小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

モンゴル万歳(SSKシリーズ14)

2014年11月18日 22時24分39秒 | エッセイ
モンゴル万歳



 埼玉県私塾協同組合というところが出している「SSKレポート」という広報誌があります。私はあるご縁から、この雑誌に十年以上にわたって短いエッセイを寄稿してきました。このうち、2009年8月以前のものは、『子供問題』『大人問題』という二冊の本(いずれもポット出版)にだいたい収められています。それ以降のものは単行本未収録で、あまり人目に触れる機会もありませんので、折に触れてこのブログに転載することにしました。発表時期に関係なく、ランダムに載せていきます。

【2014年11月発表】
 相撲と落語が好きです。どちらも演じ手の個性がもろにあらわれます。相撲は、一瞬に気合を込めた一対一勝負で、しかもボクシングやレスリングや国際柔道のような階級別がないので、優勝劣敗がはっきり出ますね。落語もたった一人の勝負で、ほとんどの場合よく知られた古典を素材にしながら、どう話すかに創造性が厳しく問われるなかなか残酷な芸です。
 ところで今年(平成26年)の秋場所では、モンゴル出身の逸ノ城(いちのじょう)が、何と新入幕で横綱一人、大関二人を破って13勝2敗という恐るべき成績を残しました。怪物の出現です。
 そんな折も折、場所中13日目に瀧川鯉昇(たきかわ・りしょう)師匠の「千早ふる」を月島に聴きに行きました。これはちょうど逸ノ城が横綱・鶴竜を破った2時間くらい後に当たります。
 この演目はみなさんよくご存じのとおり、在原業平の歌の意味を尋ねに来た弟分に、知ったかぶりの兄貴分が、竜田川を相撲取りということにして次々にウソ話をこじつけていく段取りですが、鯉昇師匠の話は、何と竜田川をモンゴル出身力士に仕立て上げ、広大な草原の彼方から落ちぶれてラクダに乗ってきた千早に「からもくれずに」チョモランマまでぶっ飛ばすという次第。「水くぐる」のは千早ではなく、大草原の真ん中の豆腐屋で澄みきった水に漬かった豆腐だったとか。「とは」も千早の本名ではなくモンゴル語で豆腐を意味するそうです。
 師匠ここまでやるかとあきれました。しかし何ですね。たしかに角界がモンゴル出身者に席巻されて久しい今日、古典の骨格を崩さずに状況に合わせて現代の客を楽しませる術は大したもの。これをこそ創造性というので、こうして本当の意味で古典が生き残っていくのだと思います。
 角界に話を戻すと、当節、稀勢の里や琴奨菊など、日本勢がふるわないことを嘆く向きが多く、それだけ逆に日本人力士への人気と期待が高まっているようです。しかし私はナショナリストではありますがひねくれ者ですから、全然この傾向に与しません。なぜなら、ちょっと冷静に見ていればわかることですが、稀勢の里はもともと人気ほどの実力がなく、待ったばかりかける神経過敏症ですし、琴奨菊はガッツはあっても技が一本調子で多様性がありません。性根、覇気、技と三拍子兼ね備えたモンゴル力士にかなうはずがないのです。これは日本が豊かな大国になったことのツケのようなもので、ちょうど前世紀初頭のパリが芸術の都でありながら、実際に活躍した画家がスラヴ系やスペイン系が多かったのに似ています。
 モンゴル勢がすごいハングリー精神で日本の角界での地位確立を目指していること、これは日本がよい意味で開かれた寛容な大国であることを象徴してもいるので、私は彼らを大いに応援したいと思います。じっさい彼らは日本人力士に比べてカッコいいです。
  日本人力士を詠嘆して詠める
●もはやふるう力も効かず竜田川
   金くれないに褌(みつ)捨つるとは
 
 へい、ご退屈様。