」「態度=印象、ラベリング」といったものを理論的に裏付けられることを学んだり、それを実際の社会でどのように応用、対応できるかなどといったことを学んだりしたことがとても興味深く、これからのカウンセリングにも使える知識と思ったほど。

加えてよかったのが講師の人柄と講義の内容、進め方だ。
気さくな人柄、テキストに留まらず関連性のある理論を紹介。
さらにはその成り立ちまで丁寧に講義したり、休憩時間を忘れるほど熱心に講義する姿勢。
しかもそれがぎゅうぎゅうづめにならない、程よいユーモアセンスでメリハリが聞いていたのだった。

確かに時間が長く、睡魔に何度となく襲われたが、それは疲労感からくるものであって、決して講義の内容がつまらなかった、講師の話しぶりが退屈だったわけではない。

最終日、講義についてのアンケートがあったが、授業内容にたいしての満足度を高く回答しただけでなく、他の仲間にも講師の授業を勧めるかという質問にもYESと回答した。

今回、こうし講師の授業を受けてみて、あらためてひとの心を掴むことの重要性を実感。
これからもし、私自身がワークショップなどをすることにでもなったときにも、こうした意識をもって取り組みたいものだと思う。




行動科学08'

2008-05-17 10:03:13 | 心・身体・癒し
昨日から三日間の日程で通信短大のスクーリングに出席している。
今回の受講科目は行動科学。

科学と言っても実にさまざまな分野があり、心理学が含まれている科学が意外に多いことを知った。
例えば宇宙科学。私が学んでいるボディフォーカスト・アプローチはトランスパーソナル的世界観がベースになっているが、宇宙科学の範囲を見てみると、物理学だけでなく心理学もそこに記されていて、逆説的にみるとなるほどと頷ける。

行動科学は比較的新しい分野で、1945年あたりから1950年代にアメリカで研究が進められた学問だという。
第二次世界大戦後の混乱状態からどのように脱却していこうかとの考えによって始まっただけに、研究される分野は幅広く、学際的学問という括りになっている。

カリキュラムの一部を紹介してみると、葛藤、態度、動機付けなどまさしく心理学の分野。それを理論によって説明し、人間関係にいかす思考、ならびに方法を説いている。

今日を含まれてあと二日。まだまだ学ぶことはこれからなので、更にどういう内容になっていくか楽しみだが、心理学の視点で書いていきたいと思う。


こころのノート

2008-05-14 10:03:02 | 心・身体・癒し
先日、偶然にある番組をみた。
それは珠玉の言葉をテーマにしたもので有名、無名にこだわらず、心に響く言葉をたくさん紹介していこうという内容だった。

ドストエフスキーがシベリアに流され過酷な運命を辿りながらも十一年後に見事復活「罪と罰」を書いた逸話から、苦しみと向き合うということの重要性を説いた彼の言葉だったり、体育教師のときに怪我をして首から下が麻痺、それにも関わらず絵筆を口にくわえ水彩画を書く星野富弘さんが絵画の傍に記した言葉などが紹介されていた。

そのなかで心に残った言葉がふたつある、それは「絶望のど真ん中に希望がある」そして「愛することは向き合うのではなく同じ方向をみていくこと」というものである。

今、これらの言葉が示す意味をここで私が語ることは避けておこう。
なぜなら、深い意味のある言葉ほど、それぞれの今、置かれている環境や、状況によって解釈の内容や度合いは異なる。
漠然とした言葉に込められた真実は、そのひとそのひとが感じ取ればいい。

この番組を見ながら実は思い出したことがある。
それはもう、二十年ほど前のこと。
一時期、うつ症状っぽくなったことがあった。

生まれつき体が弱く、お医者さんから二十歳まで生きられるかわからないと言われたという私。
その二十歳をすぎて十年が経ったとき、突然、自分は果たしてこの想定外の十年間をしっかりと生きてきたのだろうかと煩悶し始めたのである。

洞察すればするほど、その答えはノーと返ってくる。
「もっと努力できたはず」、「もっとこの大切な時間を有意義に使うことができたはず」そんな問いかけを延々と繰り返すうちに、そこから抜け出せなくなってしまったのだ。

それに追い討ちをかけたのが、父の定年退職だった。
世間でよく言われている「夫在宅症候群」ならぬ「父親在宅症候群」っぽくなってしまったのである。
今までは日中は職場で家にいなかった父、それが一日中家にいるとなるとまず崩れるのが生活リズム。

母親とふたりだけなら、昼食の時間が少し遅くなろうが一向に構わない。しかし、父親が一緒となるとそういうわけにもいかず、何かしら仕事をしていてもその手を中断して料理をしなければならない。

加えて、今までは職業柄かリベラル思想の持ち主のように振舞っていた父が退職した途端、いわゆる典型的な日本の父親に変貌。

娘である私の一挙手一投足はもちろん、言動にまで女らしさを要求するようになったのである。
私の立場から言えば、今まで自由に話したり行動できたものが、ある日を境にして変わることを強いられるなどあり得ないことである。

困惑、葛藤、憤りの日々が続いた結果、いつしか時間があれば日記に向かって何かしら思いを書き綴るという状態になっていったのだった。

そんな私の窮地を救ってくれたのが、ひとりの歳の離れた友人だった。
彼女は私の煩悶に嫌な顔ひとつせず、会うたびに延々と話を聞き続けてくれた。
決して私を否定したり批判することもせず、ただにこやかに聞き入ってくれたのである。

そしてある日のこと、一冊のノートを「これ読んでみない?」と差し出したのである。
それは彼女自身が若いころから気に入った言葉、感動、感銘を受けた言葉を書き記したノートだった。
そこにはたくさんの言葉が記されていた。
有名な作家の言葉もあれば、彼女のお母さんの言葉もあった。
そのノートを借りた私は、自分のノートにそれを書き写しながら、彼女がこれを書いた時のことを思い巡らせていた。
おそらく彼女自身、何かしらの煩悶や迷い、悩みのようなものを胸に抱えていたのだろうと…
そして私もまた感銘を受けた言葉、感動した言葉をそのノートに書き足すことにした。

どのくらいの時間が経っただろう、気がつくと延々と何かしら書くという日常から離れていた。
完全にそこから抜け出すにはしばらく時間が必要だったが、ゆるやかにそして自然に私は回復したのだった。

今もそのときのノートが手元にある。私にとっては苦悩と煩悶のときを思い出させる遺物ではあるが、同時に友人の温かさ、誠実さに助けられた証の品でもある。

言葉、それは時代と共にながれていく。時間と共に忘れ去られるものでもある。ひとを傷つけてしまう剣になりうる。
しかし同時に時代とは関係なく残り語り継がれるものであり、深く記憶に残るものでもある。そしてひとを勇気付け、立ち直らせる力を持っている。

言葉、それはそのひとの心の反映でもある。

あらゆるものからの解放08\'

2008-05-07 03:49:42 | 心・身体・癒し
先日、学院時代のクラス会があった。
この春、名古屋に駐在となった元担任の講師が、連休中にアーノルド・ミンデルのセミナーとスーパービジョンに参加するため、長期滞在するのに合わせて開いたのだった。

生憎くクラスメートも家族で出かける人が多く、参加者は予想よりも少なめだったが、色々な貴重な話が聞くことができた。
たまたまボディフォーカスト・アプローチに関し、ちょっとした企画が持ち上がったことから講師に相談をしたところ、講師の世界を伝えるのではなく自分がBFAから何を感じ、何を捉え、何を得たかを確認し、それを土台に自分の世界がどういうものであるかを伝えることが必要なのだというレクチャーを受けた。

確かにBFAを長く学びながら、自分はこの世界を伝えることのみを考え、独自のBFA感といったものを確認する作業を行ってこなかったように思う。
しかし、講師が言うようにこの世界観は講師のものであり、私が伝えようとしたところで模倣の域は超えられない。それを講師は指摘し、いかにして私のBFAを構築していくか、そこを考えていくようにと促したのだった。

あれからずっと考えていた。私のBFAとは何なのだろう…
そこから見えてきたものは、気づき → 受容 → 変化 → 広がりという構図である。
それはまさしく自分がBFAを実践するなかで体験したことであり、BFAがもたらしてくれた変容の過程だったのである。
そして、わかったことのもうひとつは方法論としてのBFAは、それが私の世界であっても学んだものと違いはないということだった。
というのも、講師が創始したアプローチの方法は変えようのない完成度を示しているからだ。
もちろんBFAは現在も進化しているし、実際につい最近のワークショップでのデモンストレーションを検証してみると、前回のそれと異なる色合いを見せている。が、基本はあくまで基本であり普遍的なものとして存在しているのである。

それを思ったとき、私に要求されていることが何であるかが見えてきた。
つまりそれはテクニックといったものではなく、BFAによって相手に何を獲得して欲しいと思っているかという、いわばBFAの究極にどんな姿を描いているかということなのだ。

そのときだった、「気づき → 受容 → 変化 → 広がり」の先にあるものとして「あらゆるものからの解放」を提供するひとたちに獲得して欲しいと思っていることに気がついたのである。

BFAにはたくさんの要素があり、提供するひとによってその目的は異なるだろう。
あくまで心理療法的な面に価値を見出すひともいるだろうし、カウンセリングのツールとしての意味合いを見出している人もいるだろう。
実に多方面にアプローチできるのがボディフォーカスト・アプローチなのである。
思うにその幾多の側面のどれにアプローチするかは、きっとその提供者の求める世界観によるのかもしれない。

「あらゆるものからの解放」それは他者や事物に限ったことではない。
自分自身からの解放でもあるのだ。