http://www.nytimes.com/2006/02/19/weekinreview/19yardley.html?_r=1&oref=slogin
中国のイスラム教徒の見物人としての役割
2月19日ジム・ヤードリー記者 ザ・ニューヨークタイムス(登録必要)
中国甘粛省臨夏回族自治州 臨夏
宗教は往々にして中国では隠蔽されている、ゆえにリトルメッカとして知られるこの都市でイスラムの公然と目につくことは特に印象的である。男性は白い帽子をかぶり口ひげを生やす。女性たちはヘッドスカーフを着る。ミナレットが大きなモスクからそそり立つ。本屋ではアラビア語のコーランと宗教研究ガイドが売られる。
2100万人のイスラム信奉者がいることが思いだされる、中国にはヨーロッパやはたまたイラクと大体同じ数のムスリムがいる。しかし古代シルクロードに沿っているこの孤立した地域の開放度は中国のムスリムが大イスラム世界を騒然とさせているあの抵抗運動と影響の大きい論争の説教的参加者であることを意味しない。この地域においてそれは不可視である。
預言者ムハンマドを描いたデンマークの風刺画に対しての怒りと暴力が先週からイスラム諸国を引き裂いている問題のことである。ここ臨夏には80以上のモスクがある、風刺画についてのニュースはあっという間に伝わった。地域の宗教局もまたすばやく動いた。地域のムスリムは官員がイマームを訪れ、信奉者を扇動することのないよう警告した。
同じことが2003年、2,3の抵抗運動がアメリカのイラク侵略に向かっておこった。イスラムを統制する準行政機関の中国イスラム協会は、すばやく介入し抵抗運動を止めさせた。
多くの中国ムスリムには警告はまったくいらない。1300万人いても中国は巨大でありムスリムが構成するのは小さな少数派であって、多くのムスリムは直感的に静かにしていることを学んでいる。
「私たちは内輪だけでそのことについて話すことができる。」ムスリムの書店で一人の店主は言った。「しかし中国には法がある。私たちはそれらのムスリム世界を狼狽させる話を声高に話すことは許されてはいない。」
自由な言論への制限と同様に、政府の宗教に対する厳しい規定は中国本土のムスリムを香港在住の彼らの仲間をも切り離す、より大きな市民の自由を謳歌する香港では金曜日(17日)にあの風刺画に対する抵抗運動が行なわれた。
人権団体は中国においての宗教的自由の欠如を長い間批判してきた、そして地下カトリックやチベット仏教徒やウイグル人に対する厳しい扱いを強調してきた。しかし(ウイグル人以外の)もう一つの中国ムスリムグループはウイグル人を援助することを期待されてきたが、ほとんどそうはしてこなかった。
中国ムスリムのトップ研究者である、ドルゥー・C・グラドニーは中国の10のムスリム国民は、彼らがイスラムが侮辱される問題だと感じたときだけに共通の大義を見いだす、と言った。ときおり違った派閥内の議論は暴力で終わる。グラドニー氏は最大の集団、回族はあるウイグル人は他の中国ムスリムに悪名を与える非愛国的分離主義者であるとみなしている、と言った。彼は言う、回族は宗教的熱狂の上に現実主義を置き、社会にうまく溶け込んでいき、彼らが中国に1300年前から存在しているのにもかかわらず、外国にいる移住者グループとしての低い地位を採用しているのだと。
「彼ら回族は国際的なイスラムの摩擦に過度にかかわろうとしない傾向をもっている。」ハワイ大学のアジア研究の教授であるグラドニー氏は言った。
「彼らは過激派ムスリムであるとの烙印を押されたくないのである。」
しかし中国ムスリムは完全に全体主義支配に飼いならされているとは考えられるべきではない。17世紀からイスラム教徒は貿易ルートに沿って中国に到来してきており、周期的にムスリム反乱を起こした。中国共産党の下、多くは国際問題からは封じ込められたものの、ムスリムの怒りは地域限定的な侮蔑に対して勃発した。
大規模な抵抗運動が1989年に起こった。ムスリムはミナレットを陰茎の象徴に見たて、メッカへの巡礼を乱交パーティにたとえた本を非難しながら街に繰り出した。政府官員は抵抗運動を許し、即座にその本を発禁にして焼却処分にさえした。
http://blog.goo.ne.jp/kokkok2014/d/20060205参照
2,3年前何千人のムスリムが河南省であるモスクのドアに豚の頭が釘付けられたあとに多くの都市で抗議をした。そして昨年、全中国中部から回族が交通の争いにかかわった一人のムスリムの助けに突入した後に暴動が勃発した。
臨夏のmayanzhangイスラム学校学習監督のMa Huiyun40歳はあの風刺画は彼や他の、地域のムスリムを激昂させた、と言った。「しかし私たちは政府と協力しなければならない。」「政府は平穏にするように要請した。彼らは政府が我々の代わりに我々の不幸を表明すると言った。」
Ma氏は中国のムスリムは中東のイスラムの中心地とより深い絆を望んでいる。彼の学校はいま2台のコンピュータを中東やイラク戦争のニュースを得るために持っている。今年、Ma氏はメッカに初めての巡礼に訪れた、そのハッジジ(巡礼)は10000人ほどの中国ムスリムが参加したと見積もられた。政府は中国人ムスリムを中東の大使館と国営企業で現地で仕事をするために雇い始めた。
しかし、多くのこの地域のムスリムは他国のムスリムとの関係を発展させることに障害があることを言及する、その結果としてムスリム中国人は孤立しているという。「外部の世界で私たちについてよく理解がされているとはいえない。」Ma氏は言った。
臨夏はかつて河州として知られていたが、何世紀もイスラムの中心として存在し、宗教的寛容の風土がある。しかしムスリムは中国のどこでも制限に直面している。新疆では、例をあげればムスリムの学校は厳しく監視され限られた数の学生しか許されていない。
多くの同じような社会問題がヨーロッパのイスラム移民の抵抗運動に油を注いでいる。差別、低い教育レベル、高い失業、多数派からの文化的差別、それらが中国でも見られるのである。中国のムスリム人口は安定している、しかし流動する中国人の間ではイスラムは仏教やキリスト教のように人気はない。同化の圧力もまたイスラムを多くの地域で薄めている、自身を豚肉を食べることは慎むが、まれにしかモスクに行かないムスリムだ、という人たちもいる。
臨夏ではそうではない。この街のムスリム学校ではほとんどの学生がいつかはイマームになろうと思う多くの貧しい家庭の出身である。中国でムスリムであるという細心の注意を必要とする課題を水先案内するのは彼らの仕事となるであろう。
「あきらかに、私たちは他の世界のムスリムとは異質である。」この街で一番古いNanguanモスクで教師をするMa Ruxiongは言った。「私たちは街に出て抵抗運動をすることは出来ない。政府からの許可が要る。しかし私たちのできることがある。私たちは世界の全てのムスリムを守ってほしいとアッラーに祈るのである。」
天晴れな奴、NYT。このブログが不思議に思っていたことをしっかり取材してくれているではないか。この17日に香港ではけっこう大きなデモが行なわれたみたいであるがその報道は中国の内地ではまったくされていないのであろう。しかし回族の人々の内なる怒りが伝わってきそうである。1989年の「性風俗」事件初めて実相を知ったがそりゃあないだろう中国人。当時にはインターネットや携帯電話がなくて中国は本当に幸運である。
回族、以前には東干(ドゥンガン)と呼ばれ、甘粛省では多くの軍閥を生み有名なところではBig Horseの異名をとった馬仲英を輩出した。「中国の各地を差別されながら流れていった強い民族」小説の中で作家の胡桃沢耕史氏はそんなようなことを述べていた。かなりの戦闘力を持っていた人たちが今は静かになったようである。
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