内的自己対話-川の畔のささめごと

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人と人との、人と世界との本源的交流の基層を打ち開く実践的試みとしての看護 ― 西村ユミ『語りかける身体 看護ケアの現象学』読中ノート(3)

2020-07-31 09:20:36 | 哲学

 著者自身看護師として植物状態患者の看護の経験があることが本書における患者の状態・反応についての記述を精確なものにしていることは確かですが、本書の基になっている著者の研究にとって決定的な重要性をもっているのは、本書の三分の一を占める第二章において詳細かつ周到に再構成された看護師Aさんへのインタビューの中身です。
 インタビューの際のAさんの言葉遣いをできるだけ忠実に再現しようとしているその聞き書きは、看護の専門用語を除けば、ほぼ日常言語だけで構成されています。Aさん自身、適切な表現を探しながら、自己の過去の看護経験を反芻・反省し、主観的な思い込みに過ぎないかも知れないと繰り返し留保しつつ、自己の経験を語っていくことで、自己自身を再発見していく過程は、その全体を読まなければよくわかりません。ここでは特に私の印象に残った箇所のみ摘録しておきます。
 摘録を始める前に、まず、植物状態患者の看護がその他の看護とはいかに異なっているかを見ておきたいと思います。
 一般に、怪我や病気で入院した場合、その程度の差はあれ、最終的な治癒を目指して治療プログラムが組まれます。つまり、その最終目的に応じて、それに至る手段が選択され、看護もそのプロセスの中に組み込まれています。完全な治癒・回復が見込めない場合であっても、その条件下で最良と見なしうる状態までいかにもっていくか、あるいはその状態をいかに維持するかということが目的になります。終末期医療の場合、死をいかに平穏に苦痛なく迎えるかということが最終目的になりますが、この場合も、その目的に応じて、患者の意思・状態を考慮しつつ、良しとされる手段が選択されるという点では、やはり目的-手段という連関構造をもっています。
 ところが、遷延性植物状態(回復がまったく望めない)患者に対する看護にはこの構造をあてはめることができません。いつまで続くかわからない現状を維持するということ以外に積極的な目標を設定することが非常に困難だからです。
 しかも、患者自身はもはや意思表示できる状態になく、患者とのコミュニケーションの確立そのものがきわめて困難であり、現場の看護師たち、とくにプライマリーナースとして患者と関わる看護師たち以外には、ほとんど把握しがたい微妙な変化・反応のみがコミュニケーションの手がかりであり、それらは科学的なデータとしてはまったく処理不可能な要素であるという、もう一つの大きな問題もあります。
 このような条件下での看護には、上記のような一般的な看護あるいは終末期医療における看護とはまったく異なった姿勢が求められることになります。
 自身が働いているTセンターの方針をAさんは次のように理解しています。

……病院の片隅に眠っていたのを拾い上げられた、すくい上げられたじゃないけれども、そういう意味合いがある。患者救済、家族救済っていうのも、一番大きな理由だったらしいんですよね。一生たぶん、リハビリとかコミュニケーションというものは、もうできないのだとみなされたまんま、一生終える、病院の片隅で終えていくような患者さんをひとりでも救おうと……その人の残っている、出したいと思っているところを出させてあげられるような関わりをするためにセンターはある……。

 このような方針で看護を行なっているTセンターは、いわゆる植物状態の患者を次のように捉えているとAさんは言う。

ここにいるすべての患者さんのことを、意識がないというか、そういうところまでの思考もないっていうような捉え方はしていないです。だから患者全員が前提としてそのような能力はあるけど、それを出す手段をもたないっていう、それを私たちは引っぱり出すんだっていうふうには、そこらへんはね、結構きっちり教育されているんだと思います。無意識のうちにでも。そして入ってくるスタッフもそれを求めてここに入ってくるのかなって。

 ここは決定的に重要な点だと思います。もし看護する側が、植物状態患者は意識もないし、痛みも感じないし、感情も失われている、コミュニケーションは一切不可能、ただ生体としての最低限の生命機能が維持されているだけの状態にある、しかもそのための処置・投薬・手術等がいつとはわからない死が訪れるまで必要とされると考えたとしたら、その時点で、生きているひとりの人を看護するという意味は失われてしまうからです。前言語的・前意識的な間身体性の層における、人と人との、人と世界との本源的なコミュニケーションが可能かどうかという問いはそこでは成立しようがありません。
 植物状態患者に看護師として日々向き合うことは、言語による双方的コミュニケーションがまったく不可能な他者との間にも成り立つコミュニケーションの基層をまさに身をもって開こうとする、自らの実存をかけた実践なのだと、第二章を繰り返し読みながら私は考えました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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