小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

英国のEU離脱決定は正しかったか

2016年07月13日 01時36分59秒 | 政治
      





 英国のEU離脱決定から20日近く経ちました。キャメロン元首相辞任後、ずいぶんと世間が騒がしかったようですが、新首相就任が決まったメイ新保守党党首は、国民投票の結果について「国民は離脱を決めている」として、国内を混乱させる可能性のある2度目の国民投票や、EU離脱後の再加盟の可能性をきっぱり否定しました。これによって国論を二分した激しい対立は、少し落ち着きを取り戻したようです。
 離脱決定騒ぎは、世界中に波及しました。世界の金融経済がいっそう混乱するだの、円高株安に拍車がかかるだの、投票やり直しの訴えに数百万票の書名が集まっただの、進出していた日本企業はさっそく鞍替えを考えなくてはならないだの、英国の凋落は計り知れないだの、後戻りのきかない失敗に踏み込んだだの、感情的なポピュリズムに流されただの、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの独立機運の高まりの結果、連合王国は崩壊するだの、英国の中国依存はいっそう強まるだの・・・・・いやはやにぎやかでした。
 これらの論評のなかには、短期的には当たっているものもありますし、長期的な意味で深刻な懸念に値するものもあります。しかし、概して大げさなものが多い。円高株安など一時的にはその兆候もありましたが、以前からのトレンドをさらに悪化させることにはならず、早くも持ち直しています。
 これらの論評には、そもそもなぜ英国民の多数が離脱を選んだのか、そこにはどんな必然性があったのかという根本問題に触れたものがほとんどなく、なにか英国のEUからの離脱決定が想定外の悪い結果をもたらしたかのような論調が目立ちました。ここには、EU統合の秩序を攪乱することは致命的に拙いことだという根拠のない先入観が支配していたように思われます。この先入観には、EUという組織がもともとどんな無理をはらんだ連合体であるかという認識が欠落しています(このことにきちんと触れた論評は、私の知る限り、佐伯啓思氏の「英EU離脱はアベノミクスへの逆風となるのか」だけでした)。
http://www.sankei.com/world/news/160704/wor1607040007-n1.html

 余談ですが、私はある知人と、残留か離脱かをめぐって小さな賭けをしました。国民投票ですからもちろん結果に確信を持っていたわけではありません。ただ一種の希望的観測も含めて、離脱に動く可能性は十分にあると踏んだにすぎません。結果、私は賭けに勝ち、スコッチの「ホワイト・ホース」を獲得しました。本当はマッカランがほしかったのですが、ちょっと高くて相手に悪いので我慢しました。残留派が多かったスコットランドから一本奪い取った、というのは、まあ冗談です。
 閑話休題。
 この問題について多少とも本質的に論じるには、最低限、次の三つのことに言及する必要があります。

①EUと統一通貨ユーロ圏との間にはかなりずれがあります。言うまでもなく英国はユーロ圏ではなく、自国通貨ポンドをキープしています。
 また1990年にはヨーロッパの単一市場成立を表す欧州為替相場メカニズム(ERM)に加入していますが、わずか2年でERMを脱退しています。
 さらにEU創設を謳った92年のマーストリヒト条約(欧州連合条約)には、当時の首相サッチャーはしぶしぶ調印してはいますが、彼女は終始反対の立場を取っており、93年に貴族院で反乱を起こし、マーストリヒト条約を批准するかどうかを国民投票にかけるよう要求しています。彼女は経済には暗かったようですが、グレートブリテン王国の国家主権(尊厳)が脅かされることに敏感だったのです。
 さらに、2010年、保守党が政権に返り咲き、その翌年には、EU離脱を問う国民投票を求める10万名の署名が提出されています。
 また域内移動の自由を保証するシェンゲン協定(1997年発効)には、英国はその一部にしか参加していません。
 このように、英国では、残留・離脱の議論は今に始まったわけではなく、EU発足時からああでもない、こうでもないとやっており、したがって、英国ははじめから独、仏、伊など大陸のEU主要諸国とは一定の距離を保ってきたのです。つまり今回の決定は、国民国家・英国としてのスタンスという観点から見れば、そんなに驚くべきことではないのです。

②次に、すでに触れたように、EUという連合体には、初めから構造的な欠陥があります。これは、大ざっぱに言えば、金融政策と財政政策との分離独立です。前者はEUが握り後者は一応各国の裁量に任されています。するとどうなるか。
 統一通貨ユーロによって資本の移動の自由は完全に認められています(関税、為替障壁などないので)。しかし人や職業の移動はシェンゲン協定が許しているほどには現実には起きません。ドイツ人がいきなりイタリア人になるわけではないのです。当然、国情によって格差が拡大します。その時、負け組の国民は、自国の財政政策を非難するので、結果として政情の不安定を招くでしょう。こうして、自国の責任ではないはずの格差や貧困の問題を、負け組の国は背負い込まなくてはならないことになります。
 この典型的な例がギリシャです。ギリシャ政府は返済不能な借金を抱え、これを自国通貨ならぬユーロで決済しなくてはなりませんでした。EUは、返済期限の延長や新たな融資を承認するために、ギリシャに対して厳しい緊縮財政の条件をつけます。すでに負け組である上に緊縮財政を強いられた国の国民生活はさらなるデフレ不況に苦しむことになります。国民の不満を解消すべく緊縮財政破棄を謳って首相になったツィプラス氏がEUとの長い折衝を続けたものの、結局国民との約束を守れなかったのは、記憶に新しいところです。
 このように、財政政策は各国に任されているとはいっても、不況に突入すると、その財政政策すらも思うままにならず、EUの圧政に甘んじなくてはならないわけで、しかも国政担当者は国民の批判をまともにかぶることになるのです。
 この構造は、かつて帝国主義国が弱小国を植民地化していった関係の構造とそっくりです。そう、EUとはまさしく経済的な帝国主義であり、その主権者は、言うまでもなく、独り勝ちのドイツです。
 英国民の多数がこの仕組みをどこまで理解して離脱に票を投じたのかわかりませんが、結果的にこの構造からの脱却へと一歩を踏み出すことになったのであり、経済的主権を回復する道がさらに開かれたということができます。それができたのも、英国がもともとEUに対して懐疑的な姿勢を崩さなかったからでしょう。

③最後に、離脱に票を投じた一般庶民の動機を考えてみましょう。
 思惑は社会的立場によっていろいろだったでしょうが、何といっても最大の要因は、移民・難民問題です。英国の場合は、主として東欧からの労働移民を受け入れてきました。この政策が引き起こす第一の問題は、低賃金の単純労働者の受け入れによって、本国人も低賃金競争に巻き込まれ、中間層がしだいに脱落していく現実と、それに対する不安の増大です。
 そこへもってきて、2015年にヨーロッパに怒涛のように押し寄せたシリア、イラク、アフガニスタン、北アフリカなどからの難民です。この「椿事」がヨーロッパの本国人に与えた驚きと恐怖と不安は、日本に住んでいる私たちの想像を絶しています。ドイツのケルンで昨年末に起きた大規模な婦女暴行事件は本国人を震撼させましたし、テロリストが難民の中に紛れ込んでいる危険も盛んに指摘されています。また域内、域外を自由に移動するホームグロウンの過激なムスリムたちが引き起こすテロ事件も後を絶ちません。
 先ほども述べたように、英国はシェンゲン協定にはごく一部しか参加していませんし、島国の利点もあり、難民が大量に押し寄せているわけではありません。また難民はEU域内で最初に入国した国が引き受けるという「ダブリン協定」は、イギリスの場合、かえって有利に働いているという面もあります(ちなみにこれらの協定は、昨年来、事実上無意味化していますが)。
 しかし目と鼻の先で起きた大陸の「椿事」が、英国民に大きな心理的効果を与えないはずがありません。大陸とは一線を画すというのが英国の伝統的な精神で、イギリス人は自分たちをヨーロッパ人とは思っていないと言われています。もともとそういう独立心と自尊心の旺盛な国民性が、危機を意識した時に防衛の感覚に強く囚われたとしても少しも不思議ではありません。英国民の多数が離脱を選んだ大きな理由はここにあるでしょう。

 ところで「椿事」と言いましたが、じつはこれらの事態は、EUというグローバリズムが自ら招きよせたものなのです。先ほど述べたように、ヨーロッパ・グローバリズムは、そのモデルが帝国主義と植民地との関係と同じです。選挙で選ばれたのでもない欧州委員会のエリートたち(選挙による「欧州議会」は事実上機能していません)は、一種の独裁者といってもよい。二度の大戦のトラウマから、空想的な理念――欧州は一つ、ヒト、モノ、カネの移動はすべて自由――を掲げて、少しでもナショナリズムや民族主義を匂わせるような傾向に対しては、極端にタブー視する。バランスと人性をわきまえないこの理想主義が、かえって一般の人々の間に被抑圧感情を鬱積させ、国民意識を覚醒させます。つまり、EUのイデオロギーは、ナチス・ドイツのような極端なショーヴィニズムや民族主義の反転した鏡にほかなりません。
 アメリカのトランプ現象も同じですが、グローバリズムの理念それ自体が、民衆生活のそれぞれの場面で反グローバリズムを育てるのです。現に欧州諸国では、移民に対する規制を訴える政党が次々に力を蓄えています。どのメディアもこれらの政党を「極右」と呼んでいますが、むしろこれはごく自然な成り行きで、自分たちの土地や生活を自分たちで守ろうというバランサーが作用した結果なのです。
 アメリカでは、トランプ氏だけではなく、社会民主主義者のサンダース氏も大健闘を示しました。彼は「左」と位置付けられるはずなのに(だからこそ、というべきかもしれませんが)、グローバリズムが生み出した極端な格差社会に対する民衆の怒りを取り込もうとしている点ではトランプ氏と共通しているのです。つまりいずれも反グローバリズムという意味において。
 なぜなら、民衆の現実生活レベルでは、低賃金への下方圧力や解決困難な文化摩擦が絶え間なく起きているからです。EUエリートたちは、この現実を見て見ないふりをし、あたかもいまだに超国家的な統一理念の実現が可能であるかのように装っています。でも実際には、この試みはとうに破綻しているのです。英国の選択は、多少の痛みを伴うかもしれませんが、長い目で見れば賢明なものだったことがやがてわかるでしょう。
 わが国も周回遅れで移民政策を取ろうとしていますが、じつにバカげています。世界のグローバル化現象自体は、ある程度やむを得ない流れですが、それを積極的に良しとするようなグローバリズム・イデオロギーにけっして踊らされてはなりません。いま政治思想、社会思想、経済思想の対立軸は、右か左かにあるのではなく、グローバリズムか反グローバリズムかに収斂するのです。英国民の多数の選択は、まさにその事実を教えてくれたものとして理解すべきです。