ホリスティックヒーリング宙『心の扉を叩いてみたらきっと何かが見えるはず聴こえるはず』

ホリスティックヒーリング宙(sora)のヒーラー&臨床心理カウンセラー株本のぶこが心・心と身体について綴っています

来年もどうぞよろしくお願い致します

2010-12-30 11:30:02 | 心・身体・癒し

すっかりご無沙汰して申し訳ありませんでした。

実は、先日熱が出まして、近くの医院で診てもらったところ、インフルエンザB型に罹っていることがわかり、数日間安静にしていました。

幸い、回復が早く現在はいつもどおりの生活に戻っています。

インフルエンザに罹ったのは、数年ぶりでした。

この間、色々なことを考えました。

そして気がついたのは、数年前に罹ったときと、今回との意識に違いがあるということでした。

数年前に罹ったときは、まだ自分のなかにBFAの世界観が根付いていなかったのでしょう。
精神的に、ずいぶんと落ち込みました。

「やっぱり私は身体が弱い。自分の好きなことをするのは無理と言うことなのかな・・・」とか、
「いったいつになったら治るのだろう・・・」とあせったりしました。
そのせいか治りも遅く、外出できるようになるまで2、3週間かかった記憶があります。

今回はどうだったかというと、熱が出た段階で「これはきっと休みなさいという合図だ」「いつか治るときがきたら治る。そのときがくるのを待とう」「ゆだねてみよう」そんな風に捉えている自分がいました。

そして「今、ここのこの状態を受け入れて、淡々と時間をすごそう」と思うことができたせいでしょうか、今までにない早さで熱が下がりました。

つねに私たちは、こころも身体も変化し続けています。
同じ状態が延々と続くとはありません。

熱を出した=つらいということは事実ですが、その状態がずっと続くわけではありません。
そのことを自覚し、その状態を受け入れ、ゆだね(諦めることも含めて)た先に、必ず変化、治癒が訪れる。

そのことを信じられたことで、私の精神状態はいつもどおり穏やかでした。

もちろんできれことなら病気はしたくありません。熱も出したくはありません。
しかし、万が一そうなったとき、それを拒むのではなく、それも「今、ここ」の現実と受けれたとき、心の在り様はちがったものになるようです。

今年最後の文章が、インフルエンザに罹っての気づきというのは、ちょっと寂しい気もしますが、それも今の私に与えられた課題だったのかもしれません。

今年もまもなく終わろうとしています。
この一年、たくさんの方に読んでいただきまして、有難うございました。

来年は、もう少し内容の濃いものにしていきたいと思っております。
どうか皆様、来年もどうぞよろしくお願い致します。

よいお年をお迎えください。

 

 

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涙とカタルシス

2010-12-17 16:35:00 | 心・身体・癒し

先日、ふと「そういえば泣かなくなったな・・・」と思った。

とはいっても、教育分析の場では未だによく涙を流すのだが、そのときの涙の意味、理由は、学院に入学し、心理カウンセリングを学び始める前とは違ったものになっている。

以前は泣いた、本当によく泣いたものだった。
悲しいときはもちろんのこと、嬉しいとき、感動したとき、怒りを覚えたとき…振り返ってみると、そのときどき、あらゆる出来事に反応するだけでなく、ちょっとした刺激に対しても泣いていたような気がする。

だから、たとえば誰かに何かを伝えなければならないという場面でも、緊張すると涙が自然に出てくるような・・・今、考えてみると、自分でもなぜそんなに泣いてばかりいたのだろうと、不思議に思うほどだ。

子供の頃、よく母に言われたのが「泣けばいいかと思って」との言葉だった。
「泣けばいいかと思って」という言葉の裏には「泣けば、どんなことでも許されるかと思って」という批判的な意味も込められていることは、子供心にも十分伝わってきた。

なので、本当は涙を流したくない、泣きたくないと思うのだが、如何せん、どうにもとめられない。それれどれほど悔しい思いをしたかわからない。

さらに母はこうも言った「あなたが生まれてから泣かなくなった」とも。
障害を持って生まれたわが子を一人前に育てるには、泣いてなどいられなかったのだと暗に言われ続けてきた。

しかし、あるときテレビで放送された、ある番組を観てから、母はそのふたつの言葉を言わなくなった。

もう、ずいぶん昔になるが、私と同じ病気を持った女の子を取材した番組が放送されたことがあった。それは、ドキュメンタリーである一定の期間、カメラがその女の子に密着取材をしたのである。

私よりもずっと若いその女の子は、時代の違いもあるだろうが、私よりもずっと自由に生きていた。
当たり前のように大学へ進学し、恋愛もしていた。
ところがどういうわけか、彼女もすぐ何かがあると泣く女の子だった。

悲しいわけでも怒っているわけでも、寂しいわけでもないのに、何かあるとすぐに涙を流す彼女。
映像で、その姿を見ていた母が番組が終わって最初に言ったのが「あなたがどうしてすぐ泣いたのかがわかった」という言葉であった。
そのとき、まさか母がそんな言葉を口にするとは思ってもみなかった私は、正直驚いた。同時に沸いてきたのは「やっとわかってもらえたのだ」という思いだった。

生まれてからつい最近まで、私は長い間、たくさんのことを我慢して生活してきた。
もし、今、かつても自分が、思い通りにできたこと、生きてきたことはなんだったかと問われても思い出せない。
それくらい、我慢、我慢の日々だったのだが、その当時は、それが当たり前だと思って生きていた。

しかし、だからといってそれをすべて納得し、何の不満もなく受け入れていたわけではない。そのことを漠然と自覚できていた部分もあったとは思うが、大部分が自覚できないまま心の奥底に潜んでいたことは充分考えられる。

たぶん、そんな抑圧された日常にあって、私は自分自身を開放さえるため、泣くという行為を無意識におこなっていたのだろう。
泣くことによるカタルシスで自分を解いていたのだ。

「あなたがどうしてすぐ泣いたのかがわかった」と言った母。だが、私はあえて母に「何がわかったのか」をたずねてはいない。今もずっと未知のままだ。

それでいいのだと思う。
私にとって大事なのは、母に泣くことを無条件に許された、その事実だったから。

泣きたいときに泣いてください、我慢する必要はありません。

 

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変化を怖がらない

2010-12-10 10:55:46 | 心・身体・癒し

先日、怠惰のワークをしたことによっての気づきから、今までの日常生活を修正したこと、そしてあるひととの「相手を感じるワーク」での(相手の身体のある部分の故障がほぐれた)体験を境に、自分をとりまく周囲のみならず、自分自身にも、ある変化が現われてきた。

その顕著な例として、先日のセッションでのこと。
瞬間的ではあったが、クライエントさんと話をしている最中、クライエントさんの上半身にグレーのカーテンの ような、液体のようなものが上から流れるのが見えた。

そのとき瞬間的に「あ、相手はこんなにも悲しみを抱えているんだ」と意識が パーンと切り替わったのだが、それをクライエントさんに伝えたところ、突然泣き出してしまった。
実際、その瞬間、そのひとのなかに大きな悲しみが広がっていたのだという。

それから、話が一気に深まっていったのだが、正直これはいったい何だったんだろうと、ずっときになっていた。

それからまもなくして、ある日、書店でたまたまオーラの本を手にとって読んでみた。すると、まさしく、あのとき私が見た状態が「悲しみのオーラ」と記されていたのである。
これにはちょっびっくりしたが、その日を境に、今はセッションをしていると相手の「気」のようなものが、 少しずつ見えるようになってきた。

まだまだ一層、二層の小さな範囲ではあるが、つい先日のセッションでは、 その「気」がフワァーと広がっているのを感じた。そのときも、感じたままを相手に伝えたところ、「 ここ数日前から、フットワークが軽くなっている」という話を してくれた。

先だっての相手を感じるワークで対峙したときに起こった、相手の故障がほぐれたという事実。 しかし、私には何が起こったかがわからないままだった。
できれば、それを知りたいと思っていたのだが、このところ読んでいたセラピーの本に「セルフヒーリング」をしたという記述をみつけたことから、実際、自分の身体にやってみることにした。
結果、ずっと故障が続いてかなり強い痛みを感じていた、右ひざの痛みが引いてきている。

これには、ちょっと自分でもびっくりしているが、手当てをしていると、膝の内部からほぐれていくのが感じられて・・・ 「あのとき、相手のひとが話していたのは、これだったんだな」と理解することができたことは、私にとって大きな収穫だった。
今は、左肩から左上腕部の痛みに手当てを始めたところだが、これも少しずつ変化が出てきている。

さらに、先日の名古屋でのワークショップに参加したときも変化があった。
そのときも相手を感じるワークをしたのだが、今回は、単に「相手を感じる」ではなく、相手は軽く目をつぶって瞑想的に なってもらい、片方は、そのひとに向かって「今、何が起きていますか?」 と聞いていくというもの。
私のパートナーになったのは、私よりも年配の女性。

ワークが始まってまもなく、軽く眠っているようになってきて・・・ 私も、様子を見ながら声をかけていた。
終わってからシェアをしてもらったら、足の脛などを中心にずっとピリピリしていたそうだ。
でも、そのピリピリ感は決して嫌な感じではなかったという。
軽い痛みなのだが、ずっと味わっていたいという気分だったとそのひとは話してくれた。
とっても気持ちがよくて、私が「今、何が起こっていますか」との問いかけ に答えるのも煩わしいという感じだったという。
私のほうも、それを感じ取っていたので、一応声は掛けつづけていはいたが、極力黙っていた 。

すべてが終わってから「他のペアのかたより、ずっと声を掛けてくる回数が 少なかったのはなぜですか」と訊かれたので「多分、声を掛けないほうが いいだろうなと判断したので」と答えたが、本当にそんな気分だったことは確かである。

実は、その方は、体調が悪いせいもあってワークを始める前に「自分は死ぬんじゃないかとの 気持ちが続いていて、ワークをするのが怖い」と言われていた。
 しかし、ワークが終わったあと、自ら「死ぬんじゃないかとの不安がいつのまにかなく なった。不思議・・・」との感想を言ってくれた。

現実のこととして、このようなことが起きるんだ、とはわかったが、私としては、いったいこのしくみはどういうことなのかがわからない。

今度、BFAの講師に聞いてみようと思っているが、ここひと月あまりのあいだに、結構面白いことが起こって いる。


カウンセラー仲間からは「ヒーラーに絞ったほうがいい」とアドバイスしてもらうこともあり、ほんの少しずつではあるが、 自分自身と周囲の両方からの、何かが変わってきているようだ。

あせらず、ゆっくり様子を見ていこうと思っている。



こころの冷え性

2010-12-09 10:39:37 | 心・身体・癒し

数日前、ある番組で冷え症についての特集が組まれていたのを見た。

番組では、冷え性の専門家として北里大学の先生が招かれ、話をしていたが、そこでとても興味深い話を聞いた。

先生の話によると、冷え性にもタイプがあるのだという。大きく4つに分けられるそうだ。

全身性冷え性、四肢末端冷え性、手足冷え性、内臓冷え性。

そんななか、最近やっかいな冷え性を抱えるひとが増えているという。
それを先生は「こころの冷え性」と呼び、解説していた。

冷え性には実は、ふたつの要因があるそうである。
ひとつは、身体的要因。
もうひとつが精神的要因だそうだ。

精神的要因の冷え性の原因として挙げられるが、性格的なものと、ストレスだという。

身体的要因の冷え性を持っているひとが、性格的なものやストレスを抱えて冷え性の症状になると、重い冷え性になるという。

私たちの身体は、温まると副交感神経が働いて流が全身にめぐっていく。
反対に寒さを感じると、交感神経が働いて抹消の血管が収縮するが、それによって体温を外に逃がさないようにするのだそうだ。

しかし、ストレスなどによって脳が疲弊し、交感神経の反応が鈍くなると体温調節がうまくいかなくなる。
血管が常に開いた状態になる。

つまり心の疲労、ストレス、性格などが原因で、脳まで冷えてしまうことになるのだとか。

そこで先生は、単なる冷え性なのか、心の冷え性にまで及んでいるかを診断できる方法を開発した。全身12箇所の体温を測ることと4つの心理テストによって診断するのだそうだ。

実際、番組では心理テストによって「こころの冷え性」になりやすいタイプのふたりを選び、そのひとの脳の温度を調べてみた。すると、ふたりとも36度台。明らかに、心理テストの結果と合致した。

気をつけなければいけないのは、「脳の低体温」が長く続くと、脳の萎縮を起こす危険性があるということ。

先生は、脳の温度を正常にし「心の冷え性」を予防するための方法として、ある入浴法を考えだした。
具体的には、お湯の温度を40度~42度と少し高めにし、10分間お湯につかるというもので、その間に、湯船の中でふたつの運動をするのだという。

その運動については、残念ながらはっきりとは記憶していないのだが、最初の5分は肩までしっかりお湯につかり、あとの5分は胸のあたりまでお湯につかる。というものだった。

実際、その入浴法を実践したモデル(冷え性の一般女性)の入浴後の脳温度は、上昇し37度の正常温度になっていた。
ここで大切なのは、入浴する時間。
40度~42度のお湯に入ったとしても、数分間では効果が出ないのだそうだ。

これから本格的な冬に入り、冷え性のひとには益々つらい時期がやってくる。
自分は果たして単なる冷え性なのか、それとも「こころの冷え性」になっているか、あまりに頑固な冷え性と自覚のあるひとは、一度確かめてみるのがいいかもしれない。

 

 

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怠惰のワーク その後 【BFA瞑想ノート】

2010-12-06 11:16:11 | 心・身体・癒し

先月、セルフワークで「怠惰が怖いワーク」をしたことはすでにここに書いたが、今日は、その後の経過とそれによって感じたことを書いてみようと思う。

「怠惰が怖い」という感覚が自分の中にあることに気がついた私は、そのテーマでセルフワークをしてみることにした。
その結果、「怠惰が怖い」と感じるようになったのは、ものごころつくころからの、親からの刷り込みであることに気がついた。

それに気がついた瞬間は、さすがにショックだった。
学院に入学して5年あまり、この間、月に一度の教育分析を受け、自分のうちに潜む課題に取り組んできた。身体的な問題、家族との関係、子供の頃に体験した出来事によるトラウマ、抑圧や恐怖、社会との関わりなど、ありとあらゆる問題と対峙し、そろそろそれもひと段落するかな…そう思っていた矢先、何と、今までのなかで最も昔の深い、そして延々と続いてきたテーマが潜在していたことに気がついたのである。

しかし、その事実に気づいたことによる反応は、以前のそれとはまったく異なっていた。
以前の私であれば、いかにしてそれを親にうまく伝え、未完了を完了させるかを考えていた。だが、今回は初めからこの問題を、親に話す必要はまったくない。自分自身がその事実をどう捉え、このさきどうすれば「怠惰が怖くなくなるか」を考えることが、今の私には大事なこと、必要なことと判断したのである。

早速、現在、日常のなかでやっていることのすべてを洗い出すことにした。
朝、起きてからの行動から始まって、日中、夕方、夜と、そのひとつ、ひとつを検証することにしたのだった。

具体的には、「これをしないと怠惰だと感じるか」ということや、果たして自分にとって、それをすることが本当に必要なのか、意味や価値あるこなのか、ちゃんと自分の意志でしているか、それとも周囲の雰囲気に流されて惰性でしていることなのか、そして一番重要である、自分に素直になっているかなどを検証してみた。

たとえば現在3つのブログを書いているが、自分にとってどのブログが一番大事か、自分が伝えたいことをきちんと伝えられるものであるか、優先順位をつけるとしたらどうなるか・・・。
また、パソコンの前で一体何をしているか、それは自分にとって必要なことか、時間を無駄にしていないか、内容としてはどうかと言ったことなどを検証したのだった。

いろいろなものが見えてきた。 

そしてわかったことは、本当に大事なもの、こと、本当にしたいこと、しなければいけないことは、実は意外に少ないということだった。結構、情報に流されて、無駄な時間や労力をかけていることがわかったのである。

わかった以上はこのままではいられない。
このひと月あまり少しずつ修正をしてきた。

まず、最初にしたことはブログに対してだった。
営業活動も兼ね、情報発信を目的としてアメブロに頻繁に記事を書いてきたのをやめることにした。
毎日、三回程度書き込みをしていたのを、多くて一回、それも毎日ではなく、「書きたい」と思ったテーマがみつかったときに書くことにした。
ランキングに参加することもやめた。
自分が本来、目的とする「こちらからの情報発信」を主軸にすることにしたのである。

結果は予想以上だった。

 時間がゆったりと流れるようになり、テレビを見る時間が極端に減った。
パソコンの前にいる時間が減り、読書する時間が増えた。 

 そして何より、HPやブログといったところとはまったく関係のないところからの仕事の依頼(ボランティアも含み)やアプローチが急に増えたのである。
しかも、そのすべてが、自分がやってきたこと、やりたいことばかりというのが今回の特徴だ。

「怠惰が怖い」ということから始まったセルフワーク。
思いがけず今までの自分を見つめることなったわけだが、それによって本来何が本当で、何が本物なのか、自分があるべき姿とは、かたちとは何かが、明確になってきた。

そして、そのことが、奇しくも状況の変化とリンクしたことに、大きな意味があったように思う。

一見すると直接関係ないように思うが、実はすべてつながっているのだと思う。

本当にやりたいいこと、大切だと思うことをすることと、惰性で続けることの差は、実は自分が思う以上に自分自身の生き方を大きく変えている、いくのかもしれない。

 


うつ病は「心の骨折」

2010-12-03 12:32:22 | 心・身体・癒し

昨日、朝日新聞の夕刊に、うつ病に関する、興味深い記事が掲載されていた。

記事では、大学の先生、心理援助職、元NHKのディレクターで、現在は自殺対策支援センターを設立した男性の3人にインタビュー。それぞれの立場で、うつ病やうつ病にかかりやすい世代に関連した、新しい捉え方、向き合い方について聞いていた。

私がそれぞれの発言のなかで注目したのは次のようなことだった。

心理職の男性は「昔からうつ病は、『心の風邪』と称されてきたが、実際は風邪程度の軽いものではなく、『心の骨折』という表現の方が相応しい、簡単には快癒しない病であり、そのことを多くの人が認識し、理解する必要がある」と言った。

たとえば、野球選手やJリーグの選手が骨折したとき、退院後、1シーズン試合を休んで時間をかけてリハビリに励む。うつ病もそれと同じ、リハビリに1年という年単位で、復調を図っていく必要があるということなのである。

一方、大学の先生が話していたのは、一般的に言われている「うつ病のひとは認知の歪みがある」という問題についてだった。

 うつ傾向にある人は、物事をネガティブに歪曲して捉えたり、何事も悪いほう悪いほうへ考えてしまうなど、認知の歪みがあるという話は、現在、定説かのように捉えられている。そのため、認知の歪みを矯正することがうつ病の改善に効き目があることがら、認知行動療法が有効とされているのだが、ここへきて「果たしてその見方は本当に正しいのか」という議論がなされているのだという。

 先生によれば、実はその捉え方は必ずしも正しいとはいえず、精神的に健康とされている人のほうが、物事を歪めて解釈している。即ち認知の歪みを起こしているのだという。歪んだ考え方のパターンをもっていて、それによってうつ病を発症しないで済んでいるというのである。
それを専門用語で「ポジティブ・イリュージョン」と呼ぶのだそうだ。
前向きで、何でも都合のいいように解釈し、現実をポジティブなほうに歪めて捉えているのがそうなのだが、では、なぜそうした歪みを起こすのか。

 私たちの生きている世界は、あまりにもストレスが多く、そのまま認めたり受け入れたりすることは、到底できない。ならば、ポジティブに物事を捉えなおしていけばいい、現実を受け入れやすくしていこうと、自分を誤魔化ながら生きているという。
そして、それができなくなったとき「うつ」という症状が現れてくる。そんな捉え方ができるのだそうだ。

この記事を読みながら、つい最近読んだ本に書かれていた、うつ病についての文章を思い出した。

 その本の著者である精神科医によると、実はうつ病が「このままの状態(生活の仕方)では、大変なことになりますよ」と罹患したひとに教えている、警告しているのだという。

 さらに、この話を三年間うつ病を患ったのち、ルームを訪れ一年半、カウンセリングに通ってきたクライエントさんにしたところ「その考え方は、今、回復してみてとてもよく言い当てていると思う」という答えが返ってきた。

 こうしたことから、うつ病発症する背景には、発症するまでの生活の仕方、生き方に相当無理がかかっていたこと、単に考え方の歪みだけではない、生活や生き方が、大いに影響しているように思われる。

 議論は始まったばかりかもしれないが、いずれこの問題は、うつ病のひとに対して定説となっている「認知の歪み」の捉え方や、それに付随して広まりつつある、うつ病には認知行動療法という考え方について、問い直されるほどの大きなテーマになってくる可能性があるかもしれない。

では、どうやってうつ病を改善し、回復させていくか。

 この問題について、心理職の男性は、困難にぶつかったとき、「無理な我慢をしたり」、「ひとに頼ってはだめ」、「完璧にしよう」と思わず、周りの助けを借りたり、完璧を目指すことをやめたり、別の方法、別の道を探していくことが大切だと話していた。別の道とは、この場合、生き方を変えるという意味も含まれるだろう。

 そして、自殺対策支援センターを設立した男性は、つらさ、苦しみ、悩みをひとりで抱え込まず、周りに話すこと。周りも「弱音を吐いてもOK」「相談してくれていい」という雰囲気を作っておくことが大事だと話していた。

この記事を読んで、強く共感し、納得したことは「うつは心の風邪ではなく、心の骨折である」という捉え方、そして「うつ傾向にあるひとにラベリングされていた、認知の歪みがある」ということが、必ずしもそうではないということ。さらに「心の骨折」には1年単位のリハビリが必要との見解であった。

実際、私のところにカウンセリングに来ている方の場合、3年間のうつ病罹患期間の後という重度だったこともあり、回復に1年半という長期の時間を必要とした。

今回の専門家の話を読んで、これだけの時間を回復に費やしたことは、決して間違ってはいなかったのだと思うことができただけでなく、逆に理にかなった回復速度であったのだと言えることに、背中を押してもらえたそんな気さえしている。

それに加え、うつ病は認知の歪みであるという捉え方が実は逆であるとの見方がされ始め、議論を呼んでいるという事実に触れたことによって、私が今まで感じてきた疑問(たとえば、パーセンテージによって不安や恐れの確率を提示し、考えすぎである=認知の歪みであると納得させる方法)が必ずしも、的を外れていないことをこの記事によって、ある程度実感できたように思う。

うつ病に対して、このような新たな捉え方がされ始めてきたことは、大変注目すべきことである。

「風邪ならば薬を飲めば治るはず、なのにどうして治らないのか」と長期の闘病に悲嘆する方も多くいらっしゃるはずである。

そうしたひとに、「うつは心の風邪ではありません。心の骨折ですよ。リハビリが必要なんです。1年という年単位で取り組んでいきましょう」と助言できれば、どれほどうつ病のひとの心をやわらげられるかわからない。同時に、そうしたひとを見守る周囲の人たちや、そうした社員を抱えている会社が認識を改めて、対応することも可能になってくるだろう。

今回の記事のような捉え方、考え方が広く一般に知られることを、大いに期待したい。

 

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