内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

自然を継続する創造的構想力とそれを可能にする技術

2016-07-21 00:00:00 | 講義の余白から

 昨日は、集中講義のメインテキストの一つである三木清『構想力の論理』第三章「技術」を読んだ。当時の最新文献も含めて多数の文献を参照し、それらを援用したり批判したりしながら徐々に展開されていくその叙述に付き合うように、考え考えゆっくり読んだ。
 技術をその発生の起源から考えようとする三木の姿勢がよく表れている一節をまず引用しよう。

自然も形を作るものとして技術的である。自然の歴史は形の變化 transformation の歴史であると云ふことができる。生命的自然の有する形は主體と環境との適應の關係から作られるものである。人間の技術も根本においては主體と環境との適應を意味している。技術によつて人間は自己自身の、社會の、文化の形を作り、またその形を變じて新しい形を作つてゆく。文化はもとより人間的行爲の諸形式も、社會の種々の制度も、すべて形である。人間の歴史も transformation(形の變化)の歴史である。自然史と人間史とは transformation の概念において統一される。その根底に考へられるのは技術である。(『三木清全集』第八巻二三七頁)

 ここを読んだだけでも、技術という言葉が、今日一般的に流通している意味とは大きく違い、新しい形を作ることそのことを広く指していることがわかる。「作る」であって、「生む」ではないのは、つねに「道具」の媒介があるからだ。自然が自然自身を形作るということは、自然の中のある要素が他の要素に対して媒介として働くときであり、その関係を技術的と規定しているのである。
 このように極限まで拡張された技術概念は、未開社会に見られる呪術もまた、次のような仕方でその内に包摂する。

すべての技術が主體と環境との間の作業的関係であるやうに、呪術も生存のための鬪ひから生れるものとして環境を自己の意志に從へようとする人間の行爲の一つの、原始的な形式である。卽ち呪術は技術的目的を含んでをり、ただ固有な意味における技術が環境についての客觀的な科學的な知識を基礎とするに反し、呪術は或る神秘的な力を信じている。簡単に言へば、呪術は技術の神話的形態である。(同巻一八九頁)

 未開社会の神話的世界における構想力の実現形態は呪術という形を取り、世界にある形を与える具体的過程としての呪術もまた広義の技術の一形態であると三木は考えている。呪術をこの観点から考察することで、呪術と科学とが世界に対する態度としていかなる点において決定的に異なるかを技術との関係で規定することができるようになる。
 呪術は、その都度の実行の結果得られた個別的事例を検証なしに普遍的価値と同定し、個別的なものの間の差異を認めない。この意味で、現実に対して抽象的な態度にとどまり、その態度に抵抗しないイマージュだけを相手とし、そのかぎりで普遍をその原理とする。科学は、個別的事例の現実性を認め、それらによって検証されない仮説の妥当性は認めない。この意味で、現実に対して具体的な態度を堅持し、特殊を重んじ、そこから引き出されうる整合的なイデーにのみ価値を与える。
 呪術的技術は、普遍的なものとして信仰されている呪力に一方的に奉仕させられ、そこで働いているのは創造性を欠いた貧困な構想力でしかない。それに対して、科学的技術は、認識と制作との相互媒介性を現実化し、発見、発明、創造を可能にする。「精神において自然を繼續すると考へられるこのやうな創造的力」が優れた意味での構想力である(同巻二三五頁)。









































技術の社会性

2016-07-20 00:00:00 | 講義の余白から

 技術の問題とりわけ科学技術の問題を正面から取り上げる哲学研究も最近では珍しくなくなったが、そのような研究の発展は、技術のもたらす革新の積極面の評価に伴ってというよりも、現実の中での技術の適用がもたらすさまざまな弊害や危険の拡大と深刻化に伴ってのことだと言った方がむしろ妥当ではないだろうか。
 しかし、まさにそういう時代であるからこそ、技術をめぐって現実の中で今発生している問題について正確な科学的知見に基づいてプラグマティックに検討する必要がある一方、他方では、技術とは何かという問題を根本的・徹底的に問うこともまた不可欠であり、この後者の課題に取り組むのが哲学の仕事の一つであろう。
 そのような哲学的思考のために参照すべき本は数多くあるが、今回の集中講義は、1930年代半ばの日本において技術について根本的なところから哲学的に考えようとしたいくつかの試みを読みながら、現代の高度技術社会に起きている問題について考えることをその目的としている。
 和辻に関して言えば、技術を特に正面から論じた論考はないとはいえ、技術と倫理との関係を考えるときに和辻の『倫理学』はやはり重要文献の一つだろうと考え、取り上げることにした。
 西田に関しても、技術論としてまとまった著作があるわけではないが、その技術に関する考察を含んだ論文には今日でも考察に値するいろいろな洞察が含まれている。特に、技術と身体との関係を考える上で「技術的身体」という概念は役に立つだろう。
 1930年代日本において技術を正面から論じた哲学者としては、まず戸坂潤を挙げるべきだろうが、それにもかかわらず今回戸坂を取り上げないのは、一つは時間的制約からだが、より大きな理由は、これまで戸坂の著作には親しんできていないという私自身の勉強不足である。今後の課題ということで寛恕を請いたいところである。
 今回取り上げる三人の哲学者のうち、技術をまさに哲学の問題として主題的に論じたのは三木清である。演習では、『構想力の論理』第三章「技術」の読解に一日充てるが、三木の技術哲学を本格的に検討するためには、さらに『技術哲学』をも当然読まなくてはならない。しかし、これも時間的制約から無理。そこで、その代わりになるわけではないが、当日の導入として、同書に附録として巻末に収められた小論考二つのうちの一つ「技術學の理念」(『三木清全集』第七巻所収)を紹介することにした。
 同論考は『構想力の論理』に先立って、1936年に発表されている。専門家を読者として想定した哲学論文ではなく、技術の発達に関心のある当時のより広い読者層を想定して書かれたと思われる文章なので、それだけ読みやすい。当時の日本の状況を反映した記述(例えば、「民族と技術」「日本精神と技術」などの表現)もあり、今日の観点からはそのような箇所に違和感を覚える向きもあるだろうが、まさにそのような表現が横行する時代であったからこそ、技術の問題をより根本的なところから考え直す必要があることを説くことに三木自身の意図はあったと思われる。
 三木の技術論が特に強調する一点は、技術の社会性である。「技術は社會的なものであり、人間は技術によって社會的に結び附いてゆくのである。技術のこの根本的な社會性が強調されなければならない。道具を作る動物として定義される人間は社會的動物として定義されねばならぬ。」(『全集』第七巻三一四頁)


















































技術について哲学的に問うための「道具」

2016-07-19 00:04:08 | 講義の余白から

 帰国した16日とその翌日はさほど暑くなくて助かったが、昨日の午後は暑かった。一歩も外出することこなく、西日が差し込む和室で、流れる汗を拭いながら講義の準備を続けた。
 講義二日目に取り上げる西田の「論理と生命」を久しぶりに読み直す。博士論文で最も詳細に検討した西田論文の一つであるから、それから十数年経った今でも、一行一行読み返さなくても、岩波文庫版『論理と生命 西田幾多郎哲学論文集Ⅱ』収録の同論文中のラインマーカーの引かれた箇所だけを読めば、立ちどころに議論の筋道が蘇ってくる。今からちょうど八十年前の1936年夏に発表されたこの論文は、最後期西田哲学の最重要論文の一つであり、今読み返しても、その独創的な発想から学ぶところが多い。今日も、読み返しながら随所でこちらの思考が刺激され、しばしば本から目を離し、思索に耽った。
 同論文は文庫版で百二十頁以上と長い。もし集中講義でその全文をじっくり読もうとすれば、五日で足りるかどうか。それはそれでやってみる価値のある演習だとは思う(ただし、あまりにも繰り返しが多くて、西田のスタイルに慣れていない人たちはうんざりすること必定だろうけれど)。しかし、今回は「技術・身体・倫理」というテーマに沿って三人の哲学者を読むことが目的だから、同論文の中で特にこのテーマに直接関わる一節だけを講義の中で読み、私がそれに注釈を加えた上で、全員で多角的に討議したいと思っている。

















































集中講義の準備をしながら

2016-07-18 02:37:21 | 講義の余白から

 時事に無関心ではいられないが、差し迫った集中講義の準備を第一優先としなくてはいけない。
 昨日は、25日から始まる五日間の講義の初日の詳細なプランを練った。昼食後、時差ボケゆえの抗いがたい睡魔に襲われ、一時間半ほど昼寝したが、それ以外は朝から夕食時まで作業を続け、あらかた目処は立った。あんまり作りこみ過ぎても、当日それに縛られて、その場での思考の自発性を損なってしまいかねないので、この辺でいいかなというところで切り上げた。数日後にノートとプランをもう一度見直し、修正と増補を行うことにする。
 今回の講義で取り上げる三人の日本の哲学者、西田幾多郎・和辻哲郎・三木清のうち、西田については、こちらも長年それなりに読み込んできているから、その間の傍線や書き込みがある西田のテキストを開けば、どこから読み始めても、すぐにコメントできるくらいにはすでに準備ができている。その意味では、改めて今回の講義のための準備に多くの時間を割かなくても済む。とはいえ、西洋哲学を主専攻としていて、西田をほとんど、あるいはまったく読んだことがない哲学科修士の学生たちが相手であるから、彼らにわかるように説明するには、その場での彼らの反応を見つつ、適宜対応する必要はある。
 和辻については、和辻についての博士論文を準備している方にお手伝いをお願いした。これは、この集中講義を担当するようになって六年目の今年初めて試みることである。その方に自分のこれまでの研究成果の中からその一部を講義のテーマに沿う形で発表してもらい、それを基に講義の一部を組み立ててもらった。数日前にその講義プランが届いたが、実に周到に準備してくれていた。こちらの依頼を快く引き受けてくださたったその方自身にとっても、出席する学生たちにとっても、よい刺激になればと願っている。
 三木については、その著作の一部でしかないとはいえ、高校時代以来愛読してきた。研究対象として西田そして田辺と読み込んでいるときから、次に読み込むとすれば三木にするつもりでいた。今回の講義で三木を取り上げることは、その意味で、自分の研究にとって新たな出発点となる。それもあって、この機会に全集二十巻(1984年から1985年にかけて刊行された第二版)を購入した。ネット上の「日本の古本屋」で探して、中身は新本同様の美品を入手することができた。送料含めて一万二千円を切る価格で購入できたのもありがたかった。



















































テロリズムがウイルスのように世界中に拡散されていく恐れ

2016-07-17 09:47:28 | 雑感

 帰国の途につくべく朝早く起きた15日、前日夜のニースの惨劇に衝撃を受け、16日朝、成田に着いて成田エクスプレスを待つ間とその車中でネットを見てトルコのクーデターを知り仰天し、せっかく帰国したのに、気持ちが休まるどころではなくなってしまいました。
 犠牲者の方々には心よりの哀悼の意を捧げます。こんな言葉を昨年の一月以来何度も繰り返さなければならない世界の情勢に暗澹とした気持ちにならざるを得ません。2001年9月11日のアメリカの同時多発テロを知ったとき、二十世紀が世界戦争に血塗られた世紀だとすれば、二十一世紀はテロに血塗られた世紀になるのかも知れないと予感しましたが、その予感が今までのところ裏切られてはいないどころか、ますます現実によって裏づけられていくことに絶望的な思いをしています。
 トルコ情勢については、日本のテレビのニュースでも詳しく報道されていましたが、クーデターが失敗に終わったとしても、政情の不安定は続き、その影響は、国内だけでなく、周辺諸国にも及び、イスラム国がこの機会に乗じる懸念も指摘されています。
 ニースの惨劇については、犯行の手口にも愕然としましたが、犠牲者の方々の中には十数名の子どもたちも含まれていることを知り、昨年11月のパリでのテロよりもさらに無差別度が高くなっていることに恐怖を覚えました。
 それに、入り口などで不審者をチェックすることが不可能な屋外路上が犯行場所として選ばれたことは、今後もいつでもどこでも人が集まる壁のない広場・路上などは標的になりうるということを意味しており、今後の警戒態勢の組織をさらに困難なものにしました。
 単独犯である犯人については、その周辺と背景がまだ捜査中で不明な点も多いですが、犯人が何らかのテロ組織に属していなかったとすれば、その方が事態は深刻だと思われます。なぜなら、イスラム国にとってはむしろそのほうが自分たちの組織のプロパガンダとして汎用性が高いからです。
 テロが一定の組織による洗脳と訓練を受けた戦闘員によってではなく、何らかの媒体を通じて精神的に感化されただけの「普通の」人間によって簡単に入手できる手段を使って実行されうるということは、次のことを意味しています。テロリズムは、メディアやSNSを媒体として、あたかもウイルスのように世界中に拡散され、それに対する抗体のない脳をいたるところで侵すことができるということです。
 犠牲者の方々を追悼し、喪に服すことは、もちろんとても大切なことです。しかし、それを国家が荘厳化すればするほど、敵方にとっては、犯行の実行者をそれだけ英雄化することになってしまうことも忘れるわけにはいきません。昨年一月のシャルリー・エブド襲撃以来、フランス大統領はじめ為政者たちがそのことをどれだけよくわかっているのか疑われる発言を繰り返していることに、フランス国家の深刻な病弊を垣間見る思いが私はしています。














































個体と個体とを繋いでいる個体未生以前 ― ジルベール・シモンドンを読む(119)

2016-07-16 10:25:11 | 哲学

 個体的存在は、新たに提起された問題の解決を図るとき、己の内と外に、未だ個体化されていない現実、つまり、すでに他の問題解決のために一定の形式にフォーマット化されていない情報源としての前個体的現実を必要とする。この前個体的現実は、個体がもっている前個体的現実に関する情報、言い換えれば、世界に新しい形を与えることができる潜在性をもった現実である。
 個体が負っているこの前個体的なものが「通・超個体的なもの」(« transindividuel »)の原理になる。ある一つの個体に担われたこの前個体的なものが他の諸個体に含まれた前個体的現実と直接に交流する。それは、あたかも一つの網のある網の目が隣の網の目と網目の一部を共有することで互いに己を超えて隣と繋がっているような状態に喩えることができる。
 ここで一つ私注を挿入する。
 個体の集団に対する関係を表象するこの喩えには、しかしながら、致命的な欠陥がある。なぜなら、一つ一つの網目は網の別の場所には移動できず、いつも同じ網目とだけ直接するという固定的な関係しか表象できないからである。これでは集団における個体の遊動性と可塑性をうまく表象の中に導入することができない。以下の祖述にもこの批判は妥当するが、ここではこれ以上この問題には立ち入らず、単なる指摘に留める。
 己がその内で一つの網目でしかない動的な現実に参加することによって、個体化された存在は集団の中で働く。集団の中での行動とは、その集団の成員である諸個体間のネットワークにおけるやりとりである。このやりとりがかくして形成されたシステムの内的共鳴を生み出す。
 この集団はそこに属する諸個体からなる実体として考えられるように思われるかも知れないが、このような考え方は正確ではない。なぜなら、集団形成は、そこに属する諸個体のそれぞれが抱えている前個体的現実に拠っているからである。集団が直接的に組み入れるのは、諸個体自体ではなく、諸個体が抱えている前個体的現実なのである。
 諸存在が通・超通個体的関係の中に内包されるのは、各個体が抱えているこの前個体的現実によってであって、一定の問題解決に適した形で個体化されたかぎりでの個体そのものではない。植物にあって種子から成体にまでの成長にとって群生が果たしていた役割を、個別化された個体群にあっては、通・超個体的なものが果たしているのである。

注記:上掲の記事の投稿は、成田から渋谷に向かう成田エクスプレスの中から行った。



























































前個体的なものが個体の行動を通じて集団において共有される ― ジルベール・シモンドンを読む(118)

2016-07-15 00:40:32 | 哲学

 今日明日でILFI第二部第二章第二節第三項 « Limites de l’individuation du vivant. Caractère central de l’être. Nature du collectif » の最後の段落を読み、シモンドン読解連載に一区切りつける。
 今日15日午前8時15分ストラスブール駅発のルフトハンザ・シャトルバスでフランクフルト空港に向かう。そこから午後1時40分発の成田行きのルフトハンザ便に乗る。東京に一時帰国するときは、これまではいつもストラスブールからTGVでシャルル・ド・ゴール空港まで行って、そこからJALかANAかエールフランスの羽田行きに乗っていたのだが、この夏はパリからの便がどれもあまりにも高かったので、初めてフランクフルトからルフトハンザ便を使うことにした。16日朝8時過ぎには成田に着く。成田エクスプレスに乗って渋谷で降りる予定。そこからはタクシーに乗る。昼前には実家に着けるだろう。
 16日から来月17日までの一月あまり、東京の実家に滞在する。その間、拙ブログの記事は、折にふれての雑感が主な内容になるだろう。
 さて、第三項最終段落の読解を始めよう。

 集団は単に諸行動の直接的・平準的相互作用に尽きるものではない。各行動は集団において意味として働く。なぜなら、集団における各行動は、ばらばらに分離されたままの個体には解くことができなかった問題に解決をもたらし、他の諸行動にとっての象徴として機能しうるからである。
 諸行動間の協働は、単に事実上そういうことがあるというだけではなく、ある結果に事実辿り着いた一つの連帯性に尽きるものでもない。各行動は、それが他の諸行動にとっての象徴として構造化されているかぎりにおいて、個体レベルでの過去と未来とを一致させることができるようになる。
 集団における現前の次元が存在するためには、複数の個体が単に事実として寄せ集められただけでは不十分であり、集められていることそのことがそれらの個体にとっての固有な次元に「書き込まれ」(s’inscrire)ていなければならない。言い換えれば、それらの個体間にあって、現在において一まとまりになっていることそのことを媒介として、現在と未来とが互いに他の存在にとって相関的なものとなっていなければならない。
 現在は、そこにおいて意味が働くところであり、それによって過去から未来へ、未来から過去への共鳴伝達が成立するところである。ある存在と他のある存在との間の情報交換は現在を媒介とする。それぞれの存在が、己自身に対して、つまり、己の過去と未来との間で、相互作用的になるのは、各存在が他の諸存在との間に相互作用性を現在において共有する限りにおいてのことである。
 個体内統合は「通・超個体的統合(intégration transindividuelle)」と相互作用的関係にある。現前という範疇は通・超個体的なものの範疇でもある(「通・超個体性」については3月15日の記事を参照)。
 構造と機能は、個体内と個体間とに同時的に存在し、したがって、ただ単に外的あるいは内的なものとして定義することはできない。個体間のこの通底的関係は、個体それぞれは己を超えるより広い現実として増幅されるという事実を表現している。
 その増幅は、個体が己の内に抱えている問題的な緊張である何ものかの媒介によっている。この何ものかに何らかの形が与えられること(information)で、それが個体間で伝達・共有可能な問題に変換される。個体内に抱えられたこの通底的な問題的現実は、それを前個体的負荷と名づけることができるだろう。
 個体の行動は、知覚レベルでの複数性を動的な統一性に変換することで知覚レベルでのズレの解消を図ることであり、個体化以前の状態では未解決のままに残されていた問題をそれに対する解決策ととも現在に繰り込むことである。
 純粋な個体化存在は、複数の知覚像の彼方に超出するのに必要なものを己の内に備えていない。個体的存在は、もし知覚機能しかもっていなければ、己自身と折り合いをつけることができない。なぜなら、己のまわりに見えるのは互いに無関係な知覚像の継起だけだからである。
 このような意味で行動性を一切欠いた純粋知覚は、次のような精神疾患に似ている。
 あるドラマをテレビで見ていて、画面上に継起的に現れる複数の場面がストーリーとして連続していることがまったく把握できず、それぞれの場面を個々ばらばらの映像としてしか見ることができず、その結果として、全体を一つのドラマとして理解することができない。
 裏返して言えば、通常の知覚は、多かれ少なかれ、過去と未来へと広がった一つのストーリーの中の行為主体としての個体によって実行されているということである。






































































集団において象徴化する個体の行動 ― ジルベール・シモンドンを読む(117)

2016-07-14 05:50:56 | 哲学

 さて、一息入れたところでILFI本文の読解に戻ろう。218頁最後の数行から219頁真中よりやや上の段落の終わりまで釈義的に内容を追う。
 各個体レベルでは、高等生物の成長と老化は、相容れない二つの過程として対立している。しかしながら、両者を分離することもできない。到来する問題を順次解決しつつ未来へと向かう成長と過去の残滓の蓄積により問題解決能力が徐々に減衰していく老化とは、生物個体の矛盾的同一性を構成しているという言い方もできるだろう。
 この個体における未来と過去とが、ある種の一致に至り、システムとして秩序づけられるのは、より高次元での公準系においていである。それをもたらすのが集団の現在である。この集団の現在がその時間的奥行の中に個体の未来と過去とを統合する。集団の現在による統合化は、個体の側から見れば、個体が己の行動によって集団の現在に自己を統合化することに他ならない。
 集団は、しかし、個体化された存在を己のうちで一方的に条件づける支配的実体でもなければ、個体化された諸存在に対して先在する超越的な形相でもない。集団を集団たらしめているのはコミュニケーションであり、このコミュニケーションが個体レベルにおけるズレを包み込み、その対立を解消する。この包摂と解消は、諸作用の協働からなる現前によって、つまり、集団の内的共鳴によって未来と過去とがある意味で一致することによって実現される。
 どのような個体も完全には個体化されてはいない。個体化されていない部分があるということは、当面するある問題に対して解決策が見つかっておらず、それが留保されているということである。この意味では、ある集団を形成する複数の個体は、いつも或る同じ問題を共有していると言うことができる。それゆえ、それらの個体の中の一つがある問題を解決するために取った行動が、他の諸個体に対して直接的に作用することなし、他の諸個体にとって問題解決のための象徴として機能しうる。このように個体の行動が象徴として機能しうる場所が集団であり、その場所においてこそ、象徴表現レベルにおいて、個々の行動の個体から個体への直接的作用ではない、行動の原理の転導が起こりうる。




























































小休止ならびに暫定的まとめ ― ジルベール・シモンドンを読む(116)

2016-07-13 09:24:35 | 哲学

 7月5日から昨日までの記事では、人名としては本文にシモンドンのシの字も出て来なかったが、中身はずっと ILFI 215-218頁の内容を追っていた。ほぼ原文に忠実に訳しただけのところもあるが、それだけではわかりにくいと判断したところは、かなり意訳したり、補足説明を付け加えたりしたが、その都度それを断ることはしなかった。シモンドンの所説を自分なり咀嚼しようと、専ら自分のために読解ノートを書いてきたようなものだと言えばよいであろうか。
 今読んでいる箇所に限らないが、同書は、内容的には繰り返しが多く、必ずしも議論が緻密でもなく、ときに類比的に話が飛躍する。シモンドンを批判的に検討する段階になれば、そういうところこそ問題にされなければならないだろう。しかし、シモンドンの思考のスタイルに付き合い、それと「馴染みになる」ことを目指している現段階では、飛ばし読みして先を急ぎたくなる気持ちをぐっと堪え、本文に沿って地道に気長に所説を追い続けることにする。
 ILFI第二部第二章第二節 « Information et ontogénèse » 第三項を読み始めた当初は、そのタイトル « Limites de l’individuation du vivant. Caractère central de l’être. Nature du collectif » に明示されている三つのテーマ ―「生体の個体化の限界」「存在するものの中心的性格」「集団的なものの本性」― のうちの最初のテーマについての所説だけをまず追っていくつもりだった。ところが、それを追っていくうちに後の二つのテーマが入り込んできたことは昨日までの記事に見られるとおりである。この三つのテーマは、そのように互いに分かちがたく結びついているからこそ、三つセットで第三項のタイトルとして掲げられていたのであろう。
 同項にはまだ一頁半ほど読み残しがあるが、ここまで読んできたところに基づいてこの三つのテーマの下に論じられてきた内容を暫定的に一言にまとめるとすれば以下のようになるだろう。
 存在とは生成であり、生成とは個体化であり、その個体化には次元を異にしたレベルがあり、生物個体レベルでは互いに相対立する諸過程が集団レベルでは生ける全体に統合され、集団は恒常的に準安定的であり、問題解決のために自己更新を繰り返す。
 これだけ読むといかにも全体主義的で、いわゆる個体は集団に統合されてはじめて存在意義を持つのかと問い返したくなる。しかし、第二部では、個体概念は、まだ高等生物一般に適用されており、心理-社会的存在である主体としての人間に限定されてはいない。それゆえに適用の範囲に曖昧さが見られるところもあるが、人間における心理-社会レベルでの個体化論は第三部と第四部で展開されるのだから、そこを読むまでは早急な批判は差し控えることにしよう。































































集団における現在の現前による過去と未来の統合化 ― ジルベール・シモンドンを読む(115)

2016-07-12 06:24:20 | 哲学

 行動によって個体は知覚的なズレの意味を見いだす。例えば、見ることによって二つの網膜上の写像のズレは奥行ある視覚対象というより高次の意味を持つ。集団というより高次な次元において、個体の知覚レベルでの行動によるこのズレの統合化と類比的に考えることができる作用が「現前」(« présence »)である。
 この現前によって、集団レベルにおいて、同化過程と異化過程、生成と減成、実在への上昇と死の均衡という最終的な安定性への下降という、個体レベルにおいては対立する対関係の意味が見いだされる。
 唯一の決定的な準安定性は集団の準安定性である。なぜなら、集団は、次から次へと発生する個体化を通じて、老いることなく恒常化されるからである。
 下等な種にあっては、はっきりと個体として分離された個体性が見いだされないことがある。その場合、準安定性は、相互に完全に分離された複数の個体集団にはなっていない未分化な全体に通底していることがある。
 高等な種にあっては、生命の恒常性は集団レベルで再び見いだされる。しかし、その恒常性は、個体レベルより高次なレベルで見いだされる。それは意味として見いだされる。個体化された存在の上昇と下落とが統合化される次元として見いだされる。
 集団は、諸個体の成熟によって支えらている。この成熟とは、若さと老いとがそれとの関係で秩序づけられるところの高次元に他ならない。成熟とは、若さと老いと間にあってバランスの取れた過程という過渡的なものなどではない。
 個体が成熟しているのは、個体が集団に統合されているかぎりにおいてである。つまり、己の内に潜在性と過去の刻印とを同時に含み、現在との関係で、同時的に、それ以前には若く、それ以後には老いるもので、今、あるかぎりにおいてである。
 成熟は、一つの状態なのではなく、生命の同化的側面と異化的側面とを統合化した意味作用である。個体が己の意味を見いだすのは、過去と未来とが時間的二次元性として差異化されることによってである。個体は、あるとき到来し、やがて過ぎ去るものとして、潜在性を内に増大させながら未来に向かい、過去を現在において構造化し、集団に統合される。
 集団は、個体単体における過去と未来の両立不可能性を、現在によって統括された三次元性において解消する。集団から切り離された個体単体における過去と未来と、集団的現前という三次元システムにおける過去と未来とは大きく異る。集団における「現在の現前によって」(« par la présence du présent ») 、過去と未来とは現在における二つの次元となる。
 このような統合的な時間的三次元の成立が「集団の個体化」(« l’individuation du collectif »)に他ならない。