6月に入ってようやく遅れてやってきた初夏の陽射しが心にも射し込む思いがここ数日していたのに、今日9日日曜日は朝から小糠雨。空は一面灰色、どこに太陽があるのかもわからない。気温も上がらず、窓を開けたままだと寒い。自宅から徒歩10分ばかりのところにあるヴァル・ド・グラース教会の鐘の音が風にのって虚空に響く。輝く陽光をその背後に隠蔽した雲の下、くすんだ光に包まれたまま、微かな憂鬱感が静かに瀰漫する一日。その幕を閉じようと夜の帳がゆっくりと音もなく降りてくるのは午後10時過ぎ。
4年前から、朝の日課としてパリの市営プールに通っている。週日は7時から、日曜日は8時から。今朝も雨中行ってきた。小学校の頃スイミングスクールに通っていたおかげもあり、水泳は得意。泳ぐのはとても好き。水中での重力から解放された身体感覚と水泳後の適度な疲労が心地良い。単に身体のためというより、私にとっては副作用の心配のない精神安定剤のようなもの。一昨年、昨年は年間を通じて特に熱心に通い、平均すると週5回、一月半ほど、一日も休まずに通った時期もあった。今年に入って、公私いろいろあって、ちょっとモチベーションが下がり、平均週4回。昨年までは、毎回45分から50分かけて最低でも2キロ泳いでいたが、最近は30分で1200から1600メートル泳いでさっさと切り上げている。物足りない気もするが、身体機能の現状維持にはこれくらいでいいかと自分に言い聞かせながら。
2011年から、夏の一時帰国期間中に、東京のある大学で5日間、「現代哲学特殊演習」という集中講義を担当するようになった。今年で3年目になる。2009年から、フランスの本務校の学生たちの夏期日本語研修の引率として、7月中は3週間大阪に滞在するようになったが、それを知った東京のある大学から、哲学科修士課程1年の集中講義の依頼が来た。それまで日本では2005年度後期に同じ大学の哲学科学部2年の「現代思想」を代講したことがあるだけで、十数年間フランスの大学でしか教えたことがなかった私にとって、日本語で哲学の授業を担当できるというのは容易には得がたい機会、有難いこと、喜んでお引き受けした。最初の年は、声を掛けてくださった先生ご自身がポスターまで作成してくださって、学内に宣伝してくださった。その御蔭で、修士の学生たちだけでなく、TAや学部の学生たちも参加してくれた。その時の講義内容紹介は以下の通り。
― 西洋哲学史における sujet の誕生、その死と再生 ―
思惟する主体、あるいは行為する主体は、いつ、どのように哲学へと導入されたのだろうか。それはなぜか。哲学史において数世紀に渡って主体と呼ばれてきたものは二十世紀に〈死〉を迎えたのだろうか。しかし、これらの問いについて考え始めるに先立って、まず思い起こさなくてはならないことは、sujet はけっして近代哲学の産物ではないということである。それはデカルトの発明でもなく、カントによって特権的な地位が与えられた認識主観に還元されるものでもない。本演習は、フランスで最近数年間に出版された、sujet についてのいくつかの重要な総合的研究において実践されている方法論 ― 西洋哲学史における sujet という概念の誕生とその諸条件、関連する諸概念との関係の中でのその展開・発展・解体の諸段階を、sujet を主人公とする、或いはその最終目的とする、一つの大きな〈物語〉としてではなく、樹状的に広がりつつある多元的な問題系として、現在へと開かれた一つのパースペクティヴの中で取り扱うことを可能にする方法論― に学びながら、古代における sujet の前史とその誕生から、古代・中世におけるその展開、近代におけるその発展・飛躍を経て、二十世紀に提起される〈主体〉をめぐる問題群まで、sujet の問題史として通観し、その上で、現在において改めて〈主体〉の問題はどのように提起されうるのかを、一方では広く現代哲学の文脈の中にそれを位置づけながら、他方では日本近代思想史に固有の問題性を考慮しながら、考究することをその目的とする。
授業には、日本の他大学で教鞭をとっている友人たちも参加してくれて、5日間充実した授業をすることができたのではないかと思う。最終日には、授業の後、毎回出席してくれていた学生さんたちと会食・歓談できたのも楽しかった。このような形で日頃の自分の研究の一部を日本の学生さんたちと共有でき、それについて様々な意見・感想をいただけることは、私にとってさらなる研鑽への促しになっている。人付き合いがことのほか下手で、いつも臆してばかりいる私は、このような貴重な機会を恵まれたことを心から感謝している。