台湾の2.28事件、韓国の3.1運動の記念日はちょうど連続している。
いずれも弾圧者、抑圧者に対して民衆が立ち上がって敗れ、虐殺された日とされている。
これらの事件は昨日、一昨日と連続していることにいまさらながら気が付いた。
2.28事件は「非情城市」という1998年の映画によって世界に知られることとなった。事件から52年後のことである。
2.28事件についてはリス太郎さんのブログで。
それならばわずか10年前のウイグル、クルジャ(伊寧)で起こった事件はいつになれば多くの人に語られるようになるのだろう。ウイグルの「非情城市」はいつ作られるのだろうか。状況はもちろん絶望的である。
まことさんのブログで2年前に97.2.5のクルジャでの出来事をアムネスティがまとめたものをここに転載します。
8年前の1997年2月5日、中国の治安部隊が新疆ウイグル自治区のグルジャ(伊寧)で平和的なデモ活動を残忍に解散した際、多数の人々が死亡もしくは重傷を負った。数百名、おそらく数千名以上の人々が後日に起きた不穏の中で命を失い、あるいは重傷を負った。多くの数の人々がデモやその余波の中で逮捕された。拘束された数多くの人々が殴打され、もしくは拷問され、少なくとも2名がその後監房の中で死亡した。実数は不明ではあるが、今なお多くの人々が一連の出来事に関連して刑務所の中に残されている。
現在に至るまで、治安部隊の行動に対する調査は行われず、これらの暴行のために裁きに掛けられた者は誰もいなかった。この事件に関連した処罰を行わなかったという中国当局の不履行は、将来において同様の暴行の反復を促すものであり、昨年の中国憲法に組み込まれた「人権を尊重するため」の中国(政府)の関与について重大な疑問を投げ掛けるものである。
この弾圧の犠牲者は主として新疆ウイグル自治区で暮らす中国のウイグル民族のイスラム教徒の一員であった。過去8年にわたり、アムネスティ・インターナショナルはこのデモ活動およびその余波に関する数多くの目撃証言を入手し、この事件に関する(中国政府の)公式解釈と矛盾する事件像を構築してきた。
この地方の情報筋によると、デモ活動はウイグル人の文化・宗教への抑圧のレベルが増大していることを引き金に、グルジャ市内およびその周辺で起こされた。これはイスラムの文化や伝統の復興および飲酒・喫煙・麻薬の摂取などの社会悪への対抗を企図して1994年に組織された"meshreps"と呼ばれるウイグル人の社会集会の禁止(への抗議)をも含むものであった。グルジャ市内およびその周辺のウイグル人コミュニティの指導者たちは非公式にウイグル人のサッカー・チームを組織したが、これらは当局によって解散させられ、スポーツ施設は破壊された。数多くのウイグル人たちは、とりわけ1996年の犯罪に対する「厳打」キャンペーンの間に、いわゆる「分離主義者、テロリスト、宗教的過激主義者」とされる容疑で逮捕され、神学生やイマームと同様に、マシュラップ"meshrep"の指導者たちも(被弾圧者に)含まれているとされる。
1997年2月5日の朝、女性や子どもを含む数百人のウイグル人の若者たちがグルジャの通りで横断幕を掲げ、宗教的スローガンを叫び、ウイグル人を公平に扱うよう求めるデモに参加した。彼らは人民武装警察隊や機動隊の部隊を含む治安部隊によって阻止された。情報筋の中には、その後多数の警察官が群集に発砲を始め、多数の重傷者を生んだと証言した。また、別の情報筋が伝えるところによると、警察はデモ活動の方向に向いた地面に発砲し、多数の人々および数人の子どもが跳飛した弾丸によって負傷したという。その後、警察は数百名の人々に襲い掛かって拘束し、彼らはトラックに乗せられ、Yengi Hayat(新生活)刑務所として知られる伊寧(グルジャ)市警察留置所に連行された。ある目撃者によると、トラックにはとても多数の人々が詰め込まれたので、人々は互いに体の上に重なり合わなければなからなかったという。伝えられるところによると、警察官たちは拘束された者たちの上に座り、鞭を使って彼らを打ったという。伝えられるところによると、床の上に横たわらせられた者の数人は窒息して死亡したという。
「トラックが刑務所に到着した時、警察官たちは人々を外に投げ出し、手足を骨折するなどの怪我を負わせました。私は耳が引きちぎれていた女性を見ました。」(目撃者の証言)
午後に、別のデモ活動が朝に拘束された人々の友人や親類によって開始された。抗議活動者のうち幾人かは石を運び、それを警察に投げた。伝えられるところによると、警察は抗議活動を解散しようとするために、1メートルを超える長さの木製のこん棒で抗議活動者たちを打ち、催涙ガスを使用したという。およそ百名が負傷し、伝えられるところによると数人の子どもたちが催涙ガスの影響で死亡したという。1997年2月5日の朝と午後における警察の行動の結果、およそ20名の子どもたちが死亡したと考えられる。その場で死亡した子どもたちもあれば、負傷状態が続いた結果として数日後ないし数週間後に死亡した子どもたちもいる。
数百人もの抗議活動家たちが再び拘束され、グルジャが編入されているイリ県内の様々な留置所に連行された。伝えられるところによると、(拘束された人の)数が非常に多かったので、この地域の留置施設は全て一杯だったという。伝えられるところによると、Yengi Hayat(新生活)刑務所では10名以上はの入獄は無いという前提で設計された監房の中におよそ40名から50名の被拘束者たちが詰め込まれ、 座り込むためのスペースすら残っていなかったという。尋問を指揮し、被拘束者たちへの処置を行うための十分な数の警察官はおらず、そのために検察官や法廷職員を含む他の政府部局の役人が支援のために引き入られた。
つづく
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