You Tubeで、三島由紀夫が、高校生の男女二人のインタビューを受けているおもしろい番組があります。
https://www.youtube.com/watch?v=Xy502F3slDo
上記URLは全体のインタビューの一部で、わずか7分程度に構成されていますが、当時の高校生のレベルの高さと、それに真剣に答える三島の誠意が伝わってきて、たいへん好感が持てます。
最初に三島が女子高生に「あなたのような若いお嬢さんが僕の小説読んでいやらしいと思う?」と聞くと、女子高生は、「いえ、そんなことはありません。ただ女の人のもつ弱さがそのまんま肯定されている気がするので、みんなでもうちょっと強いわよねって話してます」と答えます。
そのあと、「よろめき」(『美徳のよろめき』――引用者注)の女主人公は僕にとって理想の女主人公みたいに書いてるけど、女流批評家にさんざん叩かれたという三島の言葉があり、それに対して、「彼女の生き方って考える前に行動しちゃってる」という女子高生の言葉が続きます。うん、うんとうなずく三島。
すると男子高生が「女って、考えるのかしら」。
三島「ハハハ……大問題が出てきた」。
女子高生「女なりに考えるんじゃない?」
男子高生「だけどもともと、女性って考える能力に欠けてるから、それでいいっていう考え方があるのかなあ」
三島「僕もどっちかっていうとそれに近い考えだけどね、つまり男が考えるっていうのと女が考えるっていうのと全然違うんじゃないか」
このあと、女は大地や自然に近い考え方で、男の考えは一見論理的で整理されているようだが、大地や自然から遊離しちゃってる考え方だ、と三島がまとめます。
いかがですか。
いまこんなことを公式的に言ったら、三島だけでなく、男子高生も含めて、どこかから袋叩きに会いそうですね。
でも半世紀以上前には、こういうことが堂々と言えたのです。
とてもおおらかで、いい雰囲気です。
筆者自身、三島のこのとらえ方は正しいと思います。
30年近く前、そういう意味のことを書いたこともあります。
筆者が書いたときは、これよりだいぶ後なので、周囲に相当気を遣いました。
というか、フェミニズムやジェンダーフリー的な傾向にとても違和感を覚えたので、それに抵抗するつもりで書いたのです。
今はどうでしょう。
もっとずっと息苦しくなってますね。
性差について何か言うごとに「ポリコレ、ジンケン、サベツ!」のつぶてが飛んでくるのではないか、と絶えずおびえていなければならない。
でも、これらのつぶては、「人間は法的社会的な人格としてはあくまで平等だ」という近代の原理だけで人間生活のすべてを押さえられると思いこんでいる人たちによって投げられるのです。
法的社会的な人格として平等――福沢諭吉の言う「権理通義」において平等というやつですね。
もちろん筆者もこの近代の原理を正しいと思います。
でも、人間生活には、この近代社会のたてまえに当てはまらない領域がたくさんあります。
私たちはみんな近代に生きているのに、そんな領域があるのか、と思うかもしれません。
あります。
男と女が私的にかかわりあう領域、つまりエロスの領域です。
もっと広く言えば、親子関係、友人関係なんかもそうですね。
特に、エロスの領域での営みは、そもそも平等か平等でないか、という議論の観点そのものを受け付けないようにできています。
というのも、この領域では、「性差」を媒介にしてこそ交流が成り立つからです。
それは人々が幸福をつかむ重要な契機でもあります。
それが時として「差別」とされるのは、外からの社会的な文脈にもとづく解釈の視点が介入するためです。
本来、この領域で人と人とが個人として具体的にかかわる時には、対立関係とか、権力関係とか、平等不平等といった概念自体が役に立たないのです。
代わって役に立つのは、親和とか、融合とか、懸想とか、愛憎とか、葛藤とか、忌避といった概念です。
でも最近は、ポリコレ、ジンケン、サベツといった政治的概念が、エロスの領域にまで侵入し、猛威を奮っています。
何でも対立関係や権力関係で人間をとらえようとしているのですね。
こういうやり方で人間理解を済ませようとすると、文学も育たなくなるでしょう。
ある一流企業に勤める男性職員が、職場では「女は腫物」と言われているとぼやいていました。
親和的な気持ちで何か言おうとすると、セクハラ! と告発されるのではないかというので、若い男性職員たちは委縮してしまって、めったに声もかけられないというのです。
その結果、出会いの空間はいくらでもあるのに、個人対個人の本当の出会いが成立しにくくなっています。
少子化を政治的に解決するのではなく、政治的な概念の横行が少子化を助長していると言えるでしょう。
先のインタビューで、三島は、女は愛の天才であり、男にとって何かをくみ取る泉のようなもので、人間を作るのが女だ、だから良妻賢母こそ女の本当の生き方としか自分には言えないと述べています。男は夾雑物にからめとられて愛にすべてを込めるなど、絶対にできないのだ、とも。
現代は共働きが当たり前の世の中、男性にも育児休暇が求められる時代です。
なので、良妻賢母という言い方に、いかにも古臭いものを感じる人も多いでしょう。
男性が育児参加するというのは、私も大賛成です。
父親には父親としての大切な役割があるからです。
しかしどうしても育児期の任務と負担は女性に大きくかかります。
これを何とかするには、男と女を「平等」に近づけることが理想だ、そういう環境を整備することが急務だという考え方がいまでは当然と考えられています。
しかし何か肝心なことを見落としていないでしょうか。
まずここには、女性が労働市場に出て働くことが絶対の「善」であるという前提があります。
この前提をいったん認めてしまうと、ほとんどの家庭では共働きをしないと食べていけないからやむを得ずそうしているという現実が忘れられます。
また、女性の賃金は男性に比べて低いので、その構造を変えずに低賃金労働者が市場に参加することは、財界にとってたいへん都合がいい。
そういうからくりがあることも忘れられるのです。
多くの女性は、余裕さえあれば、せめて子どもが小さい間は、子どものそばにいて手厚く面倒を見てあげたいと感じています。
ですから、重要なのは、女性の労働市場参加を「絶対善」と考えるのでなく、大切な子育て期に無理をして働きに出ずゆとりをもって子どもを育てられるような経済的余裕を、どの家庭もが確保することなのです。
そしてこういう状態を実現させることこそ、政治の役割です。
ところが、いまの日本の経済政策は、多国籍企業の利益だけを考えて、こうした国民生活の豊かさの確保に逆行することばかりやっていますね。
欧米では共働きが当たり前という話をよく聞きます。
この話は、それがあたかも理想であり、日本も早くそうなるべきだといった文脈で語られます。
ところが、ここに次のようなデータがあります。
《イギリスの民間保険会社BUPAと美容・健康雑誌「トップサンテ」が5000人の女性を対象に行なったアンケートでは、(中略)、金銭的な問題さえなければ、専業主婦や無職でいたいという女性がほとんどで、仕事をすること自体に意味を見出していた人は二割に満たない。オーストラリアでも、十八歳~六十五歳の女性を対象に同じような調査が行なわれている。人生で大事なことを順番に答えてもらうと、仕事を第一位に持ってきた人は5%だけで、母親であること、という答えが断然多かった。回答者の年齢を三十一~三十九歳に狭めると、仕事を重視する人は2%に落ちる》(『話を聞かない男、地図が読めない女』)
この本が出版されたのは、2000年で、少し古いですが、20年近く経った今の欧米女性が一転して、「働くことは素晴らしい」と考えるようになったとは到底思えません。
欧米の一般家庭の経済情勢も、格差社会化のためにますます厳しくなっているからです。
欧米に比べて日本人の労働意識や男女観は遅れているなどという把握が成り立たないことがわかるでしょう。
三島の言う「良妻賢母」は、古くなってもいなければ、間違ってもいないのです。
三島はまた、男子高生に、先生は同性愛を扱った作品を書かれているが、自分などは同性愛に生理的な嫌悪感を抱くので、その辺はどうなんでしょうかと聞かれて、次のようなことを答えています。
文学は、社会に公認された愛を描くよりは、近松のように、ばれたら死罪になるような愛、社会に受け入れられないような愛であればあるほど、そのなかに純粋さを見出そうとする。同性愛もそういう一つだ、と思っていたんだけれど、最近は、あんまりそう思えなくなっている。同性愛もけっこう普遍的になってきたので(市民権を得てきたので――引用者注)、そこにも不純なものが混じり込んできた。同性愛の人たちにとってはそれはいいことだけれど、文学としてはおもしろくない。
これも真相を穿っていますね。
というか、半世紀前にこういうことをすでに言ったのは、まるで今を予言しているようです。
周知のように、LGBT論議が盛んです。
LGBTという言葉は、90年代半ばから欧米で一般化したらしいですが、これが差別撤廃の動機を潜ませていたことは明らかでしょう。
日本にも上陸して、左翼陣営にとっては反差別運動の恰好の材料とされています。
2018年の初夏、杉田水脈議員が、「生産性」がないのに税金投入するのはおかしくないかと問題提起し、一気に炎上しました。
この「税金」というのが何を意味するのか、明確でないのが杉田論文の難点の一つですが、冷静に読めば、杉田氏がLGBTをかなりよく理解している(たとえばLGBとTとの違いについて)ことがわかります。
また後述しますが、いくつか勇み足はあるものの、彼女が何を問題視しているのかも納得できます。
その後いろいろありましたが、長くなるので委細は省きましょう。
ここで押さえておきたいのは、次の諸点です。
(1)LGBTは、性的な「対象」にかかわる生まれつきの「指向」であって、SMとかフェティシズム、痴漢や窃視癖、スカトロジーなどの性欲求満足の「方法」にかかわる「嗜好(嗜癖)」とは異なること。
(2)レズカップルやゲイカップルの入籍を認める自治体が少しずつ増えてきたが、彼らのすべてが法的な婚姻を望んでいるわけではないこと。自治体の承認によって、あたかもそうであるかのようなイメージが広がってしまったのは困った現象であること。
(3)昔はLGBTであること自体に悩む人が多かったが、いまでは、親にどうやって理解してもらうかについて悩んだり、逆にそれを知った親が悩んだりするケースが多くなっていること。つまり、通常の意味でカミングアウトするかしないかは、あまり問題にならないこと。
(4)日本では昔から、同性愛を禁じる宗教、法律のたぐいがないため、異性愛者と同性愛者は棲み分けが成立していて、さほど緊張した差別関係は見られないこと(ただし、学校でのいじめの材料にはされる)。
以上を踏まえると、LGBT差別を政治問題として言挙げしたのは、このカテゴリーに属する人たち自身であるよりは、むしろ政権に対する攻撃材料を探し求める左翼勢力であることがわかります。
杉田議員は、保守的な立場から、それを問題視したのでしょう。
こうした左翼の「材料探し」は、障碍者問題や、同和問題、古くはアイヌ問題などと同型です。
言うまでもなく、生きにくさを抱えているのは、別にLGBTの人たちだけではありません。
安倍政権の誤った経済政策(デフレ脱却不作為、消費増税、移民政策、派遣法改悪その他)のために、膨大な人たちが低賃金や高額医療や介護離職や派遣切りなどで苦しんでいます。
左翼野党は、こういう人たちの抱える問題をこそ掬い上げて、安倍政権の経済政策を批判すべきなのに、一向にそれをしません。
代わりに、社会問題としてはマイナーでしかないLGBTなどをエサに、人権問題を中核に据えて騒ぎ立てています。それは、彼らが現実課題に頬かむりをして、「反差別」イデオロギーに金縛りになっているからです。
これは日本だけでなく、先進国全体に見られる荒廃現象です。
三島が指摘しているように、同性愛者がある程度市民権を得て、同性愛者であることそのものにさほど特殊性の印を認める必要がなくなったのなら、政治はその対象を、普通の苦しむ人々に向けるべきでしょう。
それだけではありません。
文学もまた、ことさら公認された特殊例の中にその素材を絞るべきではなく、むしろ、一見特殊な印を刻み込まれているのではない人々の中に、固有の実存がはらむ問題の在りかを探り当てて、それを深く掘り下げるべきでしょう。
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