内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

〈結び〉のアルケオロジー、あるいは〈生成・生産・形成〉の古代的原理の隠蔽

2018-10-21 17:59:39 | 哲学

 高御産巣日神と神産巣日神は、記紀の神代巻に天之御中主神に続いて出現するいわゆる造化三神の中の二神だが、この二つの神名に共通して出てくる「産巣日 ムスヒ」は、『岩波古語辞典』(1990年)によれば、「《草や苔などのように、ふえ、繁殖する意。ヒはヒ(日)と同根。太陽の霊力と同一視された原始的な観念における霊力の一》 生物がふえてゆくように、万物を生みなす不可思議な霊力」である。そして、「後世「結び」と関係づけて解釈されたが、起源的には関係ない」と注記されている。
 松前健『日本の神々』(講談社学術文庫、2016年、初版1974年)にも、上掲の二神の「ムスビ」について、「もともとこの語は「生成」「生産」を表わすムスと、「神霊」もしくは「太陽」を表わすヒとの合成語である」とあり、「この神々が、鎮魂の神、玉結びの呪術の神とされ、ムスビが「産す霊」ではなくて、「結び」だとされるに至ったのは、たぶん後世的な機能の転化によるものである」と、『岩波古語辞典』の注記を補ってくれる記述が見られる。
 両者が言う「後世」とはいつ頃のことなのか、どちらにも明記はされていないのだが、どんなに下っても平安後期には「産霊」と「結び」との混同が発生していたことは、『奥儀抄』『伊呂波字類抄』などの「結ぶの神」の語義説明からわかる。
 本来語源を異にする両語の音韻的近接性と意味論的類縁性が古代日本語において引き起こした「生成・生産・形成」と「結合」との観念連合がそれ以後の日本思想史の一つの流れを形成していると言えるように思う。〈結ぶ〉に〈産む〉力が意味論的に充填されることで、〈結び〉が諸物の生成・生産・形成の原理となり、それが「結ぶ」という語の語義の展開にも表れている。
 とすれば、〈結び〉によって〈産霊〉の意味がいわば収奪されることによって、万物生成の原理としての〈ムスヒ〉が隠蔽されていく過程を古代的世界像の終焉の一つの指標と見なすことができるのではないだろうか。












かぐや姫の罪と罰、あるいは積極的無常観について

2018-10-20 22:43:18 | 講義の余白から

 昨日金曜日の「日本文明文化講座」では、来週の試験のための資料提示として高畑勲の『かぐや姫の物語』の一部を見せながら、作品の細部について解説を加えつつ、学生たちにいろいろな問いを投げかけた。
 学生の大半は同作品をすでに観たことがあり、中には繰り返し観たことがある学生もいた。だから、彼らはもう内容はよくわかっているつもりでいたようだ。しかし、日本語オリジナル版を注意深く観たわけではないし、仮にオリジナル版で観たとしても、彼らの日本語能力では日本語の表現の細部のニュアンスを捉えることはできなかったはずである。
 そこで、まず、原作である『竹取物語』の原文の一部を読ませ、高畑がどのように原作を解釈しているのか、原作にはない登場人物やエピソードをどこにどれだけ組み込んでいるかを示し、それはなぜなのかと問うた。より一般的には、原作・解釈・創作の関係を考えさせた。
 参考資料として、『かぐや姫の物語』の脚本を高畑勲と共に担当した坂口理子によるノベライズ(角川文庫)の一部を読ませた。そこには、かぐや姫の罪と罰について高畑が与えた解釈が映画でよりもよりわかりやすく示されているからである。
 そして、拙ブログの2014年8月26日の記事で取り上げた高畑勲へのインタビュー(『ユリイカ』2013年12月号)で、高畑が日本人の「積極的な無常観」について語っている箇所を読ませた。これはもう作品解釈というレベルを超えた問題である。
 来週の試験では、これらの「事前学習」を踏まえた上で、問題はすべて日本語で与えられる。しかも口頭のみで与えられるから、問題が聴き取れなければ、そこでおしまいである。しかも、暗記してくれば答えられるような問題は、お情けで点数をあげるための小問以外には一問もない。あとはすべて思考力を試す問題である。














どこまでも柔軟に概念を生動させる創造的思考を通じて成熟し続ける一つの開かれた「〈結び〉の哲学」

2018-10-19 01:15:52 | 哲学

 「エラン・ヴィタル」(« élan vital »)という表現そのものの使用例が、『創造的進化』ではわずか2例であったのに対して、『道徳と宗教の二つの源泉』(以下、『ニ源泉』と略す)では11例を数えることができることは、三日前の記事ですでに言及した。『二源泉』では、エラン・ヴィタルとは区別されるべき概念として、「愛のエラン」(« élan d’amour »)と「創造的エラン」(« élan créateur »)とが導入される(三日前の記事を投稿した時には、後者の使用例を3例としたが、今日あらためて検索し直したら、さらに2箇所見つかったので、5例に訂正した)。これらの概念との差異化によって、エラン・ヴィタルはより明確に限定された概念として『ニ源泉』の中で機能している。
 これら二つのエラン概念とエラン・ヴィタルとを合わせて一つの哲学として考えるとき、そして、〈純粋持続〉と〈記憶〉もその中の有機的要素として捉え、〈哲学的直観〉をその方法の基礎とするとき、ベルクソンの哲学を、どこまでも柔軟に概念を生動させる創造的思考を通じて成熟し続ける一つの開かれた「〈結び〉の哲学」として読むことが可能になるだろう。
 ちくま学芸文庫版『創造的進化』の訳者の一人である松井久がその解説の中で、「つなぐ」と「結びつける」という二つの動詞を使ってベルクソンの考えを次のように説明しているのはけっして偶然ではないと私には思われる。

ベルクソンはみずからの意識に目を向け、普段は目立った心理状態しか意識に上らないが、注意してみると、互いに区別される心理状態などなく、絶えず変化する連続しかないことに気づく、そして、各瞬間をつなぎ、過去全体を現在に結びつける記憶力、あるいは持続と呼ばれる時間こそがわれわれの実在そのものであると考える。この記憶力、持続が毎瞬間訪れる現在を過去に取り込み、絶えず人格全体を変化させる。こうして、われわれの意識にとって、「存在するとは変化することであり、変化するとは成熟することであり、成熟するとは無際限に自分を創造することである」という結論に至る。

 ここに引用されているベルクソンの言葉の原文を引用しておこう。

[…] exister consiste à changer, changer à se mûrir, se mûrir à se créer indéfiniment soi-même (L’évolution créatrice, op. cit., p. 7).












〈結び〉と〈異なり〉の持続的相補性としてのエラン・ヴィタル

2018-10-18 03:57:02 | 哲学

 『創造的進化』からもう一箇所取り上げよう。同書でエラン・ヴィタルという言葉が使われている二箇所のうちの一つである。

Ainsi, dans des organismes rudimentaires faits d’une cellule unique, nous constatons déjà que l’individualité apparente du tout est le composé d’un nombre non défini d’individualités virtuelles, virtuellement associées. Mais, de bas en haut de la série des vivants, la même loi se manifeste. Et c’est ce que nous exprimons en disant qu’unité et multiplicité sont des catégories de la matière inerte, que l'élan vital n’est ni unité ni multiplicité pures, et que si la matière à laquelle il se communique le met en demeure d’opter pour l’une des deux, son option ne sera jamais définitive : il sautera indéfiniment de l’une à l’autre. L’évolution de la vie dans la double direction de l’individualité et de l’association n’a donc rien d’accidentel. Elle tient à l’essence même de la vie (op. cit., p. 261).

こうして、単細胞からなる原初的な有機体においてすでに、全体の見かけの個体性が、潜在的に結合している不定数の潜在的個体性の合成物であることが確認される。生物の系列の下から上まで、同じ法則が姿を現している。次のように言うとき、われわれが表現しているのはまさにこのことなのである。「一と多とは不活性な物質のカテゴリーである。生の弾みは純粋な一でもなければ多でもない。生の弾みがみずからを伝える物質が、その弾みにどちらかをすぐ選ぶように迫るとしても、その選択が決定的になることは決してない。生の弾みは無際限に双方の間を飛び移るだろう」。それゆえ、生命が個体性と結合という二重の方向へ進化することに、偶然なところは少しもない。その進化は生命の本質そのものに起因するのである。(ちくま学芸文庫版)

 ここにも生命の進化の原理としての〈結び〉を読み取ることができる。
 私達が通常生物個体と見なしているものも、実は、潜在的個体性が結ばれ合うことによってはじめて一個体として生きることができる。この法則は、生物世界の全系列を貫いている。不可分唯一無二の〈一〉も、相互に無縁な無数個からなる〈多〉も、生命の世界には不適切な概念である。エラン・ヴィタルとは、生命の世界の多様性を繰り広げながら、その多様性の世界を一つに結び続ける進化の持続性のことなのだ。私たちがそれぞれにかけがえのない個性を持っていることと生きとし生けるものが繋がっていることは、同じ一つのエラン・ヴィタルがもたらしている生ける現実である。一言で言えば、〈異なり〉と〈結び〉とは、エラン・ヴィタルという同じ一つの事がらの二つの側面にほかならない。












〈結び〉の原理としてのエラン・ヴィタル

2018-10-17 00:00:02 | 哲学

 しかし、先を急がずに、今一度、『創造的進化』第一章最終節冒頭部を読んでみよう。エラン・ヴィタルが差異化の原理であるばかりでなく、〈結び〉の原理でもあることをすでにそこから読み取ることができる。

 Nous revenons ainsi, par un long détour, à l’idée d’où nous étions partis, celle d’un élan originel de la vie, passant d’une génération de germes à la génération suivante de germes par l’intermédiaire des organismes développés qui forment entre les germes le trait d’union. Cet élan, se conservant sur les lignes d’évolution entre lesquelles il se partage, est la cause profonde des variations, du moins de celles qui se transmettent régulièrement, qui s’additionnent, qui créent des espèces nouvelles. En général, quand des espèces ont commencé à diverger à partir d’une souche commune, elles accentuent leur divergence à mesure qu’elles progressent dans leur évolution. Pourtant, sur des points définis, elles pourront et devront même évoluer identiquement si l’on accepte l’hypothèse d’un élan commun (op. cit., p. 88)

 こうして、長い回り道を経て、われわれは出発点となった、生命の本源的な弾み、という考え方に戻ってくる。ある本源的な弾みが、成長した有機体を媒介にして、ある世代の胚から次世代の胚へと移行し、有機体は、胚同士の連結線になる、とわれわれは考えている。この弾みは、進化の諸線に分かれながらもそこで保存され、諸々の変異の、とは言わないまでも、少なくとも、規則的に遺伝し、累積され、新しい種を創造するような変異の深い原因となる。一般的に言うと、種が共通の根元を出発して分岐し始めたとき、進化が進むにつれて、それらの種はよりいっそう分岐を際立たせる。しかし、ある共通の弾みという仮説を受け容れるならば、それらは、いくつかの決まった点で、同じ仕方で進化しうるだろうし、またそうしなければならないだろう。(ちくま学芸文庫版)

 エラン・ヴィタルという仮説を受け容れるならば、以下のような〈結び〉に私たちはすでに与りつつ生きていることになる。進化の過程で本源的なエランは諸種という形をとって諸方向に分岐しつつも、その分岐によって互いに異なる形を有するに至った諸種はエランによって結ばれている。同一種の異なった世代の胚同士もまた、成長した有機体を「連結線」―あるいは媒介として―結ばれている。まだこの世に到来していない未来の世代ともすでにエラン・ヴィタルによって結ばれている。そして、このすべての種にとって共通のエランが新しい種の創造をもたらしうるとすれば、その創造可能性は、その形が予見不可能な多様な未来の種とも私たち現生種はすでに結ばれていることを意味している。











『創造的進化』と『道徳と宗教の二つの源泉』における « élan vital » の使用例について

2018-10-16 11:53:28 | 哲学

 『創造的進化』には、確かに、第一章最終部分に« L’élan vital » という項目が頁上に記された節があり(88-98頁)、そこで視覚器官の形成過程をその適用例としてエラン・ヴィタルとは何かが説明されている。昨日の記事での最初の引用もこの節からであった。
 その引用箇所を読むかぎり、エラン・ヴィタルは差異化の原理であるというドゥルーズの所説を支持せざるを得ないように思われる。しかし、そう単純には結論づけられないのではないであろうか。
 今日の記事では、以下、書誌的事実に基づいた推論(あるいは邪推)とそれによってもたらされる予想(あるいは希望的観測)について述べる。
 ベルクソンが « élan vital » という表現を同書の本文中で使っているのはわずかに二箇所だけ(254、261頁)で、どちらもイタリックで強調してある。 « élan » という単語の使用箇所は全部で39箇所。付随する形容詞ごとの頻度は、 « initial » が1回、« originel » が6回、 « primitif » が3回、 « unique » が1回。これに準ずる場合として « de vie » が付く場合が1回。これらの使用例のうち、 « initial » の単独例は « élan initial de la vie »、« originel » 6例のうちの1例は « élan originel de la vie » と組み合わされている。
 これに対して、『道徳と宗教の二つの源泉』では、« élan vital » という表現が11 回現れる。それに、『創造的進化』では見られなかった « élan d’amour » が4回、 « élan créateur » が5回数えられる。これら後ニ者の考察には後日立ち戻るとして、 « élan vital » に話を限定すると、この表現そのものは、1907年に出版された『創造的進化』の段階ではまだそれほど概念として熟してはおらず、1932年出版の『道徳と宗教の二つの源泉』に至って概念として安定化する一方、新たに導入された « élan d’amour » と « élan créateur » に対して、その射程がより明確に限定されるようになっていると予想することができる。そして、それら三者との関係においてエラン・ヴィタルと〈結び〉との比較論もその論点がより明確になると期待できる。つまり、『道徳と宗教の二つの源泉』においてこそ、エラン・ヴィタルと〈結び〉との比較研究は生産的なものになりうるだろう。












〈結び〉とは違い、エラン・ヴィタル(生命の弾み)は、なによりもまず差異化の運動である

2018-10-15 20:40:24 | 哲学

 ベルクソンのエラン・ヴィタルは、ドゥルーズが『ベルクソニスム』第五章 « L’Élan vital comme mouvement de la différenciation » (Le bergsonisme, PUF, 1966, p. 92-119) で明確に指摘しているように、なによりもまず差異化の運動であるから、そのままでは〈結び〉の運動とは一致しない。それどころか、むしろそれと対立するように見える。
 ドゥルーズも『ベルクソニスム』同章で参照しているように、ベルクソンは『創造的進化』第一章最終節 « L’élan vital » で、« Elle [=la vie] ne procède pas par association et addition d'éléments mais par dissociation et dédoublement. » (L’évolution créatrice, PUF, 2007, p. 90. 「生命は、要素の結合や累積ではなく、分離や分裂によって、仕事を進める」(ちくま学芸文庫電子書籍版) とイタリックで強調しているくらいである。
 『創造的進化』第二章のはじめの方でも、« la vie est tendance, et l’essence d’une tendance est de se développer en forme de gerbe, créant, par le seul fait de sa croissance, des directions divergentes entre lesquelles se partagera son élan. »(ibid., p. 100, 「生命は傾向であり、傾向の本質は、ただ増大するだけで、分岐する諸方向を創造しながら、束状に自身を展開することだ[…]。創造された諸方向は、生命の弾みを分有している」(ちくま学芸文庫電子書籍版)と述べ、これとほぼ同じ表現が『道徳と宗教の二つの源泉』でも繰り返されている(Les deux sources de la morale et de la religion, PUF, 2008, p. 313)。
 ベルクソンのテキストの上掲の引用箇所を見るかぎり、そしてドゥルーズの所説に従うかぎり、分離や分裂の推進力たるエラン・ヴィタルの運動と相異なった複数の存在を結合する〈結び〉の運動とは、真っ向から対立し、両者の類似点を見つけることは困難なように思われる。














〈結び〉とエラン・ヴィタル(生の躍動)― 学生が放ったクリーンヒット

2018-10-14 19:32:19 | 講義の余白から

 昨晩は早めに就寝した。今朝はいつものように五時起床。まず昨晩届いていたメールをチェックしていて、件名が「Musubi-Bergson」となっているのが一通あって、誰か哲学グループのメンバーからかなと思って開けてみて、ちょっと驚いた。日本学科学部三年生の女子学生からだったからだ。
 仏語での数行のメールだったが、「昨日の先生の日本語での講義「日本文明文化講座」で〈結び〉のことが取り上げられていたが、それを聴いてから、その〈結び〉の考えとベルクソンのエラン・ヴィタルとを突き合わせて考えてみることはできないだろうかと考え始めた。それについての先生の意見を聞かせてほしい」という内容だった。その内容にもちょっと驚かされたが、普段の教室での様子と過去の試験答案(いつもお利口さんタイプで、点数は悪くないが、特に際立ったところはない)からして、とても哲学に興味がありそうには見えない学生からだったことにも驚かされた(オミソレいたしました!)。
 〈結び〉とエラン・ヴィタル、これは面白い。またしてもその学生に対して失礼な言い方になってしまうが、学生からのメールを読んだときの気持ちを喩えると、なんか打てそうもないなあと思って期待せずに観ていたバッターが結構難しいコースに来たボールを見事なスイングでジャストミート、センター前にクリーンヒットを放ったかのような意外さ、とても言えばいいであろうか(ゴメンナサイ)。
 そこで、早朝から、ベルクソンの『創造的進化』と『道徳と宗教の二つの源泉』、ベルクソン関係の研究書で関連がありそうな書籍を本棚から取り出し、机の上に積み上げ、それらのあちこちを読みながら、その学生への返事を書き始めた。ところが、書いているうちにどんどん私自身が面白くなってきてしまって、いつものプールに泳ぎに行った一時間以外は、ほぼ午前中いっぱい、その返事を書くのに費やした。哲学科の学生ではない学部生に対する返事としては明らかに度外れな量と勢いで、可能な論究の展開の方向について考えを書きつけていった。しかも、問題に関連する参考文献表付きである。返事を受け取った学生は、ほぼ間違いなく、ドン引きしているはずである。
 それはともかく、明日の記事から何回か、その返事の内容とそこには書ききれなかったことを紹介していく。












「結ぶ」、「繋がる」、そして死者と生者の共生 ―『君の名は。』『ちはやふる』『僕だけがいない街』などをめぐって(下)

2018-10-13 09:11:25 | 講義の余白から

 一方、「繋がる」の方は、完結編「結び」のDVDとブルーレイが10月3日に発売された『ちはやふる』(私が購入したのは同時発売の完全版の方。予約注文しておいたら、なんと発売二日後の5日にストラスブールに届いた)を「教材」として取り上げた。実写版は、三作ともフランスでは未公開(漫画とアニメはフランスでも一部入手可能だが、例えばアマゾンだとすべてドイツからの輸入版である)で、「上の句」も「下の句」もDVD・ブルーレイはフランス国内では発売されていない。日本版はリージョンフリーだからフランスでも視聴できる。
 『君の名は。』と『ちはやふる』の場合、「結び」「繋がる」(「繋がれ!」と千早が叫ぶ場面が「下の句」にある)という言葉がそれぞれの作品の中で実際に使われているわけであるから誰にとってもわかりやすい。
 他方、言葉としては出てこないが、何らかの仕方で、「死者と生者の共生」、「生者における死者の生命の持続」「死者による生者の再生あるいは変容」などがテーマあるいは通奏低音になっている作品も少なくない。
 授業では、時間の都合上、『僕だけがいない街』しか取り上げられなかったが、『君の膵臓を食べたい』にも当てはまる。映画ではないが、今年の第三クールでもっとも視聴率が高かったテレビドラマ『義母と娘のブルース』(ちなみに、私の個人的選考による2018年度テレビドラマ最優秀主演女優賞は、この一作だけで、綾瀬はるかに「満場一致で」決定済みである)も該当する。
 それぞれの作品をどう鑑賞しようと各人の自由だが、ある言葉に注目することで、それこそ作品間の「繋がり」が見えてくるし、一見異なったテーマを扱っているように見える作品を「結び」つけて見ることができるようになり、そのような見方によって日本の現在の姿がある観点から浮かび上がってくる。これが昨日の授業の結論であった。





















「結ぶ」、「繋がる」、そして死者と生者の共生 ―『君の名は。』『ちはやふる』『僕だけがいない街』などをめぐって(上)

2018-10-12 23:59:59 | 講義の余白から

 今日の「日本文化文明講座」(実のところは、「日本事情」とか、ちょっと古めかしく言えば、「日本記聞」くらいがむしろ適当)では、フクシマ・東日本大震災以後の日本で頻繁に使われるようになったと私に思われる言葉とそれらに込められた意味について話した。
 実際には、「寄り添う」という言葉が一番耳について、次第にちょっとしたことでも安易に使われ、ついには何かと言えば「安売り」されるようになり、正直に言うと、うんざりするほどだった。まさにそれが理由で授業ではこの語のことは話題にしなかった。
 言葉としては、「結び」(あるいは「結ぶ」)と「繋がる」(あるいは「繋がり」「繋ぐ」)の二つを取り上げた。メディアで頻繁に使われるようになったばかりでなく、日常の会話の中でも頻度が歴然と高まったように思われる。もっとも、普段日本にいないから、日常については実感としては確信を持って言えないが。
 映画・ドラマでは、もう数え切れないくらいの作品がこの二つの言葉のいずれか、あるいは両方ををキーワードとしている。もしくは、作品の表面には表れていなくても、作品のテーマを説明しようとするときにこれらの言葉を使えばうまく説明できることが多い。
 「結び」とくれば、これはもう『君の名は。』である。昨年の古代文学史の講義では、『万葉集』中の一首がこの映画のキーノートになっていること、「かたわれどき」という言葉が映画の中で三回(「かたわれ」も含めると四回)使われているが、この言葉が「たそがれどき」「かわたれどき」と重ね合わされていることにそれらの場面を見せながら注意を促したりした。今回は、すでに何度も観たことがある学生たちもいて、三葉の祖母が「結び」について語る場面を見せながらの私の日本語での説明も比較的容易に理解できたようだ。