小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

倫理の起源40

2014年07月16日 00時22分27秒 | 哲学
倫理の起源40




 さて、このような内的な秩序によって成り立っている家族的共同性に内在する倫理性とは何か。またそれは、他の共同性の倫理とどのような関係に置かれているか。
 前者については、もはや多言を要しないだろう。上記①②③のそれぞれ及びその複合が必然的に要請してくる倫理性を家族はそなえていなければならない。
 ①の条件の要請は、以下のようなものとなろう。
 外の異性と性的関係をもたないこと、互いに仲よくすること(小さな不満は我慢すること)、その夫婦固有の「協業」の時間をなるべく多く持つこと。
この最後のものは「子育て」が最も重要で象徴的な意味をもつが、その他、家計の処理、家政運営の役割分担、家業を営んでいる場合には息の合った緊密な協力関係などが要請される。なおまた、この「協業」には、必ずしも「しなければならない仕事」というふうなことだけを意味するのではなく、「ともに楽しむ」時間を確保するというようなことも含まれる。
 ②の条件の要請は、言うまでもなく①の条件の要請が満たされることが前提となる。
 思春期以前の子どもは、人間としての自分の非自立性を直感しているので、彼らの親に対する親愛の情や信頼の気持ちは、自分の存在の最終的な受け皿がこの人たちしかいないという感覚によって媒介されている。これは乳児期を脱して「物心」がついた幼児段階から、思春期に至るまでずっと一貫している。児童期になって行動半径が拡大し、交友範囲が広がっても、よほどのことがなければ彼らは「ウチ」に帰ろうとする。そこで逆に、親である夫婦に少しでも危機の兆候を見出すと、彼らは大変な不安に陥る。
 私事を持ち出して恐縮だが、私の両親はあまり仲が良くなく、三日とあけずに夫婦げんかをしていた。父はもともと大酒のみであった上に人生の挫折感が重なり、家計も貧しかったため、私が物心ついたときには、もはや子育てに大きなエネルギーを割く余裕を持っていなかった。母は、生真面目な性格で日々の生活や子育てには真剣に取り組んでいたが、普通の主婦とは違って少々プライドの高すぎるところがあり、その分だけ傷つきやすく、飲んだくれ亭主をうまく操ることができないたちだった。こういう二人がけんかを始めると、怒鳴る親父と負けずに言い返すお袋、という構図になる。これが蜿蜒と続いている時間帯では、狭い屋根の下で子どもは、その嵐が去るまでおびえながらじっと押し黙っていなくてはならない。介入できるようになるにはある程度成長することが必要である。
 夫婦の亀裂は、それが彼らにとってたとえ小さな日常茶飯事であっても、幼い子どもの心理にとても暗い影を落とすものである。後年私は、自分が父親となった時、両親を反面教師として、夫婦の協和を心掛けたつもりだったが、やはり思った通りにはいかず、両親に比べてけんかの回数が少し減って、楽しい時間が少し増えたくらいのところだったろうか。夫婦の協和は子どもにとってとても大切だが、その円満な実現はじつに難しいと痛感した次第である。
 しかし、この夫婦の協和とは一応別に、親子関係という特殊な関係のあり方に焦点を合わせる時、子どもに対する親の人倫性(=人間的な意味での「愛」)とは何か、またそれは、父親と母親ではどう違っているかという問題が現れる。
 子どもに対する両親の人倫性は、まず初めに、自分たちの睦まじい時間の共有が新しい生命をこの世にもたらしたという感動によって支えられる。それは、二人の性愛関係のこの上なく確実な、目に見え手で触れられる生きた証拠だからである。
 もっとも、そう遠くまでさかのぼらない未開社会の一部では、女性の妊娠・出産が男性との性交によるものではないと考えられていたらしい(マリノウスキー『未開人の性生活』)。それは妖精のしわざであり、男性は性交によって女性の膣に妖精の通り道を開けるだけだというのである。しかしこうした非科学的な神秘性を担保した世界でも、ある特定の男が生まれてきた子どもの父親であるという社会的な認知作用自体は機能している。その特定性は何によって保証されるのかといえば、一定期間、性愛的な空間を共有した(「あのふたりはできた」)という感知が自分たち及び周囲にはたらいたことによるのであって、まずそれ以外には考えられない。
 ちなみにマリノウスキーが指摘した事実は和辻前掲書によってたびたび言及されている。和辻の意図は、家族の人倫性の成立にとって、性交という生物学的な「事実」よりも、婚姻という社会制度に基づく夫婦および親子の「存在の共同」こそが決定的であると強調するところにある 和辻の指摘は、人間社会をただ生物学的自然から因果づけるのではなく、まさに人間社会としてとらえることにとって重要な意義を提供している。しかし「存在の共同」を当事者及び周囲が認知するその根拠は、一対の男女が性愛的・排他的な空間を構成している(あるいは構成することが承認されている)というところにしか求められないだろう。
 もちろん、歴史上、両親が養育の主体となる近代家族のような形態が確立していたわけではなく、母系制氏族では養育は母方の親族によってなされるとか、男は自氏族から他氏族の女のもとにときおり通うだけだったといった形態が存在したであろう。そういう通い婚のような形態の残存は、平安時代の貴族社会などに明らかに認められ、そこでは男は権力に任せて産ませっぱなしで、ほとんど自分の子どもの養育に具体的にタッチしていない。しかしこのような場合でも、特定の男女がある一定期間、性愛の空間を共有したという事績が重視され、それにもとづいてこの子の父親はだれそれ、という認証が行われたことだけは確かである。これは、和辻の言うとおりであって、実際に父親の遺伝子(生殖細胞)が子どもに分与されているかどうかという生物学的事実とは必ずしも関わらない。またこの事実は、一夫多妻制が公認されているような社会においても、何ら変わらない。
 この性愛関係による生活時間の共有の感動はほとんどそのまま、子どもの出産における感動に連続する。そうしてこの感動の連続性が維持されることが、すなわち子どもに対する親の人倫性を形成するのである。そうでなければ、女性が妊娠してその父親が誰だかわからないようなとき、孕ませた男はだれだという非難や好奇心を伴った疑問、つまり関係の確認の欲求が、周囲にあれほど強く巻き起こるはずがない。
 また、養子や連れ子の場合のように、性愛の時間を共有した結果としての子どもでなくても、親の人倫性は十分確保できるではないか、という反論が考えられる。もちろんその通りである。しかしこの場合は、一種の擬制としての家族関係が営まれているのであって、こういう代替機能が可能なのは、そもそも人間という生物が、基本的・自然的な成り行きを観念の力でそのまま引き写して自己演出できる生物だからに他ならない。養子や連れ子に実の子と同じような人倫性を施すことができるのは、「この子を自分たちの間に生まれた子どもと思うことにする」という当事者自身の言い聞かせの力によるのである。

 次に、子どもに対する親の人倫性を支える条件は、子どもが未熟で自立できず、生きるためにまさにほかならぬこの自分たちの存在を必要としているという感覚である。これは一般に「食べさせていく必要」として理解されているが、それだけで人倫性の概念を覆うことはできない。それ以外に、未熟で自立できない存在が可愛らしい風貌や立ち居振る舞いを示していつも手元にいるということそのものがいとおしさをかき立て、その感情が人倫性を育てるのである。
子どもに対するエロス的な感情は、人倫性にそのままではつながらないが、親の人倫性の概念が十分に満たされるためには、この感情の参加を不可欠とする。養育にかかわる責任感も、この感情が伴わなければ、時間や給料や役割によって規定づけられた単なる「仕事の責任」と変わりないものとなろう。
 先に私の父親の、親としてあまりやる気のない疲れた様を描写したが、母が伝えてくれたところによれば、私が記憶に残らないほど幼いころ、父は、私を指して「こいつを見ていると、勇気百倍だな」と言ったそうである。彼は、母が私を孕んだとき、「俺には養っていく自信がないから、堕してくれ」と何度も頼んだということなのだが。


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3 コメント

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Unknown (さらにもうひとこと)
2014-07-17 16:13:01
男は、この世に生まれてきてしまったことの受難が身にしみてわかっていない。そこのところを女はよくわかっているから、男よりも早く家族の歴史を歩み始めたのでしょう。

一緒に暮らすこと、すなわち「共生」ということ、この状態は心の動きを鈍磨させます。すなわち、エロスの衝動が減衰するということ。だから人の心は、共生状態に置かれると、自然にいつの間にかそこからはぐれていってしまいます。そうやって人は旅に出るのであり、そうやって人類は地球の隅々まで拡散していった。
だとすれば家族が、それでも一緒に暮らせるということは、ただ「共生している」というだけではない要素を持っているからでしょう。
人の心は、「出会い」においてときめく。家族とは、共同体(=憂き世)からはぐれてしまっている場であり、そこではぐれたものどうしが出会っている場です。もしも家族という空間でたがいに親密な感慨が生成しているとすれば、それは、共生しているからではなく、つねに「出会いのときめき」が起きているからです。家族とは、構造的に、憂き世からはぐれてしまったものどうしが出会っている場なのです。
家族とは、他を「排除している」空間ではなく、他から「排除されている」空間であり、みんなが「憂き世」という感慨を持ち寄って出会っている空間なのです。
だから家族の論理は、共同体の法の論理と逆立する。

人類史における人間の集団は、はぐれてきてしまったものどうしが出会う場としてつくられてきた。
人間の共同性(=結束)は、他を排除することによってではなく、「排除されている」という自覚の上に成り立っている。
原初の人類は、猿よりも弱い猿として、つねにライバルから追われ追われしながら拡散していったのです。
「排除されている」ということこそ、人間の集団のアイデンティティなのです。とりわけ家族は、純粋に「排除されている」というかたちで成り立っているからこそ、もっとも親密な空間になりえている。
しかし人間が「排除されている」存在であるということは、「排除されている」という意識を持ちやすいということでもあります。両親が親密な家では、子供が「自分は両親の関係から排除されている」という意識になりやすい。そうやって、ひどいときには統合失調症になってしまったり「父殺し」の衝動を持ったりする。
何はともあれ人間の共同性は、誰もが「排除されている」という感慨を共有しながら「出会いのときめき」を体験してゆくことの上に成り立っている。「共生している」という自覚にあるのではない。
父親は、あまり大きな顔をして家族の中心に居座らないほうがいい。父親のアイデンティティは、半分家族の外にあるくらいでちょうどいい。
「排除されている」という自覚を共有してゆくことが人と人の親密さを生むし、「自分だけ排除されている」と思いこむことによって心を病んでしまったりもする。それが、人の心の光と影だ、ということでしょうか。
基本的に、家族の親密さは、共生意識としてではなく、「出会いのときめき」が生成している空間である、ということによって担保されている。何はともあれ、「共同体=憂き世」からはぐれてしまったものどうしがこの広い世界のこの長い歴史の中でたまたま奇跡のような偶然で出会っている、という無意識の自覚を持っているから親密になれるのでしょう。

人は誰もが、この広い世界のこの長い歴史からはぐれてしまっている存在であり、俺は父であるとか夫であるというような共生意識を押し付けてゆくと、かえって相手の心ははぐれていってしまう。はぐれているものどうしになれることこそ、家族の共同性なのでしょう。
それに対して戦後の核家族は、必要以上に共生意識を追求してきたことによって現在の崩壊の危機に瀕しているのでしょう。核家族は、どうしてもそういう閉じられた関係になりやすく、人の心が窒息状態になってしまう。
まあこの国の伝統においては、「女三界に家なし」というくらいで、家の中心である女がすでに家族からはぐれてしまっている存在であることによって共生意識で窒息してしまうことを回避してきたのでしょう。お母さんがどれほどかいがいしく家族の世話をしても、お母さんの心はすでに家族からはぐれてしまっていたし、はぐれてしまっているからこそ客観的な目でかいがいしく世話をすることができた……何かそのようなしくみがあったのでしょう。

家族は、「世代引き継いでゆく」という目的のために存在しているのではなく、一期一会の「今ここ」で出会っているという奇跡を深く共有してゆくことができる場として生まれ育ってきた。
まあ、子供なんか、コウノトリが運んできたようなもので、べつに両親の愛の結晶でもなんでもないですよ。酔っ払っていようと一発やりゃできる、というだけのことです。でも子供の誕生は、親も子も、おたがいに人と人としてのこれほど劇的で不思議で奇跡的な出会いもないのでしょう。
たぶん縄文人は、女だって、子供が自分の分身だという意識などなく、どこかからやってきて自分の体を通過して出てきた、というくらいにしか思っていなかったことでしょう。
死んでゆくということは、「別れる」ということですからね。
詳しく書くことは差し控えますが、縄文人の生のコンセプトは、「別れ」をどれだけ深く豊かに切実に体験できるかということにあって、「共生する」ということに対する欲望は薄かったようです。彼らは男と女が一緒に暮らすということをしなかった。発掘される住居跡は、すべて女子供だけの集落ばかりで、男と女はたえず出会いと別れを繰り返していた。だから、1万年ものあいだ、大きな集落=共同体を持たなかった。それは、女ですら子供を自分の分身だとは思っていなかったということを意味します。だって、父親なんかわからない子供ですからね。愛の結晶を収穫した、となんか思いようがない。人類だって、その歴史の99パーセントをそうやって子を産んで育ててきたのであり、女自身も自分の分身だとも思わなかった。息を吸って吐く。誰もその吐いた空気を自分の体の一部だとは思わないでしょう。まあ、そんなようなことです。しかし、そうやって生まれてくる子だからこそその体験は、愛の結晶がどうちゃらこうちゃらというよりもはるかに劇的で心ときめく「出会い」の体験になっているのです。
彼女らは、妊娠していることがわかったとき、自分の体の中で生命が発生したと思うのではなく、自分の体の中に何かが入ってきた、と思った。妊娠出産は、そうやって出会って別れる体験だった。

人間は「別れのかなしみ」を生きている存在だからこそ「出会いのときめき」を豊かに体験する。誰の心も、そういうバイブレーションとして生成している。
愛の結晶だと舌なめずりして喜んでいることなど、家族の起源・根源にある倫理とはなんの関係もない。「倫理の起源」がテーマであるのなら、そういうことをいっちゃだめですよ。
家族とは、「別れ」を深く体験する場です。そこで死者との別れを体験し、自分もまたそこで人との別れを果たして死んでゆく。成長した子供は、家族から別れて巣立ってゆく。そういう別れの体験と和解してゆく場として、歴史的に家族が機能してきた。
人間は、存在そのものにおいてすでに別れと和解している。つまりこの生からはぐれてしまっている存在だということ、そういう存在だからこそ、いつの間にか集団からはぐれ、いつの間にかはぐれたものどうしの出会いに豊かなときめきが生まれて新しい集団になってゆき、その繰り返しで地球の隅々まで拡散していった。
手っ取り早くいってしまえば、家族の存在理由は、「死と和解できる場である」ということにあるのでしょう。人間にはそれが一番大切なことで、人間はそこから生きはじめ、そこにたどり着いて死んでゆく。死と和解してゆくことが、人間の思考や行動の原理になっている。人の心は、そこから華やいでゆく。
家族は男と女の性愛関係が基礎になっているだなんて、吉本隆明はなんにもわかっていない。そんな薄っぺらで虫のいいことをいってちゃだめだと思う。あなただって、吉本さんとは訣別した方じゃないですか。
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Unknown (追伸)
2014-07-16 11:08:38
人は誰もが、自分の意志とは関係なくこの世に生まれてきてしまった。その不条理との和解を共有してゆく作法として人間社会の共同性の倫理が生まれてくる。自分が夫(妻)で父(母)親であることなんか、家族であることの本質とはたいして関係ないことです。家族は、何はともあれ泡のような存在の人間どうしがこの宇宙の永遠の歴史の中でたまたま出会って一緒に暮らすという奇跡のような偶然を共有しているわけじゃないですか。われわれはふだんそんなことを意識しているわけでないが、心の底のどこかしらにそんな無意識ががはたらいていて、それが家族意識になっているのでしょう。
家族意識とは、血縁意識でも世代意識でもなく、歴史意識ですよ。
べつに、あなたが父であり夫であることを正当化するために「家族の倫理」が存在しているのではない。何はともあれ「倫理の起源」というのなら、「家族の起源」のところまでさかのぼって語ってくださいよ。今どきの核家族の処世術でつじつま合わせをしてもらっては困ります。

まあ、このブログはあなたのシンパばかりだから、あなたのおっしゃるとおりの理屈で収めておいたほうがいいのでしょうかね。あなたのおっしゃることが真実なのでしょうか。

そりゃあ僕だって、気持ちをソフトランディングさせてここから去っていきたいですよ。
僕は、そんなにも無礼ですか。僕の人格は今、壊れてしまっていますか。
ともあれ最初は、あなたが額田王の歌を取り上げておられたから、その「潮もかなひぬ」という表現には「惜別の嘆き」がメタファとして隠されているのではないですか、とコメントしただけですよ。あなたはていねいに返信される主義らしいが、なぜか見事に無視してくれました。あなただって、そのことに関しては無礼だったですよ。
あなただって、吉本隆明の「言語にとって美とはなにか」や「初期歌謡論」と格闘してこられたのだから、このような「メタファ」を探ることは古代文学研究のけっして小さくはない問題だということは承知しておられるはずです。
僕としては、そういう問題なら、あなたの人格や思想信条とは何も関係ないことだから、多少の異論を書いてもいいかなと思っただけです。そして、二人して、今まで誰も気づいていなかった古代文学の問題の核心に分け入ってゆくことができたら、ともひそかに願っていました。あなたの人格攻撃なんか、いっさいしなかったですよ。今だってするつもりなんかないですよ。僕のような人間のくずにそんなことをする資格があるとも思っていません。
まあ、無礼というのなら、おたがいさまですよ。
あなたが、「人間とは何か」ということの真実などどうでもよい、大事なのは俺の自尊感情が満たされることだ、とおっしゃるのなら、ここで掲げておられる「ことばの闘い」とはいったいなんなのですか。
僕は、あなたから完膚なきまでに叩きのめされることを覚悟しつつ、それなりに血肉を絞ってことばを差し出しました。僕だってひとまず孤立無援のところで「人間とは何か」ということの真実に向けて「ことばの闘い」を続けている者の一人として、このフレーズにはいささかの連帯感をおぼえないわけでもなかったです。
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Unknown (なぜ)
2014-07-16 11:07:23
せっかくの機会だから、「家族」というものを本質・根源に向かって問い直してみたいと思っています。
ほんとに、あなたに対する悪意なんかないし、あなたの人格を否定するつもりはさらにありません。人格というのならあなたは、僕よりもずっと高潔な方だろうと思っています。
ただもう、人間性の真実が知りたいだけです。
ここで、僕なりに問題を整理しておきます。
あなたは、家族という概念を男女の性愛関係の上に成り立ったものだと規定し、そこからその3つの条件が提出されている。そうして「それぞれ及びその複合が必然的に要請してくる倫理性を家族はそなえていなければならない」とおっしゃる。
「そなえていなければならない」のが「倫理性」というわけですか。「こう生きればいい」とか「こう生きねばならない」というのが「倫理」というのですか。だから僕は「倫理」という言葉が好きではないのです。仲のいい家族だろうと悪い家族だろうと、みんなそれぞれ「こうしか生きられない」というところを生きているわけで、それはもうできれば容認・肯定していただきたい。もしも「倫理」というものがあるのなら、そうしたすべての家族を容認・肯定したゆくことができるぎりぎりの作法として存在してほしい。
誰だって、自分で望んだわけではないのにこの世に生まれてきてしまって、このような人生を生きる羽目になってしまっているわけじゃないですか。それはもう、取り返しのつかないことです。そんな生き方はだめだといわれたら、立つ瀬がない。おまえなんか生きている資格がない、といわれているのと一緒です。そうやって、間違って愚かな人生を生きている者を裁くために「倫理」というものがあるのですか。
「こう生きればいい」とか「こう生きねばならない」などというのは、僕は「倫理」というのではなく、たんなる「処世術」だと思っています。
現在の核家族は一対の男女の性愛関係の上に成り立っていると合意されていて、それをうまく運営してゆくための「処世術」というのがあるのでしょう。たとえば、夫婦は仲良くしたほうがいいのかもしれないが、仲良くできない夫婦だっているのが人間社会の避けられないなりゆきでしょう。それでも家族は家族であり、まわりがそれをサポートする共同性が生まれてきたりする。性愛関係のことはまあそれはそれとして、外に向かって開かれている家族であることによって崩壊から免れることもある。完全な家族なんかない。「排他性」だけではやってゆけない。夫婦仲が悪くてもなんとかやってゆける共同性というのが存在する。そうなってもまわりや子供たちがサポートすることもあるし、離婚して母子家庭になってもかまわない。夫婦両親の仲が悪くても、親子の仲はきわめて好調な家族だってある。まあレヴィ=ストロースの調査でも、夫婦が余り親密でない社会のほうがかえって親子が親密になっていたりする、という結果が報告されている。
家族が家族であるためのぎりぎりの倫理=共同性とは何か。夫婦両親の性愛関係の好調さなんか、当てにしていられない。そんなことはどっちでもいい、というところから生まれてくる倫理=共同性もあるのでしょう。なぜなら「家族」とは本質において夫婦両親の性愛関係の上に成り立ったものではないからです。文化人類学のフィールドワークにおいて、夫婦が親密でない社会なんかいくらでもある。寒い地方のどこだか、夫婦ではセックスしないで、その相手はおたがい別のところにつくっている、という社会だってありますよ。
家族の本質は、一つ屋根の下に一緒に暮らしている、あるいは一緒に暮らしたという過去を共有している、ということにある。
出稼ぎの人たちが都会のアパートや一軒家を借りて共同生活をしている場合だって、それはそれで家族としての倫理性や共同性があるのでしょう。
あなたのおっしゃる、夫婦両親が仲良くするとか子育てを協力するというようなことは、あくまで今どきの核家族の「処世術」の問題にすぎない。それはそれで大事なことではあるが、それが未来の家族形態にも当てはまるかということはわからないし、1万年前の家族の起源において存在していた倫理であるのでもない。
まあ現実問題として、家族が夫婦の性愛関係の好調さに担保された場であると決め付けてしまったら、崩壊する家族が無際限に増えてしまう。そんなことにこだわっていたら、家族なんかやってられない。だいいち、子供の巣立ちを阻む元凶になってしまう。家族は本質的に性愛関係の場でないからこそ、子供は家族から巣立って新しい性愛関係の場に入ってゆけるのでしょう。

核家族の処世術で家族の本質を語られても困ります。
親の夫婦仲が悪ければ必ず親子関係がゆがんでしまうとはいえないし、よければ必ずそれが順調に機能するともいえない。たとえば十数年前に起きた神戸の連続児童殺人事件の「酒鬼薔薇」という犯人の少年の両親の性愛関係が破綻していたわけでもないでしょう。むしろ逆に仲良く共同戦線を張って子供に向かってくるから、怖かったのか鬱陶しかったのか知らないが、子供は祖父との関係に逃げ込もうとしていた。おそらくあの少年の両親は、この記事に書かれたようなことを実践しているつもりだったに違いありません。夫婦が仲良く協力して子育てすればいい子が育つとも限らないし、人類はそんな倫理道徳をつくってきたのでもない。
父親が正義ぶって家族の中心に居座っていることが健康なことだとも本質的なことだとも僕は思わない。
通い婚の平安時代の貴族社会だってちゃんと父親が認証されていたといったって、男が社会運営の主導権を握り、男の血筋が問われる社会であったのだからとうぜんです。そんなこじ付けで人類史の普遍を語られては困ります。平安時代はもちろんのこと、人類史においては、ほかの男の子供を産んでおきながら亭主の子供にして知らんぷりしている女なんかいくらでもいるのですよ。
>女性が妊娠してその父親が誰だかわからないようなとき、孕ませた男はだれだという非難や好奇心を伴った疑問、つまり関係の確認の欲求が、周囲にあれほど強く巻き起こるはずがない。<
といわれますが、そんなことは制度的な大衆暴力であって、それを問うのが人類普遍の倫理であるのではない。「誰が父親でもいいのよ、子供に罪はないわ」と慰める女はたくさんいますよ。そのことのほうがむしろまっとうな人間社会の「倫理」というものでしょう。
夫=父親の存在の正当性を無理やりこじつけて家族の本質を語っても、せんないことです。

子供がひとりでは生きられない存在でとてもかわいい存在だという感慨は、両親でなくても、まわりの誰もが抱くことです。たいして感じない両親もいれば、両親よりももっと深くそれを感じる人だっている。そしてたとえ両親だろうと、面倒くさくてしょうがないと感じる瞬間だってある。
昔は、大家族だった。そこでは、生まれた子供に対して誰もが同じように愛情を注ぎ、同じように子育てに参加していた。べつに両親が不仲だってたいして問題にならなかったし、たとえば農家の嫁なんかただの労働力で産む機械に過ぎなかったから、産後の肥立ちが悪くても医者に診せてもらえずにあっさり死んでしまったりすることも多かったし、そのあとすぐに後妻をもらうということも珍しくもなんともなかった。また、父親よりも同居している父親の弟(叔父)のほうになついている子供なんかいくらでもいた。
そしてその叔父さんという次男坊三男坊は、一生結婚できない場合が多かった。彼らに、自分の血を残すという「世代」の意識なんか持ちようがなかった。それでも、同じ家族として一緒に暮らしているということで、甥や姪をいつくしむ感慨は両親に負けないくらい持っていたりもしたのでしょう。だから、慕われた。
べつに、子供をいつくしむ気持ちは、両親だけのものじゃないし、世の中にはその気持ちをもてない両親もいるし、それはそれでしょうがないことです。

血がつながっていない子供は、つながっていると思い込む「擬制」を観念的につくる、だなんて、いったいなんなのですか。それは、擬制の家族意識なのですか。よくそんな差別的なことがいえるものだ。
一つ屋根の下で一緒に暮らしていれば「家族」なのですよ。
西洋人は、アジアやアフリカから養子をもらうことを平気でする。顔の作りも肌の色も違うのだから、血がつながっていないことなんか一目瞭然ですよ。それでも彼らは、しんそこから自分の子供だと思って育てている。子供だって、その気になっている、そういう気持ちになれるのが人間であり、それが家族意識です。何が「観念的な擬制」か、くだらない。
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