小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

倫理の起源38

2014年07月05日 02時39分54秒 | 哲学
倫理の起源38




2.友情(同志愛)
 
 友情は、広い意味でエロスの一種である。それは性愛と類似した排他性をもち、したがって個と個との愛憎の関係に発展する可能性を常に秘めている。三人以上の関係では、恋愛によく似た嫉妬の情もバカにならない意味を持つ。
 ことに、当事者が低年齢である場合、性愛が禁じられている閉鎖的な空間の場合、異性の混入を排する規範が強力である場合などにおいて、友情は性愛的な要素をはらみやすい。男子校、女子校、寄宿舎、刑務所、軍隊などでは、友人関係や先輩後輩関係が同性愛的な要素を持つことが多いという事実がこのことを証している。また前に述べたように、古代アテナイ社会での自由市民(男子)の異世代間の文化継承が肉体的な同性愛を媒介としていた例などは、その典型である。わが国でも、武家社会では、信長と森蘭丸の関係のように、衆道が流行したことはよく知られている。
 しかし男女のノーマルな性愛関係が広く認められている空間では、友情関係は、身体接触を必ずしも不可欠としていない。したがって、一般的に言って、その分だけ、情緒的に緩やかであるということができる。また、この関係は、ふつう四六時中生活を共有することはなく、むしろそれを避けた方が賢明であるという判断が成り立っている。「友情」という概念は、もともと、個人の全生活のうちのある制約されたモードにおける感情の交流を意味していて、そのモードをわきまえずに越境することは危険なのである。
 もっとも思春期、青春期などの一時期、肝胆相照らした友人と片時も離れてはいられないという感情に支配されるような場合もある。しかしそれは多くの場合、いっぽうの過剰な思いに終わり、失敗に帰することが多い。盛岡高等農林学校時代以降の宮澤賢治の、保阪嘉内への熱い友情(恋情)は、その好例である。彼の片思いの挫折感情は、『銀河鉄道の夜』その他の作品にくっきりと反映されている(菅原千恵子著『宮澤賢治の青春』宝島社)。
 友情は、身体接触がなく、生活を四六時中共有するのではないほうが、長持ちするのである。「君子の交わりは淡きこと水のごとし」(荘子)。
 友情形成のメカニズムの基本は、気質の調和、関心および価値観の共有であるが、以上述べてきたことからして、友情における人倫性は、第一に、それが成立し維持されるための限定的なモードを互いがよくわきまえるという点に求められる。この第一の点を踏まえた上で、第二に、互いの生命と人格と意志とを尊重し合い、かつ、積極的に協力し扶助し合うというところに友情倫理が成立する。
 よく男女の間に友情は成り立つかということが問題とされるが、右の二点をお互いがよく守るなら、それは十分に成り立つ。しかし一方が恋心を募らせて他方がそれに引きずられるとか、一方が恋心を募らせることでかえって他方が相手の気持ちを「勘違い」とみなして引いてしまうとかいう場合には、「友情」としての関係は壊れて別物に変化すると言ってよい。いっぽうが恋心を募らせても相手がそれに応じないことを悟り、抑制を効かせて元のモードに収まるなら、友情は続くだろう。

 次に、友人関係とその外側との関係では以下のようなことが言える。
 友情倫理は、家族倫理との間では住み分けがしやすい。もちろん、親子の「情」が友人関係を邪魔したり、友「情」がそれぞれの親子関係を無視したりすることは大いにあり得る。たとえば親は、息子や娘が「悪い」友だちとつきあっていると判断した場合は、悩んだり介入したりする。しかし、双方にそれぞれ健全な人倫関係が成り立っている場合には、一方の関係から他方の関係への理解と承認と尊重が得られやすいのである。たとえば、息子の友達が訪ねてきたときには、母親は一生懸命もてなそうとするし、ふつう人は、自分の友達の両親に対して礼儀をもって接するものである。
 また友情倫理は、職業倫理、個体生命倫理との間には親和性が強い。職業倫理は、友情を生む媒介となることが多い。たとえば同じ職業、同じ企業、同じ仕事についていることは、それだけ話題や関心や価値観を共有させやすいから、うまくはたらけば友人関係の生みの親となる。また逆に友情の交流が共通の社会観、職業観を育て、結果的に同じ道を目指すということもしばしばあることである。
 個体生命倫理については、その特性について別項で述べるが、これは最も一般的・抽象的な倫理的原理なので、人間社会全体を憎むのでない限りはだれもが多少は持ち合わせている。そこで言うまでもなく、親しい仲である友人関係においては、この生命倫理がたえず作用していることになる。相手の命や健康のことを、遠い他人よりもより強く気遣うのは、ごく自然なことである。
 しかし、以上二つに比べて、友情倫理は、性愛倫理との間では背反しやすい。その意味は二つある。
 一つは、すでに述べたように、友情と性愛とはどちらも広い意味でのエロス感情なので、類似点が多い。そのため、一人の人にとってしばしば両立を妨げることがある。たとえばある友人への忠誠が強すぎると、そのことがその人の性愛の対象(恋人や配偶者)に、自分のことを大切にしていないという嫉妬感情を抱かせることがある。昔の男はよく、同僚や友人と外で酒を飲んで、妻に断りなく自分の家に連れ込んできたものだが、これに対して妻が怒るのは、彼女にしてみれば、日常生活、家庭生活を乱されて迷惑だというだけではなく、男の勝手なふるまいが男友達のほうを優先して自分の存在を軽視しているという感じを与えるからである。
 もう一つは、漱石の『こころ』に描かれたような、三角関係のケースである。
 この作品は、ほとんど、K―先生―私の三者をとおしてのホモセクシャルな観念の継承と循環が描かれているだけで、現にKの自殺の縁となり、いま現に先生の妻である女性の「心」の風景がほとんど表現されていない。人間関係の複雑な実相にまで作者の視線が届いていず、男性特有の独りよがりな苦悩の述懐に終始している。そういう意味で、私は文学作品としてあまり評価しないが、性愛関係と友人関係の両立の困難にまつわる倫理的な苦悩のあり方については、簡明な図式を提出しえている。
 この作品に象徴的に表現されているような友情と恋愛との相容れなさは、ふつう読み解かれるように、「エゴイズム」と愛他精神との矛盾相克を表しているのではない。そういう捉え方は、悪い意味で観念的である。「先生」の言葉だけをたどれば、彼がいかにも自分の「エゴイズム」の醜さに打ちのめされているかのように読める。しかし彼は別に抽象的な愛他精神が不足していたことについて悩んでいるのではない。よく親しんだひとりの人間個体との関係を壊すきっかけを自分が生み出してしまったことについて悩んでいるのである。
 この両者の相容れなさが露出するのは、まさに具体的なエロス関係の空間においてなのであって、しかもその生みの親は、性愛の牽引力の強さなのだ。友情と性愛、それぞれの関係様式の質的な違いがまさにこの葛藤を引き起こすのである。それは自愛か他愛かの違いの問題ではない。友人同士のそれぞれに好きな異性がいれば、こうした事態はけっして起こりえないし、その場合には友情も愛他精神も無傷で保存されるだろう。

 友情倫理はまた、公共性倫理との間でしばしば矛盾相克を生み出す。
 たとえば先に述べたカントのいわゆる「ウソ論文」では、刺客に追われて逃げてきた友人をかくまったが、刺客が来て「やつがここに来ただろう。隠すな」と迫られたとき、たとえ友人をかばうためでも嘘をついてはいけない、なぜなら嘘を場合によっては許されることと規定してしまったら、道徳的義務一般が成り立たなくなるからだと言われていた。カントの言い分は、「義務」の概念が普遍的に(理性の光の下に)成り立つためには、原則的に「ウソ」を許してはならないのであって、これを許すと、「義務」一般の根拠が崩れるというのである。
 ここではカント批判を繰り返さない。こんな極端な例ではなくとも、私たちは実際の生活のなかで、親しい間柄を優先させるか、「正直であること」を優先させるかで選択に迷うことがあるのは事実である。すでに引いたが、同じような問題は、『論語』にも出てくる。もう一度それを引用しよう。もっともこの場合は、友人ではなく、親子なのだが。

 葉公(しょうこう)孔子に語(つ)げて曰く、吾が党に直躬(ちょっきゅう)なる者有り。その父 羊を攘(ぬす)みて、子 これを証せり、と。孔子曰く、吾が党の直なる者は、是に異なり。父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。直は其の中に在り、と。(子路一八)

 ここでは、カントとはまったく反対に、身近な関係(エロス的関係)の「親」を大切にするほうが正直さにかなっているのだと説かれている。わが国でも、刑法105条では、犯人の親族が証拠を隠匿した時は、その罪が免除されるとしている(儒教研究者・加地伸行氏のご教示による)。
 私自身も、感覚としてはその方が当然であると考える。しかし一般に儒教道徳は、五倫五常のように、社会道徳のあるべき姿を書き並べるが、それらが関係のあり方によって矛盾してしまう(いまの場合で言えば、友情倫理や親子感情と、公共性倫理とが矛盾してしまう)実態がこの世に数多くある場合をどのように克服するのかという問題に関して、深く突き詰めた形跡がない。そこで右のような例を持ち出せば、カントと孔子とどちらが正しいのかという水掛け論を導いてしまうだろう。
 この、義を通すために友を裏切る、肉親を公共性のためにやむなく差し出す、などのテーマは、それぞれの倫理性の「原理」を表す命題の二項選択といった「論理言語」的な考え方をしているかぎり、解決不能である。最後の「公共性」の項で主力を注いで扱おうと思うが、ここではさしあたり、ただ、当事者の心情のあり方や、現世を生き抜ける智慧のあり方にゆだねるほかはない、とだけ言っておこう。


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2 コメント

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訂正 (訂正)
2014-07-09 00:59:09
「それから」ではなく「行人」でした。
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もうひとことだけ (何度もすみません)
2014-07-08 11:18:04
もうひとことだけいわせてください。
友情とは何か、その倫理とは何か、ということ。
たとえばここに僕が反論を書き込んでも、あなたがそれに反応することは百害あって一理なしのことだから、無視されるのはまあいいです。しかしあなたにはたくさんのお仲間がおられて、誰も助けに来ないというのはなんなのでしょう。普通は、「こんなアホを相手にしてもしてもしょうがないよね」くらいのことばは差し出すでしょう。
以前、僕のブログにひどい執拗な嫌がらせのコメントが入ったとき、たくさんの見ず知らずの人から援軍のコメントが入ってきて、大いに感激させられました。僕だって、ふだんからの気に入っているブログなら、黙っていることはできません。当人がためらうようなら、僕が代わりに反論するし、じっさいそうしてきました。ネット社会の友情なんて、ほんとにあるかなきかのような淡いものだけれど、それでもしらんぷりできなくなってしまうのが人情というものでしょう。
しかし僕だって、ただの嫌がらせだけを書いているわけではない。それなりの労力と時間は支払って、それなりに真剣な問題提起はしているつもりです。もしも友情が機能している場所なら、普通は「それはそうではない、こうだ」と誰かが返答なり反論を肩代わりしようとするでしょう。ただの「おまえの母ちゃんでべそ」とか「死ね!」とかというような嫌がらせなら知らんぷりすればいいだけだけど、あなたの論理は、本当にそれで磐石ですか?あなたたちは本当に「人間は本能が壊れている」などというちんけな人間理解ですむのですか?本当にこのブログの読者はみな、あなたのおっしゃることに同意しているのでしょうか?
それにしても、あなたたちの友情って、いったいなんなのですか。
究極においては、人は自分の命を差し出してでも友人をかばおうとするでしょう。ときには、友人でもなんでもないあかの他人だって助けようとしますよ。なぜなら人間は「もう死んでもいい」というところに立っている存在だからです。心は、そこから華やいでゆく。人間は、そこから生きはじめ、そこにたどり着いて死んでゆく。友情だろうと男女の愛だろうと同胞愛だろうと、自分なんかもう死んでもいい、という無意識の感慨の上に成り立っている。
あなたの思考は、「人が人を好きになるとはどういうことだろう」というもっとも基本的な問いが粗雑なのですよ。第三者を排除するということは、二次的な制度性の問題です。好きになれば、第三者の存在なんか見えていないのです。
宮沢賢治は、べつに第三者を排除していたわけではないでしょう。ただもう自分の命を差し出す気持ちと相手の存在を祝福する気持ちが切実で豊か過ぎただけではないのですか。
第三者を排除することが人を好きになることの本質ではないですよ。一対一の関係に入り込んでしまうことは、第三者が見えなくなることであって、排除することではない。
人が人を好きになることの本質は、「排他性」とか「自己意識」とか「嫉妬」とか「変態」とか「観念性=本能が壊れている」とか、そういう二次的な問題のところにあるのではない。あなたはなぜ、その「好きになる」ということの本質=純粋体験に飛び込んでゆくことをしないで、周辺の表層ばかりまさぐっているのか。

僕のような雑魚に、「なんでそのていどしか考えられないのかなあ」といわれれば、もし僕が友達なら黙っていられないです。それが友情というものでしょう。人を好きになることの底には、自分は死んでもいいけど「あなた」には生きてもらいたい、という無意識の感慨が疼いている。それは、エロスの問題であると同時に、それだけではすまない人間存在の実存の問題でもある。

同性の友情も男女の関係もエロスの衝動の上に成り立っているといわれるが、男女の関係にだって、エロスから離れた純粋な人間どうしの関係はあるでしょう。一週間に一回セックスする夫婦は、それ以外の時間をどうやって関係しているのでしょう。
たとえ男と女のあいだであろうと、相手を性愛の対象としてではなく純粋に人間として向き合っているのであり、そういうことができる人間のほうが異性にもてたりする。夫婦関係だって、そういう部分がなければ持たない。それは「あなたが生きていてくれれば自分なんか死んでもいい」というタッチなのです。人間存在の根源に、そういう感慨が疼いている。猿よりも弱い猿として歴史を歩み始めた人類は、無意識のその感慨によって生き残ってきた。
エロスの衝動を丸出しにして寄っていったら、かえって相手は逃げてゆく。なんのかのといっても、人間として信頼できるかとか魅力的かという問題は、単純なエロスの問題ではすまない。「あなたは生きてくれ」という願いの問題です。人類史には、そういう願いがはたらいてきたのです。そしてそれが、エロスの衝動でもある。エロスの衝動は死の衝動でもある。死の衝動として人類は一年中発情している猿になっていった。
誰だって、オスとかメスということ以前に、まず「個体」として存在している。「実存」の問題というのか、男が女を好きになることだろうと男が男を好きになることだろうと、「あなたに生きていてほしい」という願いからはじまっている。自分が死んでもこの人には生きていてほしい。親と子の関係だってそうでしょう。自己犠牲というのではなく、人はなぜけんめいに他者を生かそうとするのかといえば、根源的には「もう死んでもいい」という感慨の上に生きているからであり、その感慨は他者が生きてあることに対するときめきから生まれてくる。つまり、自分を忘れて世界や他者に憑依してゆくこと、それが「認識」という意識のはたらきの基本のかたちでしょう。自分を忘れることは、「もう死んでもいい」という感慨の上に起きている。人間は、「自己意識」として存在しているのではない。たえず「自己意識」にけりをつけながら存在している。「われを忘れる」というときめき(=自己意識からの解放)を体験できないと人は生きられない。人間ほど自分を忘れて何かに夢中になってゆける生き物はいないし、それは人間存在が「もう死んでもいい」という感慨の上に成り立っているからでしょう。「ときめく」とは、「もう死んでもいい」という感慨のことです。

夏目漱石の「こころ」の主題は、友情ではなく、人はどのようにして「もう死んでもいい」という心地(境地)になるのか、ということにあるのではないでしょうか。何度も喀血して自分の死期が近づいていることを自覚した漱石としては「則天去私」の問題として、それなりに切実なモチーフだった。「先生」の奥さんのことをほとんど書かなかったのも、「三角関係」がテーマであったのでもないからでしょう。人間は「もう死んでもいい」という心地になれる存在である、というところを確かめたかった。「先生」を高等遊民にしたのは、この世の無用の存在にならないことには「もう死んでもいい」という心地になれないからで、「先生」は、罪の意識に責めさいなまれてきたのではなく、どんどん無用の存在になっていった。それで、生きているのはもうこれくらいでいい、と思った。則天去私、すなわちこの世の無用の存在になるということ、それが「こころ」の主題であり、「先生」は三角関係の「苦悩」なんか語っていない。「私はこの世の無用の存在であり、もう生きている理由がない」と語っているだけでしょう。
漱石にはたぶん、自分は無用の存在だという意識がつねにあったはずです。そして無用の存在は、第三者なんか排除しない。排除する「自己」を持っていない。どこかしらで、自分なんかもう(いつ)死んでもいい、と思っている。
「それから」だったか、嫂が「私はいつでも嵐の海に飛び込んで死んで見せる」というようなことを語るシーンがあったけど、漱石にとって「もう(いつ)死んでもいい」ということはとても大きなテーマだったはずです。

感動するとは、「もう死んでもいい」と思う体験です。それが、人が人を好きになることの純粋体験です。人が人を好きになる体験はすべてエロスの衝動であり、それは排他的になることでも、自己意識でもない。排他的になった時点で、すでにエロスの衝動から逸脱している。嫉妬に狂う、なんて、女の情念でもなんでもない。時には男のほうがもっと嫉妬深いし、それは、共同体の制度性から照射されてくる自己意識です。
反対される恋ほど燃え上がるというのは、第三者を排除しているのではなく、第三者から排除され追いつめられながら純粋体験に入っていっているだけです。

人と出会ってときめくということは、自分がこの世の無用の存在になるという体験です。「あなた」がこの世に存在するということに対するときめきだけに浸されて、自分のことに対する意識が消えている。たとえ一瞬でも、人はそういう純粋な体験をする。倫理は、そこから生まれてくる。「人間の自然」としての共同性も倫理も快楽(ときめき)も、そこにおいて生まれる。かんたんに「排他性」の問題だといってもらっては困る。エロスの問題は、「排他性」の問題じゃないですよ。第三者は排除するのではなく、頭の中から消えてしまうのです。
「こころ」の「先生」の結婚も一種の略奪婚だったのかもしれないが、そういうときにつねに第三者が意識されているかというと、そうではなく、一緒になった瞬間からもう純粋な男と女のきつい関係になって、第三者のことなど忘れている。すくなくとも世間の略奪婚は、だいたいそんなものでしょう。小林秀雄だって、女が中原中也のことなどすっかり忘れてまるごと自分に向かってきたから持て余してしまった。

第三者を排除しようとする制度的な共生意識と、第三者のことを忘れてしまう意識(=自然としての共同性)とはちょっと違う。9・11のジェット機に乗り込んだ犯人だろうと特攻隊の若者だろうと、第三者の敵が憎いという気持ちで突っ込んでいったというよりも、同胞や家族や恋人に対する「生きていてくれ」という願いとともに突っ込んでいった。敵や巻き添えにされる無辜の市民のことなどほとんど頭にないから、そういうことができる。ひたすら仲間に「あなたは生きてくれ」と思っている。自分が死ぬことによって、そういう気持ちになりきることができる。そうやって「無差別テロ」が成り立っている。彼らにだって、人を好きになることの純粋体験がある。そこではもう、無辜の市民を巻き添えにする、という倫理道徳など成り立たない。人はけんめいに愛する他者に身を捧げる。そこのところにおいては、男女の愛も同性の愛も同胞愛も基本的には同じで、人間存在の根源の「もう死んでもいい」という無意識からせかされている。
われわれの日常の「自分を忘れてときめいてゆく」という体験、それじたいがすでに「もう死んでもいい」という人間存在の根源に息づいている感慨から生まれてくる。
あなたのおっしゃることは、検証するまでもなく、アホな僕のいうことなど置き去りにして、はるかに正確に人間の真実に届いているのですか?
何はともあれこれは、あなたに捧げる問題提起です。というか、あほなハイジャック犯人みたいなものですかね。
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