小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

倫理の起源45

2014年09月01日 21時08分03秒 | 哲学
倫理の起源45



4.職業

 仕事に就くという営みは、誰にとってもその必要性が自明視されている。そうしてその意義が、衣食住の確保や年少者の養育や弱者の庇護という点に求められることも当然とされている。このことに疑いをさしはさむ余地はないが、これらの点だけで勤労の意義が満たされるかといえば、そうではない。
 人が働くことの意義は、人間が社会的動物であることと深く関連している。人と人とをその活動において結びつけるのは、広義のエロスと広義の労働である。繰り返しになるが、この場合、労働という概念のなかには、戦争や政治、それらについての合意形成の試みなども含まれる。
 こうした結びつきの繰り返しの中から言語が発達してくる。言語の発達はさらに労働の共同を促進する。労働の共同は、共同体の中で有形無形の生産物を生み出すための協業の過程についての合意を必ず伴っている。この合意が成立している状態では、時間的な意識の射程と空間的な意識の広がりとが集団のメンバー同士の間でともに一致していなくてはならない。この一致が成立している限り、人々が分業のアイデアを持つようになることは必然的である。そこで職業は分化していく。
 この分化が進んだ状態を、ひとりの主観的な立場からみなすと、特に自営業などの場合、一見、自分は他とは独立した個人として特定の職業に従事しているかのように感じられるが、それは間違いである。彼はある職業人として労働するために、身体の維持、道具や資材の獲得、時間と空間の確保、能力の養成、他者との取引などを必要とする。これらはみな、自分の属する共同体とのかかわりを通して得られるものである。最も独立していると感じられるのは、自分の身体であろうが、それも一定の時間のなかで維持されるために、食料資源その他を他者の労働によって提供されなくてはならない。さらに、ロビンソン・クルーソーのように一人で自給自足する場合でも、食料獲得の知識や技術だけはあらかじめ他者から伝授されていなくてはならない。
 また、職業は社会的分業のネットワークの上に成り立つのであるから、職業人の条件として不可欠なのは、自分の活動が「他者にとってのもの」として機能することである。自分の活動によってもたらされた財やサービスがただ「自分にとってのもの」として消費される場合、彼は職業を持っていないのである。まったく自給自足状態にある孤立した個人(ルソーが想定したような「自然人」)を仮定するとしても、そういう人を職業人とは呼ばない。
 すなわち、ある人がある職業についているということは、社会のなかでのある役割を分担することにおいて、彼が社会全体と関係を持っていることを意味する。彼がある職業人でありうるのは、ちょうど婚姻が日本国憲法の謳うような「両性の合意のみに基いて」成立するのではなく、周囲からの承認によって初めて成り立つのと同じように、社会からその事実を承認されることによってである。この関係は、彼の人格のあり方を深く規定すると同時に、彼の人生に具体的なイメージを与える。
 なお社会からのこの承認の証は、彼の労働に対する報酬(対価)のかたちで表現されるが、資本主義社会(市場社会)では、この大部分が金銭によってなされることは言うまでもない。しかし他の社会では言うに及ばず、資本主義の精神がとことん貫かれている社会でも、報酬がすべて金銭などの計量可能な物的対価によって表現されるのかといえば、必ずしもそうではない。感謝激励、地位の保証や新しい地位の提供、やりがいのある仕事の委託、財やサービスの享受者の数の多少、賞罰などが、彼の職業意識に大きな影響を与えるからである。
 ここに職業倫理というものを考えるための重要なヒントが隠されている。ちなみに生産財やサービスの享受者の数が多いからといって、それが金銭的な利益に直接結びつくとは限らない。たとえば偉大な科学技術の発明は、その恩恵に浴する人間の数が計り知れないが、発明者はそのぶんだけ利益を得られるわけではない。また公務員は、多くの人にサービスを提供しているが、給料は一定額に抑えられている。
 以上を要するに、職業倫理を支えているものは、それぞれの職業人の人格的な価値を相互に承認する社会の共同態的なあり方であり、逆に職業人が社会に投げ込む労働の表現や関心や熱意の総体が、その社会のあり方を動力学的に規定する。そもそも「職業」という概念自体が、自分の労働が自分のためにのみ営まれるものではなく、同時に一般的な他者「にとって」のものでもあるという理解のもとに成立するのである。この理解はまた、人間を共同存在として把握する基本的な理解にまっすぐ通じている。
 こうして、職業が要請する人倫性は、次のような特性を持つだろう。

役割にふさわしい技量を持つこと。それを持っていると評価されること
その技量を一定時間、熱心に集中的に行使して、他者の要求や報酬に見合うだけの財、サービスなどを提供できること
自分の職業に直接かかわる協業者との関係を円滑に運ぶこと。たとえば会社員であれば、同僚、上司、部下などとのかかわりに配慮すること
職分に応じた責任の自覚、責任を果たしえなかった時の身の処し方の自覚を持つこと
同業者とライバル意識を持つと同時に、それが単なる敵対関係ではなく、共感の培養の役割をも果たすこと。これは昔からどこの国にもある職業組合、同業団体などに典型的に表現されており、むき出しの競争だけでは内部崩壊してしまうことが自覚されている(もちろんこれらの団体は、外部との関係では、閉鎖性、排他主義、公共精神の欠如など、弊害をさらすこともある)。
享受者(顧客)の満足を誠実に追求すること。だれが享受するのかわからないような複雑な構造を持つ近代社会でも、この精神が要求される。

 以上列挙したことは、職業倫理として当たり前であると思われるかもしれない。事実当たり前なのだが、実態はこれらがいつも満たされているとはとても言えない。たとえば政治家やマスコミ人のなかにはその職分に応じた責任を果たさない人が多いし(④)、私の同業者である言論人のなかには、その役割の重さを自覚せず、バカなことを吹きまわって高額の報酬を得、しかもその地位を決して脅かされないような例が多い(①、②)。
 このおかしな(不当な)現象は、おそらく「言葉で商売する」という職業の特性に起因するのであろう。大工が床の傾いた家を作ったり、板前がまずくて食えない料理を作ったら、職業人としてたちまち失格の烙印を押されるのに、政治家やマスコミ人や言論人はそういう厳格さが相対的に少なくて済んでいる。ソクラテスはこの事実を、弁論術のいい加減さとして鋭く突いたのだった。
 この問題を追究していくと、なぜ言葉は言葉であるという理由だけで、権威を勝ち取ることができるのか、それは言葉というもののどんな特性に拠っているのかという問いに結びつくのだが、それは他の機会に任せよう。
 とまれ、上記のような職業倫理をきちんと果たしている人は、どちらかというと華々しい有名人よりも、名もない市井の地道な職業人、たとえば鉄道員、郵便配達人、バスの運転手、大工や板前などの職人、看護師、自衛官、消防士、等々に多い。いろいろ理由はあるだろうが、誰に対して何をどうするのかが具体的に限定されていて、役割のはっきりした職能であるという事実が、そうした好ましい社会的人格を生むのだと思われる。
 おそらくこの事実は、古今東西変わりがないだろう。そうして、この事実は、一般社会的な意味での「人倫」とか「善」とかはいったい何であるかという問題に対する一つの回答を提供している。すなわちその回答とは、繰り返し述べてきたように、平和で秩序の保たれた共同体のなかで歴史的に育まれてきた、よき生活慣習の体系こそが、社会的な人倫や善の精神の生みの親なのである。
 ではここで作用している人倫精神の究極的な(哲学的な)原理は何か。それこそは 功利主義原理(万人にとっての快や幸福を目的とする原理)である。
 たとえばここに、お店を持っているひとりのまじめな板前さんがいるとする。彼が職人として誇りを持てる最大の条件は、「いい店だ」という評判によっていつもお客が来てくれることだろう。この誇りを実現するために彼はどんなことに気をめぐらすだろうか。

・よい新鮮な食材を常に確保する
・自分の腕を常に磨く
・よい道具を選び、日ごろからそれを大切にする
・毎日を規則正しく勤勉に過ごす
・客の喜びそうなメニューを考える
・店の雰囲気づくりを心がける
・適切な従業員を雇う
・若手との息の合った協力関係と、彼らに対する適切な指導を忘れない
・客層の特徴をつかむ
・馴染みも新顔も大切にする
・時代の変化に敏感であろうとする
・適正な価格について考える
・他店をリサーチし研究する
・周辺地域との良好な関係を維持する

 まだまだあるかもしれないが、要するにこれら一連の配慮において、彼は自分の店を可能な限り「よい」店にしようとしているわけである。ところで見やすい道理だが、この「よい」とは、単に繁盛して儲かるという自己利益の意味だけに限定されるのではなく、客にとって「よい」と感じてもらうという意味を不可欠のものとして含んでいる。前者と後者とは、どちらを優先させるべきかといった二者択一的な問題ではなく、この店の「よい」が成り立つための一体不可分の条件である。こうした数々の配慮も結局は自分が儲けたいためだといったエゴイズム原理も、逆に、身を犠牲にしても客に奉仕すべきだといった道徳原理も、この「よい」を説明することができない。
 じっさい、あそこの店はうまいぞという評判が立って客が増えれば、彼はそのことに発奮してさらに右のような条件を満たそうと努力するだろうし、その努力が実れば、客はますます喜び、結果として店は繁盛するだろう。私たちは、このような発展の好循環そのもののうちに、彼の職業倫理がうまく実現しているのを見るわけである。
 職種によって、どういう部分に力を入れるかという点では様々な差異があるとしても、ここにはたらいている功利主義的な原理はあらゆる職業に共通であって、普遍的に成り立つ。「徳は得なり」――自己利益追求と職業倫理とは、本来矛盾しないのであり、矛盾する現象があまりに多いのは、自己利益追求者が人倫とのこの統一を忘れてしまうからである。
 しかも重要なことは、その統一の忘却が、単に彼の視野の狭さや幼さや道徳的欠陥といった個人的理由に起因しているというだけではなく(もちろんそうとしか言えない場合もあるが)、そのような忘却を促す社会構造的な原因、つまり共同体全体の政治経済的なあり方が大きく作用しているという事実である。よい職業倫理が生きるためには、ただ精神論をぶつだけではダメで、政治経済的なシステムのどういう特性(たとえば悪政や貧困)が人倫を荒廃させることになるのかという理性的な分析がぜひとも必要である。


*次回も職業倫理について書きます。


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