日本語を哲学する24
四つのうち、まず又蔵の記憶の部分を引用する。
虎松の眼が映したのは、ある時から虎松には理解し難い奇妙なものに囚えられ、いつか引き返すことの出来ない世界に、ひとり運ばれて行った孤独な男の姿だった。少なくとも、虎松の眼は万次郎が放蕩を楽しんで満ち足りているのを見なかったのである。それでもやはり、兄は斬られなければならなかったのだろうか。
あれが罪とされ、非難されるものなのだろうか、と虎松は思う。それは虎松が十三か、四の頃であった。
………………
ある日暮れ虎松は、万年橋に近い雑木林の端れに、思いがけなく兄の姿をみた。
稽古が長びいて、いつもより遅くなっていた。日は落ちて、遠い砂丘の上に赤みが醒めかけた空が残っていたが、足もとには薄闇がまつわりはじめている。淡い光の中だったが、虎松にはそれが兄だとすぐに解った。長身の着流し姿で、形よく伸びた背筋、やや怒った肩が兄に紛れもなかった。
万次郎の方は、立竦んだ虎松に気づいた様子はない。連れがいた。虎松からは白い横顔が見えているだけだったが、髪形と着ているものから町屋の妻女ふうに思える女が一緒だった。女は万次郎より年上のようだったが、美貌だった。
女が何か言った。声は聞こえなかったが、いきなり手を挙げて万次郎が女の頬を打った音が小さく聞こえた。思わず虎松は息を詰めたが、次に起こったことが虎松の胸を息苦しいほどとどろかせた。
女の躰が不意に力を失ったように万次郎の胸に倒れ込み、万次郎がその肩を抱くと、二人は縺れ合う足どりで林の奥に入って行ったのである。
川が小さく流れの音をたて、新芽の匂いが溢れていた。その川沿いの小さな道を、虎松は足音を忍んで引返したのだった。
………………
だが虎松が、川端で万次郎と女を見た頃には、万次郎はまだ颯爽とした面影があったのである。その表情が暗く荒み、身のこなしにもの憂い懈怠がみえるようになったのが、いつからだったか虎松には明瞭な記憶がない。気づいたときに、兄はそういうふうになっていたのである。万次郎の変貌はすみやかだった。
読者の特権として想像を馳せれば、万次郎は道ならぬ恋に落ち込んでいた。彼の殴打はその恋の真剣ぶりを表していよう。年上の美貌の女は、万次郎の本心を試すような言葉をもてあそんだのかもしれない。女は彼の真剣さの手ごたえをいたく身に感じて、一瞬のうちに体をゆだねる気になった。そのときの万次郎は、ただの遊蕩ではなく、おそらく恋に向かってのひたむきさを匂わせるような霊気を発散していた。それが虎松の眼に「颯爽とした面影」として映ったのである。
万次郎は、このまま義理の兄・才蔵の律儀と親切とを素直に聞き入れて、義理の姪である年衛を妻に迎えれば、土屋家の跡取りになりおおせるはずだった。しかし妾腹の子である彼には、そういう「恩恵」をそのまま引き受けることを肯じない意地と激しさのようなものがあったのだろう。道ならぬ恋にひたむきになるという成り行きには、あらかじめ定められた境遇に対する反逆の心が内に含まれている。それを逆説的な「武士の一分」と呼んでもあながち的外れではあるまい。
そして当然のように、この道ならぬ恋は何かの理由で実を結ばなかった。反逆は当時の社会規範のもとにあえなく挫折したのである。その挫折の過程について藤沢は何も描いていず、ただ「沈黙」しているが、「もの憂い懈怠」を見せるようになった「すみやかな変貌」が何よりもその事実を雄弁に語っている。
次に、万次郎の庄内への已みがたい思いについては、すでに引いたように、兄弟で出奔してから帰郷を提案したのがいつも彼であり、「なぜかは解らないが、万次郎の顔がいつも遥かな庄内領の方を向いているのを虎松は感じていた」とある。このふるさとへの思いにも複雑なものが織り込まれている。
生を得た地を自ら捨てることがこの時代にどれほど重い意味を持ったかは想像するに余りある。しかし万次郎の場合は、一般的な出郷とはその意味が少し違っている。彼はじつは、観念の上ではとうに出郷してしまっていたのである。土地と有機的に結ばれている土着の慣習、身分の掟、宿命といったもののうちに従順に眠り込む安逸を意識的に拒否したのだから。
だがそれは新しい生への道を開いてくれるような方向においてではなく、世間からは堕落としか考えられない下り坂の道だった。彼は自覚の年齢に達した時、あることに気づいてしまったのである。自分の一途な激しさと自分が生きている規範の世界とは、どのようにしても折り合いがつくものではないということに。だから下り坂を歩む以外の方法は許されていなかった。
定めへの意識的な反逆による万次郎の観念上の出郷は、それが反逆性を帯びていればいるほど、その出てきたふるさとに対して、アンビヴァレントな執着を培う。未練とは違うし後悔でもない。彼は、もしかしたら自分はやり直せたかもしれないと考えて「いつも遥かな庄内領の方を向いてい」たのではない。この執着は、出自に対する呪いと表裏一体のものである。
こう考えると、藤沢が、このあまり長くない作品に、なぜこれほど複雑な親族関係を設定したのかという理由が見えてくる。もちろん史実に忠実だったという可能性は考えられるが、史実がどうであろうとそれを取捨選択してそこに独特の濃度を込めるのは作者の創作意図である。
もう一度その要点を整理すると、万次郎・又蔵兄弟は当主・久右衛門が隠居してからの妾腹の子であり、彼らの義理の兄である才蔵は、彼らの誕生以前に家を継ぐために外から請じ入れた養子である。才蔵夫婦には一人娘・年衛しかおらず、順当にいけば、万次郎、それが駄目なら(駄目だったのだが)、弟の又蔵にその娘をめあわせる手はずになっていた。ところが両方とも出奔してしまったので、致し方なく才蔵は、赤の他人である丑蔵を年衛の婿として請じ入れた。結果的に、「家」の形式を守り抜くために、土屋家には、二重に血のつながらない他人が入り込んだことになる。
わが国では大正時代くらいまで、武家に限らず、ある程度格式のある家では、「家」の形式を守り抜くための養子縁組制度が盛んに行われた。こうした封建的な慣習が社会秩序の連続性を円滑に維持させてゆくはたらきをもった反面、個人の感情は重く押し潰されて、そこにいくつもの悲劇を生んだこともたしかである。藤沢の筆は、そうした社会的な不公正をそれとしてあからさまに訴えるのではなく、ただ制度上の処理がもたらす不可避的な複雑さを背景に置くことで、それが個人の心理に落とす影をさりげなく描出するのである。
こうした意味での「沈黙」は、別に藤沢文学に限ったことではなく、むしろ文学一般の専売特許ともいうべき表現手法であると言ってよい。声高な社会的発言、雄弁な論理的発言とは違った、深い共感を呼び起こす独自の力がそこには伏在している。
万次郎はもともと才も力もあり、ぐれ始めのころは仲間内ではリーダー格であった。要するに肩で風を切って歩くいなせなあんちゃん(今風に言えばカッコいい「不良」)だったのである。真面目な又蔵はそんな兄に、自分には真似のできない存在として、ひそかな憧れと尊敬の念を抱いていたにちがいない。すでに取り返しがつかない段階まで放蕩の淵に沈んでしまった万次郎を父の言いつけで呼び戻しに行く場面があるが、ここでの又蔵は、不本意な役目を押しつけられたといったふうで、諌める調子も口ごもりがちである。おそらく又蔵には、たとえ無意識にではあれ、兄がそのような境涯に落ちてゆくその必然が理解できたのである。
そこで最後に挙げた、当時の中級下級の藩士の次男、三男が置かれた境遇についての説明が生きてくる。その部分を引いてみよう。
剣の道場、手習い所には、藩士の次、三男が多く集まった。もちろん長男もいたが、稽古は次、三男の方がはるかに熱心にやった。藩では、みだりに分家することを許していない。長男は家を継ぐが、次、三男は、学問、武芸に精進して認められ、召し出されて新規に家名を立てるか、でなければどこかに婿養子に入るしか道がなかったためである。どちらにしても腕をみがいておく必要があった。
しかし学問、武芸を認められて藩に取り立てられるというのは、ごく少数の例外で、それだけの器量もなく、婿入りの幸運にも恵まれない次、三男は、実家の部屋住みとして一生を送るしかない。そういう一群の日の当らない若者たちがいた。彼等は正式に妻帯することも認められず、百姓、町人の出である床上げと呼ぶ身分の低い女をあてがわれるが、生まれた子供は即座に間引かれた。
長男に生まれるか、次男に生まれるかが、彼等の運命の岐れ道だった。長男と次、三男は食事のおかずまで厳しく差別され、兄弟喧嘩があれば、理由を問わずに弟が叱られた。
稽古所に通い、年月を経る間に、彼らはそういう差別の不当さに気づいて行く。そういう境遇に反発し、離藩、脱藩して領外に新しい道を探ろうとする者もいたし、修業に打ち込むことで、次、三男の境遇から脱け出そうとする者もいた。だが、暗い部屋住み暮らしを予見しながら無気力に日を過ごす者、希望のあてのなさに苛立って、酒や女に走る者の方が遙かに多かったのである。
万次郎はむろん、ここに例示された次、三男ではない。しかし彼は年老いた父の妾の子であって、そのポジションはさらに微妙である。形式上の嫡男として迎えられた養子の才蔵が、年の離れた義理の弟である万次郎に、いかに世継ぎの地位を譲る寛容さを示したとしても、いや、そうした人為的な寛容さを示されればされるほど、自分の屈折した心が、同じ稽古所に通う次、三男たちへの共感に傾斜していったとしても不思議ではあるまい。「希望のあてのなさに苛立って、酒や女に走る者」の気持ちが、万次郎にはしみじみと肌で理解できたのである。されば彼がその持ち前の才量を「遊蕩仲間」の中心人物となる方向に注いだのは、むしろ当然というべきだったろう。
しかしそうした若者らしい人情の機微を、社会規範の遵守にとらわれた大人たちがわかろうはずがない。「後日才蔵が、万次郎には同門の稽古所の悪い仲間がいるようだ、と聞き込んできたが、そういう仲間に悪い遊びを吹き込まれたに違いない、と身贔屓な推測を語り合うしかなかった」のである。
こうして藤沢はこの長くない作品で、幾重にも折り重なる条件をそこかしこにそれとなく提示しながら、万次郎が陥っていたやるせない心情と又蔵の暗い情念とを見事に一本の糸で結び合わせて見せたのである。又蔵の「火」を燃やしていた燠は、容易には言葉にならないものであり、またそこには単に主観的な心理の動きとして片づけることの出来ない不条理な生の条件がすべて凝縮していた。藤沢の筆は、それらを饒舌に「解説」するのではなく、まさに抑制の効いた鋭利な文体によって暗々裏に表現している。そこにこそ、文学における「沈黙」の価値が実現しているのだ。
そうしてつけ加えるなら、他のいくつもの作品にも見られるこの藤沢文学のスタイルのうちには、不条理な生を強いられる人間の実存の姿に対する一貫した共感の視線が感じられる。そのことによって彼の文学は、時代や社会を超えた普遍性を獲得していると思える。又蔵の「火」――それはとりもなおさず藤沢自身の中に静かに燃えていた「火」なのである。
四つのうち、まず又蔵の記憶の部分を引用する。
虎松の眼が映したのは、ある時から虎松には理解し難い奇妙なものに囚えられ、いつか引き返すことの出来ない世界に、ひとり運ばれて行った孤独な男の姿だった。少なくとも、虎松の眼は万次郎が放蕩を楽しんで満ち足りているのを見なかったのである。それでもやはり、兄は斬られなければならなかったのだろうか。
あれが罪とされ、非難されるものなのだろうか、と虎松は思う。それは虎松が十三か、四の頃であった。
………………
ある日暮れ虎松は、万年橋に近い雑木林の端れに、思いがけなく兄の姿をみた。
稽古が長びいて、いつもより遅くなっていた。日は落ちて、遠い砂丘の上に赤みが醒めかけた空が残っていたが、足もとには薄闇がまつわりはじめている。淡い光の中だったが、虎松にはそれが兄だとすぐに解った。長身の着流し姿で、形よく伸びた背筋、やや怒った肩が兄に紛れもなかった。
万次郎の方は、立竦んだ虎松に気づいた様子はない。連れがいた。虎松からは白い横顔が見えているだけだったが、髪形と着ているものから町屋の妻女ふうに思える女が一緒だった。女は万次郎より年上のようだったが、美貌だった。
女が何か言った。声は聞こえなかったが、いきなり手を挙げて万次郎が女の頬を打った音が小さく聞こえた。思わず虎松は息を詰めたが、次に起こったことが虎松の胸を息苦しいほどとどろかせた。
女の躰が不意に力を失ったように万次郎の胸に倒れ込み、万次郎がその肩を抱くと、二人は縺れ合う足どりで林の奥に入って行ったのである。
川が小さく流れの音をたて、新芽の匂いが溢れていた。その川沿いの小さな道を、虎松は足音を忍んで引返したのだった。
………………
だが虎松が、川端で万次郎と女を見た頃には、万次郎はまだ颯爽とした面影があったのである。その表情が暗く荒み、身のこなしにもの憂い懈怠がみえるようになったのが、いつからだったか虎松には明瞭な記憶がない。気づいたときに、兄はそういうふうになっていたのである。万次郎の変貌はすみやかだった。
読者の特権として想像を馳せれば、万次郎は道ならぬ恋に落ち込んでいた。彼の殴打はその恋の真剣ぶりを表していよう。年上の美貌の女は、万次郎の本心を試すような言葉をもてあそんだのかもしれない。女は彼の真剣さの手ごたえをいたく身に感じて、一瞬のうちに体をゆだねる気になった。そのときの万次郎は、ただの遊蕩ではなく、おそらく恋に向かってのひたむきさを匂わせるような霊気を発散していた。それが虎松の眼に「颯爽とした面影」として映ったのである。
万次郎は、このまま義理の兄・才蔵の律儀と親切とを素直に聞き入れて、義理の姪である年衛を妻に迎えれば、土屋家の跡取りになりおおせるはずだった。しかし妾腹の子である彼には、そういう「恩恵」をそのまま引き受けることを肯じない意地と激しさのようなものがあったのだろう。道ならぬ恋にひたむきになるという成り行きには、あらかじめ定められた境遇に対する反逆の心が内に含まれている。それを逆説的な「武士の一分」と呼んでもあながち的外れではあるまい。
そして当然のように、この道ならぬ恋は何かの理由で実を結ばなかった。反逆は当時の社会規範のもとにあえなく挫折したのである。その挫折の過程について藤沢は何も描いていず、ただ「沈黙」しているが、「もの憂い懈怠」を見せるようになった「すみやかな変貌」が何よりもその事実を雄弁に語っている。
次に、万次郎の庄内への已みがたい思いについては、すでに引いたように、兄弟で出奔してから帰郷を提案したのがいつも彼であり、「なぜかは解らないが、万次郎の顔がいつも遥かな庄内領の方を向いているのを虎松は感じていた」とある。このふるさとへの思いにも複雑なものが織り込まれている。
生を得た地を自ら捨てることがこの時代にどれほど重い意味を持ったかは想像するに余りある。しかし万次郎の場合は、一般的な出郷とはその意味が少し違っている。彼はじつは、観念の上ではとうに出郷してしまっていたのである。土地と有機的に結ばれている土着の慣習、身分の掟、宿命といったもののうちに従順に眠り込む安逸を意識的に拒否したのだから。
だがそれは新しい生への道を開いてくれるような方向においてではなく、世間からは堕落としか考えられない下り坂の道だった。彼は自覚の年齢に達した時、あることに気づいてしまったのである。自分の一途な激しさと自分が生きている規範の世界とは、どのようにしても折り合いがつくものではないということに。だから下り坂を歩む以外の方法は許されていなかった。
定めへの意識的な反逆による万次郎の観念上の出郷は、それが反逆性を帯びていればいるほど、その出てきたふるさとに対して、アンビヴァレントな執着を培う。未練とは違うし後悔でもない。彼は、もしかしたら自分はやり直せたかもしれないと考えて「いつも遥かな庄内領の方を向いてい」たのではない。この執着は、出自に対する呪いと表裏一体のものである。
こう考えると、藤沢が、このあまり長くない作品に、なぜこれほど複雑な親族関係を設定したのかという理由が見えてくる。もちろん史実に忠実だったという可能性は考えられるが、史実がどうであろうとそれを取捨選択してそこに独特の濃度を込めるのは作者の創作意図である。
もう一度その要点を整理すると、万次郎・又蔵兄弟は当主・久右衛門が隠居してからの妾腹の子であり、彼らの義理の兄である才蔵は、彼らの誕生以前に家を継ぐために外から請じ入れた養子である。才蔵夫婦には一人娘・年衛しかおらず、順当にいけば、万次郎、それが駄目なら(駄目だったのだが)、弟の又蔵にその娘をめあわせる手はずになっていた。ところが両方とも出奔してしまったので、致し方なく才蔵は、赤の他人である丑蔵を年衛の婿として請じ入れた。結果的に、「家」の形式を守り抜くために、土屋家には、二重に血のつながらない他人が入り込んだことになる。
わが国では大正時代くらいまで、武家に限らず、ある程度格式のある家では、「家」の形式を守り抜くための養子縁組制度が盛んに行われた。こうした封建的な慣習が社会秩序の連続性を円滑に維持させてゆくはたらきをもった反面、個人の感情は重く押し潰されて、そこにいくつもの悲劇を生んだこともたしかである。藤沢の筆は、そうした社会的な不公正をそれとしてあからさまに訴えるのではなく、ただ制度上の処理がもたらす不可避的な複雑さを背景に置くことで、それが個人の心理に落とす影をさりげなく描出するのである。
こうした意味での「沈黙」は、別に藤沢文学に限ったことではなく、むしろ文学一般の専売特許ともいうべき表現手法であると言ってよい。声高な社会的発言、雄弁な論理的発言とは違った、深い共感を呼び起こす独自の力がそこには伏在している。
万次郎はもともと才も力もあり、ぐれ始めのころは仲間内ではリーダー格であった。要するに肩で風を切って歩くいなせなあんちゃん(今風に言えばカッコいい「不良」)だったのである。真面目な又蔵はそんな兄に、自分には真似のできない存在として、ひそかな憧れと尊敬の念を抱いていたにちがいない。すでに取り返しがつかない段階まで放蕩の淵に沈んでしまった万次郎を父の言いつけで呼び戻しに行く場面があるが、ここでの又蔵は、不本意な役目を押しつけられたといったふうで、諌める調子も口ごもりがちである。おそらく又蔵には、たとえ無意識にではあれ、兄がそのような境涯に落ちてゆくその必然が理解できたのである。
そこで最後に挙げた、当時の中級下級の藩士の次男、三男が置かれた境遇についての説明が生きてくる。その部分を引いてみよう。
剣の道場、手習い所には、藩士の次、三男が多く集まった。もちろん長男もいたが、稽古は次、三男の方がはるかに熱心にやった。藩では、みだりに分家することを許していない。長男は家を継ぐが、次、三男は、学問、武芸に精進して認められ、召し出されて新規に家名を立てるか、でなければどこかに婿養子に入るしか道がなかったためである。どちらにしても腕をみがいておく必要があった。
しかし学問、武芸を認められて藩に取り立てられるというのは、ごく少数の例外で、それだけの器量もなく、婿入りの幸運にも恵まれない次、三男は、実家の部屋住みとして一生を送るしかない。そういう一群の日の当らない若者たちがいた。彼等は正式に妻帯することも認められず、百姓、町人の出である床上げと呼ぶ身分の低い女をあてがわれるが、生まれた子供は即座に間引かれた。
長男に生まれるか、次男に生まれるかが、彼等の運命の岐れ道だった。長男と次、三男は食事のおかずまで厳しく差別され、兄弟喧嘩があれば、理由を問わずに弟が叱られた。
稽古所に通い、年月を経る間に、彼らはそういう差別の不当さに気づいて行く。そういう境遇に反発し、離藩、脱藩して領外に新しい道を探ろうとする者もいたし、修業に打ち込むことで、次、三男の境遇から脱け出そうとする者もいた。だが、暗い部屋住み暮らしを予見しながら無気力に日を過ごす者、希望のあてのなさに苛立って、酒や女に走る者の方が遙かに多かったのである。
万次郎はむろん、ここに例示された次、三男ではない。しかし彼は年老いた父の妾の子であって、そのポジションはさらに微妙である。形式上の嫡男として迎えられた養子の才蔵が、年の離れた義理の弟である万次郎に、いかに世継ぎの地位を譲る寛容さを示したとしても、いや、そうした人為的な寛容さを示されればされるほど、自分の屈折した心が、同じ稽古所に通う次、三男たちへの共感に傾斜していったとしても不思議ではあるまい。「希望のあてのなさに苛立って、酒や女に走る者」の気持ちが、万次郎にはしみじみと肌で理解できたのである。されば彼がその持ち前の才量を「遊蕩仲間」の中心人物となる方向に注いだのは、むしろ当然というべきだったろう。
しかしそうした若者らしい人情の機微を、社会規範の遵守にとらわれた大人たちがわかろうはずがない。「後日才蔵が、万次郎には同門の稽古所の悪い仲間がいるようだ、と聞き込んできたが、そういう仲間に悪い遊びを吹き込まれたに違いない、と身贔屓な推測を語り合うしかなかった」のである。
こうして藤沢はこの長くない作品で、幾重にも折り重なる条件をそこかしこにそれとなく提示しながら、万次郎が陥っていたやるせない心情と又蔵の暗い情念とを見事に一本の糸で結び合わせて見せたのである。又蔵の「火」を燃やしていた燠は、容易には言葉にならないものであり、またそこには単に主観的な心理の動きとして片づけることの出来ない不条理な生の条件がすべて凝縮していた。藤沢の筆は、それらを饒舌に「解説」するのではなく、まさに抑制の効いた鋭利な文体によって暗々裏に表現している。そこにこそ、文学における「沈黙」の価値が実現しているのだ。
そうしてつけ加えるなら、他のいくつもの作品にも見られるこの藤沢文学のスタイルのうちには、不条理な生を強いられる人間の実存の姿に対する一貫した共感の視線が感じられる。そのことによって彼の文学は、時代や社会を超えた普遍性を獲得していると思える。又蔵の「火」――それはとりもなおさず藤沢自身の中に静かに燃えていた「火」なのである。