小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

誤解された思想家たち・日本編シリーズその7

2017年04月27日 19時28分03秒 | 思想

      




北畠親房(1293~1354)


 北畠親房の『神皇正統記』は、その考え方にいくつも屁理屈や矛盾があって、突っ込みどころ満載の書ですね。主なものを挙げておきましょう。

①皇統の正統性の根拠を三種の神器(八咫鏡、八尺瓊勾玉、草薙剣)の継承に置いているにもかかわらず、三種の神器を具した安徳天皇が海の藻屑と消えて以後、後白河院の「伝国詔宣」のみによる後鳥羽天皇践祚を認めています。
 これについては原文を引用しておきましょう(第八十二代・後鳥羽院の項)。

≪先帝(安徳天皇――引用者注)三種の神器をあひぐさせ給ひし故に践祚の初の違例に侍りしかど、法皇国の本主にて正統の位を伝えまします。皇大神宮・熱田の神明かにまぼり給ことなれば、天位つつがましまさず。≫

 格好さえつければ何でもいいと言っているみたいですね。

②一方、後醍醐天皇が三種の神器を押さえていたために、北朝方の光厳天皇践祚も後伏見天皇の「伝国詔宣」によって行われましたが、親房はこれをまったく認めていません。しかも光厳天皇は、建武の新政までの二年間、正式に在位していたのです。

③武家政権を否定して、天皇親政の昔に還れと呼びかけているにもかかわらず、頼朝の幕政をほめたたえ、かつ北条泰時の秩序維持の政治をひたすら高く評価しています。

④親房の思想によれば、善政を行った家系は天照大神のみそなわしにより必ず長く続くが、悪政を行なった家系は必ず絶えることになるはずです。ところが、善政を敷いたはずの頼朝の家系は頼家・実朝の暗殺によってわずか三代で滅んでいます。しかし親房はこの事態をどう見るかについてきちんと触れておらず、実朝暗殺は鎌倉幕府に背いた者のわざではないとして、素通りしています。

⑤承久の乱における義時の平定を肯定すると同時に後鳥羽上皇を批判しながら、一方で、足利尊氏を暗に「朝敵」と呼んで非難し、同時に後鳥羽上皇と同じようなことをやった後醍醐天皇を擁護しています。

 以上の③④⑤についてはほぼ一続きの文章で確認できるので、これも原文を引用しておきます(「廃帝・仲恭天皇の項)。なおカッコ内は、引用者の補注。

≪頼朝一臂をふるひて其乱をたひらげたり。王室はふるきにかへるまでなかりしかど、九重の塵もおさまり、万民の肩もやすまりぬ。上下堵をやすくし、東より西より其徳に伏せしかば、実朝なくなりてもそむく者ありとは聞えず。(中略)頼朝高官にのぼり、守護の職を給、これみな法皇の勅裁也。わたくしにぬすめりとはさだめがたし。後室その跡をはからひ、義時久しく彼が権をとりて、人望にそむかざりしかば、下にはいまだきず有といふべからず。一往のいはればかりにて(後鳥羽上皇が承久の乱を起こして敗れた後)追討せられんは、上の御とがとや申べき。(尊氏のように)謀反おこしたる朝敵の利を得たるには比量せられがたし。かかれば(後鳥羽上皇が乱を起こしたのは)時のいたらず、天のゆるさぬことは疑ひなし。但(尊氏のように)下の上を剋するはきはめたる非道なり。≫

 これらは、よく読めば子どもでも分かる撞着や偏向であって、すでに早くから指摘されています。しかしこの書の成立事情や親房の動機を考える時、共感できるとは言わないまでも、なるほどそういうわけか、と納得することはできるのです。
 まず、よく知られているように、北畠親房は、鎌倉幕府が滅んだ後、短い建武の新政が終わり、やがて南北朝時代に移って行くときに、後醍醐天皇とその子孫を皇統の正系として擁した南朝方の有力リーダーです。ですから、南朝に有利な記述に偏するのは当然と言えば当然でしょう。
 また、親房は、庶流とはいえ、村上天皇の血筋を引くプライドの高い貴族の末裔です。しかもその才能によって早くから後醍醐天皇のおぼえめでたく、若くして正二位、大納言にまで昇りつめています。
 彼は、心情的には明らかに武家を下品で賎しい身分として軽蔑していました。そうして当世をその賎しい身分によって乱された末法の時代と考えていました。それなのに、頼朝治世の称賛や、泰時に対する異常なほどの高い評価は、いったいどこから来ているのか。
 それは、ひとことで言えば身びいき感情です。というのは、まず親房は、村上源氏(より詳しくは久我源氏)の流れを汲んでいます。頼朝は清和源氏の流れなので、だいぶ系統が異なりますが、それにしても天皇家の皇子が賜った臣籍として同じ源姓を戴いていることのうちには、おのずからな共感ともいうべきものがはたらいていたとみるのが自然です。
 次に持明院統(第八十九代・後深草天皇)と大覚寺統(第九十代・亀山天皇)との間に皇位継承争いが発生する前、皇統は廻り持ちでそれなりに安定していました。その中に、第八十三代・土御門天皇とその嫡子である第八十八代・後嵯峨天皇がいます。この二人の天皇の母はそれぞれ村上源氏(より詳しくは久我源氏)の通親、通宗の娘であり、共に親房の先祖に当たります。つまり彼は、単に遠く村上天皇の末裔であったばかりでなく、この二人の天皇とたいへんゆかりの深い外戚だったのです。
 ところで、後嵯峨天皇の践祚に大きな力を及ぼしたのが、なんと泰時でした。親房は、自分の家系である村上源氏が天皇家と深く結びつくことに貢献してくれた泰時に、感謝の情を強く抱いていたわけです。
『神皇正統記』の土御門院、後嵯峨院の項を読むと、土御門院が承久の乱に関して父の後鳥羽院や弟の順徳院を時期尚早と諌める英明ぶりや、その温和で思いやりの深さが強調されており、また、泰時をべたほめしている調子が露骨に出ているのがわかります。

 さて『神皇正統記』の史実としてのいかがわしさや記述の矛盾について長々と述べてきましたが、私は、親房の記述のこうした傾向を、偏った見方をしているからよくないとか、自分勝手な歪曲があるから客観的視点から見て価値が低い、などと言いたいのではありません。歴史とはもとより、それを記述する者が創り出す物語の集積と絶えざる改編(改竄)の過程にほかなりません。
 このブログの他の記事でも書きましたが、フランス語では、「歴史」も「物語」も同じhistoire、英語のhistoryにもドイツ語のGeschichteにも両様の意味合いが含まれています。
 また私たち日本人にとっては、きわめて不快なことではありますが、東京裁判史観なるものがアメリカが創り出したインチキに他ならないことは、今日心ある日本人の間では常識となっています。中国の「南京大虐殺」説がでっち上げであることは明らかなのに、ユネスコ記憶遺産に登録されてしまいました。さらに韓国の「従軍慰安婦強制連行」説が欧米でまかり通ってしまっていて、改められる気配もありません。こうした光景を見ていると、そもそも歴史とは捏造の歴史であると言いたくなってきます。
 その場合、歴史改編(改竄)の成否のカギを握っているのは何かといえば、それはさまざまな意味での「力」にほかなりません。より具体的に言えば、軍事力、政治力、外交力、経済力、情報発信力、知力、創造力、演出力、勝者特権や被害者特権を利用した説得力、などです。戦後日本が、これらのうち、経済力以外のすべてにおいて負け続けてきたことは言うまでもありません。
 こういうと、それはあきらめのニヒリズムだと評されそうです。しかしそうではなく、私は、歴史とは本来そうしたものなのだと開き直ることこそが大事なのではないかと言いたいのです。
 この覚悟を固めることがまず歴史戦において「負けないこと」「勝つこと」の第一歩なのです。粘り強く誠実さを貫いてゆけば、いつかは相手もわかってくれる、などという日本人好みの倫理観は、国際社会では通用しません。私たちも彼らを見習って大いにでっち上げをやれとまでは言いませんが、少なくともマキャヴェッリが言うように、「誠実らしく見せること」「見くびられないようにすること」が何よりも大切です。歴史とはそれを紡ぐ共同体自身を利するための不断の闘いにほかならないのですから。

 北畠親房に話を戻しましょう。
彼はなぜ『神皇正統記』を著したか。出家僧でもあった彼は、この書の中で、三種の神器(鏡、玉、剣)のそれぞれに、仏教倫理としての「至誠」、「慈悲」、「智慧=決断力」を対応させて、この三つが具わっていれば、必ず自分の主張する皇統の原理は「正理」として認められると強調しています。本地垂迹をテクニックとして用いているのですね。
 しかし実際の中身は、いま見てきたように、矛盾だらけです。これらを親房自身がまったく自覚していなかったとは考えられませんが、闘いの情熱のあまりの大きさがそれらを小さなこととしてやり過ごさせてしまったのでしょう。
 この山っ気たっぷりの闘争精神がどこから出てきたのか、後醍醐天皇という変人めいた天皇の生き様と照らし合わせてみる時、親房は、天皇の一種の宗教的カリスマのような人格にかなりいかれていたのではないかという推測が成り立ちます。
 ちなみに建武の新政で後醍醐天皇が採用した人事が、自分が気に入った者ならやたらと重用してしまうきわめて衝動的で不公平なものであったことはよく知られています。この点に関しては、さすがの忠臣・親房も『神皇正統記』のなかで、徳も品格も地位も備わっていない人間をむやみに重用すべきではないと、暗に後醍醐天皇を批判しています。
 後醍醐天皇という人は、倒幕計画が事前に発覚した正中の変(一三二四年)では、自分は無関係としらを切り、また、同じく討幕を企んだ元弘の乱(一三三一年)では、捕縛された時、面通しを依頼された西園寺公宗に「魔がさしたので、どうかお許しください」と泣きつき、穏やかで教養豊かな花園院の眉を顰めさせたそうです。
 どうもあまりほめられた君主ではありませんが、親房にとっては若くして抜擢された御恩もあり、最後まで忠誠を尽くすつもりだったのでしょう。

 ところで、『神皇正統記』が書かれたのは、京都や吉野ではなく、常陸国・筑波山麓の小田治久の館においてでした。親房は、建武の新政の破綻後、劣勢明らかな南朝方の起死回生を期すべく、東国の武士たちにテコ入れするために難儀をしながらようやく小田城にたどり着いたのです。
 彼はここに三年近く滞在しますが、その初めの一年にこの書が大急ぎで書かれたようです(一三三九年秋ごろ完成)。じつはこの一年の間に、京都では北朝方についた尊氏が征夷大将軍に任ぜられて幕府を開き(一三三八年八月)、いっぽう吉野では後醍醐天皇が没します(一三三九年八月)。
 この因縁めいた事実を私は重く見たいと思うものです。というのは、草深い東国の閑居で、この二つの重大なニュースを知った親房の胸の内を想像すると、その孤独な執念の由来が見えてくるような気がするからです。
 陸奥白川の結城親朝に七十通を越す勧誘の手紙を書く傍らで、彼はおそらく、はるかに都を臨みながら、また吉野での主君の崩御に涙しながら、宿敵・尊氏の京都制圧に対して、怨念に打ち震え、歯噛みしながらこの書を一気に書き下したものと思われます。参考書として使用したのは、簡略な王代記ただ一冊でした。

『神皇正統記』には、古くから、誰に宛てて書いたものかという論争がありました。それは、最古の写本「白山本」の奥付のなかに「為示或童蒙所馳老筆也」(この書は、ある童蒙に示すために老いたる筆を走らせたものである)とあって、この「童蒙」がだれを指すのかをめぐって諸説が唱えられてきたからです。
 かつては後醍醐天皇の子、義良親王(後の後村上天皇)を指していると考えられていましたが、「童蒙」という言葉は蔑視のイメージが強いため、それは否定され、いまだに説が定まっていません。
 しかし親房自身の生きた乱世のありさまと、それに対する激しい義憤の念、尊氏のような「逆賊」に支配されている現状への怒りと、それをどうすることもできない焦慮、などのことを考えると、さしてその対象を絞る必要もないのではないか。
 つまり「童蒙」とは「正道を知らぬわからずや」といった程度の一般的な意味に解釈しておけばいいのではないでしょうか。親房は、「バカども、よく目を見開いてみよ、この私が正統を示してやる!」と怒れる仁王のように傲然と自ら信ずるところを獅子吼している――そういう姿を思い浮かべたほうが、この反時代的な書物の執筆動機をよく示していると思われるのです。

 親房はやがて吉野に帰り、後村上天皇の践祚を見届けます。そうして一度は入京を果たし、尊氏を後村上天皇に降伏させ、しかも北朝方の光厳・光明・崇光の三院を南朝・賀名生に幽閉するという挙にまで出ています。さらに足利尊氏・直義兄弟の対立につけ込んで交渉を重ねるといった政略家ぶりも見せています。
 これらは結局失敗に終わるのですが、ここに見られるのは、なんとしても権力を奪取しようという、貴族にはふさわしからぬ飽くなき執念です。こうした背景の中に『神皇正統記』を置いてみる時、この書が単なる皇統の通史を綴ったものではなく、時代と強く切り結ばれた「実践の書」であるさまがくっきりと浮かび上がってきます。
 突飛な連想ですが、それは西欧における旧教と新教の争いにも比すべき一種の宗教戦争だったと言ってもよいでしょう。だからそこには、どうにもならない著者(=信徒)の熱い思いが込められています。したがって、論理的な矛盾を突いても、じつはあまり意味がありません。むしろそれらの矛盾のうちに、激しい情念と執着とを読み取るべきなのです。もっとも、そこに盛られた「天皇親政に還る」という理念は、もはやどうみても時代に逆行する性格を免れなかったのですが。