クルジャ(グルジャ)事件から丁度10年が経とうとしている。鄧小平の死、香港の返還などが相次いだ中国史上に残る年。クルジャ(伊寧)のウイグル人たちに何が起こったのか。ついにラビア・カーディルが証言した。
Photo from Uighur American Assositation
私は1997年2月初旬クルジャ(伊寧)で起こった恐ろしい出来事を初めて伝え聞いたときに、ウイグル人として中国人民議会(政治協商会議?)メンバーとして心に決めました、私は何が起こったのか自身で見るために行かなければならないと。
私は2月の7日か8日の朝クルジャ(伊寧)に到着しました、そしてウイグル人の友人の家に行きました。その日の午後、友人はその2,3日前にクルジャで平和的な抗議者に対する中国軍の取り締まりの中で殺された二人の子息がいたウイグル人家族の家に連れて行きました。その家の娘は逮捕され、消息は不明でした。彼らの両親はひどく動揺していました。私が彼らに話し掛けようとしたすぐそのとき、中国軍将校と兵隊がいきなり乱入してきました。兵隊はその両親の髪をつかみ彼らをひどく蹴りました。隊長の将校は私に手を頭に上げ、壁に頭を向けろと命令しました。彼らは公安ではなく、指揮権を持つ中国軍の将校であることは明白でした、彼はあえて何も言いませんでしたが。彼らは私を完全に強制的に裸にしてすべての衣服を調べました。
何も発見できずに終わった後、服を着るように言われ、私は県の公安局に連行されて更なる尋問を受けました。公安幹部は私にもうどこの家へも訪れずに即時に町を出て行くように警告しました。彼は何か恐ろしいことがおこったならば、私に情報をくれた全ての人々の死の下手人として拘束されるか、私自身が死ぬであろうと言いました。それで私は公安局を出ることを許されました。しかしながら私は町に残り、もっと情報を集めようと決心しました。
私は公安局を出たとき、誰かが目の前にメモを落としました。そこには「イエンギハヤットの近くに行ってみよ。」(注、イエンギハヤットとは新生活を意味するウイグル語、地名あるいは監獄の名と思われる)私がその街の近郊に到着したとき、私はある大きな家の玄関が開いたままで、テーブルの上には食品も残っているのに誰もいないのをみました。私は隣の家のドアをノックしてみましたが答えはありませんでした。私は他の家も試してみました、すると回族のイスラム教徒がドアを明け完璧なウイグル語で答えました。私は彼に隣の家の人に何が起こったのか聞きました。彼は隣人たちはデモの間に殺されたのかもしれないと言いました。何人の人がその家に住んでいたのか聞いたとき、彼は答えを渋りました、しかし多くが殺されて軍用トラックで持っていかれたと言いました。
私はウイグル人家族の家に案内してくれるように彼に頼みましたが、彼は多くのウイグル人は恐がって家に入れてくれないと言いました。しかし彼は私をあるウズベク人家族の家に向かわせてくれました。60歳のウズベク人女性がドアを開けました。誰かに私が尾行されているかもしれないと彼女は懸念したにもかかわらず、私にお茶を入れてくれてデモと「鎮圧」について話してくれました。彼女は多数の中国軍のトラックが打ち据えられたか殺されたウイグル人を高く積み込みイエンギハヤットの監獄に行くのを見たが、まだ出てきた人は見ていないと言いました。彼女は1000人近いウイグル人が監獄に引き入れられたのは確実だと言いましたが、その監獄は500人しか収容できません。さらに彼女は多くの軍用トラックが土を積んで監獄を離れるのを見たと言いました。 (その2へつづく)
http://www.amnestyusa.org/news/document.do?id=ENGASA170012007
このクルジャ事件がどういう敬意で起こったかに関してのウイグル人側の報道としては去年の以下のエントリーをご参照ください。
「我々は忘れることを拒む」
http://blog.goo.ne.jp/kokkok2014/d/20060206
http://blog.goo.ne.jp/kokkok2014/d/20060207
ラビア・カーディル紹介サイト↓
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