real SR

引越しいたします。

トップページ

2008-02-05 23:44:00 | このブログについて

当ブログ(真Silkroad?)は東トルキスタンとも呼ばれる、中国領新疆ウイグル自治区においての中国の対ウイグル民族政策、人権状況などを海外メディアや在外ウイグル人団体の報道や声明を中心に紹介していくブログです。
07年11月に日本を訪れた女性人権活動家で世界ウイグル会議総裁のラビア・カーディルさんの活動も紹介しています。

最新エントリーは右サイドバーの「最新の記事」からお願いいたします。
Ghuljademo9702

1997年2月に起こった新疆ウイグル自治区北西部の都市グルジャ(伊寧)で「グルジャ事件」
ウイグル人に対する差別、宗教活動への侵害、また、漢族の無制限での移入等への不満に対するデモを中国公安や武警、人民解放軍が実力行使で弾圧、そして逮捕者を残虐に拷問、処刑を行ったと言われていますが、その実際は明確にはなっていません。海外に亡命したウイグル人はこの事件を激しく批判しつづけています。このグルジャ事件については文春新書、水谷尚子先生の中国を追われたウイグル人―亡命者が語る政治弾圧 (文春新書 599)もその参加者の詳しい証言が掲載されています。是非お読みになってください。

この事件について、中国は東突(東トルキスタン)テロ、宗教過激主義の活動であったと対外的に発表していますが、弾圧、虐殺にあったウイグル人側は中国のその行いを糾弾しています。
日本ではほとんど報道されないウイグル人側の声を是非聞いてみてください。


アムネスティ、グルジャ事件について
http://blog.goo.ne.jp/kokkok2014/d/20070301

グルジャ事件
http://blog.goo.ne.jp/kokkok2014/d/20060204
我々は忘れることを拒む
http://blog.goo.ne.jp/kokkok2014/d/20060206
ラビア・カーディル、グルジャ事件を語る
http://blog.goo.ne.jp/kokkok2014/d/20070205

このブログ、またグルジャ事件の真相にに興味をいただけたらblogランキングへクリックお願いします。



ラビア・カーディル紹介サイト↓


テクノラティお気に入りに追加する
テクノラティお気に入りに追加する

グルジャ事件、デモの主導者の一人と言われるアブドゥルヘリル・アブドゥミジト氏は2000年10月7日刑

2008-02-05 23:18:43 | ニュース

Abdulhelil_abdumijit アブドゥルヘリル氏
11年前の2月5日に起こったグルジャ事件、ウイグル人への差別と社会不満へのデモを主導した数人のウイグル人の若者の一人であった、アブドゥルヘリル・アブデゥミジト氏。その生い立ち、生涯については水谷尚子先生の中国を追われたウイグル人―亡命者が語る政治弾圧 (文春新書 599)で詳しい。
ぜひこのウイグル人の不満を表そうとした勇士やその他の烈士の生涯について購入して知っていただきたい。彼の生涯を少々かいつまんで言うと、1969年グルジャ生まれの彼はおどろくべきことに中学まで漢語教育を受けその後は商人となった。その商売の中の漢人との関係の中で差別、無理解、不平等に憤りを積もらせていた。
しかしながら彼ら自身がそういう不満をウイグルの伝統習俗マシュラップという集会やスポーツ活動(サッカー)により自主的に解消しようとしていたのに対し、中共政府はその活動を強制的に排除しようとしたのである。そして当局の弾圧を逃れられなくなった彼はついに1997年2月5日のデモへと走らせたのである。 11年後の今日、アブデゥルヘリル氏および、グルジャ事件で処刑された何千人かの人々の鎮魂を願うとともに、この中共による残虐な弾圧の全容が解明され、真の平和がウイグル人に訪れることを願いたい。 アムネスティによるアブドゥルヘリル氏の拷問、処刑のレポートをここに茶井の中国人権ブログさんから転載します。

アムネスティリポート「現代中国の拷問」、第3章第1節より

http://blog.memo-mail.jp/chai/?eid=3

イリ州グルジャ市出身の露天商、アブドゥルヘリル・アブドゥミジト[Abdulhelil Abdumijit](31歳)は、2000年10月17日、拘禁中に、拷問のため死亡した(注23)。

彼は、1997年2月5日、グルジャでのデモに参加した直後に逮捕され、その後、デモを主導したとして起訴された。彼は、拘禁された当初から、「自白」と仲間の密告を強いられて残虐な拷問を受けた、と伝えられている。

警察は、彼を壁に向かって立たせ、両腕を挙げさせ、背中を殴打した。また仲間の囚人は、看守が彼に犬をけしかけ、襲わせたのを目撃している。グルジャ当局は、1997年2月のデモ直後に同氏を逮捕したと認めている。しかし、それ以後、アブドゥルヘリル・アブドゥミジトの拘禁は秘密に付されている。家族は、面会することも消息を知ることも許されなかったと伝えられる。  

未確認ではあるが、ウイグル人亡命者筋によれば、アブドゥルヘリル・アブドゥミジトは、1999年末か2000年初頭、裁判にかけられ、他の被告2人とともに死刑判決を受けた。
また、この死刑判決を周知徹底するため、公開判決宣告集会が開かれ、その際、アブドゥルヘリルが、集められた公衆の前でひどく殴打されたことも伝えられている。  

ウイグル人亡命者筋は、10月17日、アブドゥルヘリル・アブドゥミジトが、グルジャ郊外のチャプチャル監獄で看守の拷問を受け死亡したと伝えた。その声明によれば、彼の遺体は、警察の厳重な警備のもとにチャプチャルの墓地に運ばれ、形ばかりの墓穴に埋められ、遺族が墓に近づくことも禁止されているという(注24)。 

当局は、その後、彼の死を公式に認めたが、拷問の結果であることは否定した。また、「アブドゥルヘリル・アブドゥミジトは、チャプチャル看守所ではなく、伊寧[=グルジャ]の中央監獄で、肺炎のため死亡した」とするチャプチャル看守所の担当官による話が、2000年10月24日、AP通信より報じられた。 その後、アメリカの中国大使館から、また別の説明があった。
2000年11月7日、アブドゥルヘリル死亡への抗議に対する回答として出された声明の中で、大使館は、「中国当局の関係筋」から得た情報として、「アブドゥルヘリルは、当時、心筋炎と急性の呼吸器系炎症を患っていたが、2000年10月17日、『突然』、『強度の心臓麻痺』により死亡した」と発表した。また、アブドゥルヘリルが「拘禁中、一貫して人道的に待遇されていた」とも主張した。この声明によれば、彼は「服役中」に死亡し、「1997年2月5日、伊寧で起きた暴動を組織したため」起訴され、有罪となったとのことである。しかし、裁判の日時や判決内容については、何も述べられておらず、今なお不明である。 アムネスティは、アブドゥルヘリル・アブドゥミジトが拘禁中、繰り返し拷問を受けたという報告に懸念を抱き続けている。アムネスティは、中国政府に対し、拷問について公正な調査を徹底させるとともに、なぜ彼が拘禁期間中、ずっと隔離されたままだったのか、その説明を求めている。
(注23:同上、および拷問廃止キャンペーン・アピール・パンフレット「Torture Campaign Appeal Leaflet. AI Index:ACT 40/08/00」参照)
http://web.amnesty.org/library/Index/ENGACT400082000?open&of=ENG-HUN

(注24: 2000年10月22日、ドイツに本拠地を置くウイグル人亡命者組織「東トルキスタン情報センター」による声明)
http://www.uygur.org/

1997年のグルジャ事件についてもっと知られるべきであると思われたら、blogランキングへクリックお願いします。

ラビア・カーディル紹介サイト↓