ホリスティックヒーリング宙『心の扉を叩いてみたらきっと何かが見えるはず聴こえるはず』

ホリスティックヒーリング宙(sora)のヒーラー&臨床心理カウンセラー株本のぶこが心・心と身体について綴っています

体内時計

2007-10-29 15:04:02 | 心・身体・癒し
先日ここで紹介した冬季うつ病と太陽の光の関係について、関連性のあることとして大変興味深いニュースを目にした。

それは体内時計と光の関係についての記事であった。
真夜中に光を浴びると体内時計が機能停止に陥ることを理化学研究所、近畿大学、名古屋大学の研究チームが突き止め学会で報告というもの。

真夜中に光を浴びると眠れなくなるというのはよく言われることだが、実はその原因と言うのが今まではっきりとは明らかにされていなかったらしい。
今回、研究チームがそれを突き止めたのだという。

結論から言うと、真夜中に光を浴びると細胞に組み込まれている体内時計がその刺激によってバラバラとなり、機能しなくなるのだという。

体内時計は人間などの動物に生まつき備わっているというのは今までも言われてきたことだった。
身体をつくる細胞はいろいろな「時計遺伝子」をもっていて心拍や体温などを二十四時間周期で調節している。
この周期が何らかの原因で乱れると不眠症など身体に異常を引き起こすのだという。

実はこの二十四時間で一日というのは地球の時間であって、人間の一日というのは二十五時間なのだとか。
それゆえに、もし光も温度も一日中変らない条件の中で生活すると、人間は二十五時間を一日と判断し、寝たり起きたりすることになってしまう。

また、当然のように人間以外の生物も一日二十四時間とは限らず、二十四時間より長かったり短かったりしているのだという。
この人間でいう二十五時間周期を二十四時間で一日という周期に合わせられるのが体内時計というわけである。

では、いったいこの体内時計というものはどういうものなのか。
実は左右の眼の網膜からのびた視神経が、視床下部で交叉しているところのすぐ上にある、視交叉上核を指しているという。直径わずか一ミリのその時計は朝、眼から入る強い太陽の光を感知すると、松果体(三ミリ~五ミリ)というところに信号を送る。

その松果体が「時計ホルモン」と呼ばれるメラトニンを分泌するのである。
メラトニンは約十四時間後に睡眠を促すホルモンで、それが血流によって体内に時間の情報を流す。

つまり、私たちの身体は太陽の光を浴びることで本来の二十五時間サイクルを二十四時間に調節しているということなのである。

真夜中に強い光を浴びると体内時計が一時的に止まってみえる現象が起きるのは、個々の細胞のリズムがばらばらになるということに他ならず、睡眠のリズムを守るには、やはり深夜に強い光は避けることが重要ということだろう。

ずっと以前、家庭内暴力が起こる原因のひとつにこの体内時計のズレが関係あるという説を聞いたことがある。
不規則な生活をおくることで体内時計が働かなくなり、毎日一時間ずつの生活リズムがズレ始め、それがやがて昼間に寝て真夜中に活動し始めるという生活の逆転現象となって心身に影響を与え、ひとつの歪として家庭内暴力が現れる場合が考えられるという話だった。

もちろんそれが原因のすべてではなく、あくまでひとつの可能性として私は受け止めていたが、体内時計が正常に働かなくなることでの心身への影響は無いとは言えないだろう。

体内時計を正常にするポイントがいくつかある。

1.朝、太陽の光を浴びること(できれば決まった時間)

2.昼間、明るいところで活動する。(夜、メラトニンの生成が多く促される)

3.毎日できるだけ他人とふれあう。
(社会のリズムに合わせることで、一日二十四 時間サイクルを感じやすくなる)

4.規則正しい時間の食事。
(朝食を摂ることで早く血糖値が上がり一日のリズムがとりやすくなる)

環境面では

夜…暗くする工夫 (遮光カーテン、アイマスクetc)
朝…明るくする工夫 (部屋全体の照明を明るく、カーテンを一気に引く、目覚めたら窓際やベランダ、戸外で陽を浴びる)

が有効だという。

目覚めるためには自律神経の切り替えが必要なのだが、光からの刺激によってそれが切り替えられる。
気持ちの良い一日の始まりをこうしたちょっとした意識や工夫によってむかえたいものだ。

自分を知ることと生きる意味07'

2007-10-25 15:02:38 | 心・身体・癒し
最近、「生きる意味とは…」といった問題に触れる機会が続いた。
ひとつはある月刊誌の十月号に掲載されていた、「生きるとはどういうことか?」というテーマで書かれていた著名人数人の文章であり、もうひとつはある有名人のホームページのフォーラム(掲示板)に、長年「うつ症状」苦しんでいる男性が「生きる意味とは何かを教えて欲しい」という書き込みだった。

その彼は「うつ」の薬を毎日四十~五〇錠も飲む生活が続いているのにも関わらず症状がなかなか好転せず、その苦悩の日々に疲れ果て、掲示板に「生きる意味を教えて欲しい」と訴えたのだった。
片や雑誌では、何人かの著名人が「生きるとは?」について持論を語るという企画
たまたまそういう話が短期間にふたつ続いたのだが、実は私自身、先日、突然に「生きる意味」についての大きな気づきが起こったのだった。果たしてこれは偶然だったのか…

学院に入学して数ヶ月経った頃から受け始めた教育分析は、卒業後のある時期三ケ月ほどの休みを除いただけで現在も続いている。
そこで交わされる講師との会話は、初めのうちは自分自身が抱えていながら内面の深いところに潜んでいた問題やトラウマのようなもの、抑うつ的なものへの気づきであり、会話によって自己の解放へとつながっていったのだが、ある時期を境にして、それは自己探求、自己実現の方向へと移っていったことは至極自然の流れだった。
何故なら、教育分析を受け続けてきた講師というのが在学中に学び始めた『ボディフォーカスト・アプローチ』を創始したそのひとだったのである。

教育分析とボディフォーカスト・アプローチというふたつの自己の心の深層を探究するアプローチのトレーニングを続けたことが結果としてそういう流れを生んだのだと思う。

特に昨年の暮れから起こった大きな気づきは、その後も数カ月おきにやってきて私を時に感動させ喜ばせることもあれば、混乱させ困惑させることもあり、あらゆるものが変わってしまったとの体験は数回に及んだ。
そしてついにあの日、ステージの最終段階が目の前に現れたのだった。

それは突然やってきた。九月二日、短大の科目試験が行われる試験会場でのこと。
まさに今、試験が始まろうとしていた時、「ドーン」と地震の縦揺れのような衝撃が私を襲ったのである。

ふっと「自分を知る」ということは?との疑問が湧いた瞬間、それはまるでジェットコースターのようであり、それを切っ掛けに、次々と言葉が溢れ出したのだった。

「自分を知る」ということは「この世に生まれてきた意味を知ること」そして「この世に生まれてきた意味を知る」という作業が「自己探求」であり、その「自己探求」はひと其々に違っていてすべて同じではない。
小さなこともあれば大きなこともあるだろう。自分のこともあれば、家族のこともあるだろう。社会のこともあれば世界的な規模という場合もあるかもしれない。ひとそれぞれひとつとして同じではないはずだ。そしてそれはひとつではない。そのひとつひとつを探り、そこへ向かっていく過程が自己実現への道なのであり、終わりはない。
そして、これは自分の意思を超えたところにある、いわば『宇宙』からの采配のようにも感じられたことは私にとっては今までに経験したことの無い大きな大きな気づきとなった。

わずか五分か十分のあいだのこと…が、すべてが終わった瞬間、これが『生きる意味』なのだと思った。
気がつくと私の身体は小刻みに震えていた。それほどの衝撃だったのである。

今、思い出してもどうしてあのときだったのかわからない。
わざわざ試験の直前でなくてもよかったはずである。もっと精神的にも時間的にも余裕があったなら、この感動をくっくり味わえていただろうに、なぜあの時でなければ駄目だったのか…

冒頭に触れた、ある月刊誌の「生きるとはどういうことか?」のテーマを読んで実は驚いたことがある。
それはある有名な詩人であり、多方面で活躍している男性が書いた文章だった。
彼の友人の子供さんが、わずか二歳にして亡くなったという話が紹介されていた。
その子供さんはある病気を持って誕生し、結局は一度もベッドから離れることなくその短い生涯を終えたのだそうだが、詩人は葬儀に参列したときに見た子供さんの笑顔の遺影によって、「この子はしっかりと生きたんだな」と確信したという。
そして、詩人もやはりこう言っていたのである「生きるとは、宇宙から与えられた現象であり、宇宙そのものであると思うからだ。宇宙はここに宇宙が存在することを証明するために生命を育んだのだ。 ─以下省略─

私たちは偶然に人間として生まれ生きている。しかし宇宙からみれば人間など何も特別な存在ではない。ミミズも私たち人間もすべては同じ意味や価値をもって存在していることにほかならないのだ。
太陽の光を浴び、星を眺め、風を感じ、生き物のぬくもりを知り、感じながら地球を、そして宇宙を意識していく。
そうしたことを知るために私たちは生命を与えられ、生かされそして生きているのではないだろうか。



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うつ的症状07'

2007-10-19 15:00:43 | 心・身体・癒し

        

ここ数年の傾向として心の病に罹っている人が急増している。

成人の十五人に一人がなんらかの心の病に罹っているとの調査結果があるが、その理由として労働者は仕事や人間関係、高齢者は孤独感やストレスが挙げられている。 心理カウンセラーという立場になってからずっと私が心がけていることのひとつに「うつ病」という言葉を極力使わないということがある。

カウンセラーは治療行為を禁止されている。そうしたことを踏まえ、一歩間違えると診断したことになりかねない呼称いわゆる「病名」を使わないよう意識するよう学院の授業のなかで指導されたのだった。

患者を診察し、病気であるかどうかを判断し、それに病名をつけるのはあくまで医師であって私たち心理カウンセラーではない。そこのところをしっかりと認識したうえでクライエントと向き合っていかなくてはいけないのだ。 法的意味合い、立場といった視点からの理由もあるが、もうひとつ大切なことがある。それは病名がついたこと、つけられたことによって生じるクライエントへの先入観を防ごうという意図。

ひとは誰もが何かしらのイメージやレッテルに頼り、行動したり判断したりしている。それは親や周囲からの影響であったり、生まれた場所や環境であったり、世間から印象付けられた職業であったり、ありとあらゆるものに当てはめられる。 そして病名もそうしたもののひとつなのだ。もちろん本人が自分の病気を認識、受容することは症状の改善に向けて必要なこと。

しかし、ひとによっては病名を診断されたことで逆にそれを気にするあまり典型的な症状に取り込まれてしまい症状を悪化させてしまったというケースもある。ましてや周囲のひとたちが勝手なイメージを抱き、ラベリングして接したならばそれは大きな問題であり、障害となりかねないのだ。

カウンセラーも所詮はただのひと。先入観に陥ることもあれば、気がつかないうちにラベリングしてしまうことも充分ありうる。しかし、それは許されることではない。極力避けなければいけないことであり、職業人として常にその危険を自身が孕んでいることを意識、自覚してクライエントと接し援助していかなくてはならないのだ。

 そうした事態を防ぐためにも日頃から「うつ病」という呼称を使わず、あくまで「うつ的症状」という呼称を使用することを在学中に叩き込まれたのだった。 病名ひとつに対しても細心の心配りが求められる。

それが心理カウンセラーなのである。

 

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