内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「文明はなお大海のごとし」― 福澤諭吉『民情一新』より

2022-03-21 19:28:02 | 講義の余白から

 今日、明日の講義「近代日本の歴史と社会」の準備の一環として福沢諭吉の『民情一新』を読んでいた。『民情一新』の以下の一節は、『文明論之概略』(先崎彰容訳 角川ソフィア文庫 2017年)の訳者による解説の最後にも訳者自身による現代語訳で引かれている。まず、それを引こう。

文明とは、あたかも大きな海のようなものだ。大海は細い流れも、大河の流れも、さらに清い水も、濁った水も受け入れ、だからといって海の本質を失わない。それと同じように文明とは本来、国王も、貴族も、貧民も、金持ちも、良民も、かたくなな民も、みな許容し、清濁剛柔の一切をこのなかに包み込めるはずのもの。これらをみな包み込んでなお、秩序を乱さず、理想とする場所に進んでいけるのが真の文明である。

 宇野重規編『近代日本思想選 福沢諭吉』(ちくま学芸文庫 2021年)から原文を引こう。

文明はなお大海のごとし。大海はよく細大清濁の河流を容れてその本色を損益するに足らず。文明は国君を容れ、貴族を容れ、貧人を容れ、富人を容れ、良民を容れ、頑民を容れ、清濁剛柔一切この中に包羅すべからざるはなし。ただよくこれを包羅してその秩序を紊らず、以て彼岸に進む者を文明とするのみ。

 この意味での文明が野蛮と対立するのであれば、そして二十二世紀にも地球が存在しているとすれば、その世紀の歴史家たちによって、「二十一世紀の少なくともその最初の四半世紀は、同時多発テロに始まり、幾多のテロと局地戦争が繰り返され、虚妄な大国意識に冒された国が少数民族を抑圧し、隣国を武力で蹂躙する『野蛮な時代』であった」と記述されたとしても、私たちは反論できないのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


戦後、東欧諸国との貿易促進のために働いた亡き父と、今、ロシアの話をしたい

2022-03-20 17:45:42 | 雑感

 2月24日以来、私の精神状態はずっと不安定です。なんで、どうして、こんなことが、という、怒りとも悲しみとも言えない激しい感情に揺すぶられ続けています。 
 内外の識者たちのいかにもそうなんだろうなという立派な解説をいくら読んでも、どうしても、こんなことがあっていいわけはないだろう、というところに私の気持は帰っていってしまいます。
 ただ、平静を装うためにだけ、見かけ上、淡々とこのブログを続けてきました。イソクラテスやレトリックにこだわったのも、ただ現実から逃避したかっただけなのかも知れません。
 今日は今日で、これもまた別の逃避に過ぎませんが、中村健之介氏の『ドストエフスキー人物事典』の最終章31『カラマーゾフの兄弟』を読んでいました。ロシア語にも翻訳されたこの事典は、ほんとうにすごい。誇張ではなく、世界に誇っていい仕事だと私は思います。
 ロシアは私にとって複雑な感情を呼び起こす国なのです。戦後まだ国交がない時代、私の父はロシア及び東欧諸国との貿易促進のための組織で働いていました。そのころ、父は、今から思えば、一番仕事にやりがいを感じていたのだと思います。同僚の方たちが我が家にいらっしゃることもしばしばあり、何かみなさん「同士」たちという感じでした。
 その頃、私はまだ小さ過ぎて、なぜ父がそんな「マイナー」な仕事を選んだのか、知るよしもありませんでした。その父は、私が高校二年のとき、二年余りの闘病生活の末、病没してしまったので、当時の父の気持を聴く機会も永遠に失われてしまいました。
 今、ちょっと、いや、おおいに、センチメンタルなのですが、父と、酒を酌み交わしながら、ロシアの話を聴きたい。「おやじ、どうしてこんなことになってしまったのだろう。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


夢物語、あるいは夢見る不幸

2022-03-19 17:22:49 | 雑感

 イソクラテスについての記事がしばらく続いたので今日は一休みします。疲れたからではありません。『イソクラテスの修辞学校』からの摘録を続けてきただけなのですから、書くのに疲れたということはないのです。少し「空気の入れ替え」をしたいだけです。
 夢について他愛もないことを書きます。夢について他愛もないことを書いて気分を少しでも変えたいのです。
 ほぼ毎晩夢を見るのですが、ごくごくわずかの例外を除いて、ろくでもない内容の夢ばかりです。くだらない、というよりも、うんざりする内容なのです。細部は目覚めた途端に忘れてしまうので、再現できませんが、パターンはだいたい次のように決まっています。
 行き先はわかっているはずなのに、いざ出発すると、どのように行けばよいかわからず、途方に暮れる。帰りたい場所はわかっているのに、帰り道がわからずにさまよう。期限までに仕上げないと、資格が取れない、あるいはそれを失うとわかっているのに、ぜんぜん仕事が進んでいない。授業や発表がせまっているのに、まったく何の準備もできていなくて焦りまくる。
 まあ、だいたいこんなのばっかりなのですよ。これらの内容がそのときの現実の生活の直接的反映であることはほとんどなくて、覚醒時に抑制あるいは抑圧されていた通奏音的な気分あるいは心的状態が睡眠時に解放され、それが過去のさまざまな出来事や体験と結びついて、見たくもない「夢物語」を夜毎紡ぎ出しているのだと解釈しています。
 つくづく不幸な生き方だと思います。毎夜の夢はそのことを私にいやでも認めさせるためだけに生成されているのではないかと思われるほどです。こんな私にも過去には幸せな時期もありました。思えば、その時期には夢を見ることはほとんどありませんでした。たまにあっても悪い夢ではありませんでした。
 今の私の夢は、夢を見ないことです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


イソクラテスの学校(四)― 素質論から人びとを解放する教育論

2022-03-18 15:31:14 | 読游摘録

 イソクラテスは、弁論家教育の三条件として、自然的素質、練習、教育法の三つを挙げる。これはなにも弁論家教育に限った話ではないであろう。イソクラテスが弁論家教育の三条件について語っている箇所は少なからずあるが、それらを一般教育論として読むこともできるように思われる。
 この三条件にイソクラテスがどのような序列を与えているかについては、テキストによって異なった記述が見られ、矛盾したことを言っているようにも見える。しかし、廣川氏はそれらの記述を丹念に考究しながら、全体として合理的な解釈を提示しようと努めている。
 生まれつきの素質を強調してしまえば、それだけ練習と教育法の意義は小さくなる。練習の大切さを強調するあまり、素質ある者とない者との到達度の差異を無視するのも公平ではない。素質と練習だけで一人前の弁論家になれるのならば、教育法はたいして重要ではなくなってしまう。逆に、教育法をまるで魔法の杖のように奉るのも欺瞞でしかない。
 廣川氏によれば、「運命としての素質論から人びとを解放するのがイソクラテスのピロソフィア―であり、この点にむしろ彼の教育観の積極性を見るべきだろう」ということになる。
 確かに、一定の教育法に基づいた練習を弟子に課し、弟子が自らその練習を重ねることで、素質に恵まれない者も一定のレベルまで達することができ、素質ある者はそれを十全に伸ばし、かつそれを善用することができるのが望ましいに違いない。
 素質に恵まれない者がそれを理由に勉学を諦めることもなく、練習を重ねることで己の能力を高め、知性あるいは思慮によって賢慮ある者となること、素質に恵まれた者がそれを悪用することがないように知性によって弁え、思慮深く行動する者であること、これらのことの実現に有効であってはじめて、教育(法)はその名に値するものと言えるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


イソクラテスの学校(三)― 授業課程の切り売りはやらない

2022-03-17 23:59:59 | 読游摘録

 『イソクラテスの修辞学校』にはイソクラテスの学校の経済的基礎についてかなり細かい考証が示されているが、正直なところ、あまり興味を持てないので、その部分は省略する。ただ、印象にのこったエピソードが一つだけある。それだけ摘録しておく。
 弁論家のデモステネスがその昔イソクラテスに入門しようとしたとき、規定の授業料一〇〇〇ドラクマ全額を払うだけの資力がなかった。そこで、その五分の一なら払えるので、カリキュラムの五分の一だけ教わりたいとイソクラテスに願い出た。それに対してイソクラテスはこう答えたという。「デモステネスよ、私のところでは授業課程の切り売りはやらないのだ。いい魚は丸ごと売るようにね。だからもし君が弟子になりたいのなら、私もこの技術を丸ごと君に売るのだ。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


イソクラテスの学校(二)― 弟子たちの暖かい間柄

2022-03-16 06:52:26 | 読游摘録

 イソクラテスの弁論・修辞学校は、やがて世に広く知られ、アテナイからだけでなく、全ギリシア世界から優秀な青年たちを引き寄せる。イソクラテスの崇拝者であったキケロによれば、全ギリシアの雄弁がその学校において修められ完成され、彼の弟子たちは当時最高の弁論家、弁論・修辞学教師、政治家、歴史家であった。
 いったいどれほどの学生が彼の学校で教えを受けたのかについて、廣川氏は先行研究に依拠しながら詳しく検証している。その結論として、「彼は全生涯を通して一〇〇人ほどの正規学生を教えたのであり、彼の教授期間を五〇年とみれば平均して年間二人の正規の弟子をもったと考えるのが実情にかなうものであろう」と述べている。さらに、「彼が一定の場所に居住して教え、しかも異例の長寿を全うしていることからみて、当時アテナイで教えていたすべてのソフィスト、弁論・修辞学教師たちにくらべて、いっそう多くの弟子をもったと考えても、おそらく誤ってはいないと思われる」と付け加えている。
 廣川書では、実際にどのような弟子たちがいたのか、かなり詳しく紹介されているが、そこは飛ばす。「学生たち」という節の最後の段落を、ギリシア語と出典略記のみ省略し、全文引用する。

 師イソクラテスと弟子たちの間がきわめて暖かいものであったらしいのは、「私は若かった頃から老人になった今にいたるまで」変わることなく親密な交わりを結んでいる、学校開設当初の弟子たち―彼らはイソクラテスの輝やくばかりの弟子たちのなかでは無名の人びとであったにもかかわらず―の名を、むしろ誇らしげに挙げている『アンティドシス』からも見てとれるだろう。また、三年、あるいは四年の教育期間が過ぎて、故郷の親たちや友人たちの元に帰らなければならぬ時がやってくると、師のイソクラテスと過ごした生活がきわめて幸福なものであったから「苦痛と涙なしに去ることができなかった」といわれている。少数の者たちと共同生活を続けながらの教育活動がいかに稔りある結果をもたらしたかは、彼の育てた一群のすぐれた弟子そのものが雄弁に語っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


イソクラテスの学校(一)― 自然環境と設立時期

2022-03-15 23:59:59 | 読游摘録

 プラトンの学園アカデメイアがアテナイ市のどのあたりにあったか、どのような施設を擁していたかはほぼ確定できるのに対して、イソクラテスの学校が市内のどこに置かれたのか、どのような施設から成っていたかについては確実なことは何もわからない。
 アカデメイアが「東ローマ皇帝ユスティニアヌスの勅令(529)による活動停止まで900年余にわたって存続し,古代ギリシア・ローマ世界における学問研究のセンターとして大きな役割を果たした」(『世界大百科事典』)のに対して、彼一代で終わることになるイソクラテスの学校が「その具体的身体を歴史の闇のなかに埋没させることになるのはあるいは当然のことだといえるかもしれない」(廣川洋一『イソクラテスの学校』)。
 教育上の信念から、弟子を一度に多くとらずその数を限っていたイソクラテスの学校は、アカデメイアに比べて、簡素な施設ですんだはずであると廣川氏は推測している。学校がアテナイ市のどのあたりにあったか、廣川氏は後代の史料に基づいてかなり詳しい推測を述べているが、私はそれには関心がないのでその箇所は飛ばす。
 廣川氏は、さらに、その推定に基づいて特定された場所がプラトンの『パイドロス』の中での美しく描写されており、イソクラテスの学校の置かれてあった自然環境を知る上でこれほど適切な証言はないと、『パイドロス』から長い引用を行い、その上でそのあたりの当時の雰囲気の再現に努めている。それはそれで興味深いが、イソクラテスの学校について何か具体的に確たるイメージを与えてくれるわけではない。
 学校の成立時期についても確たる証拠はない。「その絶対年代を確定することはほとんど不可能だといわなければならない」(廣川書)。ただ、一般に前393~390年の間とみる点で学者たちの意見は一致していると考えてよいという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


イソクラテスの生涯(四)― 教養人、教育家

2022-03-14 08:36:37 | 読游摘録

 イソクラテスが弁論・修辞の学の専門家・教育者として真の経歴の開始を宣言したのは、アテナイに学校を創設したのとほぼ時を同じくして公表された『ソフィスト反駁』においてであった。
 その中でソフィストたちは以下の三つのカテゴリーに分類されている。争論術を専らとし真理の探究という美名のものにまやかしの術をなす人びと。詐欺まがいの行為に耽る法廷および民会弁論の専門教師たち。「弁論・修辞術の技術書」を書き、低俗な法廷弁論にのみたずさわる初期の弁論家たち。
 いずれも真の教養を与える「知者」(ソピステ‐ス)ではないとして強く批判される。これらの人たちは、いずれもアテナイの高等教育を代表する者たちであり、教育という面でのイソクラテスの強力なライヴァルであった。イソクラテスのこのマニフェスト的な論文は、これらライヴァルたちに対して、自己の教養理念を擁護し、彼らのそれを批判指弾する開戦宣言の書の性格をもつものであった。
 イソクラテスの学校の声価は次第に高まり、学生たちはアテナイからだけでなく、西はシケリア、東は黒海からも集まるようになっていた。
 教育の傍ら、イソクラテスは多数の弁論、演説を執筆するが、自ら演壇に立つことはなかった。それは、すでに見たように、生来の「臆病と声の小さいため」でもあったであろうが、それだけでなく、政治弁論家として派手な表舞台で働くよりも、政治理論家・政治批評家として、いわば書斎のなかでの活動をいっそう好んだ彼の性格にもよるだろうと廣川氏は見ている。
 この意味で、イソクラテスは、本質的に政治家ではなく、教養人、教育家であった。
 以下、イソクラテスの最晩年に至るまでの活動については廣川書を見られたし。
 明日の記事からは、イソクラテスの学校について見ていきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


イソクラテスの生涯(三)― 金銭のために行なう法廷弁論を生業としたことを強く嫌悪し深く恥じる

2022-03-13 12:46:54 | 読游摘録

 イソクラテスは、修業時代を終えた後、当時弁論・修辞の技術を学んだ者の多くと同じように、裁判法廷の演説つくりをする法廷弁論代作人(ロゴグラポス)を生業として生活の資を得たらしい。彼自身が法廷に立って演説をすることはなかったという。それは、後年、彼自身が回想しているように、「大衆をうまく扱ったり、演壇の上をうろつく連中と悪態をついたり言い合ったりできるほどの声量と度胸を生来もっていなかった」からで、これについては古伝もそろって「臆病と声が小さい」ためと同趣旨の理由を伝えている。このロゴグラポスとしておよそ十年あまり働いたらしい。
 前391年頃、イソクラテスはアテナイに帰ってまもなく、弁論・修辞学の学校を設立した。おそらく前390年頃のことである。この学校は、一定の場所において高等教育が授けられたという意味で、おそらくその二、三年後に創設されたプラトンの学園アカデメイアとともにアテナイ最初の高等教育機関であった。
 たんに法廷弁論代作人などの専門的職業として金銭を得るための、あるいは有能な政治家として名を挙げるための弁論・修辞の技術ではなくて、むしろひとりの優れた「教養人」となるための、教養(パイデイアー)としての弁論・修辞教育の理念は、イソクラテスにおいて初めて着想され実践された。
 イソクラテスが自分の理念にしたがって真の教養人としての正道を歩みえた信じることができたのは、この学校設立以後のことであり、言い換えれば、この年から死までのほぼ五十年こそ、イソクラテスにとって、いわば真正の経歴にほかならなかった。
 イソクラテスは、後年、多くの論説をつぎつぎに公表し、そのなかで私事に言及することも少なくなかったにもかかわらず、ロゴグラポス時代のことにはいっさい触れず沈黙を守っている。この沈黙について、「事がらの正不正、善悪にかかわりなく、依頼人つまり金銭のために行なう法廷弁論を生業としたことを彼は強く嫌悪し深く恥じていたものと思われる」と廣川氏は推測している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


イソクラテスの生涯(二)― 尊敬し敬愛する「内心の師」ソクラテス

2022-03-12 05:33:16 | 読游摘録

 イソクラテスのソクラテスへの尊敬の念は、その作品そのもののうちによりいっそうはっきりと見て取れます。
 ソクラテスの影響と思われるもののうち最大のものは、イソクラテスの言論・論説にみられる倫理性、道徳性への関心の高さだと廣川氏は言います。この言論における倫理性は、ゴルギアスをはじめソフィストたちにはない特性だとされています。
 イソクラテスは、弁論・修辞の術を中心とする教養理念を、たんに「立派に語ること」においては見ず、「立派に思慮すること」との連関において見ていました。さらに、「立派に語ること」を「立派に思慮すること」の最大のしるしでなければならぬとし、善き言論は善き魂(精神)の似像であると主張していました。言論の術における「思慮」の重視は、イソクラテス言論の独自な点であり、この点にソクラテスの影響を認めることができると廣川氏は言います。
 イソクラテスがプラトンのアカデメイアと対立関係にあり、激しい批判の応酬を行っていたことは事実です。しかし、プラトンの師であるソクラテスは、イソクラテスにとって、尊敬し敬愛する「内心の師」であったのです。